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  • 彼らはこうして真理を見いだした
    目ざめよ! 1971 | 9月8日
    • と言って私は自分の聖書を渡しました。

      「ほかの人たちもこの章について尋ねたことがありましたが,だれも説明できませんでした。その証人は,私の聖書を受け取って,その章の中の種々の象徴的なことばを説明しはじめました。私には彼女が神の真理を語っていることがわかりました。多くの節を説明したのち,彼女はマタイ伝 24章3-8節に移り,西暦1914年以来の第一次世界大戦,ききん,疫病,地震などが,『事物の体制の終局』にかんする預言の成就であることを示しました。それが真実であることにすぐ気づいた私の喜びはとどまるところを知りませんでした。私は彼女に自分がこれから何をすべきかを尋ねました。すると彼女は王国会館で開かれる集会のことを話してくれました。

      「彼女たちと別かれてから私は,『真理を見つけた! 真理を見つけた!』とこおどりしながら家に帰りました。それから2週間以内に私は集会に出席し,証人の助けを得て聖書の勉強をし,また,出かけて行って他の人々に自分が楽しく学んでいる事柄を話しました。私は神が,24年前のあの6月の暖かい晩に,ご自分の証人を私に会わせるよう取り計らってくださったのだと信じています。私はそれ以来ずっと,そうした証人たちのひとりとして喜びのうちに奉仕してきました」。

      霊的な空虚さが真理への好奇心を刺激する

      すべての人が出かけて行って種々の宗教を調べるわけではありません。しかし霊的な空虚さを感じている人々は機会が訪れると,他の人々にそうした問題について尋ねる場合がよくあります。ニューヨーク州の北部に住むある家族が真理を見いだしたいきさつを次にしるしましょう。夫人は次のように語りました。

      「主人と私はまじめなカトリック教徒で,ミサには二人のむすこを連れてきちんと出席していました。ある日私は主人に言いました。『ねえ,私たちけさまた教会に行ってきたけど,何を得たかしら? なんにもないわ! 私は空虚な感じよ。あなたはどう?』。主人は自分も同じことを感じている,と言いました。それで私は言いました。『私たちいつかは完全に行かなくなるわね』。

      「こうした気持ちがだんだん大きくなっていたころ,私はひとりのエホバの証人に会いました。その証人は,私たちが家の車道を舗装するために雇った人でした。私たちがその証人に話しかけたとき,彼が自分の宗教活動のことに触れたので,私たちはその宗教に関心をもちました。私たちがいろんな質問をするので,彼はその好奇心を実際の関心と見てとり,私たちが聖書の勉強を行なえるよう手はずをしてくれました。わずかのあいだに私たちは,ふとしたことから,満足のいく神の真理を見いだしたことを悟りました。

      「ミサにこなくなったことに気づいた司祭は,私を尋ねてきました。エホバの証人と聖書の勉強をしていることを話すと,司祭は,『神よ彼女を助け給え』と叫んで『子どもたちのことを考えなさい』と言いました。私は教会の教えを聖書で証明してください,と司祭に頼みました。しかし司祭が言いえたことといえば,それは奥義であるとか,教会の伝統であるとかということだけで,聖書の聖句はひとつも指摘することができませんでした。司祭は自分の期待を完全に打ち砕かれて帰って行きました。私の胸は喜びにおどりました。というのは,司祭がカトリックの教えの聖書的な裏づけを示しえなかったことは,神を崇拝する真の方法を見いだしたという私の確信を強めたからです。その午後,私は,神の真理の側に立つよう助けられたことに対してエホバに何度感謝したかしれません」。

      信仰を失っていた人が真理を見いだしたいきさつ

      神への信仰を失っている人の中にも,神の真理を受け入れる心をもつ人がいます。たとえば,第二次世界大戦のとき海軍将校だったある人の経験を考えてみましょう。戦争の残酷さを体験し,戦時中の僧職者たちの行為を見,その後,マサチューセツ州で大学教育を受けた彼は,不可知論者になってしまいました。彼は,ニューヨーク市に住むエホバの証人の親せきを訪問したとき,どんなことが起きたかを次のように語りました。

      「私の証人の親せきは,宗教に対する私の考えを知っていたので,私には伝道しようとしませんでした。ある日のこと,私は教会の偽善と偽りの教理を暴露した彼らの小冊子を1冊読みました。そして,そこに書かれている多くの事柄に共鳴している自分に気づきました。そこで私は証人たちの本を次々と読むようになりました。たいてい親せきの者がるすのときに私はそうした本を読みました。そしてついに,それまで私を悩ませていたある疑問に対する答えを得たのです。神が存在するというのなら,なぜ地上にこれほど悪がはびこっているのか,私はこの問題に対する聖書の答えを見いだしました。神は悪を一定の期間許しておられるにすぎず,やがて悪は終わりを告げ,それとともにこの腐敗した事物の体制も終わるのです。また,地上に新秩序が立てられて,いく世紀ものあいだ人類を苦しめてきた悪が正される,ということを学ぶのも喜びでした。―ロマ 9:17。ペテロ後 3:13。黙示 21:3,4。

      「熱心に読書をつづけた私は,何週間もたたないうちに,自分が神の真理を見いだしたことに気づきました。この間,私はニューヨーク市内のいくつかの教会に出席して,牧師の言うことと,自分が学んだこととを比較してみました。そうした教会で述べられている音信は浅薄で聖書に基づいてもおらず,全く満足のいかないものであるということがすぐにわかりました。それ以来,聖書の預言の成就を喜びをもって観察するにつれ,私の信仰は年ごとに深まっていきました」。

      そうです,確かに神の真理は,それを見いだす人に大きな喜びをもたらす貴重な宝です。(詩 119:162)それは楽園における永遠の命という見込みを指し示すだけでなく,偽りの宗教思想,人間への恐れ,苦悩をもたらす罪深い行為などから人を解放するものなのです。―ヨハネ 8:32。

      あなたはエホバの証人から聖書の本,それは「とこしえの命に導く真理」かもしれませんが,お求めになったことがありますか。もしお求めになられたならば,証人たちはもう一度あなたをお尋ねして,聖書の勉強のお手伝いを申し出たことと思います。わたしたちはあなたがそうした申し出をいま活用なさるようお勧めします。そうすることによってあなたも,真理を見いだす者にもたらされる喜びを経験なさることをわたしたちは確信しているからです。

  • 『嘆き悲しむ者たちは幸福である』
    目ざめよ! 1971 | 9月8日
    • 「あなたのみことばは真理です」

      『嘆き悲しむ者たちは幸福である』

      嘆き悲しむ者が同時に幸福であるとは矛盾していないでしょうか。必ずしも矛盾しているわけではありません。山上の垂訓の中でこの一見矛盾と思えることばを語ったとき,イエスは「幸福」ということばのより一般的な意味を考えておられたのではなかったようです。明らかにイエスは心配ごとのない陽気な気分以上のものを意味しておられました。―マタイ 5:4,新。

      ギリシア人は,この聖句の中の「幸福」という意味のギリシア語「マカリオス」を無上の喜び,神々が楽しむとされている喜びに当てはめて用いました。イエスの山上の垂訓や,ギリシア語聖書全体におけるこの語の用法から考えると,「マカリオス」のより広い意味は,『神によみせられているがゆえの幸福』であるということになるでしょう。

      では,嘆き悲しむがゆえに『神によみせられ

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