-
勝利の信仰はあなたにどんな影響を及ぼしますかものみの塔 1979 | 3月1日
-
-
を扱ったものでした。(創世記 19章)その劇の内容について考えた,経験のあるクリスチャンの一長老はこう注解しました。「物質主義が大いに人を欺くものであることは明らかです。私たちは,きのうまでぜいたく品であったものが今日では必需品になっている例をどれほど多く見ているか知れませんし,こうした時勢に遅れないようにするため人々が自ら重荷を負っているのを見ています。……実に時宜にかなった音信です!」
国際大会のプログラムは,とりわけ,結婚に関する聖書の健全な助言を与えています。それは個々の人に影響を及ぼしますか。確かに及ぼします。フランスのマルセイユで開かれた大会から帰った若い夫婦はこう語っています。「私たちはこの大会,とりわけ結婚に関する話と結婚問題を解決する方法を示す実際的な助言にどれほど感謝しているかしれません。この大会は,エホバがご自分のみ言葉の中で述べておられる事柄を思い起こさせ,一致を強化して問題の解決を図る上で私たちを助けるために必要なものでした。私たちは強められ,幸福感を抱いて大会から帰って来ました」。
神の言葉という確かな土台に根ざした勝利の信仰は,個々の人に影響を及ぼします。それは彼らに益を与えます。英国のシェフィールド市での国際大会でバプテスマを受けた,62歳の老婦人の場合はこの点を示す良い例と言えます。ジャーナリストであったこの婦人は,土地の教会の機関誌を執筆し,編集していました。しかし,20年前にこの婦人が卒中で倒れると,もはや教会は彼女に何の関心も示しませんでした。1977年に一クリスチャン婦人は,この体の不自由な人と聖書を研究するようになりました。次のように伝えています。「毎週,彼女は質問を書き出したノートを手にしていました。そして,すべての聖句を自分で捜しました。私たちは彼女に会うたびに,エホバの霊が活動しているのを本当に見ることができました。その進歩はすばらしいもので,研究を続けるに従って,彼女は節を読み,会話を進めてゆくまでになりました」。
その婦人の夫は,「妻の霊的な状態が向上するにつれて,身体面の健康も向上しました」と述べています。この婦人は,喫煙がエホバに喜ばれないことを知ると,喫煙の習慣をやめ,この大会でバプテスマを受けました。しかし,それは,信仰による感動的な征服でした。その婦人は車イスごと水の中に浸されねばならなかったからです。確かに,聖書の真理は,彼女に将来に対する確かな希望を与えました。バプテスマの際に,この婦人は,「ここに集まっている大勢の人々と共にいられるのは,本当に大きな喜びです」と声を上げました。人生に真の目的を持った今,この人はどのような見方を持っていますか。信仰によって希望を得た彼女はこう語っています。『私は,ただもうエホバの約束しておられる平和な将来について他の人々に語りたいだけです』。
エホバの証人は確信を抱いて将来に立ち向かいます。彼らは,障害や辛苦を克服する勝利の信仰を抱いているゆえにそうすることができます。それは,彼らの生活に変革をもたらす力のある信仰です。これらのクリスチャンは,自分たちが真に一致している唯一の世界的な兄弟関係にあるゆえに喜んでいます。その信仰は人種の障壁とは無縁のものです。それは,勇気を与える信仰です。その上,この勝利の信仰は,将来に対する希望を与えます。
聖書に堅く根ざした信仰は,あなたにも同様の影響を及ぼすものとなり得ます。そうです,あなたは勝利の信仰の益にあずかることができるのです。
-
-
姦淫を行なう者は自分の命に対して罪を犯すものみの塔 1979 | 3月1日
-
-
姦淫を行なう者は自分の命に対して罪を犯す
箴言の筆者は,父親が息子を教え諭すように語っています。箴言 6章30節から35節(新)には次のように書かれています。「人は,盗人が飢えていて自分の魂を満たすために盗みを働いたというだけでその者をさげすんだりはしない。それでも,見つけられると,その者は七倍の償いをし,自分の家のすべての貴重な物を与えることになる。女と姦淫を犯す者は心が欠けており,そうする者は自分の魂を破滅へ至らせる。彼は災厄と不名誉を見いだし,そのそしりもぬぐい去られることはない。壮健な男の激怒はねたみであって,復しゅうの日に彼は情けをかけることをしない。いかなる贖いも顧みず,贈り物をどれほど大きくしようと応じない」。
ここで盗人と姦淫を行なう者とが比較されています。空腹のために盗みを働いた者に対して人はある程度の哀れみを覚えるかもしれません。しかし,「人は盗人を軽んじないであろうか」と訳出している翻訳もあります。軽んじられるかどうかにかかわりなく,盗人は捕らえられたなら処罰を受けます。モーセの律法下では,盗んだものや状況に応じて,盗人は二倍,四倍,あるいは五倍の償いをしなければなりませんでした。(出エジプト 22:1,4,7)「七」という数字はしばしば完全さの象徴として用いられるので,箴言 6章の聖句の中の「七倍」とは,裁き人の決定に従った完全な支払いを意味しているようです。あるいは,被害者をなだめて平和な関係を築くために,盗人はすべての所有物を支払うこともあるという意味かもしれません。
それに対し,姦淫を行なう者は「心が欠けて」いて,その動機には,他の人に少しでも同情心を抱かせるようなところがありません。姦淫を行なう者は盗人よりはるかに人からさげすまれるでしょう。また,姦淫を行なう者は罰として自分の所有物を没収されるだけでなく,自分の魂すなわち命を破滅に至らせることになります。律法下では,姦淫を行なうなら死刑に処せられたからです。(レビ 20:10)しかし,今日のように死刑をもって罰せられることがない場合でも,その恥辱や不名誉をぬぐい去ることはできません。自分自身,それに配偶者や家族,友人との関係に生じた傷は決して完全にはいやされません。その上,恐ろしい性病にかかる場合もあります。
さらに,姦淫を行なう者は嫉妬した夫の激怒に直面しなければなりません。それを知ったとき,夫は激怒の余りどんな弁解も口実も受け入れないでしょう。盗人は損害を償うことによって被害者と和解することができますが,傷付けられた夫を満足させ,夫の復しゅうを免れさせる贖いや償いはないのです。―箴 27:4を参照。
-