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  • 『わたしは血肉に助言を求めなかった』
    ものみの塔 1976 | 7月15日
    • と答えました。別の兵士がそのことを認め,それから,わたしが何を運んでいるかを尋ねました。それは,ブリュッセルで秘密裏に印刷された,「子供たち」と題する聖書研究の手引き書でした。そこで,聖句の引用に注意を向け,それが宗教的な本であることを示すと,兵士は満足しました。

      わたしは,ベルギーのどの町役場にも登録するという危険を冒せなかったので,当局の発行する食糧配給印紙を入手できませんでした。しかし,クリスチャン兄弟たちのすばらしい愛のお陰で,飢えることはありませんでした。彼らは,自分たちもやっと生きてゆくだけの必需品しか持っていなかったにもかかわらず,幾らかの配給印紙を差し出して,ゲシュタポに追われるクリスチャン兄弟たちのために印紙を集める責任を持つエホバの証人に手渡しました。夕食に,一本のにんじんと一切れのパンがあれば,それで満足しました。わたしは,使徒パウロの述べた,次のような態度を培いました。「わたしは,どんな境遇にあろうとも自足することを学び知った(の)です」。(フィリピ 4:11)寝る場所も様々でした。時には,干し草の中,地面に敷いたむしろの上,あるいは駅のベンチの上などに寝たこともあります。

      自転車は最も安全な乗り物でした。群衆や検閲隊を避けやすかったからです。もちろん,100㌔以上の旅がいつも容易であった訳ではありません。特に,真冬のアルデンヌの雪や氷に覆われた道路は大変でした。しかし,クリスチャン兄弟たちに霊的な食物を届けるのは大きな喜びであり,彼らの感謝の言葉は,途中で遭遇した困難や危険を補って余りあるほどの大きな報いをもたらしました。1940年当時,ベルギーに100人しかいなかったわたしたちの仲間が,終戦時には600人を超えるまでに増加したのですから,エホバはご自分の民の努力を祝福したと言えます。

      地下活動は終わる

      占領期間が終わった後,わたしは,エホバの民の会衆の再組織を援助する仕事を与えられました。この再組織の業が終わると,宣べ伝える業のまだ行なわれていない地方を選び,そこで特別開拓者として奉仕するよう招かれました。わたしは,アルデンヌの南にある,イエズス会の盛んな町アルロンを選び,自転車とスーツケース二つ,そして聖書講演のレコードをかけるための携帯用蓄音器だけを携えて,そこへ出掛けて行きました。

      わたしは人々のところを訪問し始めました。ちょうどそのころ,「慰め」(今の「目ざめよ!」誌)と題する雑誌に僧職者を暴露する記事が掲載されました。言うまでもなく,わたしの活動は町に騒ぎを引き起こしました。しかし,戦争中にきたえられたわたしは,宣べ伝える業をやめるつもりは毛頭ありませんでした。業は進展し,ついに関心を持つ家族が,群れの「ものみの塔」誌の研究のために自宅を提供してくれるようになりました。

      その地でかなりの数の婦人が聖書研究に関心を示すようになったので,未亡人で全時間伝道者である一人の姉妹に,それらの聖書研究を世話するよう手伝ってもらいました。わたしたちは後日結婚し,彼女は奉仕の面で変わることのないパートナーとなりました。妻は開拓奉仕を能率よくするため,45歳になってから,自転車に乗ることを学びました。わたしたちは,1958年まで乗り物として自転車を用い続けました。わたしたちはこの地方で多くの人々を援助することができ,今日ではその町に大きな会衆があり,近郊にもう一つの会衆があります。

      後日わたしは,巡回監督として諸会衆を訪問するよう協会から割り当てられました。ベルギーの三つの州に加えて,ルクセンブルク大公国をも回ることになりました。大公国では,特に厳しい反対がありました。当局はわたしたちを度々逮捕して,わたしたちの生活を困難なものにさせました。逮捕されるたびに,自転車とかばんは没収されました。するとクリスチャン兄弟たちがその代わりとなるものをそろえてくれ,わたしたちは直ちに業を再開したものです。この件はついにルクセンブルクの最高裁判所に持ち込まれ,わたしたちに有利な判決が下されました。そして,没収されていたものはすべて返却されました。

      後にわたしたちは,宣べ伝える業を行なうために,必要の大きな区域を選ぶよう求められました。そこで,やはりアルデンヌ地方にある,マルシュ・エン・ファメンヌを選びました。わたしたちは,日が暮れるまでには部屋が見付かるものと確信して任命地に向かいました。ところが部屋を見付けることができず,鉄道の駅に引き返して行きました。するとそのとき,突然一人の婦人がやって来ました。そして,部屋を捜しているのはわたしたちではないかと尋ねました。まさに打ってつけの部屋があったのです。ここでもまた,わたしたちは何も無いところから業を始めました。

      年月がたつにつれて聖書研究を始めることができるようになりましたが,それにはたゆまぬ努力が求められました。というのは,わが家の台所が集会を開くのに手狭になるまでに,八年間の熱心な働きが必要だったからです。とにかく,基礎は据えられ,会衆は成長してゆきました。ですから1967年に,わたしたちは別の区域に割り当てられました。それは,リエージュからそれ程遠くないアイワールとその近郊です。

      わたしたちは,事実上何もないところから会衆を築き上げるのを助けるという特権に再びあずかりました。やがて会衆は大きくなり,1972年には手ごろな会館を建てられるまでになりました。

      1971年の初頭,妻の健康状態が急に思わしくなくなりました。妻は,容赦なくガンに冒されていったのです。妻は25年にわたってわたしの忠実なパートナーとなり,ルュクサンブールに神の真理の光を輝かせるため,共に苦難を忍び,犠牲を払ってきました。

      数多くの難儀を経験しながら,神の是認を意識していた使徒パウロ同様,わたしも長年にわたって全時間奉仕に携われたことをうれしく思っています。わたしは,自分の生命力すべてをもってエホバに仕えるという決定を下す前に,血肉と協議しなかったことを少しも後悔していません。もう一度すべてをやり直さねばならないとすれば,1936年当時行なったと全く同様,自転車に乗って神のみ言葉を宣べ伝えるために出掛けて行くことでしょう。エホバは,必要な物すべてを,惜しみなく備えてくださいました。わたしは,エホバが与えてくださる仕事をこれからも忠実に果たしてゆきたいと思っています。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1976 | 7月15日
    • 読者からの質問

      ● 使徒ペテロに関する記述の中で,「それは彼のみ使いだろう」と述べられている,使徒 12章15節の言葉は何を意味していますか。

      それが何を意味しているかをその記述は説明していないので,はっきりしたことは言えません。しかし,この言葉を語った人は,ある人たちが「守護天使」と呼ぶ,使徒ペテロを表わす聖なるみ使いのことを念頭に置いていたのかもしれません。

      ヘロデ・アグリッパ一世はペテロを捕縛して,投獄しました。同使徒は,獄の中で『二本の鎖でつながれてふたりの兵士の間[におり]……戸口の前には番兵たち』がいました。晩になってエホバのみ使いの手で解放されたペテロは,ヨハネ・マルコの母であるマリアの家に行きました。―使徒 12:3-12。

      「彼が門口の戸をたたくと,ロダという名の下女が応対に出て来たが,それがペテロの声だとわかると,喜びのあまり門を開けずに中に駆け込み,ペテロが門口に建っていると知らせた。彼らは,『あなたは気が狂っているのだ』と言った。しかし彼女は,確かにそうだと強く言い張るのであった。みんなは,『それは彼のみ使いだろう』と言いだした」― 使徒 12:13-15。

      クリスチャンであったと思われるロダは,ペテロをよく知っていました。興奮したロダの驚くべき報告から,弟子たちはどんな結論を引き出し得たでしょうか。

      弟子たちがここで使ったギリシャ語アゲロスは字義的には,「使者」を意味します。この語は人間の使者を指すのに使われる場合もありますが,聖書の中で,天からの霊者としての使者,つまりみ使いを指すのに用いられているのもこの語です。(ヤコブ 2:25。ガラテア 1:8)この語が二通りに適用され得ることから,弟子たちの言葉は,ペテロが獄の中から伝言を託して遣わした人間の使者が門口に立っていることを意味していたのだ,とみなしてきた注釈者もいます。しかし,そうであるとは思えません。というのは,それほど見張りが厳重であったなら,ペテロはどのようにして使者を遣わすことができたのでしょうか。また,そうした見解は,ロダがその声をペテロのものと認めた理由を説明してもいません。

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