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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1978
塔78 6/1 8–11ページ

富にまさるものを見いだす

美馬勝三の経験

第二次世界大戦中の4年間にわたった満州と中国での軍隊生活を終えて,私は1946年に日本の京都に帰りました。実際私は運が良かったのです。帰らなかった人は無数にいました。

帰り着いた故国は荒廃しており,都市はがれきの山となっていました。人々は困惑し,飢えていました。空腹な赤ん坊のためにわずかな食物を探し求める母親の姿が見られました。ところが一方で金持ちは欲しい物をなんでも“やみ市”で手に入れていたのです。貧乏のつらさが身にしみていた私は,二度とこんな経験をすまいと考え,こうして金もうけが私にとって人生のおもな目標となりました。

しかし,これからお話しするように,私は物質的な利益にまさるものを見いだしたのです。

3歳の時に母をなくした私は祖母の手で育てられ,16歳で中学を卒業するまで,京都近郊の田舎に住んでいました。私は学業はあまり得意なほうでなかったので,たわら,なわ,むしろなどのわら製品を細々と売っていた父の商売を手伝うことにしました。そして日本が第二次世界大戦に突入するまでその仕事を続け,20歳になった1941年に召集されました。

そのころの私は,人が死ぬとどうなるかという問題をあれこれ考えるのが常でした。私たち若者の多くは死を意識していました。なぜなら,戦争に行く若者は戦死することを覚悟していたからです。年老いた人々は人生を楽しんでいるのに若い自分が死ぬのは不公平であるように私には思えました。当時の日本で支配的な宗教は神道ですが,私は霊的に助けとなるものを何もそれから得られませんでした。

復員後私は,日本の習慣に従って戦死した兄弟の嫁をめとりました。妻はその後間もなく肺結核で亡くなり,父はこれまた日本の習慣どおり,仲人を介して現在の妻美津江との結婚を私のために取り決めました。

私は教育をあまり受けておらず,何をやって生活しようかと思いあぐねました。戦争でほとんど無一物になった私にとって,今や大切だったのは経済的に安定すること,そうです,できるだけ多く金をもうけることでした。成功のかぎは工夫と努力であって,必ずしも学歴ではないと私は考えました。やがて私は新鮮な野菜や果物を詰めた箱を産地から市場に輸送することに関連した新しい商売を始めました。

商売を盛り立てようと私は日夜,けんめいに働き,思ったほど裕福にならなかったにせよ,商売は確かに繁盛し始めました。すると,がむしゃらに働いて無理をしたのがたたったものとみえ,わたしは病気になって入院するはめになりました。

妻の看病は何週間も続きました。これは不治の病気であって死ぬかもしれないと私は考え,そのため死と死後の世界のことが再び心の中に大きく頭をもたげてきたのです。

宗教には答えがあるか

答えを見いだそうとしてわたしは宗教に頼りました。以前,仏教でも真宗の話をいくらか聞いたことがあったので,今度もそれに関心を持ちました。仏教では,不滅の霊者の世界があり,死ぬとだれでもこの霊界の一部になると教え,またある人々の霊は“地獄”で責め苦にあうと教えています。

その通りに信じた私は,人間には不滅の部分があって死後にも霊界で生き続けることを確信していました。このいわゆる私の内面の命なるものがどこか責め苦の場所に行かず,死後の幸福な将来を楽しめるという保証を,私は望みました。ところが非常に失望したのは,真宗の仏教を教えてくれた人が死んで,知りたいと思っていた答えを得られずじまいだったということです。

それでも私は他の仏教の集会に出席して,救いの道を求めつづけ,新教とカトリックの教会に行くことさえしました。面白いことにこれらの教会でも仏教と同じようなこと,つまりこの世でどのように生きたかによって人は死後に火の責め苦を受けるか,天国に救われるかのいずれかであると教えていました。しかし納得のゆく答えは得られず,そのうえ教会の利己主義と貪欲を見て,私は教会へ行くのをやめました。

病気であった時に私はエホバの証人の宣教者でオーストラリア人のロイス・ダイヤの訪問を受けました。家で無料の聖書研究をすることを勧められ,私は彼女の勧めを喜んで受け入れました。しかし研究が進むにつれて私の喜びは苦痛に変わったのです。

とりわけ,それは人間の魂が不滅ではないという聖書の教えのためでした。ロイスは,「罪を犯せる霊魂は死べし」と述べたエゼキエル書 18章4節のような聖句を読みました。これを聞いて怒りを覚えた私は,研究をやめようとさえしました。また時には聖書が難しいように思えて,次のように質問したこともあります。「救いを得るのに,なんでこんな難しい事を勉強しなくてはならないのですか。もっと簡単な方法はないのですか」。

何百年間も諸宗教によって教えられてきた偽りのために,人々の心には間違った考えが深く根を下ろしていると,ロイスは説明しました。ゆえに真理とごびゅうを区別するには,注意深く調べなければなりません。真理だけが人を永遠の救いに導くとも,彼女は語りました。

彼女の説明を聞いて,私は神の真理を学ぶため真剣に学ぶ真の必要を悟り始めました。聖書の次の句に感銘を受けました。『銀のごとくこれを探り 秘れたる宝のごとくこれを尋ねば 汝エホバを畏るゝことをさとり 神を知ることを得べし』。(箴 2:4,5)今や聖書は私にとって楽しみとなり,聖書の教えを調べるにつれ,学ぶ事柄をなるほどと思うようになりました。

なるほど人間は魂であり,死ぬ時に魂も死ぬことを理解できました。死者に意識はありません。(伝道 9:5,10。詩 146:4)しかし全能の神は死者を生命によみがえらせる力を持たれ,しかもそうすることをはっきり約束しておられます。(ヨハネ 5:28,29。使徒 24:15)また聖書は,私たちの住むこの地球が,神に従う人間の美しい住みかに変えられることを明白に教えています。(啓示 21:3,4)聖書のこうした教えは,私に深い感銘を与え,また私の生活に影響を及ぼすようになりました。

間もなく私は健康を取り戻し,おろそかになっていた商売を盛り立てるため働けるようになりました。しかし富を得ることに対する考え方そして仏教に対する見方も変化していました。そして聖書から学んでいた事柄を,仏教の僧侶に説き始めたのです。この事は父を怒らせ,父は私たちを家から追い出しました。それで私たちは事務所の一室を改造してそこに移りました。

異なる目標を追い求める

当時エホバの証人の集会の場所へ行くのに市電で1時間かかりました。そこは公共の場所でたたみ16畳ほどの貸室でした。隣室では人々が碁をうっていたり,あるいはそろばんを習っていたりして,たいそうやかましい音がしていました。私は集会に出席している人々の真剣さと熱心さに心を打たれました。その中には若い人も大ぜいいて,隣室の騒音にもかかわらず,研究資料に注意を払っていました。

1955年,キリストの死の記念式に初めて出席した時のことを,私は決して忘れないでしょう。ご存じのようにそれは「主の夕食」あるいは「主の晩さん」と呼ばれています。(コリント第一 11:20)どんな食事が出るのかを知らなかった私は,もうひとりの聖書研究生と一緒に晴れ着を着て,夕食を食べずに出席しました。私たちは二人とも空腹をかかえたまま家路につきました。

次いで私はエホバの証人の巡回大会に出席するようになりました。これは年二回,二日あるいは三日にわたって開かれました。家を離れて大会に出席している間,私は商売のことが気になりましたが,大会で会う良い人たちとの交わりが楽しくて,金もうけよりもその方が大切になっていました。

聖書に救いの道があるとすれば,その真理を他の人々と分かつのは道理にかなっているように思えました。時たつうちに私は家庭聖書研究を司会して他の人々を助けられるまでに進歩しました。わたしと定期的に研究するようになった最初の人はペンキ屋さんでした。ある雪の夜,家に帰る道すがら,ふと疑問がわきました。「こんなに夜おそく,なんでこの事をしなければならないのだろう。自分が救われていればそれで良いではないか。このわざの重要さは分かっているが,しかし……」。

そこで雪の中,重い足を引きずりながら,私はこの事についてエホバに祈りました。すると,もっと簡単な救いの道について宣教者にかつて尋ねた時のことを思い出したのです。彼女はこう語りました。「神は愛です。利己主義と憎しみは悪魔からのものです」。確かに多くの人は富を追い求める利己的な業に携わっています。しかし考えてみればこの伝道の業はきわめて利他的なものです。それは神の業です。これによりエホバは,聞く耳を持つ人々を集めて訓練し,救いを得させようとしておられます。

その瞬間にわたしは神の愛そして私たちの愛の労苦の重要さを,いっそう深く悟ったのです。その夜,床につく前,私はこの理解を授けてくださったエホバに心からの感謝をささげました。今日に至るまでこの経験をはっきり覚えています。

問題に首尾よく対処する

家族,親類その他の知り合いからの反対が強まってきました。宗教色の濃い,葬式などの行事に参加しないというのが,反対のおもな理由でした。

妻は私の遂げた変化を喜ばず,離婚を求めました。それは私にとって大変なショックでしたが,妻と話し合い,そのような行ないの愚かさを納得させました。後に妻も聖書の研究を始め,1957年にはエホバに献身して,エホバの証人のひとりとしてバプテスマを受けました。それは私の大きな喜びでした。

二人の幼い娘を真のキリスト教の道に育てることにはとりわけ困難を覚えました。キリスト教のものでない宗教の祭にこの土地の人々は熱心であり,祭は子供たちにとって大きな魅力だったからです。私は,ある祝祭や行事が神に喜ばれない理由を娘たちに教えることに努めました。またクリスチャンの集会で学んだ事柄を,家に帰る道すがら子供たちと復習し,良く覚えていた時にはいつもほめてやりました。これに励まされて子供たちは注意を払うようになったと思います。また妻と私は教える事柄と一致した生活を送り,いつでも子供たちに良い手本を示すことに十分,留意しました。

より良い,より幸福な生活

1957年,大阪の大会において,京都の宣教者たちが別の任命地に移る旨,発表されました。全時間の“開拓”伝道者の必要が,大会で論議され,そこで私は,時間を賢明に計画すれば開拓者になれるのではないかと考えるようになりました。

家に帰ると,私は商売をパートタイムの仕事にして,一時的に開拓者となることを試みました。次いで,私が外で伝道に携わる間,代わって商売をみる人を雇いました。1年後にも商売は前の年と全く同じように順調でした。それで本格的に開拓者の奉仕を始めたのです。後日,1964年にこの商売を人手に渡すことに決め,売却によって得た資金と,また魚を養殖する会社で得たパートタイムの仕事によって,家族を養うことと,今日まで開拓者のわざを続けることが可能となっています。

「自分のために地上に宝を蓄えるのをやめなさい。そこでは蛾とさびが食い尽くし……ます。むしろ,自分のために宝を天に蓄えなさい」と教えたイエスの助言に従うことによって,私は数多くの益を経験しました。(マタイ 6:19,20)そのひとつは1965年,私の地所に王国会館を建設したことです。

エホバの証人と初めて交わり始めたころ,京都の王国伝道者はあの小さな部屋を借りて集まっていた10人だけでした。しかし今,京都には繁栄している九つの会衆があり,700人以上の伝道者と96人の開拓者がいます。また6か所にりっぱな王国会館があります。エホバの崇拝のこの成長ぶりを,私は過去23年間にわたって目の当たりに見,またそれにあずかってきました。

忘れることのできない,報い豊かな経験は,1958年,ニューヨーク市のヤンキースタジアムとポログラウンドで開かれた国際大会に出席したことです。大会の初日,18万人もの人々を見守りながら実際に感じたのは,エホバ神はあらゆる国のあらゆる言語の人々をご自分の真の崇拝者として集めておられるということでした。

一緒に聖書を学んだ人々の霊的な成長を見るのは,とりわけ喜ばしいものです。その中には今,開拓者となり,救いの道を学ぶようになお他の人々を助けている人々もいます。妻はこの長年の間わたしの忠実な伴侶となってきました。そしていつでも一緒に伝道して喜びを分かち合っています。二人の娘はすでに嫁いでいますが,両方の娘とも開拓奉仕に励んできました。

裕福になることを人生の主要な目標にしていた,かつての自分を振り返ってみる時,目標を変えて以来の人生は何ものにもまして幸福なものでした。私たちの偉大な創造者への奉仕に命を用いることから得る安らぎと満足に匹敵するものは,確かに何もありません。

[8ページの美馬勝三の写真]

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