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  • フランス国営テレビ,カトリック教会にカメラを向ける
    目ざめよ! 1971 | 11月8日
    • フランス国営テレビ,カトリック教会にカメラを向ける

      フランスの「目ざめよ!」通信員

      「ショックだった」「悲しかった」「わからなくなった」「しゃくにさわった」「恥ずかしくて泣けそうだった」。

      国の独占経営によるフランスのテレビ放送がフランス・カトリッ教徒のあいだにこのようなさけびをあげさせ,また強い感情をわきたたせたのは珍しいことです。

      フランスの新聞からひろった前述のさけびは,シリーズになった「教会に明日があるか」と題するテレビ番組がひき起こしたものです。この番組は「20世紀」というレギュラー番組の一部として,全国ネットワークの第一放送により放映されました。

      4部からなるこのシリーズは,1970年の12月から1971年3月まで,毎月1回放映され,フランス全国の人々およびベルギーやスイスのフランス語を話す人々など,大ぜいがこの番組を見ました。

      最初の番組が放映されたのは,1970年12月8日火曜日の夜でした。それはヨーロッパ数か国におけるカトリック教会の現状と将来の見込みを取りあげたものでした。ところが,その最初の番組が始まるやいなや人々は意外な事におどろかされました。

      というのは,番組の開始にあたって,この番組のある部分では画面のすみに白い小さな長方形のしるしが映し出されるとの発表がなされたからです。このしるしはフランス・テレビが,成人向けの性的な映画や極度の暴力を扱った映画に使用しているものです。

      成人映画? これはいったいどういうことだろう。自分たちの教会にかんするテレビショーに,子どもたちに見聞きさせてはまずい箇所があるということを知って,多くのカトリック教徒はおどろきました。

      しかし番組が進むにつれてその理由ははっきりしてきました。この番組が示した一部の僧職者たちの道徳的状態はまったくひどいものだったのです。また教会内部の分裂や,僧職者たちの政治活動への参加もおどろくべきものがありました。

      では最初に,性道徳の問題に対するある司祭たちの態度を,この番組はどのように伝えたでしょうか。

  • 道徳にかんする僧職者の態度にフランス人はショックを受ける
    目ざめよ! 1971 | 11月8日
    • 道徳にかんする僧職者の態度にフランス人はショックを受ける

      シリーズの最初のテレビ放送において,フランス国営テレビが番組の一部を『成人向け』にした理由が明らかにされました。それは成人のカトリック教徒さえショックを受けるほどのものでした。とくにひどかったのは道徳にかんする部分で,カメラがオランダへ向けられたときにはっきりしてきました。

      最初の場面は,植物や花また養魚ばちや大きな鳥かごなどで装飾されたオランダのカトリック教会でした。カトリック教会にしてはちょっと変わった装飾が施されている理由が礼儀正しく尋ねられました。この質問に対して土地の司祭は次のように答えました。ミサは,「ソレスメ[グレゴリー聖歌のエクスパートである,フランス・ベネディクト会修道士の本部]ではなく,ウッドストック[アメリカにある,ヒッピーが大『ポップ』フェスティバルを催す場所]のようなフェスティバルです。」

      しかしこれはまだ序の口でした。もっと大きな驚きが,フランス,ベルギー,そしてスイスのフランス語を話すテレビ聴視者を待っていました。二,三の場面のあと,テレビ解説者は罪の秘密告解に問題を移し,オランダにおける実状をかいつまんで説明しました。「人々はもうほとんど告白をしなくなりました。それはおもに,性の解放の波がオランダ全土を洗ったため,人々はもはや何が性的な罪なのかわからなくなってしまったからです」。

      ある教区司祭はこの道徳の低下に対して,カトリック教会にも一部責任があることを認めました。彼は,カトリック教会がカトリックの精神病学者や心理学者に不道徳への防壁を低めるのを許したことを指摘しました。

      最大のショック

      ついで,聴視者は最大のショックを味わさせられました。カトリック教会が性の不道徳のみならず性倒錯まで黙許している証拠を見聞きさせられたのです。

      聴視者たちは,アムステルダムにカトリック教徒の同性愛者だけでできている「教区」があることを知らされました。彼らに奉仕する司祭は,「同性愛者は,他の人々と同じようにクリスチャンでありえますか」という質問を受け,「はい,私はそう確信しています。ここオランダで,10年間同性愛者のあいだで働いてきたわたしたちのグループのメンバーもみなそう考えています」と答えました。

      この司祭はオランダのカトリック教会で少なくとも二つの同性愛者同志の「結婚式」があげられたことを明らかにしました。そのような式の正当性について質問されたとき,彼は「二人の同性愛者がそれを望むなら,司祭は彼らを祝福できると私は考える」とつけ加えました。

      これを見ていたフランス語を話すカトリック教徒たちは,自分の目と耳を疑いました。しかし,それよりもさらにひどい場面が展開されたのです。カトリックのある司祭が彼自身同性愛行為を行なっていることをおくめんもなく認める光景を見せつけられました。インタビューはつぎのように行なわれました。

      解説者「同性愛はもはや罪とは考えられていませんので,学生教区の司祭でいらっしゃる ― 神父は,率直にお話しくださるということです。―神父,あなたは司祭でいらっしゃる。また,同性愛組織のC・O・Cにもはいっていらっしゃるのですね」

      司祭「はい」

      解説者「あなたは同性愛者ですか」

      司祭「そうです」

      解説者「あなたが同性愛者であることが世間に知られてからどのくらいになりますか」

      司祭「そんなに長くありません。6か月です」

      解説者「このことであなたの司教から何か反応がありましたか。司祭が同性愛者で,同性愛組織の活発なメンバーであることを公に知られるようになったのは,これがはじめてのことと思いますが」

      司祭「いいえ,司教はまだなんの反応も示していません」

      解説者「あなたはご自分が,ほかの人々の目から見て,他の司祭同様よい司祭であるとお考えですか」

      司祭「もちろんです。どうしてそう考えてはいけませんか」

      司教と枢機卿の意見

      このおどろくべき対話のあと,テレビの報道員は,ひとりのオランダ人司教に,もしあなたの管区のある司祭が同性愛者であることをおおっぴらに認めたとしたら,あなたはどうしますかという質問をしました。

      番組を見ていた多くのカトリック教徒は,この高位聖職者が少しもちゅうちょせずに,『すぐに停職処分にする』と答えることを期待していたにちがいありません。ところがその期待ははずれて,彼らはこの司教が『遠回しに』次のように言うのを見また聞いたのです。「これはたいへん答えにくい質問です。もしそういう事態が生じたなら,私はその司祭に会って,彼の立場が信仰深い人々にショックを与えているかどうかを見なければならないと思います」。このような状態に彼自身ショックを受けたかという問いに対して,彼はどもりながら「それは……その……その,まったく初めてのことで」と答えました。

      この事件と直接関係のある司教は,同性愛者を公然と自称するその司祭に対して何の措置も取りませんでした。インタビューを受けたこの2番目の司教は,その事態にショックを受けてもいなければ,また,ショックを受けていないという勇気もありませんでした。誠実なカトリック教徒にとってこれはなんという模範でしょう。

      残されたひとつの希望は,カトリック教会の教階制度が聖書の正しい原則を公にし,僧職者の成員が行なっている,また黙許している不道徳を非難することでした。その希望は,この番組の最初からずっとスタジオにすわっていたフランスの枢機卿ダニエルーに向けられました。テレビ解説者は同枢機卿に次のような質問をしました。「神父さん,あなたはオランダでこうしたことが起こっているのをごらんになって,どうお感じになりましたか」。

      それはキリスト教の原則を擁護する絶好の機会でした! それだけに,この高位僧職者が問題を哲学的に扱い,キリスト教の原則を曲げるのを聞いたときの誠実なカトリック教徒の失望は大きいものでした。枢機卿は答えました。「同性愛の問題はだれが見ても劇的な性質をもつものですから,教会は慎重に研究しなければならないと思います。しかし,同性愛者が教会に属し,信仰をもつ完全な権利を有することはきわめて明らかです」。

      同性愛が『正常』でないことをのちほど認めたとはいえ,このフランス人の枢機卿は,カトリックの聖書がこれを「汚れたこと」,「倒錯」,「非道な行ない」,「堕落」とよんでいるのを忘れたらしく,同性愛を一度も非難しませんでした。―ロマ 1:26-32。ドーゥェイ聖書。エルサレム聖書。

      この番組のあと,リヨンに住むひとりのけいけんなカトリック教徒の若い婦人は,ダニエルー枢機卿あてに次のような公開状を送りました。「性,とくに同性愛にかんして,私たちが昨日テレビで聞いたような卑劣な考えが公表されるのをごらんになったら,神父さま,あなたはいすから飛び上がって,それを否認し嫌悪しておられることを,大声ではっきりとさけぶべきではなかったでしょうか。……私は恥ずかしくて泣けそうでした」。この公開状はル・プログレ・ド・リヨン紙に載せられました。

  • 聴視者は教会が政治に加担していることを知らされる
    目ざめよ! 1971 | 11月8日
    • 聴視者は教会が政治に加担していることを知らされる

      カトリック教会にかんするフランス国のテレビの番組は別のことも明らかにしました。つまり,聴視者の多くが気づいていなかった,僧職者たちの政治活動の度合いを明らかにしたのです。

      まず第一に聴視者は,スペインの司教たちがフランコ将軍の前で国家に忠誠を誓うときの宣誓を聞かされました。また,修道僧,修道尼などが,多かれ少なかれ,公然とスペイン政権に対して反逆的であることを示した一連のインタビューもきわだっていました。これは国家に対して忠節を誓う高位僧職者たちを非常に当惑させました。

      バルセロナの近くで撮映されたひとつの場面は,尼僧たちのはからいで自由に使える女子修道院内の一室における反抗的な司祭たちの集会でした。フランス・テレビの係員が司祭のひとりをインタビューし,政治活動は司祭の職と相いれるかという質問をしたさい,彼は「はい。公教会はいつも政治に関係していますから」と答えました。長髪の『ヒッピー』タイプのイエズス会の司祭は,「スペインでは司祭は福音書とマルクスを読みます」と言いました。二つは矛盾してはいないかと聞かれたとき,彼は「していない」と答えました。

      別のインタビューはある教会の中で行なわれました。秘密政治集会の場所として使われるときには,その教会の祭壇はカーテンで仕切られます。ここではひとりの司祭が,「教会と国家のあいだの不義の結婚に対して,人々の目を開く必要がある」とそっけない態度で述べました。ひとりの労働者司祭は,「教会は国際帝国主義と手を結んでいる。宗教的なものであろうと経済的なものであろうと,この帝国主義は破壊されねばならない」とつけ加えました。

      しかしこれらの司祭たちは,神のことばを人々に教えることよりも政治活動のほうにより大きな重要性を付しているのでしょうか。テレビの聴視者は,インタビューを扱った係員が,スペインのベネディクト会修道士にこの質問をしているのを見ました。そしてその修道士が,「はいそれは事実です」と答えるのを聞いて多くの人がおどろきました。

      ついでフランスのダニエルー枢機卿が,スペインのカトリック教会にかんするこのフィルムについて注解を求められました。ダニエルー枢機卿は次のように述べました。「私はこれらの司祭たちの純粋さに心を打たれました。……また,自分たちの革命闘争が神への信仰にいささかも影響しないと,彼らが常に断言していることにも心を打たれました」。しかし,多数の聴視者はほかのことに心を打たれました。枢機卿が司祭たちは革命家であるという考えを受け入れられるのはおかしいと考えたからです。

      フランスの僧職者たちの間の混乱

      このテレビ番組の別の部分は,フランスの僧職者たちの政治活動を概見するものでした。同番組は反抗的な司祭たちの一グループを映しましたが,フランスには彼らのような司祭が約千人いるといわれています。

      それら司祭たちの代弁者は,われわれは,「はなはだしい不平等と不正をかもし出しかつ永続させる,わが国や他国におけるすべての圧制的勢力に対し,市民として戦うべくわれわれを動員する政治活動に」身を投じた。「第三世界は西で起こる。だからわれわれはすでにこの解放のわざに参加しているすべての人とともに,ここから出発する必要がある」と宣言しました。

      テレビの聴視者たちは,自分たちが聴いているのはいったい司祭の話なのか,またはカール・マルクスの「共産党宣言」なのかと迷ったにちがいありません。次の場面で彼らのこの疑いに正当な根拠のあることが明らかにされました。

      次の場面では,土地の司祭とともに「階級闘争」に参加している,左翼の好戦的なカトリック教徒たちが映し出されました。その司祭の考えによると,人類は神を信ずる者と無神論者とに分けられるのではなく,人類の解放のために戦っている者(信者と無神論者の両方を含む)たちと,この戦いに参加しようとしない者たちに分けられます。「私個人としては,この闘争の外側にいる信者よりも,マルクス主義者や無神論者の友人たちのほうに親しみを感ずる」と,彼は自分の本心を明らかにしました。

      アメリカにおける政治的意見の相違

      テレビジョンの報道の一部は,アメリカのカトリックを取り扱いました。それによると,アメリカにおいても,僧職者間の政治的な意見の相違はますます明白になってきています。

      ル・モンド紙は,テレビの報道のこの部分を評して,「プロテスタントを主とするコミュニティーに受け入れてもらうために,みずからを既成体制に結びつけた[カトリック]教会の強い親米主義」について述べました。

      しかし,この番組のあいだにインタビューを受けたひとりの司祭は,アメリカのカトリック教徒の多くが,「もはや自らを超愛国主義者として示す必要を感じていない」ことを認めました。そしてこれが事実であることは,ベトナム戦争に対するカトリック教徒の相反する見方を取りあげた別の場面によって証明されました。

      アメリカの一部のカトリック教徒は,この戦争をベトナムのカトリック教徒を救うための十字軍と考えました。しかし他のアメリカのカトリック教徒たちは,司祭をも含めて,戦争反対の激しいデモを行ない,刑務所に入れられることも辞しませんでした。

      また,一連の著名なカトリック教徒のインタビューがあり,彼らはカトリック教会が現代のベトナムで果たした重要な役割について述べました。そして,19世紀にフランスがインドシナを植民地にした根源の理由のひとつは,そこで迫害されていたカトリック宣教師たちを保護することであったことが明らかにされました。

      フランス,ベトナム間のインドシナ戦争(1947-1954年)のあいだも,現在のベトナム戦争においても,カトリックの権益の防衛が主要な要素のひとつであったことをテレビの聴視者は知らされました。テレビ報道員はベトナム人の村のあるカトリックの司祭をインタビューしましたが,その司祭は自分が村人たち ― 男女子ども ― に軍事訓練を施したことを誇らしげに認めました。

      1954年以後北ベトナムを去ったカトリックの難民について,ル・モンド紙は,彼らは「奇兵タイプの司祭たち,福音について語るのと同じほど機関銃について語る将校司祭」によって組織されている,と伝えています。

      ラテンアメリカの教会

      最後の番組では,ラテンアメリカにおけるカトリック教会のことが報告され,征服者たち,およびヨーロッパから彼らに同行した司祭たちによってカトリック教がラテンアメリカの人々に強制的に押しつけられたことが示されました。この番組はまた,ローマ・カトリック教会が,人々を圧倒した官憲主義的な政府を支持したことも明らかにしました。

      その圧制の一部は,教会が5世紀近くそこに存在し,学校教育を長いあいだ独占していたにもかかわらず,人々を無知のままにとどめておいたという事実に見ることができます。今日でさえ,ラテンアメリカには文盲率の高い国が少なくありません。

      特にこの番組を評して,カトリック派パリの日刊紙ル・フィガロはつぎのように述べました。「この番組のプロデューサーたちが,重要な点,すなわち,人間らしい扱いをうける価値がないと考えられたために今日流民のような状態にある『辺境居住民』の人々 ― ボリビア人,コロンビア人,ペルー人,ブラジル人 ― のひどい貧困をわれわれに忘れさせなかったことは,彼らの誉れと言わねばならない。[カトリック]教会と政府が共謀して行動することは長いあいだ当然のことのように思われてきた。現在は新しいものがある。一部の司祭と信徒は,教会と国家の結婚を破壊することを試みている」。

      その証明として,テレビはボリビアのインディオのあいだで働くひとりの司祭を紹介しました。彼は「政府にこびて私腹をこやした強大な[カトリック]教会」について語りました。貧民のあいだで働いているコロンビアの一司祭は,「教会の使命は貧しい人々と働くことである。しかしここコロンビアでは教会と国家とが結婚し,世帯をともにしているために,すべてが異なっている」と言いました。それらの司祭とその上に立つ司教との関係はいずれもよくいっていません。それどころか彼らに加わって革命家になる他の司祭が出てきています。

      ル・モンド紙はこのテレビ番組の論評の中で次のように述べました。「4番目の番組はラテンアメリカ,とくにコロンビア,ボリビア,グアテマラ,ブラジルにおけるカトリック主義の複雑な様相を伝えた。それは飢え,貧困,死,文盲,そして僧職者間の著しい態度の相違から成る,苦しい連とうともいうべきものであった」。

      カトリック僧職者のあいだの道徳的,政治的見解の相違の増大が,他の領域にも反映していることは想像にかたくありません。それは事実であり,テレビ番組はその一部を見せました。

  • 増大する教会内部の分裂
    目ざめよ! 1971 | 11月8日
    • 増大する教会内部の分裂

      道徳と政治にかんするカトリック教会の僧職者のあいだの相反する態度は他の領域にもこぼれ出ています。フランスのテレビ聴視者はこの状態も見ることができました。

      注目を浴びたひとつのことは,アムステルダムのプロテスタント教会で行なわれた信仰合同聖ざんミサです。説教はカトリックの司祭が行ないました。オランダではこのような『教会合同礼拝』が日曜ごとに行なわれています。しかし彼らは,土地の教階制度やローマの支持には従いません。

      聴視者はまた,アムステルダムの「学生教区」を紹介されました。ここでは4人のカトリック司祭が奉仕しており,うちひとりは結婚しています。結婚していても彼は日曜ごとにミサを挙行しています。テレビのインタビューを扱った係員は,土地の教階制度もローマも,その司祭に対して何の懲戒措置も取らなかったことにおどろきを表わしました。

      それに対し,4人の司祭のひとりは,「ローマは恐れているのです」と答えました。この点について質問を受けた司教は,「懲戒処分は賢明ではないようです」と回避的な答えをしました。ところがアメリカでは,ひとりの司祭が最近,結婚し子どものいることが発覚して破門されています。

      司祭が結婚しようと独身でいようと,それは本人の自由であるべきだと考えるか,という質問を受けたある修道女は次のように率直に答えました。「ほんとうにそうであってほしいと思います。法王の憤りに私は憤慨せずにはいられないことがあります。イタリア,スペイン,南アメリカには,司祭を父親とする私生児が無数にいるのです。法王はこのことについて何も言わず,これらの司祭たちはミサを挙行し,告白を聴くことを許されているのです」。

      ひとりの司祭はアメリカのカトリック教徒のあいだの人種的分裂について触れ,その状態はミュージカル・ドラマ「ウェストサイド物語」によく現われていると語りました。二つのギャングがおり,一方はヨーロッパ移民のアメリカ人,他方はプエルトリコ系アメリカ人で,その両者とも胸に十字架をかけたカトリック信者から成っているというのです。しかしそのことは,彼らの憎しみ合いや争いを防ぐものとはなっていません。またボルチモアのある黒人のカトリック司祭は,アメリカのカトリック教会内部における人種的分裂を指摘しました。

      フランスにおけるカトリック主義の分裂状態は,保守的なあるフランス・カトリック教徒をインタビューしたときに明るみに出ました。この人は最保守派のカトリック組織に属しています。この組織は,『進歩的』にすぎると自分たちが考える他のカトリック教徒に対し,暴力に訴えて反対してきました。この保守派の活動は,ミサがラテン語でなくフランス語で行なわれているといって,カトリック教会の礼拝式を中止させることまでしてきました。

      番組のひとつはフランス人の3人の司教の証言をもって終わり,うちひとりはカトリック教会の分裂を認めました。しかしこのときまでには聴視者はすでに自分でそのことを悟っていました。またその同じ司教は,ときどき自分の信仰に「問題」を感じることがあり,イエス・キリストへの「信仰に生きる単純な人たち」がうらやましいと告白しました。

      カトリック教徒にとって,こうした事態の暴露はローマ・カトリック教の将来を確信させるものではありませんでした。聴視者の多くはひどい失望感をはばからずに表わしました。

  • フランスのカトリック教徒の反応
    目ざめよ! 1971 | 11月8日
    • フランスのカトリック教徒の反応

      フランスのカトリック教徒の反応は,彼らの多くがこれらのテレビ番組を見たあと経験した苦悩を示すものでした。フランスの新聞も,個々の市民も,暴露された事柄のあるものにろうばいしました。

      同性愛者の司祭が出てきた最初の番組で人々が騒いだあと,その番組のプロデュサー,ピェール・デュマイェは,「われわれの目的は同性愛者の司祭がいることを人々に示すのではなく,教会が同性愛者を公然と自称する司祭をどこまで許すかを示すことにありました」と言いました。多くのカトリック教徒の反応からすれば,教会は許すべき限度を超えている,と彼らが考えていることは明らかです。

      ル・モンド紙の論評によると,この番組は「[カトリック]教会が『世にいる』度合のみならず,世からどの程度影響を受けているかを」示すものでした。聴視者の多くは世の影響が教会を堕落させたと考えました。いちばん広く読まれているフランスの新聞,フランス・ソワールは次のように論評しました。「霊性を『失った』世界は,その混乱の収拾に,もはや伝統的教会をあてにすることはできないようだ」。

      パリのあるカトリック教徒のフランス人はエホバの証人に次のように話しました。「私は両側の指導者とも極端だと思う。改革者たちはカトリック教会を破壊している。自分たちがマルクス主義者に吸収されてしまうかもしれないことに気づいていないようだ。保守派はというと,150年昔に生きている。これもまた危険だ。この番組を見て私はまったくなさけなくなった」。

      この番組が放映される前,リビエーラ地方のある町に住むカトリックの婦人は,ひとりのエホバの証人に,カトリック教会にかんするこのテレビ報道を見のがさないように,と言いました。その婦人はエホバの証人がまちがっていることを彼女がその番組で知るように願っていたのです。翌週,最初の番組を見たあとその婦人はエホバの証人に言いました。「私は大きなショックを受けましたし,失望しました。教会が同性愛を許そうなんて恐ろしいことです。それよりも,フランスのダニエルー枢機卿が,すべての質問に対して逃げごしだったのにはがっかりしました」。その婦人は聖書を注文し,いまエホバの証人と勉強しています。

      最初の番組が放映される一週間まえ,二人のエホバの証人と勉強していた夫妻は,「とこしえの命に導く真理」という聖書研究の手引の2章を証人と討議していました。その章の主題は「なぜ自分の宗教を調べて見るべきですか」というものです。証人たちが帰ったあと,陸軍将校のご主人は,一部の僧職者たちが同性愛を認めていることを述べているこの章の3節について,エホバの証人たちのことを「彼らは少しことばがすぎる」と妻に言いました。

      しかし,そのテレビ番組が始まった翌日,夫人は道で証人たちのひとりに会い,こう言いました。「奥さま,主人も私も,テレビを見てほんとうにいやになりました。主人は私に言いました。『あの人たちの言っていることはまちがいない。誇張じゃなくてほんとうのことを言っているんだ。あの人たちと勉強をつづけなきゃいけないね』って」。

      疑問の余地はありません。フランスの誠実なカトリック教徒たちは,国営テレビ放送で見たことから大きなショックを受けました。しかし彼らが理解する必要のあるのは,これが公にされたのは初めてかもしれませんが,それは決していまにはじまったことではないということです。このことから彼らは,そしてあらゆる場所の誠実な人々は,自分の宗教の基礎を調べてみる気にならねばなりません。しかもそれはどんな宗教に属する人にとってもたいせつなことです。このたびテレビが暴露したのはカトリック教会と関係のある事柄でしたが,キリスト教世界の他の教会でも同様のことが行なわれているからです。

      あなたは最近ご自分の宗教を調べてごらんになりましたか。神のことばの真理,聖書の光に照らして調べてごらんになるのはいかがですか。創造者ご自身が,どんな崇拝の方法を受け入れ,または拒否されるか調べてください。この地球とその上に住む人間に対してどんな目的をもっておられるか知ってください。また非常に近い将来に,あなたの教会のみならずあなたご自身にも何が起こるかを学んでください。エホバの証人は,あなたのお宅で個人的に無料で聖書の勉強をし,あなたがその内容をお調べになるのを喜んでお手伝いいたします。

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