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権利,それとも義務 ― そのどちらですかものみの塔 1973 | 6月15日
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「ここではそれは,単なる習慣に加えて,物事の適否を判断する生来有する感覚(ロマ 2:14と比較せよ)を意味する。しかしそれは,物事の本質の客観的相違に基づく感覚なのである」。
29 (イ)クリスチャンは,何はしてよい,何はしてはいけないという規則を必要としません。なぜですか。(ロ)もし,知らない人がある場合,その人はどうすべきですか。
29 したがってそれは,規則によるように,何をしなさい,何をしてはいけないと,ことこまかに告げられることの問題ではありません。わたしたちがクリスチャンであり,そしてわたしたちの心が正しい事を愛する心を持っているならば,わたしたちは自然に,とくに訓練された良心によって,ある事柄が自分の宣べ伝える良いたよりの誉れを増すものであるか,あるいは傷つけるものであるかを知ります。他の人びとの前で,会衆の評判もしくはイメージを築き上げているか,それともこわしているかを知ります。しかし,もしだれかがそれを知らないとすれば,その人はクリスチャン会衆の明らかな良心の指導を受けるべきです。その人は良い助言を受け入れ,責任ある兄弟たちの良い判断を信頼すべきです。―箴 12:15。
30 (イ)会衆内の責任ある立場にある人びとはみなどんな責任を負っていますか。(ロ)わたしたちを守る指導原理は何ですか。(ハ)わたしたちはなぜ権利よりも義務のほうにより多くの関心を払うべきですか。
30 真のクリスチャンはお互いに愛し合います。そして責任ある立場にいる人びとは,模範を示すことにせよ,助言を与えることにせよ,兄弟たちのために最善となることだけを行なう責任のもとにあります。そしてわたしたちすべての行ないは常に,自分は『あらゆる事柄において,わたしたちの救い主である神の教えを飾っているだろうか』という原則に支配されていなければなりません。もしわたしたちが,人間にではなくエホバに対するように魂をつくして働き,自分の義務を果たすなら,エホバは,長い命や平和に加えて,わたしたちが自分で確立するいかなる「権利」よりもはるかに大きな祝福をもって報いてくださるでしょう。―テトス 2:10。コロサイ 3:23,24。箴 3:1,2。
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自由な民 ― しかし従順を保つものみの塔 1973 | 6月15日
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自由な民 ― しかし従順を保つ
『なんじら自由なる者のごとくすとも,その自由をもて悪のおおいとなさず,神のしもべのごとくせよ。なんじらすべての人を敬い,兄弟を愛し,神を畏れ(よ)』― ペテロ前 2:16,17。
1 使徒パウロは,彼と彼の仲間の弟子たちが有していたどんな自由を示しましたか。
『キリストは自由を得させんために我らをとき放ちたまえり。されば堅く立ちて再び奴隷のくびきにつながるな』。神の子たちの自由について説明したのち使徒パウロはこのように書きました。この神の子たちは,神の自由の天的組織,「上なるエルサレム」,彼らの「母」の子でもあります。それでも,神との完全な関係の自由をもつこの「母」組織は,エホバ神の妻として表わされていました。したがって,彼女の自由は比較的な自由でした。彼女は天の偉大な夫のかしらの権に従属するものでした。そして,パウロおよびキリストの追随者である彼の仲間も,子として,比較的な自由を持っていました。彼らは,天の「父」と「母」に従属していたからです。彼らは子どもですから,『彼らの父の訓戒と母のおきて』に従う義務がありました。―ガラテヤ 5:1; 4:26。箴 1:8。
2 なぜ神の民は自由ですか。しかし彼らの自由は絶対的なものではありません。なぜですか。
2 神の民は『真理を知っており,真理が彼らを自由にした』ので,彼らは今日自由です。(ヨハネ 8:32)しかしながら,彼らがもつ自由は善のための自由であって悪のための自由ではありません。彼らは霊の実を心ゆくまで実践することができます。『そういうことを禁ずるおきてはない』からです。(ガラテヤ 5:23)完全な幸福に必要なのはこれらの実だけです。悪を行なうことは再び罪と死への束縛をもたらすにすぎません。良いこと,有益なことを行ないつづけるためには,彼らを自由にしたかたであるイエス・キリストに従順でなければなりません。
善をもたらす服従
3 神はクリスチャン会衆内に,従順が要求されるどんな服従の取り決めを設けられましたか。
3 また,神は地上にひとつの取り決めを設け,それにご自身の民を従わせておられます。これが会衆組織です。神はこの会衆組織の中に,ご自分の会衆の「群れ」を牧し導くある者たちをお立てになりました。つまり幾人かの男子が,会衆に託された仕事,すなわち王国の良いたよりを宣べ伝えるわざの遂行を助ける立場に置かれています。またこの人びとは,会衆の成員のひとりびとりの福祉に気をつけ,彼らが聖書の原則を自分の生活に当てはめるように助けます。クリスチャンはそういう人びとにも従順でなければならないのです。使徒は命じています。『汝らを導く者に順いこれに服せよ,彼らは己が事を神に陳ぶべき者なれば,汝らのたましいのために目を覚しおるなり。彼らを歎かせず,喜びてかくなさしめよ,しからずば汝らに益なかるべし』― ヘブル 13:17。
4 神は,ほかのどんな従順のおきてのもとにクリスチャンを置かれましたか。これらはクリスチャンの奉仕の妨げになりますか。
4 さらにクリスチャンは,『上にある権威』,すなわちこの世の政府の支配者たちに『服う』よう命ぜられています。クリスチャンは神の律法と衝突しない法律には従わねばなりません。(ロマ 13:1。使行 4:19; 5:29と比較してください)クリスチャンの奴隷はその主人に従うことになっていますが,今日この原則は,人に雇われている人に当てはまります。そういう人は『全き忠信』をあらわすべきです。(テトス 2:9,10)子どもたちは両親に従わねばなりません。(エペソ 6:1-3)これらの命令はすべて,クリスチャンが良いことを行ない,またクリスチャンとしての奉仕を遂行するのを妨げるものではありません。むしろ彼らはそれらの律法に従うことによって神をたたえ,王国の関心事を促進するのです。
5 どういう意味で,クリスチャンはすべての兄弟たちに服従する者ですか。
5 さて,使徒は,クリスチャンが服従しなければならないこうした種々の権威に加えて,もちろんこの服従はクリスチャンのためになり,より大きな自由と幸福をもたらすものですが,さらに,『兄弟の愛をもて互いに愛しみ』なさい,と勧めています。(ロマ 12:10)したがって,すべてのクリスチャンはある意味で,自分のすべての兄弟たちに服従していると言えます。というのは,クリスチャンは,自分自身のことよりも先に兄弟のためになることをしなければならないからです。―マルコ 10:44。ペテロ前 5:5。
従順は区別を示すしるし
6 今日,真のクリスチャンとこの世的な人との間の相違を明示するものは何ですか。
6 このことは,この世で一般に見られる態度を示す人びとと比較してクリスチャンをどんな立場に置きますか。クリスチャンの道は従順の道であり,他の人びとのそれは不従順の道です。これが両者の相違を示す要点です。ですから,服従の問題はなんという真剣な考慮を要する問題なのでしょう。
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