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  • どうすれば女性はほんとうに解放されますか
    ものみの塔 1974 | 10月1日
    • 解決策はどこにあるでしょうか。私は断念せずにさがしつづけました。

      意外なところに

      ひとりの友人が,その答えは聖書にあると言いました。私は極端に懐疑的でした。女性解放運動家にとって,聖書は一団の男たちによって書かれた,女性に対する男性の否定的な態度を反映する本でしかありませんでした。しかし,少なくとも調べることぐらいはしてみよう,と思いました。私は,女性解放運動の何なるかを誤り伝えた人がいかに多いか知っていましたので,調べもせずに聖書に断を下すのは不公平であることに気づきました。

      それまで私は聖書を読んだことがありませんでした。ある日聖書を取り上げ,開いたところが偶然イザヤ書の54章で,私はそこを読み始めました。『なんじを造り給える者はなんじの夫なり その名は万軍のエホバ……エホバ汝をまねきたまう すてられて心うれうる妻また若きとき嫁ぎてさられたる妻をまねくがごとしと』。どうしてこのエホバという神はそのような女の感情がわかるのだろう,と私は思いました。比ゆ的表現の美妙さに引かれて私は,この神はどんな神なのかもっと調べてみたいという気持ちになりました。

      私を聖書に導いてくれた人はエホバの証人ではありませんでした。しかし,聖書を正しく教えているのはエホバの証人だけだとその人は言いました。そこで1971年5月,私は近くのエホバの証人の王国会館に連絡し,エホバの証人に聖書の勉強に来てもらう手はずをきめました。こうして聖書から答えを与えられ,その正しさがしだいにわかってきました。

      聖書が,愛と,仲間の人間の価値を考慮すべきこととを強調しているのに,私は強く心を引かれました。たとえば,次にあげる聖句は,私に深い感銘を与えた数多い聖句の一例にすぎません。

      「互いに親切にし,優しい同情心を示し,神がキリストによって惜しみなくゆるしてくださったように,あなたがたも互いに惜しみなくゆるし合いなさい」。「何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく,むしろ,他の者が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち」なさい。「互いを敬う点で率先しなさい」。―エフェソス 4:32。フィリピ 2:3。ローマ 12:10。

      この助言は女性だけに当てはまる,とはどこにも言われていません。これは人びとが,つまり男性も女性も,このように考え,このようにお互いを扱わねばならない,ということです。私はそれに全面的に賛成でした。

      男というものは,マルハナバチのように花から花へ飛び回らずには「いられない」ものだ ― 不品行は男にとっては自然なことのようだ,という世間の見方に私は嫌悪を感じていました。しかし今や私は,聖書が,そうではない,そういうことをしてはいけない,結婚は清く保つべきものである,と言っているのを発見しました。さらに,ローマ人への手紙の1章は,同性愛行為を「卑わいな事がら」と呼んでいます。私はほんとうに心が軽くなりました。

      夫と妻

      多くの女性はきっとこう尋ねるでしょう。「でも,『妻は主に対するように自分の夫に服しなさい。夫は妻の頭だからです』という聖句はどうなんですか」。(エフェソス 5:22,23)私も最初この聖句を読んだときにいやな感じがしました。頭としての夫を持つことは,妻にとっては隷属以外の何ものでもないではないか,と思いました。しかし,私がいっしょに勉強をしていた人は,事の全体を見るように,この世の男性たちの間で見たような事がらを基準にしてこの聖句に述べられている原則を判断しないように,と言いました。

      私は次のことを教えられました。つまりクリスチャンの夫たちにも従うべき頭があり,イエスが地上の追随者たちを扱ったように自分の妻を扱いなさい,という命令のもとにあるということです。(コリント第一 11:3)エフェソス 5章はこのことについて次のように述べています。「夫よ,妻を愛しつづけなさい。キリストが会衆を愛し,そのためにご自分を渡されたのと同じようにです」。私はひとり考えました。もし夫たちがこれを実行したなら,妻のためには死をもいとわないというほどに妻を愛したなら,女性解放運動など起こらなかっただろうと。

      また私は,聖書が夫たちに,自分の妻に誉れを配するよう命じているところを見せられました。(ペテロ第一 3:7)それでこの頭の権にかんする考えも,少しずつ納得がいくようになりました。

      しかしそれでも私は,もし結婚の発案者である神が夫たちにこうあるべきことを望まれたとするなら,すべてがここまで混乱したのはどういうことなのだろう,と考えました。このことについては私は,人がエデンの園で罪を犯したとき,病気や死を含め,たくさんの問題を自らの上にもたらしたということを学びました。しかし,聖書でそのことを読んだときに,エバが受けた罰には全く驚きました。『汝は夫をしたい彼は汝を治めん』― 創世 3:16。

      なんといやなことでしょう。聖書を受け入れるためには,支配されることを女性の運命とあきらめて受け入れなければならないという意味でしょうか。そうではありませんでした。神がまもなく,男と女をもとの完全な状態に回復させる仕事に取りかかられることが,聖書を深く勉強するにつれてわかってきました。罪と病気と死も永久に取り除かれます。(啓示 21:3,4)ではこれは,罪深い男性による支配も終わるという意味でしょうか。

      そうです。愛をもって行使される頭の権にかんする原則は残りますが,男性による利己的な支配は終わるということを,私は喜びのうちに学びました。このような状況の下で,キリストのように愛のある夫を頭として持つことはどんなに喜ばしいことでしょう。

      そればかりでなく,神が地を楽園にされるときまで待たなくてもよい,ということも学びました。クリスチャンの男子は,つまり真のクリスチャンは,今から神の義の規準に則して生活するよう努めているというのです。彼らは実際にそうしていたでしょうか。

      口で言うだけ?

      私は,エホバの証人の集会に定期的に出席して彼らと交わるように,そして自分の目で彼らを見るように勧められました。私は驚いてしまいました。彼らは聖書が教えることをほんとうに行なっているのです。そのときから私は理由がしだいにわかってきました。

      エホバの証人はひとり残らず,聖書は真理である ― 宇宙の創造者が実際に人間に霊感を与えて書かせたものである,と信じているのです。ですから証人たちは,神のことばに従って生きるよう,心から最善の努力をしています。その結果,彼らは実際に他の人びとを思いやりをもって親切に扱い,夫たちは妻を愛し,妻を尊ぶよう実際に努力しています。

      また彼らが,神の政府は地を支配する,とほんとうに信じて,『天におられるわたしたちの父よ,あなたの王国がきますように』と神に祈るのを私は見ました。『この王たちの日に天の神一つの国を建てたまわん これはいつまでも滅ぶることなからん この国は……もろもろの国を打ち破りてこれを滅せん これは立て永遠にいたらん』という聖書のことばをほんとうに信じているのです。―ダニエル 2:44。

      戦う価値のある解放

      神によるこの体制の滅びが近いこと,また救いに価する人びとが守られて義の新秩序に入れられるのも近いということを,エホバの証人たちが信じているのを私は知りました。よく考えてみたとき,それは私にも道理にかなったことに思えました。創造者は,この世界のいたるところにはなはだしい利己主義と不道徳が広まっているのをごらんになって,驚きあきれておられるにちがいありません。この状態を人間が自力で是正することは決してできないと私は信じていました。

      聖書の勉強を続けるにつれ,私は,神が成し遂げられることはわたしたち女性解放運動家が希望することよりもはるかにすぐれたものであることを,ますます確信するようになりました。なぜなら,神の王国のもとでは,女性の問題が解決されるだけでなく,創造者は,病気や死をも含めあらゆる種類の抑圧から全人類を解放してくださるからです。聖書の中で創造者が約束しておられるのはこのことです。そして創造者がその約束を果たされることを信ずる理由は十分にあります。

      以上のようなわけで,私は今でも男女両性の解放のために戦っている者ですが,いまは違う方法で戦っています。毎週「討論会」や,法律上の女性の権利の向上のために戦うことに多くの時間を費やす代わりに,幸福な生活への真の希望は,神のことばのすぐれた原則を自分の生活にあてはめることにしかないことを人びとに示すことに,自分の時間を用いています。これだけが,神の義の王国の支配下の楽園となった「新しい地」における真の解放に通ずる道です。(ペテロ第二 3:13)― 寄稿。

  • 像を使うことが人に与える影響
    ものみの塔 1974 | 10月1日
    • 像を使うことが人に与える影響

      人間は宗教的な特質を備えた被造物です。人類史のどの時代においても,人類の大多数はなんらかの宗教を実践してきました。

      人がそれぞれ自分の神に仕える方法は文字どおり幾千にも上ります。そして幾億もの人が,崇敬の助けとして像を使用しており,その中には,仏教徒,ヒンズー教徒,いわゆる“未開”人のほか,キリスト教世界の多くの人もいます。

      崇拝のさいに像を使用することを,神はどうご覧になるでしょうか。崇拝の対象として用いる像を作ることは,神の律法の中で禁じられていました。―出エジプト 20:4,5。コリント第一 10:14。

      “相対的”な崇拝も偶像礼拝

      多くの人は,崇拝のさいに像を使用することそのものは偶像礼拝ではないと唱えます。例えば,カトリック教徒の中には,像の前で頭を下げたり,ひざまずいたり,祈ったりしていても,実際にはその像を崇拝しているのではない,と言う人がいます。これは像が表わす者に対する“相対的”な崇拝にすぎないというのです。

      しかし,幾世紀も昔の非キリスト教徒がこれと同じ主張をしていたことをご存じですか。(四世紀の)“教父”ラクタンティウスによると,当時の異教徒は,「われわれは像そのものを恐れるのではなく,その像の型となり,その像のささげられた者を恐れるのである」と論じていました。ヒンズー教徒や仏教徒の多くも,像を用いたその崇拝を正当化するために今日同様の言い方をしています。

      神は,ご自身に対する崇拝のしかたとして,像を用いて相対的な崇拝をささげることを是認しておられますか。もしそうであれば,預言者の一人にご自分の姿を見ることを許して,その形状を聖書の中に書き記させたのではないでしょうか。しかし聖書には,「だれも神をみたものはない」と書かれています。(ヨハネ第一 4:12,バルバロ訳)イスラエル人がエホバに“相対的”な崇拝をささげる

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