-
その19 第二次世界大戦中 中立を保つアメリカのクリスチヤンたちものみの塔 1956 | 4月1日
-
-
州に対して反動的行動を計つたり,起こしてはいないし,政府やその他の機関に対し,明日に認めうる危害を加えたことはない。これら上訴者の伝えていたものは,国内問題や,アメリカ及び世界情勢の成行についての彼らの信念や意見に過ぎない。我らの判決によれば,刑法上の制裁をこのような種類の弘布のうえに課することはできない。』(テーラー対ミシシッピイ州,319号)
ここに,又もや凱歌があがりました。全員一致の判決により,宗教の反対者が想像を働かせて証者に反動分子という烙印をおすことも,又,法律の力に借りて証者を罰することもできなくなりました。この有利な判決は,戦争の真只中にあつて,崇拝と言論の自由を守る防護の砦を築くのに,偉大な貢献をなしています。
行商人を対象としていた鑑札 ― 税の法令が宗教の奉仕者にも(ヱホバの証者が文書を配布するとき)適用されるという判決に抗議して下級法廷で数多くの戦が行われました。その事件は最高裁判所に上訴されましたが,1942年6月8日,ジオーネス対オペリカア市(アラバム州)の事件で,協会に不利な判決が下されました。この判決は,証者の家から家の業に致命的な打撃を与えようとしていたものです。それは,全く崇拝,言論,印刷の自由に対する,あからさまの抑圧であり,国家憲法の保証を全く無視したものでした。この判決に屈せず,証者は伝道の業を継続し,鑑札法令の適用をこばみました。やがて,僅かに異つた角度から取上げた問題がふたたび合衆国最高裁判所に持ち出されました。これはマードック対ペンシルバニヤの事件であつて,1943年5月3日,最高裁判所は,ヱホバの証者に有利な,画期的判決を下しました。どうぞ,次の法廷の判決文のうちにうかがわれる,伝統的な法的原則に注意して下さい。
『宗教パンフレットを手渡して配布することは, ― 印刷機械の歴史と同じほどに ― 長年に亘つて使われてきた宣教方法である ― それは,たんなる伝道以上の意義をもつ。それは宗教文書の配布以上のものである。それは両者の結合である。この伝道の目的は復生集会と同じように宣教布教ということである。憲法の第一附則によれば,教会内の崇拝とか演壇からの伝道と同じように,この種類の宗教活動に高い評価を与えるべきである。それは,他の宗教の伝統的な行事と同じように,保護についての権利を要求しうる。人々が言論及び印刷の自由の保証を要求しうるように,証者も同様に要求しうる。―宗教文書が巡回の伝道者によつて,寄附されないで,売られたからという単なる事実でもつて,それらの人々を伝道者の部類から行商人の部類に移すことはできない。若しそう判定するなら,教会内で寄附盆を廻すことも,その教会の行事を商業的意図のものと見なさねばならない。―国家の憲法により許された権利の享受につき,州が口を出すことはできぬ ― これらの自由の行使につき鑑札 ― 税を課するのは,検閲と同じ統制を加えることになり,それについては,この法廷がくりかえして反対してきたことである ― ジオンズ対オペリカの有罪判定は今日撤回される。最高裁判所は,前の制約を加える判決を破つて,巡回する伝道者の自由を回復させる。文書の配布により,宗教的信念とか信仰の信条を弘める巡回の伝道者を,ふたたび,憲法で保証された高い地位にもどすべきである。』
(マードック対ペンシルバニヤ州,319頁)
これらの言葉は,何んと素晴しく,宝石のように燦然として輝いていることでしよう。崇拝の自由への侵攻に対し,砦を更にかたくして,再び,意味深い勝利をかち得ました。証者は,いまや,家から家への宣教をする明確な法的保護をうけました。彼らの使徒に従う伝道方法は,国の法律にも認められました。(つづく)
-
-
沖繩に於ける伝道ものみの塔 1956 | 4月1日
-
-
沖繩に於ける伝道
(1956年ヱホバの証者の年鑑からの報告)
人口 790,000
伝道者の最高数 1950年: 6名,1955年: 21名
第二次世界大戦以前では,沖繩の人々は,家に鍵もかけず,また刑務所の中に入れられるというような事もなかつたのです。犯罪はひとつもなかつたからです。警察は,ただ記録だけをつけていました。大戦の結果,いくらかの変化が生じましたが,それでも人々の心は,昔とさして変つていません。人々は,御国の音信をよろこんで受けいれています。
昨年中,正規開拓者は二人になりました。沖繩のこの二人の姉妹の司会していた多くの研究は,今では伝道者になり,業をぐんと増加させました。開拓者の言うところによると,沖繩には興味を持つ方が多いので,奉仕を止めることができない,とのことです。奉仕年度中両人の毎月の平均奉仕時間は,148時間以上でした。沖繩人,フィリッピン人,そしてアメリカ人で成り立つている会衆の伝道者も,良い業を成しとげ,1年間の平均で,各伝道者あたり毎月35冊の雑誌を配布しました。フィリッピン人もアメリカ人も日本語が話せません。しかし短くて簡単な証言を学んでおり,なんとかしても日本語で伝道しようとする熱意は,人々に善い印象を与えています。
沖繩で初めて開かれた巡回大会も特筆大書すべきでしよう。この週末の大会の時に,新しく興味を持つた人は出席しました。そして,大会の交りや,話や,また『新しい世の社会』の映画から多くの益を受けたため,制度に対する認識も深まり,今では会衆の集会に定期的に出席しています。
-