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人々は生きるように造られた目ざめよ! 1977 | 11月22日
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の命」を,この地上で享受することになるでしょう。
興味深いことに,デトロイト・フリー・プレス紙は,「いつの日か人間の命は無限に延びるであろう,とボルチモアの一医師は言う。この永遠に生きるという見込みにあなたは魅力を感じるか」と問いかけました。これに対する答えですが,同紙によると32.6%が魅力を感ずると言いました。感じないと言った67.4%からは次のような感想が寄せられました。「200歳に見える自分のことを考えるなんておもしろくもない」。「30年間三人の子供と妻を養ってきたんだから,妻子が私にユートピアを提供すべきだ」。
神の是認を得る人々の大多数に「提供」されるのは,地上の楽園で完全な人間として生きる永遠の生命です。(ルカ 23:43)若々しい活力が老齢に取って代わるだけでなく,神が人類と共におられます。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない」― 啓示 21:3,4。
過去の人々が伝説の青春の泉を見つけ出そうと努力して結局はひどく失望したことを考え,地と人間に対する神の目的についての知識を得るのは,時間を費やし努力を払うだけの価値があるのではないかと自問してみてください。その価値は確かにあります。人々は生きるように造られています。あなたも永遠の命を享受する人のひとりになることができるのです。
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信教の自由は勝利を得る目ざめよ! 1977 | 11月22日
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信教の自由は勝利を得る
ブラジルの「目ざめよ!」通信員
神を崇拝する仲間と共に集まっているとき,その崇拝の場所を閉鎖するようにとの命令を持って突然警察が入り込んで来たら,あなたはどう思われますか。1976年6月13日,日曜日,まさにそのような出来事が,ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ州カショエイラス・デ・マカクとジャプイバのエホバの証人に臨みました。
なぜそうしたことが起きたのですか。負傷した,あるエホバの証人が,自分の体に輸血されるのを拒んだためでした。
何が起きたか
6月11日の金曜日,17歳になるセザル・デ・ソウザ・コヘイヤは誤って猟銃で自分を撃ってしまいました。彼の両親はカショエイラス・デ・マカクの病院へ息子を連れて行き,午前八時ころそこへ着き,手当を受けさせました。
治療に当たった看護婦と医師は,年若いセザルがひどい外出血とともに内出血も起こしているのを知りました。セザルの父親,オタビオ・ルイス・コヘイヤは,個人的な友人でもある一人の外科医を呼び,息子を救うためあらゆる手を尽くすよう頼みました。しかし良心上の理由から,その父親は息子の命を延ばすために輸血を用いることを拒否しました。それでも,オタビオはふさわしい医療が施されることには一切反対せず,手術室にも入りませんでした。しかし残念なことに,父親の反対を押し切って輸血が施されたにもかかわらず,セザルは手術中に死亡しました。
ご多分に漏れず,世論は沸き返り,無知だとか狂信的だとかいった非難の声が上がりました。1976年6月13日,セルソ・F・パンサ判事は恐らく世論に影響され,また人命が軽視されたと考えて,人命に対する自らの深い敬意に動かされ,判決(命令第5号/76)を下し,エホバの証人の二つの王国会館を閉鎖し,同市で彼らが神の王国に関して伝道することを禁じました。
まもなく公共の出版物の中で,法廷の措置は憲法違反であることが指摘されました。例えば,リオ・デ・ジャネイロ国立大学の刑法学教授ベンジャミン・デ・モラエス博士はオ・グローボ紙に対し,同判事は「憲法の見地からかけ離れてしまった」と,述べました。同教授は,良心の自由を保障するブラジル憲法第153条を引用した後,「この司法上の決定は必ず上級の裁判所において破棄されるであろう」と断言しました。
犯罪学者で刑法学の教授でもあるジョゼ・H・ドゥトラ博士はこう述べています。「自分の立場を越えることにより,[セルソ]・フェリシォ・パンサ判事は……他の二つの権力,すなわち立法権と行政権に取って代わったかのようであり,昔モンテスキューが定義した司法権の立場を否定している。……エホバの証人には絶対かつ当然の権利があるのだから,法廷は差止命令を出すべきである」。
他の弁護士たち,中でもテミストクレス・カバルカンチ博士は,上級の裁判所にその問題を提出すれば,エホバの証人にとって有利な判決が下されるであろう,と述べました。(オ・グローボ紙,1976年6月15日,21日付)そして実際にそのとおりになり,自由と公正を愛する人々すべてにとって喜びとなりました。
信教の自由は勝利を得る
エホバの証人は,「良いたよりを擁護して法的に確立する」ために自分たちの権利を用いました。(フィリピ 1:7)その土地の監督であるL・レーキーを通して,彼らは裁判所に差止命令(188号/76)を申請しました。四人の弁護士がそれに署名しました。
弁護士のアントーニョ・デ・バスコンセロス・ネトは,特に優れた要約をし,こう述べています。「[王国会館の閉鎖を命じた]その判決は,未成年者の益のために特定の事件を扱うという点で,同判事に与えられた権限を越えるものである。ある宗派の運営する会館すべてを閉鎖せよとの令状を警察に対して発する権威を同判事に与えるような法律は見当たらない。しかもそうした会館の運営は,管轄官庁から正式な認可を受けていたのである。……エホバの証人の集会所をすべて閉鎖せよとの令状は,信教の自由という憲法上の原則と裁判官の権限の範囲を犯すものである」。
また,信教の自由を明確に擁護している点で,公式文書第274号/76は注目に値します。司法省の司法課を代表してジョゼ・アントーニョ・マルケス博士によって出されたその文書は,次のように述べています。
「第一に,この公式文書を扱う保管局の著名な局長が書類の中で述べている通り,非合法化を図られているその教会は,世界中,またブラジル全国に存在している。
「第二に,教会を閉鎖しても,その宗派を消滅させ,エホバの証人が守る宗教上の規則に終止符を打つことにはならない点に注意すべきである。キリスト教はローマの地下埋葬場においてさえ実践され,その追随者は迫害されればされるほど勢いを得て世界中に広まっていった。
「憲法上の立場から見て,セルソ・フェリシォ・パンサ博士の出した公式文書第5号/76は支持できない。それは連邦憲法第153条5項に反するものだからである」。
1976年10月26日午後,決定的な判決が下されました。リオ・デ・ジャネイロのパレス・オブ・ジャスティスと呼ばれる裁判所の第一民事法廷の廷内には重苦しい空気が流れ,人々は深刻な表情で考え込んでいました。午後四時ころ,裁判は始まりました。二人の弁護士H・S・シルバとO・ド・N・パウラを含む,エホバの証人の代表数名が出廷していました。
裁判長がエホバの証人側の弁護士は出席しているかと尋ねると,O・ド・N・パウラが発言をする許しを求め,弁護団の要約に基づいて口頭で簡単な弁論を行ないました。尊敬すべき第一民事法廷の裁判官たちは全員一致でその控訴に有利な判決を下し,パンサ博士の下した判決の無効を言い渡しました。同時に,王国会館の再開と,カショエイラス・デ・マカクの地域において王国の音信を伝道することを許可しました。信教の自由は再び勝利を収めたのです。―1976年11月11日付,リオ・デ・ジャネイロのジアリョ・オフィシャル紙第三部をご覧ください。
関連する重要な問題点
そうした出来事を吟味したいと願う誠実な人々のために,この裁判に関連した重要な問題点をここに幾つか挙げておくことにします。
質問。エホバの証人は,命に関してどのような見解を持っていますか。
答え。「命の源であるエホバは,人間の命が貴くて神聖なものであると宣言しておられます。(創世 9:5。詩 36:9)……命を愛するわたしたちは,日ごとの命を神聖なものとみなし,日常の物事や交わりにおいて,人類に命を与えてくださった方の是認を得るような仕方で振る舞うよう努めます」。―「ものみの塔」誌,1975年10月15日号,639,640ページ。
エホバの証人にとって,死は決して有り難いものではありません。それは「敵」であり,まもなく神によって取り除かれます。―コリント第一 15:26,54。啓示 21:4。
質問。それは自分自身の命ではなく,他の人間の命に関する問題だったわけですが,エホバの証人であるオタビオはどのような考えから,息子に輸血を施すことを拒んだのですか。
答え。エホバの証人はだれでも自分の子供を深く愛しています。この場合,オタビオとその妻は,八人の子供と一人の養女の面倒をいつもよく見ていました。それでオタビオは決定を下す際に次の二点を考慮に入れました。(1)聖書とこの国の法律に明示されている,神の前における父親としての責任,(2)個人としての息子の願い。
国際少年裁判所判事協会の名誉会長ジーン・シャザル博士はこう述べています。「子供は人格を持つ人間であるから,常に物としてではなく個人として扱われねばならない」。(「子供の権利」,A・カバリエリ著「少年の権利」20ページより引用)未成年者がエホバの証人であるこの場合にも,この言葉は確かに当てはまります。未成年者の人格をそのように尊重する裁判官は,未成年者の意志や良心に逆らって輸血を強制するようなことは決してしないでしょう。
質問。オタビオ・コヘイヤはなぜ輸血を拒否したのですか。
答え。基本的には,食物として,あるいは命を延ばすために血を用いることを聖書が禁じているからです。デルダ・ラロウゼ大百科辞典(ポルトガル語)は次のように述べています。「血液は循環系を流れる生きた組織で,その主要な機能は,1)体の組織全体に必要な栄養分と酸素を運び,2)細胞の活動にとって無益で危険な老廃物を集め,排出器官(じん臓,肺,皮膚等)に運ぶことにある」。(6079ページ)それで,血液は体に栄養を与え,体を浄化します。
血液に関してだれよりも知っておられるエホバ神は,血を食べることを禁じました。神の言葉聖書は,「ただ,肉は,そのいのちである血のままに食べてはならない」と述べています。―創世 9:4,バルバロ訳。
イエス・キリストの使徒たちと初期クリスチャンの長老たちは,神からのこの命令に従いました。神の聖霊の導きの下に,クリスチャンは,「偶像に献げた肉と,淫行と,しめ殺したものと,血とをさけよ」と命令されました。―使徒 15:20; 21:25,バルバロ訳。
質問。輸血を拒むことによって,オタビオ・コヘイヤは,患者のために最善の治療を選択するという,その外科医の職業上の自由を制限したのではありませんか。
答え。医学倫理規定はその第48条で,患者のために治療法を選択するのは医師の特権であるとしています。しかしまた第31条は,医師には治療の目的および診断と予後に関して患者に知らせる義務があることを指摘しています。そのような情報を与えるのは,患者の同意を得るためであることは明らかです。結局のところ,治療費を払うのはだれですか。実際にだれが患者とその福祉に関して決定を下しますか。
医学倫理規定の第32条F項には次のように述べられており,その内容は限定的なものです。「医師は,自分自身及び自分の福祉に関して決定する患者の権利を縮小するような仕方で権威を行使してはならない」。この倫理上の原則は,民法と刑法の諸規定によって確証されており,医師には患者に対してなされたいかなる傷害についても責任を取る義務があることを,その原則は示しています。
医師が,恐らく専門医である同僚から治療を受ける場合について考えてみてください。その医師は,『患者としての権利』を用い,勧められた治療を受けるか拒むかを決定しないでしょうか。
エホバの証人が医師にその倫理規定を尊ぶよう求めるとき,医師の職業上の自由を拘束している訳ではありません。またエホバの証人は,容態の深刻さを誇張することも,輸血は絶対に間違いのない医療だと述べることもありません。実際,輸血は絶対確実なものではないのです。―第32条D項及び第5条E項をご覧ください。
質問。オタビオ・コヘイヤが息子に輸血を施すのを拒んだのは,非科学的で,無知な行為ではありませんでしたか。
答え。カナダ医学協会の元書記アーサー・D・ケリー博士はこう述べました。「ある人が輸血を受けなければ死に,輸血を受ければ生きる,と断言できる医師は一人もいない。……輸血,あるいはどんな治療法であれ,それを強制するようなやり方を私は遺感に思う。そうする者は自らを神の立場に置いている」。―「宗教と医学と法律」。
情報に通じた医師で,立派な医学書に輸血に関する重苦しい警告が記されていることを否定する人はいません。ある病院では,輸血の危険に関する討論さえ行なわれています。―エルネスト・ドルネリス病院の機関誌「HED」,1972年3月号,87-108ページ,及び医学雑誌「アイアンスプ」,1975年10-12月号,28ページをご覧ください。
次のような言葉は非科学的ですか。
ブラジルの保健相アルメイダ・マシャド博士はこう述べています。「輸血を受ける際,患者には最低限の安全が保証されねばならない……マラリア,肝炎,梅毒,シャガス病に感染する危険があってはならない」。(ベジャ誌,1976年3月31日号,54ページ)マシャド博士は,下院の国会消費者調査委員会の前で証言した際,汚れた血は「禁止されている薬品すべてを合わせたものより有害である」と述べました。―オ・エスタード・ド・サンパウロ紙,1976年11月26日付。
1976年のノーベル医学賞受賞者バルーフ・ブルンベルグ博士はこう語りました。「特にブラジルでは血液の販売を禁止すべきである。肝炎のみならず,シャガス病,マラリアなど他の多くの病気が輸血を通して感染することがあるからである」。―ジョルナル・ド・ブラジル誌,1976年9月20日号,4ページ。
質問。医学的に言って,エホバの証人は輸血に代わる他のどんな有効な手段を用いるよう勧めますか。
答え。エホバの証人は,いわゆる代用血漿を発見した科学者や,特に増血剤としてそれを快く使用する医師に感謝しています。オタビオ・コヘイヤは,食塩水,乳酸リンゲル液,ヘマセル,デキストラン,PVPなどの血漿増量剤を使用できることを外科医に話しました。
狂信的ではなく確固としている
この簡単な考察は,次の点を強調しています。エホバの証人は狂信的ではなく,血の使用に関する彼らの信念は,決して間違うことのない神の言葉にしっかりと根ざすものなのです。自分の命が危険にさらされても,エホバの証人はみ言葉によって訓練されたクリスチャン良心に従うことを絶対に重要視します。さらに,医師や科学者の努力が,「血を避けるよう」にというクリスチャンに対する聖書の要求に反するものでない限り,エホバの証人はそうした努力に感謝します。―使徒 15:20,29。
それでもエホバの証人は,全能の神とそのみ言葉に従うよう固く決意しています。それで,今後も引き続き血を避けるでしょう。また,信教の自由を守るため,たゆまず努力してゆくでしょう。そのため,真のクリスチャンであるエホバの証人は,『敬神の専念を全うし,まじめさを保ちつつ,平穏で静かな生活をしてゆくため,王たちや高い地位にあるすべての人びとについて』祈るようにという,聖書の助言に従ってゆきます。―テモテ第一 2:1-5。
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“海での常識”― ボートに乗るときの知恵目ざめよ! 1977 | 11月22日
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“海での常識”― ボートに乗るときの知恵
ニュージーランドの「目ざめよ!」通信員
“ボート沈没後乗り手行方不明”“クック海峡で行方不明”“警備艇,ヨットを救助”“良い子六人が死亡,悲しみの涙に暮れる町”“救命胴衣なしで水中に11時間。男の人救助される”“祭日の水死者14名”
これらの見出しは,1975年12月中旬から翌1976年1月中旬にかけて,ニュージーランドのオークランド市の新聞に掲載されたものです。これらはいずれも,ニュージーランド北島付近の海や水路でレクリエーションを楽しんでいた人々の身に起きた悲劇です。
遊びのためにせよ,利益を得るためにせよ,人が人知によって,あるいはその知識さえ持たずに,海と対決するところでは世界中どこでも,こうした悲しい報道が繰り返されることでしょう。
近年,ボート遊びの人気が頂点に達し,多数の初心者がボートに関心を抱くようになりました。しかし,当局者の最も厳しい検査に合格し,資格ある職業船員の乗り組んだ船でさえ,あらしその他で海難事故に遭い,死者を出すことが少なくない,という事実を十分銘記しておくべきです。
港,河川および湖に隣接する都市
人口の集中する大都市の大半は,港や河川,湖の近くにあります。人口80万人に近いオークランド市もそのような都市の一つです。同市は,二つの大きな港にはさまれた地峡に位置しています。西側の港はタスマン海に面しており,東側の港は
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