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    ものみの塔 1985 | 5月15日
    • 全宇宙で最も優れた友情を深める

      「しかし,イスラエルよ,あなたはわたしの僕であり,ヤコブよ,わたしが選んだあなたは,わたしの友アブラハムの胤である」― イザヤ 41:8。

      1 真の友情を決して絶えないものにするのは何ですか。

      真の友にはまさに掛け替えのない価値があります。しかし,真実の友を持つ基盤となるのは何でしょうか。いつまでも続く友情の根底にあるのは何ですか。それは決して絶えることのないものです。だからこそ真の友が期待に背くことは決してないのです。では,その根底にあるものは何でしょうか。それは使徒パウロが,「愛は決して絶えません」と言ったときに挙げた特質です。―コリント第一 13:8。

      2 「友」に相当するギリシャ語は,どんな特別な意味を持つ動詞から派生していますか。

      2 ヘブライ語聖書の中で「愛」と訳されている名詞は,「愛する」という意味の動詞から出ています。(申命記 6:4,5。マタイ 22:37と比較してください。)そして,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳では,「あなたは……愛さねばならない」という表現をヘブライ語本文からアガパンという動詞に訳出しています。ところが,その古代の訳およびクリスチャン・ギリシャ語聖書の中で「友」と訳されている名詞は,その動詞に基づくものではなく,「……に対して愛情を持つ」という意味の動詞から派生した,ギリシャ語の名詞フィロスです。ですから,原語のギリシャ語によると,友に対しては,あるいは友の間では,愛のこもった愛情が表わされます。英語でも,「友」に相当する語“friend”は,「愛する」を意味するアングロ・サクソン語の動詞から出ています。

      3 人類の世に対する神の愛と比べて,イエスの弟子たちはどんな種類の愛でイエスに結び付けられていましたか。

      3 したがって,「友」という語の語根になっているギリシャ語の動詞は,ヨハネ 3章16節のギリシャ語本文にあるアガパンという動詞の表わす愛よりも温かくて親密な感情を表わしています。その節には,イエスの言葉として次のように述べられています。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされた(の)です」。ですからエホバ神の側の愛(ギリシャ語,アガペー)は,人類が罪深い状態にあるにもかかわらず,人類の世全体を包み込むほど広いものです。しかし,神の独り子はその11人の忠実な使徒たちに対して,彼らがより温かく,より親密な種類の愛でご自分に結び付けられている,ということをお告げになりました。

      掛け替えのない友情

      4 何をすることによってイエスの弟子たちはその「友」としてとどまれますか。また,この身分により弟子たちはどんな親密さに入ることを許されますか。

      4 イエスはそれらの使徒たちに,わたしの命令した事柄を行ないつづけるなら,わたしの「友」としてとどまるであろうと語られました。また,相互の信頼の結果育まれ,特権として与えられる親密さもそれに含まれることを示し,こう言われました。「わたしはもはやあなた方を奴隷とは呼びません。奴隷は自分の主人の行なうことを知らないからです。しかしわたしはあなた方を友と呼びました。自分の父から聞いた事柄をみなあなた方に知らせたからです」。(ヨハネ 15:14,15)こう言われたイエスは,フィロスという語を使徒たちの一人一人に当てはめておられたのです。

      5 箴言 18章24節で言われている友情は何をよりどころとしていますか。そのような関係はどれほど信頼の置けるものですか。

      5 箴言 18章24節によると,霊感を受けた賢人は,「互いに打ち砕こうとする友もいれば,兄弟より固く付く友人もいる」と言明しました。そのような友情は肉的な関係に基づくのではなく,友となった人の真の価値に対する認識をよりどころとしています。確かに,肉親はさまざまな利己的理由から互いに疎遠になるかもしれませんが,信頼の置ける友は,試みとなる事態や困難な事態,あるいは心を探るような状況などが生じようとも,揺るがされることなく,友情を固く守ります。

      6 わたしたちはだれの厚い友情を思い起こさせられますか。ダビデは後日どのようにしてその友情に報いましたか。

      6 ここでわたしたちは,退けられた王サウルの息子のヨナタンと,イスラエルの王となるようエホバ神に選ばれ油そそがれたダビデのことを考えるかもしれません。二人の友情はヨナタンが戦場で死ぬまで続きました。悲報に接したダビデは悲しみに打ちひしがれ,サムエル第二 1章17節から27節に収められている哀悼の歌を作りました。ヨナタンとの関係がどんなに情の厚いものであったかを示し,ダビデはこう述べました。「わたしの兄弟ヨナタン,わたしはあなたのために苦しんでいる。あなたはわたしにとって非常に快い人だった。あなたの愛はわたしにとって女の愛よりもすばらしかった」。そのような友情が忘れられたり,報われずに終わったりしてよいはずがありません。ダビデ王がヨナタンの生き残った息子メピボセテに対して憐れみを示したのはそのためでした。―サムエル第二 9:1-10。

      7 (イ)特にこの「事物の体制の終結」の時にあって,ダビデとヨナタンの間にあったような友情は消え去ってしまいましたか。(ロ)イエスがご自分の忠実な使徒たちに説明されたように,そのような友情により人は親密さの表われとしてどんなことを許されますか。

      7 この種の掛け替えのない友情は地球上から消え去ってしまったわけではありません。『大半の者の愛が冷えてしまった』この「事物の体制の終結」の時である今日においても,イエスの予告された世界的な王国の証言を行なっている,献身してバプテスマを受けた,エホバ神の証人たちの間には,そのような愛ある友情の醸し出す温かさが強く感じられます。(マタイ 24:3-14)友は互いに信頼し合うので,それぞれ心の中にあることを打ち明けるものです。ご自分に固く付き従った11人の使徒たちと夜遅く話し合っておられた時に,イエスが,「わたしはあなた方を友と呼びました。自分の父から聞いた事柄をみなあなた方に知らせたからです」と言われたことを思い出してください。(ヨハネ 15:14,15)成就することになっている,あるいは適用されることになっている,神の言葉の霊的な事柄は,主人イエス・キリストの,霊によって生み出された真の「友」にまず明らかにされます。次いで,それらの「友」は,それまで秘密とされていたその事柄を,そうした秘密の事柄の源であられるエホバ神と交友関係を持ちたいと願う人々に明らかにする特権と責任を担うことになります。

      8 エホバはだれにご自分の親密さを付与されますか。そのような親密さの関係した契約にイエスはどのように言及しましたか。

      8 エホバは,仲介者イエス・キリストを通してご自分との新しい契約に入れられた,霊によって生み出されたご自分の崇拝者たちを,そのような仕方で扱ってこられました。主の晩さんを制定した際,イエスはこう言われました。「この杯は,わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなた方のために注ぎ出されることになっています」。(ルカ 22:20)これは,「エホバとの親密さは神を恐れる者たちのもの。また,その契約もである。彼らにそれを知らせるために」という詩編 25編14節と調和していました。エホバ神およびその仲介者イエス・キリストとの交友関係に入って来る人々には,何というたぐいまれな知識が授けられるのでしょう。

      エホバが友とする人々

      9 エホバが被造物にすぎない人間をご自分の交友関係に入れてくださるとわたしたちが考えるのはせん越なことですか。その答えを裏付けるどんな聖句を挙げることができますか。

      9 しかし,至高者なる全能の神を本当に個人的な友とすることができるのでしょうか。神はわたしたちの友となるほどに,本当に身を低くされたのでしょうか。そのように考えるのはせん越なことではありません。ヤコブは西暦70年のエルサレムの滅びに先立ち霊的イスラエル人にあてた手紙の中でこう書いています。「『アブラハムはエホバに信仰を置き,彼に対してそれは義とみなされた』と述べる聖句が成就され,彼は『エホバの友』と呼ばれるようになりました」。(ヤコブ 1:1; 2:23。創世記 15:6。ガラテア 6:16)ここでヤコブの言及したヘブライ語聖書の一つの「聖句」の中を読むと,エルサレム市の安全が大規模な侵略により脅かされていた時,エホシャファト王が神に向かって述べた次のような訴えが見られます。「私たちの神よ,あなたがこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い立て,これを定めのない時までも,あなたを愛する者[「汝の友」,ジェームズ王欽定訳]アブラハムの胤に賜わったのではありませんか」。(歴代第二 20:7)ここで,「友」(欽定訳)と訳されている基本となるヘブライ語には「愛する者」という意味があることに注目できます。アブラハムが,自分をカルデア人のウルから召し出し,約束の地へ導き入れた神,エホバを愛する者であったことに議論の余地はありません。アブラハムはそのようにエホバを愛する者でしたから,エホバが友とすることのできる,つまりご自分との交友関係に入れることのできる人でした。

      10 イザヤ 41章8節で,だれが友情の問題について自ら語っていますか。エホバに対するどんな態度のゆえにアブラハムは特別な評価を神から受けましたか。

      10 一方,イザヤ 41章8節ではエホバご自身が語っておられ,一国民としてのアブラハムの子孫に次のような激励の言葉を述べておられます。「しかし,イスラエルよ,あなたはわたしの僕であり,ヤコブよ,わたしが選んだあなたは,わたしの友アブラハムの胤である」。至高の神はアブラハムとのこの交友関係を尊ばれ,アブラハム自身を含む全人類の救い主であるイエス・キリストの輝かしい先祖となるようアブラハムを選任されました。アブラハムのこの子孫はエホバ神の友以上の存在でした。その方は神の愛するみ子だからです。―ヨハネ 3:16。

      11 エホバとの交友関係が必ず試みられるのはなぜですか。

      11 以上のことから,どんな結論を引き出せるでしょうか。ここエホバの「足台」にいる被造物たる人間が,エホバの友となることは可能だという結論です。(イザヤ 66:1)言うまでもなく,この古い世にあって,エホバとのその掛け替えのない交友関係は試みられることになります。「この事物の体制の神」であるサタン悪魔がその関係を打ち壊そうとするからです。―コリント第二 4:4。

      12 ウツの地のヨブのように,わたしたちは至高者との間の自分の友情について,どんなことをする決意をしていなければなりませんか。

      12 ヨブという名の古代の傑出した人物の場合を考えてみましょう。クリスチャンの弟子ヤコブはそのヨブについてこう述べました。「ご覧なさい,忍耐した人たちは幸福である,とわたしたちは言います。あなた方はヨブの忍耐について聞き,エホバがお与えになった結末を見ました。エホバは優しい愛情に富まれ,憐れみ深い方なのです」。(ヤコブ 5:11)ヨブは架空の人物などではなく,ウツの地に実在した人物です。悪魔は神との間のヨブの友情がどんなことにも耐えて存続する質のものかどうかに疑問を投げ掛け,それに対してエホバはサタンがヨブを厳しい試みに遭わせるのをお許しになりました。サタンはヨブに災いを臨ませて悲痛な思いをさせ,ヨブにエホバを捨てさせようとしました。しかしヨブは神を捨てることによって悪魔を支持しようとはしませんでした。もしそのようなことをしていたら,宇宙主権の論争においてヨブはサタンの側で死ぬ結果になっていたでしょう。それとは反対に,ヨブは悪魔サタンが見下げ果てた偽り者であることを証明しました。イエス・キリストも地上で同じことを証明しました。では,今日のわたしたちはどうでしょうか。エホバの友情を高く評価する人々は,宇宙的な関心事であるこの論争で神の側を擁護することを決意しています。そして,サタンとその悪霊たちが最終的に底知れぬ深みに閉じ込められ,イエス・キリストの千年統治の前に沈黙させられるまで,神の側を擁護しつづけます。―啓示 20:1-4。

      13 エホバ神およびその独り子との交友関係はどんな位置を占めますか。比喩的に言って「姦婦」として分類されないためには,どんな道を追い求めなければなりませんか。

      13 至高の神エホバとの交友よりも上位を占める交友関係は存在しません。神の独り子との交友関係は次の地位を占めます。お二方とのそのような友好的な関係は,わたしたちにとって無限の幸福を味わう永遠の命を意味します。そのお二方がわたしたちに全き忠誠をお求めになるのは正当なことです。わたしたちはこの滅びに定められた古い世と親しく付き合いながら,同時に,わたしたちへのお二方の友情を深めていただくことはできません。わたしたちは,霊的に言って,ヤコブ 4章4節の言う姦婦として分類されることは望みません。その聖句はこの問題について率直にこう述べています。「姦婦たちよ,あなた方は世との交友が神との敵対であることを知らないのですか。したがって,だれでも世の友になろうとする人は,自分を神の敵としているのです」。この言葉は西暦1世紀の霊的イスラエル人に対して言われたものでしたが,この20世紀の世,つまり事物の体制の中に住んでいるエホバの証人にも当てはまります。

      絶えてしまう交友関係を避ける

      14 友情に関して,エホバの証人はどのようにして,ゼカリヤ 13章4-6節に予告されているような事柄を経験しないようにしますか。

      14 エホバの証人は,この堕落した暴力的な古い世の友にならないため,誤り伝えられ,冷遇され,迫害されています。地上に存在した古今のエホバの証人の中で最も偉大な方であるイエス・キリストも同じように扱われました。彼らはイエスに勝る者ではありません。(啓示 1:5; 3:14)自分たちの最も優れた友であるエホバ神の言葉に従って自らの考えを正直な態度で調整しつづけるので,エホバの証人はゼカリヤ 13章4節から6節に預言的に描かれている経験をせずにすんでいます。そこには次のように書かれています。「その日には必ずこうなる。すなわち,預言者たちは,預言をする際おのおの自分の幻について恥じるようになる。彼らは欺きのために毛の職服を身に着けない。そしてきっとこう言う。『わたしは預言者ではない。土を耕す者だ。地の人がわたしを若いころから手に入れたのだ』。そこで人は彼にこう言うのである。『両手の間にあるあなたの身のこれらの傷はどうしたのか』。すると彼はきっと言うであろう,『わたしを強く愛する者たち[「友たち」,欽定訳]の家で打たれたときのものだ』」。

      15 キリスト教世界の僧職者が公の場に出る時に特別な服を身に着けるのはなぜですか。僧職者たちはだれと自己本位な友情を築いてきましたか。

      15 これまで幾世紀にもわたって,キリスト教世界の僧職者は,自分たちの宗教的な職務に注意を向けさせるために,また自らが「平信徒」と呼ぶその会衆の成員から自分たちを区別するという自らを高める目的のために,「職服」を身に着けてきました。これらの僧職者たちは,イエス・キリストとその使徒たちおよびイエスのお遣わしになった福音宣明者たちが自分の身分に注意を向け,それをひけらかすために宗教的な職服を身に着けたという証拠がひとかけらもないのに,そうしたことをするのです。1914年に「諸国民の定められた時」,あるいは「異邦人の時」が終わり,それから「事物の体制の終結」が始まって,これまでにかなりの時が経過しています。(マタイ 24:3; ルカ 21:24; 欽定訳)僧職者は長い間,この世の商業的,軍事的,そして政治的な分子の最良の友となることに努めてきました。彼らは自分たち自身の利己的な益のために,良心の呵責を少しも感じることなくそうしてきました。しかし,この種の利己的な友情は長くは続かないでしょう。

      16 (イ)聖書預言によると,この世的な「友たち」は僧職者階級に対して間もなくどんなことを行ないますか。(ロ)身分は変わっても,僧職者がどんな最終的な経験を免れることはありませんか。

      16 僧職者も平信徒も同様に,高度に科学的な時代に置かれています。世の諸関係はこの時代の圧力によって,緊張の極限に達しています。僧職者たちは天の神のみ前で良い立場にあると主張していますが,商業的,軍事的,および政治的な事物の取り決めに神の好意をもたらしてはいませんし,悪化の一途をたどる世界情勢に何の救済も差し伸べていません。彼らのこの世的な「友たち」は間もなく,僧職者たちが役に立たず,まさに自分たちにとってはお荷物で,キリストによるエホバの王国を度外視しての物質的なより良い時代に関する僧職者たちの預言が偽りであったことに気づかされることになります。確かに,それらこの世的な「友たち」は最後には,信頼感の喪失,軽蔑,そうです,その憎しみを全面的に表わすよう心を動かされます。彼らは暴力をもって僧職者を滅ぼすか,少なくともその専門職の職服を脱がせ,ゼカリヤ 13章4節から6節に説明されているように,専門職に就いていない平信徒の地位に僧職者たちを落とすことは確かです。しかし,身分はそのように変わっても,僧職者たちが大いなるバビロン,すなわち偽りの宗教の世界帝国と共に滅びることは変わりません。それは啓示 17章と18章に予告されているとおりです。僧職者たちのこの世的な「友たち」は彼らを全く見捨てるでしょう。

      17 どんな友情には深めてゆくだけの価値がありますか。どれほどの期間そうしてゆく価値がありますか。

      17 この点を考えると,間違った種類の利己的な交友を避けるのは何と大切なことなのでしょう。一方,全宇宙で最も優れた友情はわたしたちにとってまさに掛け替えのないものであるはずです。その友情は永久に深めてゆくだけの価値のあるものです。

  • 友好的でない世にあっても存続する最も優れた友情
    ものみの塔 1985 | 5月15日
    • 友好的でない世にあっても存続する最も優れた友情

      「不義の富によって自分のために友を作り,そうしたものが尽きたとき,彼らがあなた方を永遠の住みかに迎え入れてくれるようにしなさい」― ルカ 16:9。

      1 箴言 14章20節が地上におられたときのイエス・キリストに当てはまらなかったのはなぜですか。

      「資力の乏しい者はその仲間の者にとってさえ憎しみの的となる。しかし,富んだ者の友は多い」。(箴言 14:20)イスラエルのソロモン王のこの箴言は,ソロモンより偉大な方であり,これまで地上に存在した人の中で最も偉大な人物,イエス・キリストには当てはまりませんでした。イエスは物質の富によってイスラエル人をご自分との親密な交わりに引き入れることはしませんでしたし,地上の富がどんなことにも耐えて存続する真の友情の基盤になるとも見てはおられませんでした。

      2 イエスはどんな友情を培うようご自分の弟子たちにお告げになりましたか。それにはどんな理由がありましたか。

      2 確かにイエスはある時,「不義の富によって自分のために友を作り,そうしたものが尽きたとき,彼らがあなた方を永遠の住みかに迎え入れてくれるようにしなさい」と言われました。(ルカ 16:9)しかし,イエスが念頭に置いておられた「友」とは,あらゆる価値ある所有物の源であられるエホバ神と,無限の富を持たれるみ父の子であるご自分のことでした。その同じ諭しに今日従うなら,わたしたちは地上で享受できる最も優れた交友関係,すなわち自己犠牲的なみ子イエス・キリストによりエホバ神との交友関係に入れられます。

      3 これら天的な友はわたしたちをどんな「住みか」に招じ入れることがおできになりますか。

      3 天におられるこのお二方は不滅の命をお持ちであるゆえに,いつまでもわたしたちの揺るぎない友となることができ,わたしたちを「永遠の住みか」に招じ入れることがおできになるのです。その「永遠の住みか」が,すべての聖なるみ使いたちのいる上なる天にあろうと,下なるこの地上の回復された楽園にあろうと,このことは当てはまります。―ルカ 23:43。

      最も優れた交友関係に入ることを許される

      4 (イ)聖書のどんな例から,神の友情が買えるようなものかどうかが分かりますか。(ロ)わたしたちはどのようなふさわしい仕方で自分の所有物を用いることができますか。

      4 至高の神およびその独り子イエス・キリストの友情はお金で買えるものではありません。この事実は1世紀のクリスチャン会衆におけるアナニアとサッピラに関する事件の場合に強調されました。名声と評判を求めるこの二人のようになることなく,わたしたちはエホバ神とイエス・キリストに是認される仕方で自分たちの持つ地上の所有物を用いることができます。(使徒 5:1-11)イエス・キリストが,「世の富を用いて自分のために友を得,それがなくなったときに,とこしえの住まいに迎え入れられるようにしなさい」と述べた時,イエスはそのことを意味しておられました。―ルカ 16:9,新国際訳。

      5 ザアカイはどんな道を追い求め,どんな結果を得ましたか。

      5 イエスはこの言葉を語られた時に,ローマ帝国の収税人や他の罪人たちの歓心を買おうとしていたのではありません。イエスは地上でご自分のためにいかなる物質の富を得ることにも関心を抱いてはおられませんでした。イエスは弟子たちに,自分たちのために上なる天に宝を蓄えるよう告げておられたからです。ローマ政府に仕えるユダヤ人の収税人,ザアカイは,メシアなるイエスのこの諭しに従って行動する決意をし,自分がそうするつもりであることを公に宣言しました。王国の関心事を支持するその行動にかんがみ,ザアカイの客の中で最も顕著な人物はこう言明しました。「この日に救いはこの家に来ました。この人もまたアブラハムの子だからです。人の子は,失われたものを尋ね求め,それを救うために来たのです」。(ルカ 19:1-10)「失われたもの」には収税人ザアカイ自身も含まれていました。

      6 ザアカイは何に入ることを許されましたか。一方,だれの歩みは警告となっていますか。

      6 ザアカイは全宇宙で最も優れた交友関係,すなわちその時ザアカイがもてなしていた特別な客の神また父である方との交友関係に入ることを許されました。イエスの死からの復活の後にザアカイがイエスを見たかどうか,また西暦33年のあの重要なペンテコステの日にエルサレムのある2階の部屋に集まった120人ほどの弟子たちの中にいたかどうかは聖書には記録されていません。しかし,その後間もなく報告された,霊によって生み出されて油そそがれた5,000人の弟子たちの中に,ザアカイの姿もあったに違いありません。(使徒 2章および4章。コリント第一 15:1-6)しかし,前述のアナニアとサッピラの場合は,ザアカイとは実に対照的です。エルサレム会衆と交わっていたその二人の人物は,自分たちの寄付の額を偽ることにより,弟子たちの中での自らの評判を高めようとしました。その不正直な行為のゆえに二人に臨んだ処罰により二人は最も優れた友情を失いました。このことは今日のクリスチャンすべてに対する警告となっています。―使徒 4:34-5:11。

      7 この世が友好的でないにもかかわらず,エホバの証人はどんなたぐいまれな関係を享受していますか。

      7 友好的でないこの20世紀の世にあっても,エホバの証人は最も優れた友情を享受しつづけています。しかし,千を超える異なった宗教体制がこのたぐいまれな関係を享受していないのに,エホバの証人がそれを享受しているのはなぜでしょうか。証拠の示すところによると,それはエホバの証人がキリスト教世界の宗教家たちの行なわなかったある肝要な事柄を行なったためです。一つの点として,証人たちは偽りの宗教体制から出て来ました。それらの体制が聖書の中で大いなるバビロンと呼ばれている偽りの宗教の世界帝国を成していることを認めたからです。言うまでもなく,いずれかの偽りの宗教から出れば自動的にエホバの組織に入るというわけではありません。偽りの宗教の世界帝国の別のいずれかの宗教体制に加わることもあり得るからです。

      8 大いなるバビロンから出るようにという神のご命令は,今日,だれに向けて直接語られていますか。

      8 大いなるバビロンから出るようにという神のご命令が「わたしの民」に対して語られていることに注目しなければなりません。(啓示 18:4)ヘブライ語聖書によれば,神のこの呼びかけはバビロンの地に流刑になっていたイスラエルの人々に対して神がお与えになった命令に似ています。(イザヤ 52:11)ですから,「わたしの民」というこの明確な言葉は,イエス・キリストに従う,霊によって生み出され,油そそがれた弟子たちのうち,まだ地上に残っている人々に直接当てはまります。1914年から1918年にわたる第一次世界大戦中,大いなるバビロンはこの霊的な残りの者の活動を封じるために,この世の政治,軍事,および司法上の分子を使って,これら油そそがれた人々を捕らえ監禁しました。象徴的な意味で,残りの者たちは捕らわれの状態に置かれ,エホバへの奉仕における活動の自由を失いました。

      9 エホバの証人は大いなるバビロンから出るに当たってどの程度の行動が必要でしたか。

      9 啓示 17章の中で,大いなるバビロンは,七つの頭と十本の角を持つ野獣に乗る娼婦として描かれています。底知れぬ深みに落ちてゆき,再び上って来るその象徴的な野獣は,世界平和のための現代の機構,すなわち第二次世界大戦の勃発と共に底知れぬ深みに落ちた国際連盟の後継者である国際連合を表わしています。ですから,エホバが「わたしの民」と呼ばれるその民は,大いなるバビロンから出るようにという神の呼びかけに従った時,どんなことをしたでしょうか。それらの人々は偽りの宗教のその世界帝国の支配と権力のもとから出ただけでなく,彼女の政治的な仲間たち,つまり現在,国連に含まれている政治的な諸分子の支配下からも出たのです。

      10 エホバの証人は今日のどんな国際的な組織と何のかかわりも持ちませんか。なぜですか。

      10 油そそがれた残りの者はこの事物の体制の政治および軍事上の事柄に関して厳正中立の立場を取り,その立場を保ってきました。(ヨハネ 15:19)残りの者たちは,1914年に異邦人の時が終わってから天に設立された,イエス・キリストによる神の王国をひたむきに支持しています。1918年に第一次世界大戦が終わると,その王国の存在を無視して,国際連盟が設立され,大いなるバビロンのお墨付きをもらいました。ですからこの人間製の国際的な組織は,エホバ神にとって,また地上の霊的イスラエル人の忠実な残りの者にとっても不快極まりない,嫌悪すべきものです。それら霊的イスラエル人はエホバの王国そのものに信頼を置き,地上でその王国の代理をするとされるいかなるものにも信頼を置きません。(マタイ 24:15,16)そして,ネティニムや「ソロモンの僕たちの子ら」によって表わされていた,現代の「大群衆」も同様の行動を取ります。―啓示 7:9-17。エズラ 2:43-58。

      11 (イ)イエスの弟子たちが,この世の友になるのはなぜ間違いですか。(ロ)この世はエホバの証人に対してどんな態度を執りますか。しかし,証人たちは引き続き何を享受していますか。

      11 イエスはご自分の命にかかわる裁判にかけられてローマの総督ポンテオ・ピラトの前に立った時,こう言われました。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。(ヨハネ 18:36)ですから,イエスに「付き添う者たち」,つまりその弟子たちが,この世の友になるのは完全に間違っています。これより前にイエスはご自分に「付き従う者たち」の最初の者たち,すなわち11人の忠実な使徒たちに,彼らは悪魔サタンを「支配者」とする『世のものではない』ということを告げておられました。(ヨハネ 14:30; 15:19。コリント第二 4:4と比較してください。)そのために,世は使徒たちを憎み,あるいは使徒たちに対して友好的でなかったのです。それと同じように,この20世紀におけるイエスの弟子たちも友好的でない世のただ中に置かれています。それにもかかわらず,それらの弟子たちは全宇宙で最も優れた友情,すなわち「新しい天と新しい地」を伴う,来たるべき義の世界をもたらす神の友情を享受しつづけています。―ペテロ第二 3:13。

      12 人が大いなるバビロンから出て,彼女のこの世的な情夫から離れると,どの側にしか立場を取ることができませんか。それにはどんなことが関係していますか。

      12 人が大いなるバビロンから出て,さらに彼女のこの世的なパートナーである大企業や政治や軍国主義から離れると,行くべき場所は一つしかありません。それは唯一の生けるまことの神,エホバの宇宙組織の側に立つことです。中間の立場はありません。そのため,個々の人には,友好的でないこの世の態度に耐えることが求められます。世のそうした態度は,大いなるバビロンとそれが肝要な部分を占めるこの世とを捨て去る決意を非常に難しくする要素の一つになっています。

      最も優れた友から与えられた「新しい名」

      13 西暦1世紀に,イエスの弟子たちは神慮により何と呼ばれましたか。

      13 わたしたちは神との交友関係を大切にしているので,エホバの証人と呼ばれることをうれしく思います。確かに,1世紀のキリストの弟子たちは,「エホバの証人」という名を採用していませんでした。しかし,だれよりも優れた友と1世紀の弟子たちとの関係について考えてみてください。使徒 11章26節は,「弟子たちが神慮によってクリスチャンと呼ばれたのは,[シリアの]アンティオキアが最初であった」と伝えています。「新世界訳聖書」が,彼らは「神慮によってクリスチャンと呼ばれた」と述べていることにお気づきでしょう。「神慮によって……呼ばれた」と訳出されているギリシャ語は,単にいい加減に呼ぶのではなく,それ以上のことを示唆しています。宇宙で最も優れた友は,その「クリスチャン」という名を是認されたのです。

      14 「キリスト教世界」という用語についてはどんなことが言えますか。どんな質問を考慮しなければなりませんか。

      14 「クリスチャン」という語からキリスト教世界という名が生じました。それは様々な宗教的分派や教派を抱える自称クリスチャンの領域全体に当てはまります。ですから,「キリスト教世界」という名称は,「神慮によって」授けられたのではありません。使徒たちを通して与えられたのでもなければ,神のご意志による『摂理により』与えられたのでもありません。ですから今日の状況は1世紀の状況と全く異なっています。この友好的でない世にあって最も優れた友情を享受できるのは真実のクリスチャンだけです。ですから今日の大きな質問は,霊感によって書かれた聖書に従う,真の,本物のクリスチャンはだれか,というものです。別の顕著な質問は,エホバの証人はエホバ神とイエス・キリストを自分たちの友とする真のクリスチャンだろうか,というものです。この点で,神が自ら選ばれたみ名,エホバが問題となっています。

      15 どんな状況を考慮すると,エホバがご自分の名を揚げる時が来たと言えますか。この点と関連して,「み名のための民」は現在どんな役割を与えられていますか。

      15 多くの宗教を持つキリスト教世界がどうしてエホバとの交友を享受できるでしょうか。キリスト教世界はイエス・キリストの名を前面に押し出し,その天のみ父の名であるエホバを排除してしまったと言ってもよいほどです。しかし,聖書の様々な預言と調和して,エホバがご自分の名を揚げる時が来ました。ですから,そのみ名は前面に出されなければなりません。そのために,エホバはご自分の真の証人たち,ご自分の選んだ民,ご自分の友情を享受している人々をお用いになります。使徒ならびにイエス・キリストの他の主要な追随者たちが開いた1世紀のある特別な集まりの席上,弟子ヤコブはこう言いました。「シメオンは,神が初めて諸国民に注意を向け,その中からご自分のみ名のための民を取り出された次第を十分に話してくれました」― 使徒 15:14。

      16,17 キリスト教世界の聖書翻訳の中では神のみ名についてどんなことが行なわれてきましたか。しかし,この点に関して「新世界訳」についてはどんなことが言えますか。

      16 『神のみ名のための民』が,神の友で,神のみ名を擁護するであろうことは予想が付くでしょう。しかし,キリスト教世界ではどんなことが生じていますか。キリスト教世界で普及している数々の聖書翻訳の中では,称号によってエホバのみ名の影が薄くなっています。事実,英語で一番普及している聖書の中には,そのみ名がわずか4回しか出てきません。(出エジプト記 6:3; 詩編 83:18; イザヤ 12:2; 26:4,ジェームズ王欽定訳)その上,ヘブライ語聖書のユダヤ人の翻訳の中でさえ,神のみ名は「主」と訳出されているのです。エホバのみ名を隠そうとするそのような試みは,エホバの友のなせる業ではありません。

      17 しかし,1950年に「新世界訳聖書」が宗教界に姿を現わすようになりました。その聖書は,原語のヘブライ語本文の中で神のみ名が表われる箇所では必ずそのみ名を復元しています。「新世界訳」はクリスチャン・ギリシャ語聖書,つまりいわゆる新約聖書の本文の正当な箇所に神のみ名を復元しています。それは実に237か所に及んでいます。これはまさにエホバの友のなせる業です。

      18 イザヤ 62章2節の精神に従って,神の民は1931年にどんな事を行ないましたか。そして,どんな責任を果たしてきましたか。

      18 エホバの友にとって興味深いのはイザヤ 62章2節の言葉です。この節には,神に献身してバプテスマを受けた人々で,メシアに従う,霊によって生み出された弟子たちから成る,目に見える組織に向かって語られた言葉が記されています。「そして,女よ,諸国の民は必ずあなたの義を見,王たちは皆あなたの栄光を見るであろう。そして,あなたはエホバの口が定める新しい名で実際に呼ばれるであろう」。その「名」は,それら現代の油そそがれた弟子たちが集められている祝福された状態に言及しています。さらに,神の見える組織の成員である残りの者が『神のみ名のための民』になるには,神のみ名を付して呼ばれ,そのみ名を担うのは当然のことです。この事実はやがてはっきりと自覚されました。それで,イザヤ 62章2節の精神に従い,1931年に米国オハイオ州コロンバスでの大会に集まった,神の霊によって生み出された組織は,喜んで「エホバの証人」という名称を採択しました。その模範に従って,エホバの献身した民の会衆全体がその名称を採択しました。そして,その名称は長続きしないと世が予言したにもかかわらず,その名称は彼らから離れませんでした。啓示 3章14節で,栄光を受けたイエス・キリストはご自分のことを,「忠実で真実な証人」と呼んでおられます。ですから適切なこととして,1931年というその記憶すべき年以降,イエスの地上の弟子たちの会衆はその名称を摂理により採用しています。それ以来,その弟子たちは自分たちの名にふさわしく生き,その名を知らせるという責任を果たすよう努めてきました。その結果,エホバのみ名,すなわちそれらの弟子たちの最も優れた友の比類のないみ名は,全地で前面に出されてきました。そしてエホバは,終わりの近いこの時に至るまで,その証人たちに対するご自分の友情が存続していることを示す際立った証拠を与えておられます。

      19 (イ)エホバの献身した証人たちはこの世の友好的でない態度をなぜ恐れませんか。そして,忠誠を保つ人々はハルマゲドンの際に報いとしてどんな特権を与えられますか。(ロ)何について,わたしたちは感謝と賛美をすべてエホバにささげるべきですか。

      19 エホバ神が,献身した証人たちであるわたしたちの側にいてくださるのであれば,実際にだれがわたしたちに敵対して幾らかなりとも成功を収めることができるでしょうか。(ローマ 8:31-34)ですからわたしたちはこの敵対的な世の友好的でない態度を恐れません。それで,わたしたちはメシア王国の大使あるいは公使として,神に任命された王なる大祭司イエス・キリストを通してエホバ神と和解するよう,羊のような人々に呼びかける業を続けてゆきます。(コリント第二 5:20)そのためにこの世の敵意が油そそがれた残りの者とその仲間である「大群衆」に対して引き続き増大しようとも,全宇宙で最も優れた友情,すなわちエホバ神の友情は今後も忠節をもって存続します。(啓示 7:9)神への忠誠を保つ者であるわたしたちに対し,その友情が急に途絶えることは決してありません。事実,やがて来る,戦争の中の戦争とも言えるハルマゲドンの「全能者なる神の大いなる日の戦争」の間に,前代未聞の方法でその友情が実証されることになります。(啓示 16:14,16)その戦争で,エホバは悪魔サタンとその悪霊の大軍および目に見えるその地的な組織全体と相対し,全時代を通じて最も輝かしい勝利を収めることにより,ご自分の宇宙主権を立証されます。今までエホバから優れた友情を示されてきたわたしたちは,その時恵みを受けて保護され,また征服する王イエス・キリストによる最高度の神の勝利の目撃証人になる栄誉を与えられるでしょう。(詩編 110:1,2。イザヤ 66:23,24)わたしたちはいつまでも存続する神の友情に対し,心からの感謝と賛美をすべてエホバ神にささげます。―詩編 136:1-26。

      どのように答えますか

      □ イエスはご自分の弟子たちにどんな友情を培うように勧めましたか。それによって彼らはどんな「住みか」に招じ入れられますか

      □ この世はエホバの証人に対してどんな態度を示しますか。しかし,証人たちは引き続きどんな友情を享受していますか

      □ 『神のみ名のための民』はそのみ名に関してどんな責任を果たしてきましたか

      □ エホバの献身した証人たちはこの世の友好的でない態度をなぜ恐れませんか

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