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自分のために友だちをつくりなさいものみの塔 1962 | 6月15日
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の人が何気なしに弓を引いて射たら,その矢はイスラエルの王にあたって彼を殺しました。ユダの王がエルサレムに戻ると,先見者ハナニの子ヱヒウは,ヨシャパテ王に次の言葉を告げました,「汝悪しき者を助け,エホバを悪む者を愛してよからんやこれがためにエホバの前よりいかりなんぢの上にのぞむ」。―歴代志略下 19:2。
8,9 クリスチャンは,ヨシャパテの間違いからどのような益を受けることができますか。悪い友人を持つ人に対して,神はなぜ不興を感じますか。
8 ヨシャパテは悪い間違いをしました。彼はエホバ神を憎む者に対して友情をつちかい,その者を助けました。クリスチャンは,友を選ぶとき,「エホバを悪む者を愛してよからんや」と述べた預言者の言葉に留意することが良いでしょう。神のしもべは,不適当な友情に対して警戒すべきであります! 私たちが神の恵みをうけるか,怒りをうけるかは,かなりの程度まで,私たちのつくる友人関係に依存しているのです。最高の神の僕が,神の是認しない者と交際するなら,神はその僕を有罪者と見なしますが,そのことにおどろくべきではありません。私たちは神の是認しない者と交際しながら,神の友情を得ることはできません。
9 悪い友と交わる人は,腐敗的な影響を受けるためその人を信頼することはできなくなります。それはかならず悪い結果を生み出すからです,「知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害をうける」。(箴言 13:20,新口)もし神の助けがなかったなら,ヨシャパテは愚かなアハブと友人関係をむすんだためにおそらく生命を失ったでしょう。
10 ダビデは神の僕に対してどんな模範を残しましたか。
10 私たちはヨシャパテの犯した間違いから益を受けるだけでなく,ダビデの残した良い模範からも学ぶことができます。彼はこう語りました,「われはむなしき人とともにすわらざりき,悪をいつはりかざる者とともにはゆかじ,悪をなすものの會をにくみ悪者とともにすわることをせじ,われ手をあらひて罪なきをあらわす,エホバよかくてなんぢの祭壇をめぐり……」。(詩 26:4-6)ダビデは,あたかも証言台に立って語っているように述べています。そして彼の私生活における友人関係は罪のないものであったと証言しています。彼は,神を愛さぬ者たち,そして神の正義のいましめを愛さぬ者との交際に関しては,罪を持たないと述べています。全能の神エホバを真実に崇拝する者がみな,その友情についてダビデと同じく罪のないものでありますように!
正しい奴隷の主人を友に選ぶ
11 (イ)私たちは人間との不適当な友情以外に,どんな不適当な友情に警戒しなければなりませんか。イエスはどのように正しい模範を残しましたか。(ロ)クリスチャンがこの世を彼の友にすることはなぜ愚かなことですか。
11 私たちは,個人を友に選ぶ際に注意深くします。しかしまた,エホバの崇拝をはげまさず,むしろこの世の神サタン悪魔に隷属させようとする群れ,クラブおよび制度と不適当な友情をむすぶことに対して警戒しなければなりません。(コリント後 4:4)それで,イエス・キリストは,彼を地方的な政治支配者にならせようとした民主主義的な運動を拒絶しました。(ヨハネ 6:15)まったくのところ,イエスは地方的な王権を拒絶しただけでなく,サタンの制度の世界主権をも拒絶しました! 悪魔は「この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った,『もしあなたが,ひれ伏してわたしを拝むなら,これらのものを皆あなたにあげましょう』」。(マタイ 4:8,9,新口)イエスはこの世の提供をことごとく拒絶しました。なぜなら,彼は神との友情をいちばん大事にしたからです。悪魔の提供を受け入れたなら,イエスは神の敵になっていたでしょう。この世との友情をつちかうなら,私たちはエホバの敵になってしまいます。神の規則は不変です,「世を友とするのは,神への敵対であることを,知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は,自らを神の敵とするのである」。(ヤコブ 4:4,新口)現在の悪い世界は,神のハルマゲドンの戦争で滅亡します。そして,この世の友たちはそれと共に過ぎ去るでしょう。(ヨハネ第一書 2:15-17)バラクとデボラの預言的な勝利の歌は,次のように預言していました,「エホバよ汝の敵みな是のことくに亡びよかしまたエホバを愛するものは日の真盛に昇るがごとくなれよ」。―士師 5:31。
12,13 (イ)なぜクリスチャンは富を彼の友にしてはなりませんか。(ロ)奴隷の主人たちのうちどちらを選びますか。なぜクリスチャンはふたりの主人に仕えることができませんか。
12 クリスチャンはまた富を友にすべきではありません。イエスは,正しい種類の友をつくることについて論じたとき,次のように語りました,「不義の富をもて,己がために友をつくれ」。富によって友をつくることができても,富を人間の唯一の友と見なしてはなりません。なぜなら,イエスは次のように説明されたからです,「僕は二人の主に兼事ふることあたはず,或は之を憎み彼を愛し,或いは之に親み彼を軽しむべければなり。汝ら神と富とに兼事ふること能はず」― ルカ 16:9,13。
13 それで,イエスは,人は二人の主人に仕えることができないという基礎的な規則を述べました。この二人の主人は,ひとりは良く,他は悪いため,たがいに反対し合っているのです。もし,このうちのどちらかに従うなら,他のものを軽べつします。一方を愛するなら,他方を憎みます。支配者間の相違は,ひじょうに大きいため,人はその両方に仕えることができません。エホバ神は最上の,奴隷の主人です。彼は創造者であられるがゆえに,すべての被造物の最上の所有者です。もし私たちが彼の友になることをのぞむなら,私たちは彼に忠実に奉仕し,私たちの専心の献身,私たちの生命をささげ,彼の奉仕に私たちのすべてをささげて,愛子イエス・キリストの弟子にならねばなりません。さらに,エホバはご自分の僕たちが一部の時間を彼にささげ,残りの時間を彼の憎む敵にささげることを許しません。イエスは,ラオデキヤの会衆に対する言葉の中で,こう述べました,「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく,熱くもない。むしろ,冷いか熱いかであってほしい。このように,熱くもなく,冷たくもなく,なまぬるいので,あなたを口から吐き出そう」。(黙示録 3:15,16,新口)あつくもなく冷たくもない者は,吐き出され,嫌悪すべきものとして捨てられてしまいます。それで,神と御子の友情を求めるクリスチャンは,エホバと,その反対者なる主人,「この組織制度の神」なるサタン悪魔とのあいだで,心を二分することができません。
14 (イ)友情に関して,富める若い支配者はどこで失敗しましたか。(ロ)なぜ富を正しく用いることは,肝要なのですか。
14 神の友になることをのぞむ者は,この世の富に仕えて,悪い奴隷 ― 主人の奴隷になることができません。イエスは,そのことを明白に示しました。私たちは,金持ちの若い支配者のようであってはなりません。彼は神の友になることをのぞみましたが,この世に仕えることをやめようとしなかったのです。イエスは,彼の持物を売って,エホバ神に仕える貧しい者に与えよと告げました。「そうすれば,天に宝を持つようになろう。そして,わたしに従ってきなさい』」(マタイ 19:21,新口)若い支配者に前述の言葉を語ったイエスは,人は二人の主人に仕えることができない,という規則を適用していたのです。エホバ神への専心の献身こそたいせつなものでした。金持ちのこの支配者は,エホバのものをエホバにささげましたか。あるいは,富に仕えることを好みましたか。彼の下だした決定は間違っていたので,彼は神の友になるというすばらしい宝を失いました。富は有用なものです。そして,富を用いて,神と神の御子の友になることが,富の正しい使い方であるとイエスは示しています。このことを知る神のしもべは富に決して隷属しないでしょう。むしろ,富をエホバ神の奉仕に用いるでしょう。さもなければ,もし私たちが富を私たちの友にして,富に支配されるなら,私たちはエホバ神と敵対関係にはいります。なぜなら,私たちはこの世の友になり,エホバ神の憎むべき敵,この世の神に仕えるからです。
15 (イ)私たちがつくらねばならぬ正しい友だちはだれですか。彼らの奴隷になることが,嫌悪すべきことでないのはなぜですか。(ロ)イエスは,彼に従う者たちに対する友情をどのように証明しましたか。しかし,何が取り消されませんか。
15 真実に永遠の生命を求める者たちにとって正しい友とは,最上の奴隷の主人,エホバ神と,「万物の相続者と定め」られた彼の御子です。(ヘブル 1:2,新口)神とイエス・キリストの奴隷になる人は,憎まれた立場にはいりません。彼が圧迫されて足下に踏みつけられ,かつ主人の目的については何も知らないということはありません。神と御子に忠実に従う奴隷になることにより,人は彼らの友になります。忠実な弟子たちに告げたイエスの言葉を深く考えて下さい。それは,私たちの心を奮いたたせます,「あなたがたにわたしが命じることを行うならば,あなたがたはわたしの友である。わたしはもう,あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆,あなたがたに知らせたからである」。(ヨハネ 15:14,15,新口)ふつうの場合,主人と奴隷の関係は冷くて形式的なものです。ところがイエスに従う者たちは,彼の奴隷になりますが,同時に彼の友にもなります。イエス・キリストは,「その友のために」魂を捨てて,彼の友情を証明しました。(ヨハネ 15:13,新口)イエスの払った価は,彼ご自身の貴重な血でした。それで,この友情は,クリスチャンが神とイエス・キリストの奴隷であるという事実を無効にしません。もしクリスチャンが友好的な奴隷と主人の関係を保つことをのぞむなら,彼らはこの世およびその奴隷の主人なるサタン悪魔と親しい関係をむすぶことに対して注意するべきです。人は二人の主人に仕えることができません。
16 イエスは家の執事についてのどんなたとえ話をしましたか。イエスはどの点を強調しましたか。
16 どうすれば私たちはエホバとその御子の友になれますか。それはいまなぜ急を要することですか。イエスは,ルカ伝 16章の中で家の執事についてのたとえ話をされました。この執事は失職しそうになったので,富を用いて友をつくることに関し実際的な知恵を示しました。今日の執事は給料をもらうのが習慣です。しかし,イエスのたとえに言われている執事は給料をもらいませんでした。彼は解雇されるなら,物乞いするか,穴掘りのようないやしい仕事をすることが必要でした。この執事は穴掘りをするほど壮健でなく,また物乞いをすることも望まなかったので,彼の主人に借金している人々の負債額を少なくしました。すると,彼が執事職から解雇された時,人々は彼を家の中に暖かく迎え入れるでしょう。なぜなら,彼は富によって彼らの友になったからです。こうすれば,穴掘りのようないやしい仕事をしなくても,また物乞いのようなはずかしいことをしなくても,生計が立ちます。彼は先見の明を持っていました。そして,富あるいは物質を使用して友をつくることに実際的な知恵を働かせました。クリスチャンも,それに似た実際的な知恵を働かすべきであると,イエス・キリストは言われています,「不義の富をもて,己がために友をつくれ。然らば富の失する時,その友なんぢらを永遠の住居に迎へん」。―ルカ 16:9。
17 (イ)エホバとイエス・キリストは何を持っておられますか。大ぜいの人々は何について考えをめぐらしませんか。(ロ)この世の不安定な富や生活とは対照的に,神の約束についてのどんな知識は,私たちをして実際的な知恵の道に従わせますか。
17 エホバ神とイエス・キリストだけが「永遠の住居」をもっておられます。彼らは,この「永遠の住居」に,その友だけを迎え入れます。今日,多数の人々は住宅の不足,住居費の高いこと,および高い家屋税を憂慮しているため,神の正義の新しい世における永遠の住居にはいるということについては,ほとんど考慮を払わないでしょう。それは「正義の宿る」新しい世であるだけでなく,神はその世について,次のことを私たちに保証しています,「もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもない。先のものが,すでに過ぎ去ったからである」。(ペテロ後 3:13。黙示 21:4,新口)これこそ神がその御言葉の中で約束しているものです。あなたはそれを信じますか。ヨシュアがイスラエル人に告げたごとく,エホバの御言葉はかならず成しとげられます,「汝らは一心一念に善く知るならん,汝らの神エホバの汝らにつきて宣ひしもろもろの善事は一もかくる所なかりき皆なんぢらにのぞみてその中一もかけたるものなきなり」。(ヨシュア 23:14)正義の新しい世に関するぜったいにたしかな神の約束があるのに,なぜ永遠の住居をこの世の中に求めるのですか。それを求めても,その努力はむだでしょう。なぜなら,富は一晩の中に消失してしまうかも知れず,人の生命も同じくたしかなものではありません。それで,実際的な知恵の道は,万物の建築者と彼の御子イエス・キリストを友にするために私たちの物質を用いることです。御子イエス・キリストは,弟子たちにこう語られました,「わたしの父の家には,すまいがたくさんある。もしなかったならば,わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために,場所を用意しに行くのだから」。(ヨハネ 14:2,新口)そうすれば,富がなくなるとき,私たちが新しい世の「永遠の住居」にあたたかくむかえ入れられることは保証されています。
18 なぜ金銭で神の贈り物を買うことができませんか。だれが神の友になれますか。
18 神がわいろを取られる,あるいは私たちが金を払って神の怒りを避けることができるということですか。そうではありません。アナニヤとサッピラは,神の恵みを買って,良い評判を立てることができると考えました。利己的な目的のために,お金を出しても,それは神に対する友情を示す行いではありません。ふたりにはそのことが理解できませんでした。さらに,以前に魔術を使っていたシモンという人は,お金を払えば神の恵みが買えると考えました。ところが,彼の考えはあたらなかったのです。ペテロは彼にこう告げています,「おまえの金は,おまえもろとも,うせてしまえ。神の賜物が,金で得られるなどと思っているの」か。(使行 8:20,新口)お金は神の賜物を買うことができません。もし,そうなら,金持ちは有利な立場にいて,神の新しい世に住む権利を前もって買いしめることができます。しかし,神は金銭を目あてにしません。神はかたより見ません。人は,たとえその持物がわずかで,すこしであっても,神とその御子の友になれます。
19 (イ)それで,神の友情を得るために,どのように金銭あるいは物質を用いることができますか。(ロ)私たちの資力の正しい使用法は何ですか。
19 それでは,神の友になるため,私たちは富と物質をどのように用いますか。神を買収するのでなく,神をあがめることです! 神は全世界を所有しています。そして,「銀はわたしのものである」。「林のすべての獣はわたしのもの,丘の上の千々の家畜もわたしのものである」とエホバは言われています。(ハガイ 2:8。詩 50:10,新口)私たちは,物質的な面で神を富ますことができません。しかし,私たちは神の目的を他の人に語り,彼に専心の献身と忠節の愛をささげることにより,神をあがめるために自分の資産を用います。他の人々に聖書の研究をはげますとき,彼らに聖書研究の手引の本を与えるとき,彼らと話をして,神の目的と正義の新しい世の約束を理解するように援助するとき,私たちは神をあがめるために自分の資産を用いています。
20 なぜいま神の友になることは緊急に大切ですか。
20 神をあがめるために自分の資産を用いることによって,私たちは天に宝を積み,私たちを決して見捨てぬ方々を友にしています。その方々は,私たちを捨てず,天の御国の下にある永遠の生命という賜物を私たちに与えることができます。神とその御子を友にすることは,緊急に必要です。なぜなら,いまの世は「終りの時」であって,間もなく行なわれる神のハルマゲドンの戦争のときに過ぎ去ってしまうからです。今こそ私たちが神と友好関係にはいっていることを示す時です。今こそ私たちはすべての援助を受け入れて神の友になる時です。そのわけで,私たちが,神を愛して神に従う者,そしてイエス・キリストが「私の友」と呼んだ者たちと,定期的に交わることは必要なのです。(ルカ 12:4)エホバの証者の新しい世の社会と交わることにより,幾千名もの人々は『不義の富をもって』自分のために友をつくる道を学んでいます。『それで,富がなくなるとき,その友は彼らを永遠の住居に迎える』でしょう。―ルカ 16:9。
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神の友であることを証明するものみの塔 1962 | 6月15日
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神の友であることを証明する
「ヱホバよなんぢの帷幄のうちにやどらん者はたれぞなんぢの聖山にすまはんものはたれぞ直くあゆみ義をおこなひ,そのこころに眞實をいふものぞその人なる」。―詩 15:1,2
1 聖書は神の新しい世をどのように述べていますか。そして,どんな要求は私たちの興味をそそるべきですか。
神の友以外の人は,神の新しい世にはいって,神の客として永遠に住むことができません。神は清い人,良い人だけをご自分のまわりに集められるので,エホバの幕屋の客になるには要求がついています。これらの要求が何であるかは,すべての真のクリスチャンの興味の対象でなければなりません。それらの要求にかなってのみ,クリスチャンは聖書に次のごとく述べられている住居で永遠の生命という祝福をいただくことができます。「わたしはまた,新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消えさり,……また,御座から大きな声が叫ぶのを聞いた。『見よ,神の幕屋が人と共にあり,神が人と共に住み,人は神の民となり,神自ら人と共にいまして……』」。―黙示 21:1,3,新口。
2 神の友について神はどんな記述をしていますか。
2 詩篇を書いたダビデは,神の客,すなわち神の友になるための要求を,霊感の下に書きました,「ヱホバよなんぢの帷幄のうちにやどらん者はたれぞ,なんぢの聖山にすまはんものは誰ぞ,直くあゆみ義をおこなひ,そのこゝろに真実をいふものぞその人なる かかる人は舌をもてそしらず,その友をそこなはず,またその隣をはぢしむる言をあげもちゐず 悪にしづめるものを見ていとひかろしめ,ヱホバをおそるゝ者をたふとび……」。―詩 15:1-4。
3 エホバが,彼の客になる者たちについて注意深いことはなぜ当然ですか。このように注意深くすることは,ダビデの時代にどのように示されましたか。
3 全能の神は特定な者だけを客として幕屋の中に入れます。そのことに驚くべきではありません。家を持っている人は,だれかれの見さかいなく,どんな人をも客として受け入れないでしょう。また,すべての人を歓待することをしないでしょう。家を持つ人は,たとえ短時間であっても悪人が家にいることをのぞまないでしょう。同じ原則は,エホバ神にもあてはまります。エホバ神はすべての人を幕屋の中に受け入れません,「悪人はなんぢの賓客たるを得ざるなり」。(詩 5:4)ダビデの時代において,このことは神の幕屋に関して真実でした。ダビデは,オベデエドムの家からエルサレムにエホバの契約の箱を移しました。「人々ヱホバの櫃をかき入れて之をダビデが其為に張たる天幕の中なる其所に置けり」。(サムエル後 6:17)この天幕の中にはいることは最高者の御前に出ることでした。ダビデは特定な者を選んでこの天幕で奉仕させました。アサフはその特権にあずかった者の中のひとりでした。(歴代志略上 16:4-6)直く歩いた者,清く正しい者だけが,神の聖なる山に置かれたエホバの幕屋で絶えず奉仕することができました。
4 神の御前にとどまることに対する要求については何と言えますか。それで,クリスチャンの態度はどのようなものでなければなりませんか。
4 聖なるエホバは,御前にとどまる者たちに対して,ひじょうな注意を払います。ダビデの時代,聖なる山におけるエホバの幕屋の客になるための要求はきびしいものでした。それでは,神の聖なる家族の一員として,永久の客としてエホバの幕屋内に永住するための要求は,いっそうきびしいものにちがいありません! 私たちがこの無類の特権を受けるのにふさわしい者とされ,そしてダビデと共に「われ永遠になんぢの帷幄にすまはん」と言えるようにするには,神の友であることを証明しなければなりません。「義者はその親しき者とせらる」ゆえ,神の保護と親切を永久に楽しむ者たちは,神の御前において正しい者であるため神が何を要求しているかをぜひとも学ばねばなりません。(詩 61:4。箴言 3:32)それで,すべてのクリスチャンは次のことを自問すべきです,「ヱホバよなんぢの帷幄のうちにやどらん者はたれぞ,なんぢの聖山にすまはんものは誰ぞ」。そして,どのクリスチャンも,詩篇記者の述べた答えを良く知っていなければなりません,「直くあゆみ義をおこなひ,そのこゝろに真実をいふものぞその人なる」― 詩 15:1,2。
直くあゆむこと
5 アダムは直くあゆむことにどのように失敗しましたか。それで,彼は何を失いましたか。
5 神の御前で直くあゆむため,クリスチャンはエホバ神に全くより頼み,そのいましめに従うことによって,信頼していることを証明しなければなりません。最初の人アダムは,エデンの楽園内で神の客でした。アダムは,永遠の住居として,神の臨在するところとして,その楽園を楽しむことができたはずです。しかし,アダムは神の友であることを証明するのに失敗しました。天の父なる主人の命令に従わなかったアダムは楽園の住居を失い,「神の園」の客になる資格を無くしました。(エゼキエル 28:13)アダムは直くあゆむことに失敗して,神の友になれませんでした。
6 だれが「エホバの友」と呼ばれましたか。そしてなぜですか。
6 しかし,聖書の中には,神の友であることを証明することに成功した人々の例がたくさん述べられています。神の友であることを証明した人々の表は,ヘブル書 11章にあります。その章の中にはアブラハムがしるされています。ヤコブは彼について次のように書きました「次に言われている聖句は成就された,『アブラハムはエホバに信仰を持ち,そのために彼は正義の者と見なされた』。彼は『エホバの友』と呼ばれるようになった」。(ヤコブ 2:23 新口)「エホバの友」と呼ばれることはなんとすばらしい特権でしょう! 私たちはアブラハムのように,エホバの友になるための要求によろこんで応じますか。そう願うだけでは,神の友になることができません。私たちは神の友であることを証明しなければなりません。アブラハムは神への信仰と信頼を示しました。彼はカルデヤ人のウルの地を去れとのエホバのいましめに従いました。また,後にはサラから産まれた独り子,愛子イサクをもささげようとしました。それで,ヘブル書を書いた人は次のように述べています,「信仰によって,アブラハムは,受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時,それに従い,行く先を知らないで出て行った。信仰によってアブラハムは,試練を受けたとき,イサクをささげた。すなわち,約束を受けていた彼が,そのひとり子をささげたのである。この子については,『イサクから出る者が,あなたの子孫と呼ばれるであろう』と言われていたのであった」。(ヘブル 11:8,17,18,新口)アブラハムは直くあゆみ,その従順により神への信仰と信頼を証明しました。「彼は『エホバの友』と呼ばれるようになった」。
7 神の友になることについての正しい価値評価は何ですか。
7 エホバの友であるという満足感と比較できる満足感がありますか。この世の商業的な企業で成功を収めても,それは神の友情を得ることにまさるものではありません。「神に対して富む」こと以上の幸福と満足をもたらすものはありません。(ルカ 12:21)人々は商業界で成功を収めるためにひじょうな努力を払います。神の御前で直くあゆんで彼の友になる仕方を学ぶことは,それ以上の大きな努力を払うだけの価値があります。
つねに直くあゆみつづける
8 (イ)つねに直くあゆんだ者たちのどんな例がありますか。(ロ)ダニエルの場合に見られるように,直くあゆむことはどのように可能ですか。
8 神の友であることを証明した人々の生活を調べるとき,彼らがつねに直くあゆみつづけたことを知ります。「エノクは真の神とともに歩きつづけた」。「ノアは正しい人であった。彼は同時代の人々の中にあって,欠点のない者,であることを証明した。ノアは真の神と共に歩いた」。(創世 5:23,24; 6:9,新世)預言者ダニエルは,つねに直くあゆみました。彼は,生涯中の危険な時に人間の知恵に頼りませんでした。彼は神の指示を求めました。彼はいつもエホバ神により頼んでいたからです。ダニエルは国の法律で禁止されていた時でさえ,自分の神に彼の思いを打ち明けました。彼は定期的に祈り,偉大な友にいつも依存していることを示しました。ダニエルはエホバに忠節を保つため,獅子の穴に投げこまれました。異教の王ダリウスさえもダニエルがいつも彼の神に依存していることを認めました。「あなたが常に仕えている神はあなたを救って……」。(ダニエル 6:16,20,新口)ダニエルは常に直くあゆんだので,神から深く愛されました。そして,エホバの御使ガブリエルはダニエルに「あなたは大いに愛せられている者です」と告げています。―ダニエル 9:23,新口。
9 直くあゆむための肝要な要求は何ですか。
9 エノク,ノア,アブラハムおよびダニエルのしたようにいつも直くあゆむために,私たちはすべてのことにエホバを認めねばなりません。箴言 3章5,6節は,次のように述べています,「汝こゝろをつくしてヱホバによりたのめ,おのれのさとりによることなかれ 汝すべての途にてヱホバをみとめよ,さらばなんぢの途を直くしたまふべし」。神の助言によろこんで従おうとしない人は,神の友になることができません。つねに正しい道を歩くため,エホバに頼り,神の指示を求めよと告げるこの命令に従わないなら,その人は実際には神に献身することができません。
10,11 (イ)エホバを度外視すると何が起こりますか。(ロ)どんな危険な時が神の人の生活にのぞみましたか。彼はどのようにそれに対処しましたか。
10 特に神の僕がそのすべての道でエホバを認めないことは,実に愚かなことです! 特に危険な時にエホバを度外視するなら,災がすぐに及ぶでしょう。ひとりの預言者にそのような災が起こりました。列王紀略上の13章によると「神の人ヱホバの言によりてユダヤよりベテルに来れり時にヤラベアムは壇の上に立ちて香を焚ゐたり」。名前の告げられていないこの神の人は,その祭壇およびその上で犠牲をささげた偶像崇拝者の滅亡について,すばらしい預言を語りました。悪王ヤラベアムは烈火のごとく怒りました。彼は手を伸ばして,この勇敢な預言者を捕えよと命じました。たちどころに王の手はかたくなってしなびてしまい,祭壇は裂けてしまいました。ヤラベアムは,手を元通りにしてもらうため,預言者の祈りを求めました。預言者は同意し,王の手は以前の健康な状態にもどりました。狡猾なヤラベアムは,利己的な理由から,彼を王宮の食事に招待しました。これは預言者の生活中,危険な時でした。彼は直くあゆみましたか。直くあゆみました。彼はエホバに従い,たとえ相手が王であっても,エホバを憎む者,そして偶像を崇拝する者との交際をきっぱり拒絶しました。「神の人王に言いけるはなんぢたとひなんぢの家の半を我に与ふるも我はなんぢと共にいらじ又この所にてパンを食ず水を飲まざるべし そはヱホバの言我にパンを食ふなかれ水を飲むなかれ又なんぢが往ける途より帰るなかれと命じたればなりと」。
11 もしその神の人が,エホバの御前で直くあゆみつづけたなら,万事は順調にいったでしょう。ところが,ほとんどすぐ別の危険が預言者の生活に起きました。この神の人が町から出たとき,そこに住んでいた「一人の老人たる預言者」が彼の道をさえぎりました。この年老いた預言者は,神の人を彼の家に招待し,パンを食べるようにとすすめました。「我は汝とともに帰る能はず汝とともに入る能はず……其はヱホバの言我になんぢかしこにてパンを食ふなかれ水を飲むなかれ又なんぢが至れる所の途より帰り往くなかれと言たればなりと」神の人は答えました。年老いた預言者は,これを聞いてもあきらめず,偽りを語りました。彼が偽りを語った動機が何であるかは,聖書に述べられていません,「我もまたなんぢのごとく預言者なるが,天の使ヱホバの言を以て我に告て彼を汝とともになんぢの家につれかへり彼にパンを食はしめ水を飲ましめよといへりと」その神の人はエホバの明確ないましめにそむき,パンを食べぶどう酒を飲むために帰って行きました。この結果は,災となりました。
12 なぜこの神の人は,直くあゆむことに失敗しましたか。どんな結果が彼にのぞみましたか。
12 ふたりが食卓についたとき,エホバの言葉は偽りを語った年老いた預言者のところに来ました。彼は次の言葉を不従順な神の人に告げました,「ヱホバかく言ひたまふなんぢヱホバの口にそむきなんぢの神ヱホバのなんぢに命じたまひし命令を守らずして帰り ヱホバのなんぢにパンを食ふなかれ水を飲むなかれと言ひ給ひしところにてパンを食ひ水を飲みたればなんぢの屍はなんぢの父祖の墓に至らざるべしと」。
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