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柔和はクリスチャンの要求ものみの塔 1967 | 8月15日
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柔和はクリスチャンの要求
1-3 なぜ柔和はクリスチャンのものであると言えますか。
日陰の気温が摂氏38度を越え,湿度もかなり高くなるでしょう。真夏にこのような天気予報を聞いて,うれしく思いますか。あるいは冬に,氷点以下の気温と,雪の吹きだまりを作るような烈風の予報を聞いて喜びますか。普通なら,だれもこのような予報を好みません。このように極端な気象条件の下では,日常の活動を気持ちよく行なうことができないからです。
2 しかし,気温は24度前後,湿度は低く,青空に白い雲が浮かぶような温和な天気が予報されればどうですか。普通なら,人はこれを聞いて喜ぶでしょう。そして,戸外に出て,気持ちの良い空気をいっぱいに吸おうと考えるでしょう。確かに,このような天気はそう快です。人の気分さえ変わるではありませんか。温和な天気が好まれ,きびしい極端な天気が好まれないのは確かです。
3 クリスチャンの性質についても同じことが言えます。望まれるのは柔和な性質であり,きつい性質ではありません。事実,それは単に望まれているだけでなく,クリスチャンに対する要求になっています。使徒パウロはエペソ人への手紙 4章1,2節で述べました。「わたしは,あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き,できる限り謙虚で,かつ柔和であり」。彼はまた,「義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求め」ることをテモテに勧めました。(テモテ第一 6:11)妻たちに助言したペテロは,「かくれた内なる人,柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾り」を身につけることを勧め,「これこそ,神のみまえに,きわめて尊いものである」と述べました。(ペテロ第一 3:4)それで,柔和は単に望ましいというだけの性質ではありません。それはクリスチャンに要求されているのです。
柔和の意味
4 ほかのどんな理由で,柔和は非常に大切ですか。
4 柔和は非常に大切な性質なので,聖書はこれを神の聖霊の実の一つとしています。ガラテヤ人への手紙 5章22,23節でパウロは述べました。「御霊の実は,愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,忠実,柔和(である)」。それで,この柔和という性質は地上の柔順なクリスチャンに神の活動力が働いた結果です。クリスチャンが神と調和し,神がその神聖なみことばの中に示される原則に従って生活し,神の霊を求め,その働きを妨げていない所では,この性質が生み出されているでしょう。柔和でないのは,何かが欠けていること,クリスチャンとして未熟であること,そして神の霊の働きが妨げられていることのしるしです。
5 柔和であるとはどういうことですか。
5 ところで,柔和であるとはどういうことですか。柔和であるとは行動や態度がもの静かで隠かなことであり,他の人に対する感情やふるまいがものやわらかなことです。それはまた,親切でやさしいことでもあります。このやさしさは幼な子を扱う母親のやさしさに比べられるでしょう。やさしい母親は赤子を寝台に荒らあらしく投げ込むようなことをしません。愛情のある母親はやさしく,注意深く赤子を扱い,傷つけぬようにと,寝台に置く位置にも気を配ります。彼女は両手を幼な子にあて,ある場所から他の場所へけがをさせないように静かに動かします。それでも彼女は仕事を果たすに必要な力を腕に入れています。柔和はこれと似ています。親切で,やさしく,注意ぶかいと同時に,生活上の必要な仕事を果たすための強さを含んでいます。
6,7 柔和な人がしないことを幾つかあげなさい。
6 柔和な人であれば,しないことが幾つかあります。柔和はきついことではありません。柔和な人は他の人に対して激しい,あるいは辛らつなことばを使いません。また他の人に対して無情な態度をとりません。夫は柔和な心をシャツのえりになぞらえることができるでしょう。えりが堅すぎるなら,首すじはいらいらして痛く感じます。夫は首すじを刺激しない,やわらかなえりを好みますが,やわらかすぎて形がくずれてしまうものでは役に立ちません。柔和さはこれに似ています。柔和はきびしかったり,痛烈であったり,人を刺激したりすることではありません。
7 柔和は短気で,怒りやすいことではありません。また気むずかしかったり,小さな事をいちいち気にかけたりすることではありません。また柔和は人と容易にうちとけなかったり,好戦的であったりすることではありません。初期のクリスチャンたちにさとすべきこととしてパウロがテトスに伝えたとおり,それは「だれをもそしらず,争わず,寛容であって,すべての人に対してどこまでも柔和な態度を出す」ことです。―テトス 3:2。
8,9 柔和は弱さのしるしですか。
8 しかし,柔和を性格の弱さや憶病さととり違えてはなりません。これらは明確に異なるからです。人が柔和な性質をつちかって,極端なことばと行動を控えても,それはその人が勇気を欠き,無力であるという意味ではありません。実際には,それは内面的な強さの表われであり,自分の心を制御している証拠です。またそれは人が神の霊によって形造られているしるしであり,そのことが人を弱くし,無力にするはずはありません。それで,弱さ,優柔不断,頼りなさ,不安定,軟弱さなどと,柔和とを決して混同してはなりません。柔和はそういうものではありません。むしろ,御霊のこの実をもつクリスチャンは強く,勇気があり,決然としています。
9 使徒パウロは柔和な人でしたが,聖霊に導かれながら,自分のことをこう書きました。「苦労したことはもっと多く,投獄されたことももっと多く,むち打たれたことは,はるかにおびただしく,死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度,ローマ人にむちで打たれたことが三度,石で打たれたことが一度,難船したことが三度,そして,一昼夜,海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし,川の難,盗賊の難,同国民の難,異邦人の難,都会の難,荒野の難,海上の難,にせ兄弟の難に会い,労し苦しみ,たびたび眠られぬ夜を過ごし,飢えかわき,しばしば食物がなく,寒さに凍え,裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に,日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。ダマスコでアレタ王の代官が,わたしを捕えるためにダマスコ人の町を監視したことがあったが,その時わたしは窓から町の城壁づたいに,かごでつり降ろされて,彼の手からのがれた」。(コリント第二 11:23-28,32,33)このすべてが憶病な人の経験と思えますか。確かにパウロにも人間としての弱さともろさがありました。しかし彼の内に働いた神の霊が彼を大胆にし,患難と反対に負けない強さと勇気を与えました。しかし同時に,彼はやさしい父親のようでもありました。神の霊が彼の中に柔和な性質をも生み出していたからです。それで,今日のクリスチャンも,性質が柔和であると同時に,神の霊が柔順な人の中に生む勇気と大胆さを備えています。
益
10,11 柔和であることの益をいくつかあげなさい。
10 柔和であれば多くの益があります。まず,柔和であれば心身がきわめて静穏です。柔和な人は他人の行動のために容易に腹をたてたり,気を転倒させたりしません。また柔和な人は絶えざる不安や争いで,自分の身と心を苦しませることがありません。かいようや精神病になりやすいのは柔和な人ではありません。逆に,柔和であれば感情を平静に保つことができ,これが身体的にも精神的にも大きな益になります。
11 柔和な人にある別の益は人との折合いがよいことです。人々はその人との交際を喜ぶでしょう。温和で快い天気の日に気持ちが自然とさわやかになるように,人々はことばや行ないや態度の柔和な人と共にいると,心がさわやかになるのです。箴言 16章24節は,「ここちよい言葉は蜂蜜のように,魂に甘く,からだを健やかにする」と述べて,柔和な人が他に及ぼす快い影響をよく表現しています。柔和な人と一緒にいれば,あなたはちょうどこのような気持ちがするでしょう。その人に対する恐れを少しも感じず,その柔和な態度が蜂蜜のように「魂に甘く,からだを健やかに」します。
12 柔和であればなぜエホバの取りきめにとどまることが容易ですか。
12 柔和であれば従うことが容易ですから,柔和はわたしたちがエホバの取りきめの中にとどまるのを助けます。パウロは述べました。「あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり,女のかしらは男であり,キリストのかしらは神である」。(コリント第一 11:3)このことばのとおり,神のしもべはすべて,相対的な意味で他の者に従わねばなりません。このためには柔和な心が必要です。エホバとその取りきめに従おうとしないのは心のごう慢な人です。イエスはこの点ですばらしい手本を残されました。神のことばはイエスについて述べています。「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを,あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは,神のかたちであられたが,神と等しくあることを固守すべき事とは思わず,かえって,おのれをむなしうして僕のかたちをとり,人間の姿になられた。その有様は人と異ならず,おのれを低くして死に至るまで,しかも,〔刑柱〕の死に至るまで従順であられた」― ピリピ 2:5-8,〔新世訳〕。
13 柔和であればほかのどんな悪い傾向を避けられますか。
13 柔和であることの別の益は,自分のほまれを求めて人目に自分をよく見せようとする傾向を避けられることです。この傾向は誤った誇りに基づくものであり,円熟したクリスチャンだけでなくエホバの目にもいとうべきものですから,必ず避けねばなりません。「すべて心にたかぶる者はエホバににくまれ」。(箴言 16:5,文語)柔和な人はこのことを早く悟り,仲間の兄弟を犠牲にして自分だけぬきんでようとすることを避け,あるいは想像にすぎない優越性を振りまわし,神のものである他の柔和で羊のような人々に威ばりちらすことがありません。イエスは言われました。「あなたがたのうちでいちばん偉い者は,仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ,自分を低くする者は高くされるであろう」。(マタイ 23:11,12)柔和であれば,他のクリスチャンと接するとき,その人々のボスとならず,仕える者となることが容易です。また,たたえるべきかたはエホバであり,人はすべて罪のうちに生まれ,あがないが必要であることを容易に悟れるでしょう。柔和な人は自分の罪ぶかい状態とエホバによるあがないの必要を認め,自分のほまれを求めません。
少しずつ柔和をつちかいなさい
14-16 柔和に逆らう三つの力をあげなさい。
14 おそらく読者の多くも,また神のことばについて正確な知識をもつに至った人でさえも,自分の以前の生活を振りかえり,このように言うでしょう。「たしかに,柔和でなければならないのに,そうでなかったことが何度もある」。いまこの瞬間でさえ,自分は聖書の言う柔和とはほど遠いと考える人が多いでしょう。あなたもその一人かもしれません。しかし,それによって気を落とし,柔和になろうとする努力をやめてはなりません。柔和さが生まれながらに備わる特質でないことを忘れてはなりません。遺伝的な罪と不完全さのゆえに,人には生来,善ではなく悪に進む傾きがあるのです。「ひとりの人によって,罪がこの世にはいり,また罪によって死がはいってきたように,こうして,すべての人が罪を犯したので,死が全人類にはいり込んだのである」。(ローマ 5:12)詩篇記者ダビデはこのことを認めていました。詩篇 51篇5節でこう述べているからです。「見よ,わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」。
15 わたしたちを柔和さから引き離すのはこれだけではありません。クリスチャン活動を妨げ,地上の手先を通じて行なう迫害や圧迫によってクリスチャンの柔和さを試みる悪い霊の力があります。パウロはエペソ人への手紙 6章12節でこの妨害についてよく述べています。「わたしたちの戦いは,血肉に対するものではなく,もろもろの支配と,権威と,やみの世の主権者,また天上にいる悪の霊に対する戦いである」。
16 わたしたちはこのほかに,悪霊が支配するこの事物の制度およびその悪い精神とも戦わねばなりません。わたしたちの多くは,神から来る柔和の霊ではなく,悪魔サタンから出る冷酷な精神をもつ人々の間で日毎に働かねばなりません。現存する事物の制度の雰囲気もしくは精神的傾向はクリスチャンの柔和と相いれません。
17,18 世との接触を完全に避けることはできませんから,わたしたちにはどんなことが必要ですか。
17 柔和な精神をもたない人との接触を完全に絶つことはできません。そのためには,「あなたがたはこの世から出て行かねばならない」でしょう。必要なのは,他の者に敵対され,不快なしうちを受けても同じような態度で仕返しをしないように,自分の心をおさえることです。こうして柔和な態度で心をおさえることが緊張した事態を救い,パウロの述べるごとく,「はずかしめられては祝福し,迫害されては耐え忍び,ののしられては優しい言葉をかけ」ることを可能にします。(コリント第一 5:10; 4:12,13)ここでもイエスは模範を残されました。「(キリストは)ののしられても,ののしりかえさず,苦しめられても,おびやかすことをせず,正しいさばきをするかたに,いっさいをゆだねておられた」― ペテロ第一 2:23。
18 悪い方向への影響が非常に多く働いていますから,クリスチャンがこの柔和という特質をつちかうため勤勉に努力すべきことは明らかでしょう。これは努力せずして自然に身につくものではありません。逆にわたしたちを過酷にさせる事柄が非常に多くあるからです。それで,遺伝した罪,悪魔サタンと配下の悪霊,およびこの事物の制度の邪悪な精神に導かれる人々などに影響されないように,わたしたちは日毎に,そして年毎に柔和さをつちかわねばなりません。柔和をつちかうべく勤勉に努力しないなら,これらのものがわたしたちをうちまかし,世の人々のごとく荒々しい性質にならせるでしょう。
19 予備的な段階として,まず何が必要ですか。
19 どのようにして柔和さを培ったらよいですか。まず初めに,それについて学ぶことが必要です。神のことばを調べ,柔和がつちかうべきものであり,クリスチャンに肝要な特質であることを学んでください。そうすれば,わたしたちは正しい軌道に乗ることになります。つまり,柔和は不必要な性質であり,この世で生きるには,強硬で,きつく,ごう慢でなければならないと考える,世俗的な人と異なり,正しい進路を取ることになります。
20 なぜ人間の不完全さを考えに入れるべきですか。
20 時の経過と共に柔和さを増し加えようとするわたしたちの努力の助けとして,わたしたちは人間の不完全さをいつも忘れてはなりません。人はすべて生まれながらに不完全であり,とかく誤りやすいということは否定できない事実です。この点を忘れないなら,人を扱う際に思いやりの必要なことがわかるでしょう。そして神が許しておられるようにわたしたちも人を許すべきことを悟るでしょう。人々は完全な考えと完全な行ないができないのであり,その点ではわたしたちも全く同じです。柔和をつちかう人はこのことを認め,「七十七回」までも許します。柔和な人は愛があり,「愛は多くの罪をおおう」からです。―マタイ 18:21,22,新世訳。ペテロ第一 4:8。
21,22 なぜ人を刺激してはなりませんか。
21 神が求められる以上のことを人に求めるなら,わたしたちは失望を避けられないでしょう。他の人に多くを求め過ぎることは,自らを試練する結果になります。だれからも柔和にしてもらわなかったから,自分もきびしい手段に出ようと考えるようになるからです。しかしこれはただ相手を刺激していよいよこわばらせ,それは逆にわたしたちが柔和さをさらに失う結果になるでしょう。これは悪循環です。このような過程を初めから避けるほうがはるかにすぐれています。箴言 26章20節も述べています。「たきぎがなければ火は消え,人のよしあしを言う者がなければ争いはやむ」。しかし,わたしたちが際限なく要求し,刺激しつづけているなら,人々がいら立ち,怒りたっても驚いてはなりません。いつも人に感情を刺激されることはだれも好まないのです。「その人となり柔和なこと,[当時の]地上のすべての人にまさっていた」モーセでさえ,イスラエル人の無分別で刺激的な態度のために,柔和さを失ったことがありました。「彼らはまたメリバの水のほとりで主を怒らせたので,モーセは彼らのために災にあった。これは彼らが神の霊にそむいたとき,彼がそのくちびるで軽卒なことを言ったからである」― 民数 12:3; 20:2-13。詩 106:32,33。
22 少し前の新聞が伝えた一事件も,きびしいことばあるいは態度がいかに人を刺激して柔和さを失わせるかをよく示しています。それは英国下院の一婦人議員に起きたことでした。あるとき彼女はかつての英国首相ウインストン・チャーチルに,きわめてきびしい語調で,「わたしがあなたの奥さんだったら,あなたのコーヒーに毒をまぜてやるでしょう」と言いました。チャーチルはすぐに言い返しました。「あなたのだんなさんだったら,わたしはそれを飲みますよ」。彼女は火にたきぎを加え,興奮したやりあいを引き起こしました。箴言 26章21節は述べています。「おき火に炭をつぎ,火にたきぎをくべるように,争いを好む人[あるいは,女]は争いの火をおこす」。わたしたちはこのようになりたくありません。それでわたしたちは他の人を怒らせて,柔和さを失わせないように注意します。
23 個人的な相違を認めるのは柔和をつちかうのにどのように役だちますか。
23 柔和をつちかうのに役だつもう一つの点は,エホバが,適当な制限を設けながらも,各人の性質と好みの相違を大幅に許しておられることを認めることです。神は個々の人に,自由に物事を判断するすばらしい能力を与えられました。もとよりこれは完全な自由を与えるものではありませんが,人間活動の多くの分野における相対的な自由を許すものでした。完全な自由を許したなら,人間は神と神の律法に全く依存しない存在となったでしょう。それで,エホバが個人差を認めておられる事柄において,自分のやり方あるいは好みを他の人に強要してはなりません。自分が最善と思うものでも,すべての人をそれにあてはめようとしてはなりません。人はそれぞれに違うことを認めなさい。そして,自分で勝手に規則を作り,神の創造であるさまざまな変化を破壊してはなりません。厳密さもしくは統一性が必要な場合,つまり崇拝,教義,道徳などが関係する場合には,神のことばと聖霊と神の見える組織とが,わたしたちの行なうべきことを教えるでしょう。しかし,食べる物,着る物,娯楽など,神が各人に広範な選択の自由を許しておられる事柄においては,わたしたちも神の取りきめに従わねばなりません。この点を理解すれば,自分と好みの違う人がいても容易に腹を立てることはないでしょう。
24,25 柔和をつちかうことはやさしいですか。
24 柔和さをつちかうのはやさしいことですか。その人の背景,幼いころのしつけ,人生の経験,クリスチャンとしての円熟の度合などによって,他より早く進歩する人もいます。しかし,この特質をつちかうことがむずかしく,努力しながら何度もざせつする人もいるでしょう。しかし落胆して努力をやめてはなりません。パウロがローマ人への手紙 7章21-23節で述べていることに注意してください。「善をしようと欲しているわたしに,悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち,わたしは,内なる人としては神の律法を喜んでいるが,わたしの肢体には別の律法があって,わたしの心の法則に対して戦いをいどみ,そして,肢体に存在する罪の法則の中に,わたしをとりこにしているのを見る」。
25 自分自身の堕落した肉と外からの影響とが,柔和さをつちかおうとするわたしたちの努力を大きくはばむことがありますが,時おり以前の荒い態度に逆もどりすることだけで,この努力をやめてはなりません。しだいに歩き方を覚える幼児のことを考えてごらんなさい。幼な子は何度もころびながら,また立ちあがり,忍耐づよく努力を続け,やがて自信をもって歩くようになるではありませんか。同じように,柔和をつちかうため少しずつ努力するわたしたちは,時に失敗するかもしれません。しかし,その失敗を教訓とし,進歩を続けようとする決意を新たにしてください。柔和さという点で円熟するには時間のかかることを認めねばなりません。わずかであっても進歩を喜び,自分が考えた以上に進歩が遅くても努力をやめてはなりません。
26 この点でエホバはわたしたちをどのように助けられますか。
26 エホバがあわれみ深いかたであることも忘れてはなりません。自分の不足を感ずる時には,祈りのうちにエホバに頼り,罪の許しを乞うことができます。またわたしたちはエホバにいつも力ぞえを祈ります。柔和はエホバの霊の実であるからです。神の霊つまり柔和さを生み出す神の霊を祈り求めるなら,わたしたちの進歩は確実です。この強力な助けによって,柔和さを欠く人もやがてその特質を体得し,自分の人となりの一部とするでしょう。身体的に成熟した人にとって,歩くことはほとんど習慣となっていますが,柔和も人の習慣のようになるのです。
27 柔和であればどんな豊かな報いがありますか。
27 柔和をつちかうなら,豊かな報いのあることは確かです。それによって,たとえ圧迫の多い環境下にあっても,あなたの生活は,ずっと幸福になるでしょう。そうした環境に負けて心をかたくなにすることがなく,心の平静を保てるからです。柔和をつちかうことの別の報いは,真理を受けいれやすくなることです。エホバがご自分のみこころを少しずつ啓示されるにつれ,あなたはそうした新しい真理を喜んで受け入れ,自分の生活をそれに合わせようとするでしょう。これはあなたにどんな益がありますか。ヤコブの手紙 1章21節が答えます。「心に植えつけられている御言を,すなおに受け入れなさい。御言には,あなたがたのたましいを救う力がある」。そうです,あなたの救いがかかっているのです! それで努めて柔和になりなさい。そして,詩篇 37篇11節の神の約束にあずかる者となりなさい。「柔和な者は〔地〕を継ぎ,豊かな繁栄をたのしむことができる」,〔新世訳〕。
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柔和な心で教えなさいものみの塔 1967 | 8月15日
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柔和な心で教えなさい
1,2 今日のクリスチャンに柔和さが必要なのはなぜですか。
クリスチャンが柔和をつちかうことにはもう一つの理由があります。柔和さがクリスチャンを幸福にし,人との折合いをよくさせ,神の真理に対してより柔順にならせて,永遠の命の道に導くことは確かですが,このほかにも大切なことがあります。柔和は,この苦難の多い終わりの時代にクリスチャンが課せられた大規模な伝道のわざを果たすためにも必要なのです。
2 神の真理は人類に伝えられねばなりません。現在の悪の事物の制度が終わる以前に,全地に証言が行なわれねばならないのです。そのうえ,すでに神に献身した人々を神のことばの真理でいつも養うことが必要です。このすべてを行なうために大いに求められるのは教えることであり,教えることにおいて肝要なのは柔和さです。この世ではいろいろな教え方がありますが,神のことばが関係するかぎり,そこに含まれる知識は柔和な態度で分け与えられねばなりません。
3-5 (イ)柔和に教えるのが正しい教え方であることはどうしてわかりますか。(ロ)羊のような人々がイエスのもとに集まったのはなぜですか。
3 柔和なしかたで教えるのは聖書的な正しい方法であり,真理を求める人々に最大の反応を起こさせる教えかたです。最大の教え手であられるイエス・キリストも,柔和な態度で真理を教えられましたから,このことは確かです。この大切な性質である柔和はイエスのひととなりの一部であり,義に飢えかわく人々を教えたイエスはこの性質を活用されました。
4 イエスは自分が柔和な性質を持っていることを自ら語っておられます。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」。(マタイ 11:28,29)柔和であられたイエスの教え方はどんなに効果的であったでしょう。羊のような人々は熱心にイエスのもとに集まり,イエスが神の真理について話すのを聞きました。人々は,民の幸福を考えず,ただ権勢を誇った,きびしく抑圧的な政治および宗教指導者を恐れましたが,イエスに対しては何の恐れも感じませんでした。
5 イエスは,霊的にも身体的にもきわめてあわれむべき状態にあった,これら一般の人々に対し,非常にやさしい感情をいだかれました。「(イエスは)群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れているのをごらんになって,彼らを深くあわれまれた」。(マタイ 9:36)これらしいたげられた民をあわれまれたイエスの柔和さは,彼らの魂に大きな休みとなったことでしょう。イエスは彼らがこれまで見てきた人と何と違うではありませんか。この人と共にいると心はおのずと高まるのです。彼らのきびしい指導者と異なり,イエスは柔和で,親切で,寛大であり,愛と思いやりがありました。
6 イエスの柔和な教え方はすべての人を引きよせましたか。
6 イエスの柔和な教え方はすべての人を引きよせたわけではありません。羊のような性質をもたず,真理に対してまことの愛をいだかない人々は,イエスのやり方を愚かで非実際的であるとみなしたでしょう。よこしまな人々も応じませんでした。しかしイエスは,神の新しい事物の制度にだれかれかまわず入れようとされたわけではありません。悪を愛し,正義を憎む者をイエスは招いておられませんでした。イエスの柔和な教え方は正しい人,正義を愛する人の心にひびきました。イエスが求めたのはこうした人々です。イエスは「山羊」ではなく,「羊」を求めていました。
7 イエスがなされたように他の人をしかる場合にはどんな注意が必要ですか。
7 イエスは強い態度できびしいことばを語ったことがありますが,それはよこしまな,山羊のような人々に対してです。イエスは柔和でしたが弱くありませんでした。必要とあれば,イエスは他の人々,特に,偽善的な宗教指導者,学者,パリサイ人などを公然と非難しました。イエスは彼らに向かって,「偽善な律法学者,パリサイ人たちよ。あなたがたは,わざわいである」と何度も言いました。(マタイ 23:13-36)時おり,神のしもべは,他の人をしかる必要を感ずる場合もあるでしょう。その場合にはよほど注意しなければなりません。私たちにはイエスほどの洞察力がないからです。それで,柔和でない態度をとるのはごく例外の場合とし,その場合にはきわめて慎重に行動すべきです。この点でイエスは模範を残されましたが,イエスには今日の不完全な人間がもたない権威と識別力があったことを忘れてはなりません。
パウロは柔和に教えた
8 パウロは柔和に教えるべきことをどのように示しましたか。
8 使徒パウロはイエスの柔和な教え方が最善の方法であり,見習うべき模範であることを知っていました。それで彼は書きました。「我パウロ,自らキリストの柔和と寛容とをもて汝らにすすむ」。(コリント後 10:1,文語)テサロニケ人への第一の手紙 2章5-8節で,パウロは他の人に対する自分の態度を述べていますが,そのことばにも注意してください。「わたしたちは,あなたがたが知っているように,決してへつらいの言葉を用いたこともなく,口実を設けて,むさぼったこともない。それは,神があかしして下さる。また,わたしたちは,キリストの使徒として重んじられることができたのであるが,あなたがたからにもせよ,ほかの人々からにもせよ,人間からの栄誉を求めることはしなかった。むしろ,あなたがたの間で,ちょうど母がその子供を育てるように,やさしくふるまった。このように,あなたがたを慕わしく思っていたので,ただ神の福音ばかりではなく,自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに,あなたがたを愛したのである」。やさしく,人々を愛の心で慕ったパウロは柔和であったにちがいありません。そしてパウロは実際に柔和な人でした。
9,10 人々はパウロの柔和さにどう応じましたか。
9 クリスチャン会衆の兄弟たちはこの柔和な使徒にどのように応じましたか。パウロがエペソ会衆の古い人々に最後のわかれを告げたときの,人々の反応に注意してください。「みんなの者は,はげしく泣き悲しみ,パウロの首を抱いて,幾度も接吻し,もう二度と自分の顔を見ることはあるまいと彼が言ったので,特に心を痛めた」。(使行 20:37,38)これらのクリスチャンはこの柔和な使徒を愛し,つとめて彼のそばにいようとしました。この神のしもべと共にいると,心がやすらいだからです。もはや彼を見ないということは彼らにとってつらいことでした。この別れに儀礼的な冷たさは何もありません。ただあったのは情愛となみだと,パウロが人々に仕えたことに対する深い感謝です。
10 パウロがこの世の粗暴な態度で教えていたなら,このような純粋な愛情を受けることはなかったでしょう。心からの感謝と愛情が粗暴な人にむけられることはまずありません。粗暴さは人を引きよせず,はね返すからです。過酷できびしい主人の出立になみだを流す人はいません。見送る人々はむしろ救われたような気持ちがするでしょう。
自発心に訴える
11,12 きつい教え方はなぜ神の方法でありませんか。
11 きつい教え方や導き方は人を恐れさせます。そのようなしかたで相手の心に愛情や信頼を呼び起こすことはできません。一時の間,人を従わせることができても,それは自発心に基づくものではありません。しいられたものは概して長続きせず,何か事があれば直ちに投げ出されるでしょう。それで,強制的な服従は望ましいものではなく,また長続きしません,人間に自由意思を与えたエホバは自発心による服従を求めておられます。
12 人々は一般に粗暴,抑圧,強制などにいきどおり,抵抗します。『エジプトびとがイスラエルの人々をきびしく使』ったとき,抑圧された人々の生活はどうなりましたか。(出エジプト 1:13)出エジプト記 1章14節は,「(エジプトびとは)つらい務をもってその生活を苦しめた」と述べています。「父はあなたがたのくびきを重くしたが,わたしはあなたがたのくびきをさらに重くしよう」とレハベアム王が語ったとき,人々はエホバの予告どおり王にそむきました。(列王上 12:14)イエスはこれと対照的に,「わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽い」と言われました。(マタイ 11:30)真理を求める人々が抑圧的な宗教指導者でなく,イエスに従ったのも不思議はありません。当時の宗教指導者は,『重い荷物をくくって人々の肩にのせても,それを動かすために,自分では指一本も貸そうとはしません』でした。―マタイ 23:4。
13 パウロはどのようにピレモンの自発心に訴えましたか。
13 逃亡奴隷オネシモについて,パウロがいかにピレモンの自発心に訴えているかに注意してください。獄にあったパウロにとって,オネシモはきわめて有用でした。しかしパウロはこの奴隷の所有者ピレモンにあててこう書きました。「わたしは彼を身近に引きとめておいて,わたしが福音のために捕われている間,あなたに代って仕えてもらいたかったのである」。それでパウロはこの奴隷を自分のもとに引きとめておきましたか。そうではありません! パウロはピレモンにこう書いています。「しかし,わたしは,あなたの承諾なしには何もしたくない。あなたが強制されて良い行いをするのではなく,自発的にすることを願っている」。このような態度は大きな違いではありませんか。パウロが逆に,『さてピレモンよ,聞いてもらいたい。この奴隷はあなたのものであるが,わたしに必要なので,あなたの意向はともかく,ここにおいておくつもりだ』と書いたなら,ピレモンはどのように感じたでしょう。柔和に教えたパウロには分別がありました。彼はピレモンを粗暴に扱い,あるいはピレモンの望まないことを強制するより,自分が不便を忍ぶことを選びました。―ピレモン 13,14。
14 自発心の望ましさはほかのどんな例が示していますか。
14 惜しみなく与えることについて語った時にもパウロは,柔和な態度で人の自発心に訴えるというこの原則にならいました。彼は述べました。「各自は惜しむ心からでなく,またしいられてでもなく,自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである」。(コリント第二 9:7)ペテロは組織内の古い人々に助言し,ゆだねられる監督の地位について述べました。「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく,神に従って自ら進んでなし」。これら円熟した人々は,しいられた気持ちで神の羊を牧するのではなく,自発的な心で牧すべきでした。―ペテロ第一 5:2。
15 神のみこころを行なうにあたって,自己訓練はどんな役割を果しますか。
15 柔和な態度で人の自発心に訴えるといっても,神に献身した人のすべてがクリスチャンの務めを十分に理解しているという意味ではありません。初めのうちは,ある種の要求をむずかしく感ずる人もいるでしょう。しかしそうした事柄に対する認識と喜びをつちかうのに時間がかかるからといって,その人が務めを果たさないという意味ではありません。たとえば,福音伝道の大切さを述べたパウロは,初めのうちそれを望まない人のいること,つまりその時までに築きあげた気質から容易には伝道する気持ちになれない人のいることを認めました。パウロは述べました。「進んでそれをすれば,報酬を受けるであろう。しかし,進んでしないとしても,それは,わたしにゆだねられた務なのである」。(コリント第一 9:17)パウロはだれかほかの者から自分が強制されることを述べたのではありません。神のみこころに従うため自分の利己的な思いにうちかたねばならない人のいることを述べたのです。不完全な肉は初めのうち,正しいことを必ずしも喜んでしないからです。しかし,こうして進んでしない人でも祝福を受けられます。なぜならその人は他の者に強制されてするのではなく,自分が神を愛し,神の御心を行ないたいと願うがゆえに自らを強制しているからです。それでパウロは述べました。「自分のからだを打ちたたいて服従させるのである」。(コリント第一 9:27)それで神に対するこの種の服従も基本的には自発的なもの,自らの自由意志に基づくものです。その人は他の者から強制されているのではなく,神の御心を行なうため,自分を訓練しているからです。
他の人に伝道するとき
16 ペテロはイエスやパウロの教え方に同意していましたか。
16 エホバがご自分の新しい秩序にすまわせようとしていられるのは,真理の訴えに自発的に応ずる人です。こうした人に対して柔和な態度で行なうなら,私たちの宣教はきわめて効果的でしょう。家から家の伝道,関心を示した人への再訪問,あるいは人々の家庭で聖書を教える場合に,教え手は,やさしく柔和な態度で,論理と道義また真理の美しさに訴えるべきです。そうすれば大切な点をよく教えることができるでしょう。ペテロはこのような方法で人に教えるべきことをさとして述べました。「心の中にキリストを主とあがめよ,また汝らのうちにある望の理由を問ふ人には,柔和とおそれとをもって常に弁明すべきそなへをなし」― ペテロ前 3:15,文語。
17,18 柔和さがないと効果的に教えられないことを説明しなさい。
17 クリスチャンが柔和に教えるなら,聞き手は学ぶ事柄に心を集中しやすいでしょう。教え手に不快なそぶりがあれば,聞き手はそれに心をそらしがちです。性急で,議論ずきで,不快な態度をする教え手は,学ぶ者の注意の幾分かを学ぶ事柄から教え手に向けさせるでしょう。これは学ぶ者の進歩をはばみます。粗暴な教え手は他の人をつまずかせ,人々を真理から追い散らすことさえあるでしょう。他方,柔和に教える者はこの性質が一つの資産であることを知り,パウロのごとく,「この務がそしりを招かないために,わたしたちはどんな事にも,人につまずきを与えないようにし(ている)」と言えるでしょう。―コリント第二 6:3。
18 他の人に伝道するにあたっては非常な忍耐が必要です。ここでもクリスチャンに役だつのは柔和さです。柔和な人は他の人の進歩が遅くても,あるいは人々が福音に無関心であっても,それによって心を乱されることがありません。柔和であれば忍耐することが容易です。柔和さの欠ける人はせっかちで,怒りやすく,結果がすぐに得られないと忍耐できません。しかし,進歩が遅いとか,人々が応じないという理由で柔和さを失うならわたしたちは目的を果たせず,目ざすとは逆のことを行なう結果になるでしょう。
19 反対をうける場合,どんなことが理由であってはなりませんか。
19 柔和に教えれば人は必ず聞くという意味ではありません。事実,イエスの場合のように,どんなに柔和な人にも反対し,逆らう者がいます。しかし,福音の教え手に反対する者がいる場合,それはその人の携える音信のため,またその人が至高の神エホバを代表しているためであって,教え手の言動の無礼や粗暴さのためであってはなりません。
20,21 反対されても柔和さを失ってはならないのはなぜですか。
20 挑発されても柔和さを失わないなら,そうした反対者が心を変えることもあるでしょう。箴言 15章1節は述べています。「柔和なる答はいきどほりをとどめ,はげしき言は怒をおこす」。(文語)反対者,特に無知のゆえに反対する人を扱う際には,柔和にすることが非常に効果的であり,箴言 25章15節は,「柔らかな舌は骨を砕く」と述べています。柔和な気質はやがて大きな反対や偏見にもうちかちます。「主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって,よく教え,よく忍び,反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は,彼らに悔改めの心を与えて,真理を知らせ(て下さるであろう)」― テモテ第二 2:24,25。
21 初めは反対していても,伝道するクリスチャンの性質にうたれて音信を調べ始め,やがて献身して神のしもべになる人は多くいます。それゆえ,無分別な人に会っても,クリスチャンが「悪をもって悪に報い」ないことはなんと大切ではありませんか。しかし,たとえ反対が続く場合でも,クリスチャンは仕返しをしません。クリスチャンはサマリヤ人がイエスを迎え入れなかった時のことを覚えています。「弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った。『主よ,いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように,天から火をよび求めましょうか』。イエスは振りかえって,彼らをおしかりになった」。復しゅうは神のものです。神はさばき主であられ,かたくなな反対者をご予定の時にあしらわれるでしょう。―ローマ 12:17。ルカ 9:54,55。
クリスチャン兄弟の中にあって
22 ほかのどんなところでも柔和は必要ですか。
22 柔和さはクリスチャン会衆外あるいは家族外の人にだけ示すものではありません。そして,同じクリスチャン仲間と接するときには示さなくてよいというものではありません。むしろ,外の人に柔和にするなら,クリスチャン兄弟と接するときにはいよいよ柔和でなければなりません。柔和は外部の人にクリスチャンの見かけをよくするための着物ではありません。それはクリスチャンのひととなりの一部とならねばならないのです。クリスチャンは常に柔和でなければならず,クリスチャン会衆内の者と接する時には特にそうしなければなりません。「機会のあるごとに,だれに対しても,とくに信仰の仲間に対して,善を行おうではないか」― ガラテヤ 6:10。
23 誤解の生まれる場合でも,柔和さはどのような力になりますか。
23 クリスチャン兄弟同志の間で誤解の生ずる場合でも,柔和な心があればなすべきことを行なえるでしょう。「あなたがたは,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身に着けなさい。互に忍びあい,もし互いに責むべきことがあれば,ゆるし合いなさい。〔エホバ〕もあなたがたをゆるして下さったのだから,そのように,あなたがたもゆるし合いなさい」。(コロサイ 3:12,13,〔新世訳〕)柔和な心をつちかっている人は兄弟たちと早く和解し,神がなさるとおりに人を許します。柔和な性質の人は,「ひとと同じ心になり,思いやりをもち,兄弟愛を働かせ,ひとにやさしく,謙そんになる」ことが容易です。ペテロは「何よりもまず,互の愛を熱く保ちなさい」と述べましたが,柔和であればこの深い愛と思いやりに達することができるのです。(ペテロ第一 4:8)クリスチャン兄弟相互の関係において,柔和とやさしさと愛と思いやりほど大切なものはありませんから,これらをもって,冷酷できついやり方とおきかえねばなりません。
24 悪行に陥ち込む者をどのように助言すべきですか。
24 クリスチャンが時につまずいて悪行におちこむことがあります。この時その人に必要なのは助言です。その助言はどのようなしかたで与えるべきですか。「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら,霊の人であるあなたがたは,柔和な心をもって,その人を正しなさい」。(ガラテヤ 6:1)知らずして罪過に陥る人は,柔和な態度で正されるとき,元の道にもどる力を得るでしょう。もとより,意識的に悪行がなされ,悪を習慣とするほどに続けられる場合には,そうした悪行者を罰し,会衆を守るため,クリスチャン会衆がさらに処置をとります。―コリント第一 5:11-13。ヨハネ第二 9-11。
25,26 導く者はどのようなことに注意すべきですか。導く者は兄弟たちに対し,どんな関係にたつべきですか。
25 監督と補佐のしもべたちは柔和な心をいっそうつちかうため,十分に注意し,熱心に努力すべきです。監督やしもべたちには多くの務めがあり,むずかしい問題をいろいろ扱わねばなりませんから人間の不完全な精神や考え方に頼るなら,柔和な心を失う結果になるでしょう。必要なのはエホバに頼り,聖霊による導きを絶えずエホバに祈り求めることです。そうすれば柔和な心は保たれ,いよいよ増し加わるでしょう。牧する者がこうして神の霊の実を結び,柔和であるなら,会衆は建て起こされ,強められます。しかし,牧者がきびしいなら。会衆は弱り。散らされるでしょう。そして,クリスチャン会衆内で神の羊の群れをいつまでもきびしく扱う者は,やがて,兄弟たちに仕える特権を失うでしょう。ペテロは導く者たちに対し,「ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで,むしろ,群れの模範となるべきである」と戒めました。―ペテロ第一 5:3。
26 イエスは指導する者が兄弟たちに仕え,奉仕すべきことを教えられました。「(イエスは)水をたらいに入れて,弟子たちの足を洗い,腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた」。イエスはこのことの理由を説明して言われました。「あなたがたはわたしを教師,また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし,主であり,また教師であるわたしが,あなたがたの足を洗ったからには,あなたがたもまた,互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに,あなたがたもするように,わたしは手本を示したのだ」。別の時,イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は,仕える人となり,あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は,僕とならねばならない」。今日,神のしもべはこのような謙遜さにならおうとしています。心の柔和な者はこの点でむずかしさがないでしょう。柔和と謙遜は兄弟のような間柄にあるからです。―ヨハネ 13:5,13-15。マタイ 20:26,27。
27 ほかにどんな点で柔和さは肝要ですか。
27 会衆内の最小単位である家族においても柔和さは肝要です。父親と母親は互いを,そして自分の子供を柔和に扱い,気まぐれな感情を露骨に表わしてはなりません。家族のかしらである夫には,教えたり,こらしめたりすることが多くありますが,それらを柔和に行なわねばなりません。こうして子供を柔和に扱うことは,幼な子の心に強い感化力となります。子供は幼いうちから,人を扱うときには柔和にすべきことを学ぶでしょう。子供の成長に応じて,柔和な心も成長し,やがてそれはクリスチャンとしてのひととなりの一部になります。
28 柔和であればどんな結果がありますか。
28 それで,柔和に教えることは神の方法です。クリスチャン会衆外の者に伝道する時,会衆内の者を教えさとす時,また家族の者を教えて正す時にも,それは最良の結果を得させます。それはまた個人的にも集団的にも,人の平和と幸福に資するものです。全員が神の霊の実を結び,柔和に教え,働き,生活する人々の中で暮らすことは何と楽しいではありませんか。イエスはそのような人々が神の祝福を受けることをはっきり言われました。「柔和な人たちは,さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう」― マタイ 5:5。
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世界の人に喜びを与える結婚式ものみの塔 1967 | 8月15日
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世界の人に喜びを与える結婚式
1 結婚式が行なわれる時,ふつうどんな感興がひきおこされますか。
結婚式は幸福な出来事です。それは指折り数えて待たれ,楽しく準備がととのえられます。家族,友人が出席して新婚の夫婦を祝います。しかし国家的あるいは世界的な規模において真実の喜びをもたらすのは,どの結婚式ですか。広く報道され,もてはやされても,大きな喜びをもたらさない結婚式もあります。
2 世界中に喜びをもたらす結婚式がありますか。理由を述べなさい。
2 しかしそれを知ることによって喜がび得られるだけでなく,何百万人の人々を幸福にする結果をもたらすという点で,世界的な喜びとなる結婚式があります。この結婚式のために大がかりな準備がなされてきました。そのこと自体からみても,これは特別に喜びの時となるはずです。この重要な婚姻の発展の跡をたどり,前述の事柄の真実をしらべてみましょう。
3 この結婚式はいつ行なわれますか。結婚式をめぐる出来事のどんな描写がありますか。
3 この婚姻のことは黙示録 19章にとりあげられ,大いなるバビロンの滅びが述べられた直後に描写されています。大いなるバビロンの滅びはこの結婚式とどんな関係がありますか。この幸福な出来事の描写を読むとき,そのことにも注目してください。使徒ヨハネは,この婚姻の時,天と地の両方で何が起こるかを詳細に見ることができました。彼は,大いなるバビロンが滅びるのを見たのちに何を見たかを,次のようにしるしています。
天もかかわりを持つ
4 大いなるバビロンの滅びは,天にどんな影響を及ぼしますか。
4 「この後,わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた,『ハレルヤ[あなたがた民よ,ヤハをほめよ],救と栄光と力
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