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私の生き方は死を中心としたものでした目ざめよ! 1983 | 11月22日
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れたこの液体により血液は血管から押し出されます。それから復元作業を始めることができます。この作業は,交通事故に遭った犠牲者の場合のように,体の損なわれた部分を修復することです。ワックスや化粧品を用いたり,針と糸で特殊の縫合せをしたりして傷をカモフラージュすることもあります。学校では,こうすることにより遺族は死の現実を受け入れやすくなると教わりました。私は,死体が生きているように見えるまで体を復元することに多くの時間を費やすことがよくありました。これはやりがいのある仕事で,やせ衰えた,あるいは切断された体を生前の健康な体に似たものに復元できることを私は誇りにしていました。私はこの努力から満足感を得ました。
経費
今日,人々はさまざまな点で死の影響を被っています。大多数の人にとって,葬式は最も費用のかかる事柄の一つです。葬式にどれほどのお金を使おうと,どれほど葬式を豪華にしようと,キリスト教の原則を破らない限り,それは個人的な家庭の問題であり,批判すべきものではありません。
大部分の葬式が,故人の願いをはるかに越えているように思われる費用のかかるものとなるのはなぜでしょうか。故人は自分の遺志を知らせていなかったのかもしれません。大抵の人は,簡素な,費用のかからない葬式が好きだ,と言うことでしょう。しかし何も書き残されていないなら,選択の責任は遺族にかかってきます。聖書時代でさえ,葬式の取り決めは個人的になされました。ヤコブは死に臨んで,「わたしがカナンの地で自分のために掘り抜いたわたしの埋葬所,そこにわたしを葬るように」と息子のヨセフに言いました。―創世記 50:5。
あなたもあなたの家族も,定められた範囲内でご自分の望む葬式を自由に選ぶことができます。ある計画は人が実際に死ぬ前に立てることができます。死に際して下すべき必要な決定を,道理にかなった範囲内で前もってしておくことです。
防腐処置を施すことは必要でしょうか。米国の場合,遺体を運輸業者が運搬するときには防腐処置を施すことが法律によって定められています。ある規定時間内に最終的な処置が取られない場合には,あるいはその死が伝染病によるものである場合には,そうすることが必要であると定めている州もあります。
どのくらいの費用がかかるものでしょうか。私は,安価な木製のものから,幾千ドルもする金属製のものに至るまで,さまざまなひつぎをよく遺族の方に見せました。そのほかの費用としては,運送代,埋葬地の代金,花代,葬儀場諸施設の賃貸料,墓石の購入代金などが含まれるかもしれません。
葬式はどうしても必要でしょうか。私が準備した多くの葬式は習慣として行なわれたものです。普通の場合,それに代わるものは何も提案されませんでしたが,大体においてそうした代わりの方法は見つかるものです。中には,非常に簡素な埋葬,あるいは火葬を行ない,その後に追悼式を行なうなどして,死体の防腐処置,死体を復元して展示すること,霊柩車やひつぎや地下納骨所の費用さえ割愛したいと思う人がいるかもしれません。一方,豪華な車や家を望むのと同じように,豪華な葬式を希望する人もいるでしょう。すべての人が全く同じものを好んだり望んだりするわけではありません。葬儀屋はこのことをわきまえており,そのためにさまざまな予算の葬式を申し出,それを商売にしているのです。
親族や他の人々についてはどうでしょうか。家族の個人的な願いも考慮に入れなければなりませんが,他の人についても考えなければならないということを忘れてはなりません。小さな町に住むクリスチャンは,その地域社会の伝統を考慮に入れなければならないでしょう。個人的な必要,経済事情その他の状況により,どのような葬式を行なうかが決まるでしょう。しかし聖書的に受け入れられる習慣や伝統にしたがって行なう場合には,より良い証しが行なわれることでしょう。
賢明な決定を下してください
どんな家族にでも死が極めてひんぱんに訪れるということはありません。しかしいったん死が訪れると,それは非常に心の乱される経験となるものです。やがて死そのものは過去のものとなるでしょう。(啓示 21:3,4)その時が到来するまで,さまざまな法律,死体置場,共同墓地,葬儀屋,そして葬式は存在を続けるでしょう。しかし死が臨むときに考慮しなければならない詳細な点を幾つか前もってよく知っておくなら,それほどまごつかずにすむものです。
まず最初に調べてからでなければ新しい家を買うことはありません。それと同じように,自分の遺体をどのように扱ってほしいかを考える際には,同じ常識的な原則を適用することです。どんな手順を選ぶにしても,評判の良い葬儀場は細かな事柄に至るまで喜んであなたを助けてくれるはずです。追悼式協会も,威厳のある経済的な葬式を取り決める面であなたを助けることができます。今この問題について考えを巡らすことは,少しも病的なことではありません。むしろそれは遺族に対する円熟した洞察力と愛ある関心を示すことです。
聖書と聖書の差し伸べるすばらしい希望,つまり永遠の命の希望に関する正確な知識を得てから,私は死者よりも生きている人々により強い関心を抱くようになりました。もはや私の生き方は,死を中心としたものではありません。―寄稿。
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聴力という賜物を保護しましょう目ざめよ! 1983 | 11月22日
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聴力という賜物を保護しましょう
耳を澄ましてみてください。何が聞こえますか。時計のカチカチいう音,クーラーの機械音,街のざわめきが聞こえますか。言っていることがよく分かるほどはっきりと人の声を聞き分けることができますか。
わたしたちのほとんどがそうであるように,あなたもこの聴力のありがた味を多少忘れておられるかもしれません。しかし,重度の聴覚障害を抱えている人は米国とカナダだけでも1,500万人を上回ります。そのような人たちの生活は困難をきたすことがあります。例えば,聴覚障害をもつ子供たちは,多くの場合,他の子供と同じほど早くから話せるようにはなりません。それに,親が子供に聴力の問題があることに気づかず,“注意を払わない”と子供に向かって大声を張り上げることもあります。聴覚障害をもつ成人も彼らなりの問題を抱えています。自分の難聴が知られるようになると失業する,と心配する人もいます。あるいは,意思の疎通がなくなるため結婚生活にひびが入るかもしれません。
ですから,聴力は確かに貴重な賜物であることがよく分かります。「聞く耳と見る目 ― その両者ともエホバがお造りになった」と聖書は述べています。(箴言 20:12)では,どうすれば神からのこの賜物を保護できるでしょうか。まずは,耳が実際に音を聞くその仕組みを調べてみましょう。
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