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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
塔70 7/1 414–415ページ

読者からの質問

● 献身したクリスチャンが,他の教会で行なわれる葬式に出席してもかまいませんか。

恩義があったり,近い親族に関係したものであったり,不信者の配偶者から強制されたりして,教会の葬式にどうしても出席しなければならないと,クリスチャンが感じる場合があるかもしれません。しかし,そうする前に各人は,関係しているさまざまな問題と,取り得る別の道の有無について考慮すべきです。クリスチャン会衆は,教会の葬式に出席することを禁じてはいませんが,その行為が種々の危険や問題をはらんでいることにはまちがいありません。

まず第一に,教会は,遺族を慰める機会を友人に提供することを主目的として葬式を行なうのではありません。このことを知っておくのは賢明でしょう。普通,遺族を慰めるには,葬式の前に,葬儀場または遺族の家を尋ねればよいでしょう。教会での葬式は実をいうと宗教上の礼拝です。したがって,魂の不滅性とか,善人はすべて天に行くとかいった,聖書に反する考えを擁護する説教が行なわれる場合もあります。十字を切るなどの,聖書に反することが行なわれるかもしれません。それでなくても,他宗教の司祭や牧師の祈りにともに加わることは避けられないでしょう。黙示録 18章4節の命令を考えるなら,クリスチャンがそうした事柄に参加できないのは当然です。

この点に関して,日本の葬式は,不信者の夫を持つ献身したクリスチャンの妻にとって,真の試練となります。葬式に出席すると,出席者の名前が読み上げられ,前に出て焼香を行ない,死者に対して祈りをささげなければならないからです。したがって,日本のクリスチャンの多くは,そうした葬式には出席しないほうがよいと決めています。

遺族のそばにいて力づけてあげたいという気持ちから,教会の葬式に出席した献身したクリスチャンもいます。そして,葬儀場,葬式の行なわれる教会,さらに墓場まで同行したにもかかわらず,自分だけは偽りの宗教行為をすべて避け通せた人がいるかもしれません。しかし,偽りの崇拝が行なわれるいかなる場所にも,霊的な危険が潜んでいることは言うまでもありません。

不信者の夫が教会の葬式に出席するよう求める場合,クリスチャンの妻はナアマンの例を参考にすることができるかもしれません。ナアマンはシリアの将軍で,預言者エリシヤの命令どおりヨルダン川の水に7度つかったため,らい病をいやされました。こうして奇跡的にいやされたナアマンは,エホバ以外のいかなる神もけっして崇拝すまいと決心しました。しかし,王に仕えていた彼にとって,それは容易なことではありませんでした。王の外出に付き添わねばならなかったので,異教の神リンモンの宮に王とともにはいらねばならなかったことでしょう。王が崇拝のためにひざまずくのに手を貸さねばならなかったかもしれません。それゆえ,ナアマンはエホバに許しを請い,このことで責めないでくださいと願ったのです。エホバの真の崇拝者となったナアマン自身は,この偽りの神を崇拝してはいませんでした。王の命を受けてその場にいただけです。―列王下 5:1-19。

同じことが,不信者の夫を持つクリスチャンの妻についても言えます。親族か家族の友人の葬式のために教会にいっしょに行くよう夫が強要する場合,ナアマンのようにふるまえばよい,つまり,出席はするが,偽りの宗教行為にはいっさいあずからなければよいと妻は考えるかもしれません。しかし,行くかどうかは妻が決定しなければならない問題です。主人の望みを尊重するか,エホバに,そして神のことばで訓練された良心に従うかの問題を,妻は自分で解決しなければなりません。―ペテロ前 3:16。

そうです,良心が関係してくるのです。なぜでしょうか。なぜなら,他の人に,あるいはエホバの証人のひとりに,教会にはいるところを見られるかもしれないからです。そして,その人たちはそのためにつまずくかもしれません。したがって,クリスチャンの妻はこの可能性をも考慮しなければならないのです。使徒パウロは次のように書いています。「あなたがたがより重要な事柄を見きわめて,キリストの日に至るまで,きずなく,また他の人をつまずかせることなく」― ピリピ 1:10,新。

それよりも,妻が自分の立場を夫に説明するほうがまさっていませんか。そのためには,王妃エステルの例にならって,夫がくつろいでいて,きげんのよいときを選ぶのが賢明でしょう。そして,教会の葬式にどうして出席できないのかを巧みに説明できます。たとえ出席しても,自分が儀式に参加しないため,他の人々,特に夫がたいへんな迷惑をこうむりはしないか,ということも指摘できるでしょう。そうすれば,妻に対する愛と妻の宗教上の良心に対する尊敬のゆえに,また,迷惑をこうむりたくないという気持ちから,不信者の夫でも妻の意向に同意するかもしれません。―エステル 5:1-8。

しかし,葬式に出席しないなら,遺族の感情が傷つけられるのではないでしょうか。人がなくなったことを完全に無視しないかぎり,そのようなことはありません。またそれを無視する必要もありません,同情と援助の気持ちがあることを,なんらかの形で示せます。事前に葬儀場に行き,遺族に慰めのことばをかけ,何か実際に手伝うことができます。必要なら食べ物を持っていったり,家族のために食事を作ってあげたり,子どもの世話をしてあげたりなどして,そうした責任を一時的にでも軽くしてあげることができます。そうすれば,単に教会の葬式に出席しないからという理由で愛の欠けた人だと遺族は考えないでしょう。

したがって,他のすべての人がある偽りの宗教行為をするときに,圧迫に屈して人々と同じ行為をするように誘惑されるおそれのある,教会や他の宗教組織の葬式に,クリスチャンが出席しなければならないと感ずる必要はどこにもありません。こうして,背教の行為をしたり,エホバ神の不興を招いたりする危険を避けることができます。しかし,各人がその事情と自分の良心に基づいて,自分で決定しなければなりません。

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