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  • 宝くじと勝負事 ― 無害なものですか
    目ざめよ! 1982 | 9月22日
    • 宝くじと勝負事 ― 無害なものですか

      そのパンフレットには,「100万㌦の冒険」といううたい文句が記されています。宇宙船と惑星というきれいな絵を背景に,次のような宣伝文が書かれています。「地上最大の冒険をお楽しみになるあなたに,“幸運の女神”が共におられますように」。面白そうに思えますか。これは,カトリックの教区付属学校の援助を目的とした,幾百万ドルもの賞金の当たる宝くじを奨励する言葉です。

      その賞は魅力的です。幾百万ドルもの現金,数台の車,フロリダ州の分譲アパート,飛行機,ヨーロッパ旅行などが当たるのです。当たらなかった人はどうなりますか。自分の使ったお金が教育という大義を促進したことを知り,少なくとも慰めを得ます。この取決めに一体どんな害があるというのでしょう。

      少なくとも一つの問題が生じます。ある十代の少年が学校から家に帰るなり自分の母親に向かって,280㌦(約6万4,400円)相当の券を売ることになったと言いました。新聞の報道によると,その母親バレリーは息子にそれを許しませんでした。バレリーは神経症的賭博者を助けるために,自分の自由な時間の多くをささげていたのです。神経症的賭博者とは,深酒をする人がアルコールにおぼれるように,賭け事におぼれる人のことです。この母親は,特に十代の少年にとって,賭け事の魅力にどんな危険が伴うかを知っていたので,自分の息子がそれに巻き込まれることを望みませんでした。

      あなたがこの母親の立場にいたら,どうなさいますか。この母親は偏狭だったのでしょうか。賭け事とは,正当な形の娯楽であり,お金もうけの手ごろな手段なのでしょうか。それとも危険なものですか。

      当局者は警戒している

      賭け事ははるか昔から,少なくとも古代エジプトの時代から存在していました。しかし興味深いことに,当局者は常に賭け事に対して警戒の目を向けてきました。中世には,大酒や悪い言葉と結び付くという理由で教会がそれに反対しました。怠惰,倹約の欠如,欺きや犯罪につながると考えられたので,国家がそれに反対しました。

      当局者は正しかったでしょうか。賭け事が今なお悪い慣行と結び付いていることは注目に値します。例えば,US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌は,1979年の一人当たりの犯罪発生率が米国で最も高かったのはネバダ州にあるアメリカの“賭博の中心地”ラスベガスだ,と述べ,こう付け加えています。「この都市では1万人の売春婦が活動している。その数は,同地域における15歳から39歳までの女性9人に付き一人……という勘定になる。この州のアルコール中毒患者の割合は全国でも最も高く,自殺率も全国平均の2倍を上回る」。

      売春と賭け事の関係について,賭博場の支配人は次のように説明しています。「ドライジンとトニックウォーター,スパゲッティとスパゲッティソースのように,この二つはいつでも一緒だ」。ですから,賭け事について不信の念を抱いていた昔の当局者たちは正しかったと言えるでしょう。

      もう一つ注目に値するのは,賭博場のあるヨーロッパの国々の大多数においては,一般民衆の賭け事は禁じられているということです。なぜでしょうか。ブリタニカ百科事典はその一つの理由を示し,近くに賭博場があって自由に出入りできることは,余りにも多くの市民にとって非常に大きな誘惑になる,と当局者から見られていることを明らかにしています。

      このような懸念には十分な根拠がありますか。確かにあります。驚くほど大勢の人々が,賭け事となると自制心を失います。英国の警察当局は,同国の賭博場に出入りする人の数が増加していることについて語り,こう述べました。「こうした場所に習慣的に出掛けてゆくなら,数多くの難しい家庭問題が生じることに疑問の余地はない。貧しい人の場合は,必ずと言ってよいほどそうである」。

      賭け事の楽しさは,正にそれにおぼれてしまうところまで発展しかねません。「賭博癖自主治療協会」と呼ばれる一つの団体があります。それは,「アルコール中毒者自主治療協会」という団体がアルコール中毒者に対して行なうような援助を,賭け事におぼれている人々に差し伸べる機関です。それらの人々は助けを必要としています。過去において,アルコールとたばこだけではなく,賭け事にもおぼれていた一人の婦人は,賭け事へのやみ難い欲求を制することに比べたら,アルコール中毒とたばこ中毒を克服することははるかに簡単であった,と報告しています。

      「ささやかな」賭け事の場合はどうか

      中にはこう言う人がいるでしょう。『でも私は賭け事にやみつきになっているわけではありません。せいぜい時々勝負事に関する券を買ったり,自分の好きなフットボールチームにお金をかけたりするぐらいだと思います。何も問題はありません』。しかし多くの場合,正にこうしたことがきっかけとなって様々な問題が生じてくるのです。

      70歳になる男の人が,宝くじを偽造したかどで,カナダのある法廷に立ちました。この人は自分の蓄えのすべて,2万2,000㌦(約506万円)を宝くじのためにつぎ込んだということでした。なぜそんなことをしたのでしょうか。「くじを買い始めると,どうしても賞を得ようという気になります。あの魅力的な宣伝文が心をかり立てるのです」と,この人は語りました。

      もちろん,宝くじや勝負事に関する券を買う人がすべてそれにおぼれるわけではありません。しかし先に述べた教会の宝くじの場合のように,すべての人が「あの魅力的な宣伝文」に踊らされてしまうのです。そのことは何を表わしますか。

      カナダの心理学者ジェリー・クーパーはこう述べています。「宝くじが言わんとしているのは,『大金持ちになりなさい……それしかありません』ということです。勤労倫理にもとることが宣伝されているのです」。オーストラリアの心理学者チャールズ・ケンナもそれに同意し,こう述べました。「賭け事をすると,現実を否定するようになり,人々が願望的思考に陥りやすくなることを私はいつも目撃してきた。彼らは,働くより,賭け事をしたほうが,はるかに早くお金が手に入ると考えている」。

      そうです,これらの二人の心理学者,そして彼らの意見に同意する多くの人々は,賭け事には人々の願望的思考,金銭への愛,そして怠惰な態度が反映されていると考えています。

      あなたはどう見ていますか

      では,バレリーが息子に宝くじの販売をさせなかったのは偏狭なことだったでしょうか。これらの事実を知っていればきっと他の多くの親たちも正しい決定を下したことでしょう。宝くじ,富くじ販売,勝負事,また他のささやかな賭けなどは,賭け事という危険な世界の縁に人々を追いやります。賭け事は人にどんな良い影響も与えませんが,害は与え得るのです。不健全な楽しみが高じて,それに没頭したりおぼれたりする場合が少なくありません。少なくとも時によっては,不道徳や犯罪と結び付きます。また,常に人間の基本的な弱点に訴えます。

      『賭け事に良い目的がある場合はどうか』と,尋ねる人がいるでしょう。例えば,学校で何らかの新しい設備が必要な場合,そのための資金を集めるために富くじ販売を組織することがあるかもしれません。賭け事に反対の立場を取る人々は,こうした場合にその富くじや宝くじを買うのではなく,直接的な方法で貢献することもありました。このように,賭け事に反対の立場を取るとしても,そのために望ましいと思われる援助を差し伸べないわけではありません。

      真のクリスチャンは賭け事に対しては特に注意を払います。どん欲,怠惰,自制心の欠如,不道徳,犯罪などは神に喜ばれることではなく,自分たちにとっても危険であることを悟っているのです。(テモテ第一 6:9,10。箴言 6:6-11。テモテ第二 3:2,3,5。エフェソス 5:3)さらに,この世には,害をもたらす数多くの誘惑が既にあることを彼らは理解しています。賭け事のような有害な慣行に身をさらすことによって,その誘惑の数を自ら進んで増やすことは賢明ではありません。

  • 自分の健康を守る
    目ざめよ! 1982 | 9月22日
    • 自分の健康を守る

      「患者の擁護者」と題する本によると,人々は自分の健康を守る上でこれまで以上に責任を負う必要があります。著者のバーバラ・ハットマン女史は,患者また看護婦としての35年にわたる自分の経験を基にこの本を書きました。入院する人はみな,配偶者や親しい友人など,「擁護者」となってくれる人,つまり患者の病気が重くて質問できないときに的確な質問をして患者の権利を守る人を同行すべきである,と同女史は確信しています。

      ハットマン女史の説明によれば,看護婦は必ずしもいつも治療のミスから患者を守れるわけではありません。統計によると,一人の患者の部屋に毎日,病院の職員57人が入るからです。結果として,「確率の法則により,患者は必ず人為的ミスにさらされる」ことになります。どのようなミスがありますか。投薬ミスや誤診,研究所での検査結果を別の患者のカルテに書き込むことによる人違い治療などがあります。

      看護婦である同女史は次のような事例を語っています。「私の勤める病院に,医師から梅毒であると告げられた55歳の婦人の患者がいた。その患者はヒステリーを起こしていた。一人の男性と結婚して35年間連れ添い,その間自分が浮気をすることはおろか,夫に別の女性がいるなどとは考えたこともなかったのである。実を言うと,研究所で別の人の検査結果を彼女のカルテに書き込んでしまったのであった。そうこうしている間に,その患者は離婚の手続きをかなり進めてしまった」。

      この看護婦は入院患者に対してどのようなことを勧めているでしょうか。患者や患者の擁護者にとっておかしいと思えることがあったら,ぐずぐずせずに質問してみるべきである,とこの看護婦は力説しています。そして次のようにも言葉を加えています。「だが,そうすることはめったにない。どうしたわけか,質問することは許されていないと感じているのである」。

      この本の著者は,医師の立場をも弁護して,大抵の人は自分の健康に対して責任を取ろうとはしない,とも書いています。しばしば,大量にたばこを吸い,暴飲暴食にふけり,それでいて病気になると医師が奇跡を行なうことを期待します。ハットマンはこう語っています。「つまり,我々が期待している医師像は神のような力を持った人物なのである。医師が答えようとしても,それに耳を傾けたがらないことが少なくない。子供のように,医師のところに行き,『ここを治して』と言うことを望んでいるだけなのである」。この本が言わんとしているのは,大抵の患者は自分の健康を守る面でこれまで以上に多くの責任を担う必要があるということです。

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