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ガンジー ― 多くの人に仰がれる理由目ざめよ! 1984 | 7月8日
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ガンジー ― 多くの人に仰がれる理由
わたしたちは,発展途上国の危機が深まり,その一方で西側の豊かな社会が社会不安に悩み,全世界が核の恐怖の影に覆われている時代に住んでいます。ガンジーの非暴力の哲学は,争いに引き裂かれたこの世界に問題の解決策を差し伸べているでしょうか。インドの一ジャーナリストによって書かれたこの記事は,ガンジーとその非暴力の理想とを考察するものです。
ガンジー。この名は読者にとって何を意味しますか。平和を愛し,非暴力の世界を見たいと願う人であれば,ガンジーが非暴力の父と呼ばれていることをご存じかもしれません。
7億3,000万人を超すインド人の一人であれば,バプー,つまり父としてのガンジー,糸車を手にして,インドに独立をもたらした,きゃしゃな男性の穏やかなイメージを思い起こすことでしょう。ヒンズー教徒であれば,ガンジーを霊的な指導者とみなし,マハトマ,つまり「偉大な魂」と呼ぶでしょう。しかし,生まれや信条のいかんを問わず,人々はガンジーが並外れたカリスマ性を備えた指導者であることを認めることでしょう。
ガンジーはやせた顔の,大きな目をした小柄な人でした。顔の割には大きな鼻が,丸い眼鏡を支えていました。くぼんだ両ほおの間には,歯のない口が笑みをたたえていました。写真の中のガンジーは大抵,糸車を持ってあぐらをかいているか,腰布に木綿の肩掛けという姿で訪問者にあいさつをしています。
第一次世界大戦後ほどなくして,ガンジーは,「私が暴力に反対するのは,それが善を成し遂げるように見えても,その善は一時的なもので,それがもたらす悪は永続的なものだからである」と語りました。
今日の世界はガンジーが生きていたときよりもひどい状態にあります。中南米,アフリカ,中東そしてさらにはインドの町や村で起きていることを一見すれば分かります。問題解決の手段として暴力に訴えることが習慣になって深く染み込んでいます。大抵の人は押されれば押し返します。それでもまだ押されると,やり返してけんかになります。裕福な国々も,この点で影響を受けずにはすみません。国家主義的な憎しみ,人種問題のからんだ暴力行為,犯罪,核戦争の脅威,環境破壊などは普通のことになっています。「世界が非暴力を取り入れなければ,確実に人類の自殺を招くことになる」と,ガンジーは語りました。憎しみは愛によってのみ乗り越えることができ,国民やグループだけでなく,各個人が非暴力を実践しなければならない,とガンジーは述べました。
例えば,皮膚の色が違うというだけの理由で隣人を憎み,暴力を振るうよう人を促すものは何でしょうか。ガンジーは次のように述べています。「神の人はだれもほかの人を自分より劣った者とみなすことはできない。どんな人でも,自分の血のつながった兄弟であるとみなさなければならない」。ガンジーがこの言葉を述べてから63年たった今も,この世界では依然として,平等という基本的な概念をめぐって闘いが続いています。
偉大な指導者や思想家がまれにしか見られないとき,ガンジーのことを思い起こし,そこに解決策を見いだそうとする人々がいます。では,ガンジーはどんな人だったのでしょうか。ガンジーの理想はどのようなものでしたか。そうした理想はどのようにして形作られたのでしょうか。この不安定な時代に,ガンジーの方法は解決策となりますか。
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ガンジー ― この人物を形作ったものは何か目ざめよ! 1984 | 7月8日
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ガンジー ― この人物を形作ったものは何か
ガンジーを理解するには,その初期の思想を形作った二つの出来事を思い起こさなければなりません。それは1869年にまでさかのぼります。インド北西部のグジャラート州は,乾燥した熱風の後に生じる洪水の被害で疲弊します。その地でガンジーは,大抵のグジャラート人と同様に自州内に大勢のバラモン(司祭者のカースト)がいることを誇りにする何不自由ない家庭に生まれました。ヒンズー社会は伝統的に四つの主要なカースト,つまり階級に分かれていて,それぞれを分けるはっきりした区別がありました。(5ページの囲みの記事をご覧ください。)
18歳の時に,ガンジーは法律を学ぶために英国へ行く途上,初めて汽車の旅をしてボンベイに向かいます。幼いころ結婚した妻のカストルバーイーと一人の息子をあとに残します。汽船クライド号に乗船する前に,自分の属するカーストの長老たちの前に呼び出され,もし英国へ行くなら,そのカーストから正式に追放されることになると,はっきりした言葉で告げられました。なぜでしょうか。「ヨーロッパ人と飲み食いを共にしなければならなくなる」と長老たちは主張します。「英国に行くことは,少しも我々の宗教に反することではないと思う」と,ガンジーは答えます。そのカーストの長老たちは白人と交わることをタブーと考えていました。白人は肉を食べ酒を飲むので汚れていると考えていたのです。それはカースト差別の裏返しだ,とガンジーは抗議します。ガンジーが哀願しても長老たちは立場を変えず,ガンジーは自分の属するバイシャ(農民と商人)のカーストから追放された者としてインドを離れます。
ガンジーにとって英国での生活は容易なものではありません。外国人というだけでなく,“植民地”のインドの人間ということで,英国社会の周辺部でしか活躍できませんでした。ガンジーは,自分を差別する人々がクリスチャンと自称していることに困惑を覚えます。ガンジーはすでにキリスト教に対する一つの考え方を持っていました。ガンジーはこう書いています。「私はそれに対して一種の嫌悪感を抱くようになった。それにはそれなりの理由があった。当時,[インドの]キリスト教の宣教師たちは高校の近くの交差点の角に立って……ヒンズー教徒とその神々を罵倒していたものである。これには我慢がならなかった」。同様に英国で,いわゆる“クリスチャン”の示す差別は,ガンジーにとって耐え難いものと思えます。ガンジーはどんな判断を下しますか。『私はキリストを愛するが,クリスチャンをさげすむ。なぜなら,彼らはキリストのような生き方をしないからである』。
法律の学位を取って英国を離れたガンジーは,南アフリカで開業しようとします。その地で,ガンジーは当初から人種的偏見を目にします。1等車の切符を持っていたにもかかわらず,ガンジーはその車室から追われ,有色人種用の有蓋貨車で旅をしなければならないと言われます。ガンジーの抗議はまったく聞き入れられず,列車から無理やりに下ろされて,待合室に置き去りにされ,一夜を明かすことになります。
重大な決定
その晩ガンジーは,決して力に屈しないこと,そしてある目的を成し遂げるために力に訴えるようなことは絶対にしないという決意をしました。その出来事を思い起こして,ガンジーはこう書いています。「私の被った苦しみは表面的なものであった。それは皮膚の色に関する偏見という根深い病気の一つの症状にすぎなかった。私はできればこの病気を根絶することに努め,その過程で苦しみを忍ばなければならない」。
では少しの間,ガンジーの生涯中に生じた,そしてその生き方を決めるものとなったこれら二つの出来事に戻って考えてみましょう。最初の出来事では,英国へ行く前に,ガンジーは白人と交わりたいという願いを抱いていたために,自分の属していた人々から退けられました。2番目の例では,その白人がガンジーをその皮膚の色のゆえに列車からつまみ出したのです。ガンジーが激怒したのは,単に自分が傷つけられたり侮辱されたりしたためではありませんでした。皮膚の色が違うという理由で人間が人間に対して示す,非人道的行為という根深いガンに激怒したのです。
後日ガンジーは,「白色人種の側に有色人種に対するこの蔑視がある限り,問題は絶えないであろう」と書きました。大変興味深いことに,ガンジーの裁断は,皮膚の色の違いに基づいたカースト制度を幾千年にもわたって存続させてきたインド人にもまったく同様に当てはまりました。この人種差別の場合には,インド人対インド人,バラモン対不可触賤民の差別でした。
不可触賤民に自尊心を
インドに帰ったガンジーは,カースト差別によって助長された,憎しみに満ちる分裂や傷跡を目にしました。自分たちの国の不可触賤民の兄弟たちに対して過ちを犯しているというのに,どうして英国人を非難できるだろうか,とガンジーは考えました。「不可触賤民の制度はヒンズー教最大の汚点であると思う」とガンジーは語っています。ガンジーによれば,不可触賤民の制度を是認することにより,ヒンズー教は罪を犯しました。
ガンジーは不可触賤民を啓蒙する活動に入りました。不可触賤民と一緒に生活し,一緒に食事をし,そうした人々のトイレを掃除し,彼らの自尊心を取り戻させようとしました。そして,彼らに品位のある名称を与えました。彼らはもはや不可触賤民ではなく,ハリジャン,つまり神ビシュヌの民なのです。「私たちヒンズー教徒は,今まで行なってきた誤りを悔い改める必要がある。……私たちは彼らから奪ってきた生得権を彼らに返さなければならない」とガンジーは書きました。
ガンジーによれば,ハリジャンの生得権とは何でしたか。すべての人間の基本的な生得権である,人間の尊厳です。ハリジャンは動物としてではなく,何よりもまず人間として扱われることを望んでいる,というのがその主張でした。そうした権利をハリジャンから奪ったのはだれでしたか。ガンジーによれば,それは仲間のヒンズー教徒でした。「歴史に残る最も残忍な犯罪は,宗教を隠れみのにして行なわれた」とガンジーは語りました。そして彼は,低いカーストのヒンズー教の崇拝者たちに対して幾世紀もの間門戸を閉ざしていた大寺院に入るのを拒否して,インド全体を辱めました。ガンジーは集まった群衆に対して,「ここに神はいない。ここに神がいたとしたら,だれでもそこに入れるはずだ」と話しました。あるとき,一目で裕福な人と分かる宣教師がガンジーのところにやって来て,インドの村々でカースト外の賤民をどのように助けたらよいかについて助言を求めました。ガンジーの答えはキリスト教に対する挑戦となりました。「私たちは一段高い所から下りて,彼らと生活を共にしなければなりません。部外者としてではなく,あらゆる点で彼らの一人になり,その重荷や悲しみに共にあずかるのです」。
「非暴力行動の辞書には,“外部の敵”などというものはない」とガンジーは言いました。一人の現代の著述家が述べているように,世界の将来そのものが危うくなっていくにつれ,すべての不和は“内的”なものになることが考えられるので,人類を救うことを目ざすなら,すべての人の人間性を尊重しなければなりません。カースト制に基づく差別は敬意というものを否定するので,人々は苦しみます。その人たちの苦しみはもはや無言の苦しみではなく,犯罪や暴力の統計に現われています。そこで次のような質問が生じます。ガンジーの理想は功を奏したでしょうか。インドにおける非暴力はどんな状態にありますか。ガンジーの理想は世界全般にとってどれほど実際的なものでしょうか。
[5ページの囲み記事]
カーストと色
ヒンズー教の神学的な著述であるマハーバーラタはこう述べています。
1. 「バラモンの色は白[最高のカーストで,司祭者や学者から成る]
2. 「クシャトリヤの色は赤[第2位のカーストで,武士や貴族から成る]
3. 「バイシャの色は黄[第3位のカーストで,農民や商人から成る]
4. 「そしてシュードラの色は黒[第4位のカーストで,肉体労働者]」。
これらの下に,社会の構造から分けられて,清くない者たち,不可触賤民がいました。
このカースト制度について,ヒンズー紙は次のように伝えています。
「マンダル委員会は,カースト制度が廃れつつあるという憶測にはいかなるものにも警告した。……宗教が大衆のアヘンとして用いられたことがあったとしたら,それはインドにおいてであった。少数の僧職者階級は大多数の人々の考え方を慣らしてしまう巧妙な過程により,長い歳月にわたって人々を催眠術にかけ,奴隷の役割を謙遜に受け入れるように仕向けてきた。……同委員会によると,カーストが個々の人の生活のあらゆる面を条件づけ,左右してきたため,身分の低いカーストは社会的にだけでなく,教育的にも,経済的にも,政治的にも遅れているのに,身分の高いカーストはあらゆる面で進んでいるという状況を生み出した」― 1982年5月4日付。
[6ページの囲み記事]
もしも不可触賤民だったら
● 道路を掃くか,便器を掃除するか,死体を扱う
● 自分よりも高いカーストの人の家に入ることはできない。バラモンは不可触賤民がヒンズー教の寺院に入るのを許さない
● 子供たちはそのカースト外で結婚することはできない
● 都市では疎外された,無断居住者の部落に住み,食物や住居や水などの基本的な必要物を得られない
1950年以来,インドでは不可触賤民制度は非合法化されています。ところが,インド全国の千ほどの村を対象にした最近の調査が明らかにしたところによると,不可触賤民に対し,61%の人々は自分たちの井戸を使わせず,82%の人々は寺院に入ることを許さず,56%の人々は家に泊まることを拒否し,52%の洗濯屋は不可触賤民の物を扱うことを拒み,45%の床屋ではひげそりを拒みます
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暴力の世における非暴力目ざめよ! 1984 | 7月8日
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暴力の世における非暴力
ボンベイでの生活は絶え間ない雑踏の中での生活です。昼間は街路に人があふれ,夜になると,10万人以上の人が舗道で夜を明かします。
インドのほとんどの都市や町はそのような状態にあります。つまり人があふれていて,極端に貧しいのです。住宅ときれいな水はほとんどなく,食糧は貴重です。
自分が横3㍍縦4㍍の部屋に,5人ないし8人の人々と一緒に生活する様を,少しのあいだ頭の中に描いてみてください。部屋のすみが貸間にしてあったり,人々が交替で寝たりするかもしれません。生活の大半は路上や舗道の上で送ります。毎朝歩いて近くの水場に行き,バケツで水をくみますが,水は汚染されています。長時間重労働に携わっても,得られるお金はその日家族がやっと食べてゆけるだけの額にすぎません。どんなに一生懸命がんばったところで,事態を変えることはできません。周囲にいる人たちが飢えや病気で毎日のように死んでゆくのを見ます。絶望感で意気阻喪してしまいます。
でも,そのような人には少なくとも生活基盤があり,家があります。ところがご多分に漏れず,インドにも別の面があります。自分の家と呼べる場所を持たず,どぶや道端に近い,建物の間やすきまに居座っている人々です。そうした人々は疎外された人たちの部落を形作っています。老人も若い人も,女も子供もおり,着る物も満足になく,死にかけています。その人たちは十分に物を食べたことが一度もない人々です。そうした人々の望むことと言えば,その日一日を生き延びることだけなのです。
これは楽しい情景ではありません。言うまでもなく,どこでも同じですが,インドにも裕福で教養のある人々がいます。しかしそうした人は少数派です。人口の着実な増加に伴って,貧しい人々の階級が裕福な人々の数をしのぐようになりました。この派手な消費と,かろうじて生きてゆくだけの生活との対立が,暴力行為のおぜん立てをするものとなります。
暴力の傾向
「不景気と変化というゆがんだ針金でぐるぐる巻きにされたインドは,いまや暴力のあふれる,残忍な,醜い社会になっている」と,バハバニ・セン・グプタは自分の書いた,「インドは文明化されているか」という記事の中で述べています。インドでは,依然として毎年幾千人もの若妻が十分の持参金を持ってこなかったという理由で姻戚や夫の手で生きながら火あぶりにされています。200万人ほどの女性が婦女暴行に遭い,さらに幾十万ものほかの犯罪が起きています。5万人もの人が失意や絶望に打ちひしがれて自殺しますが,その大半は若い男女です。1978年には9万6,488件の暴動がありました。全国的な規模での幅広い犯罪統計は1978年以降ほとんどありませんが,このような断片的な報告から犯罪が減少せずに続いていることが分かります。
インドの社会学者S・C・デューブによると,犯罪や暴力の傾向を助長しているのは,人々の望むものと実際に得るものとの間に大きな隔たりがあり,特権階級がより大きな分け前を求める恵まれない人々の高まりつつある要求から自分たちの蓄積した利得を守ろうとしている状況です。
暴力や残虐行為は都市に限られたことではなく,地方でも爆発的に増えています。インドの経済学者B・M・バーティアによると,地方での暴力行為の発生率が高くなっているのは,「地主と土地を持たない労働者の間のみぞが広くなっている」ことの結果です。そのために,人命や資産に大きな被害が出,価値観がひどく損なわれています。「弱者や貧者たちはもはや,権力者や金持ちの力と欲に屈する雰囲気にはない。彼らは殴り返すようになり,自分たちの権利を主張し始めた。古代からの伝統ある金持ちの暴力に,新たに起こった貧者の暴力が加わった」と,グプタは書いています。
色あせた夢
「私は……インドが非暴力を国の信条とし,人間の尊厳を保つことを,最後の息を引き取る時まで希望しなければならない」と,ガンジーは1938年に書きました。それから46年後,インドは多くの種類の社会的暴力に揺れています。そしてグプタによると,「インドは人間の尊厳を守ることもできないでいる」のです。
タイムズ・オブ・インディア紙によると,ガンジーの音信に人気があるにもかかわらず,「空前の暴力が国じゅうにまんえんし,追いはぎ行為,婦女暴行,および強盗が日常茶飯事になってきている」とのことです。
インドに対するこの評価は,世界のほかの国々にも当てはまります。ほかの多くの国々に住む人々にはインド人の多くに与えられていない教育が与えられていますが,インド以外の世界の国々もやはりガンジーの挙げた七つの社会悪に染まるという過ちを犯しています。すなわち,『節操のない政治,労働によらない富,良心のない快楽,徳性のない教育,道徳心のない商業,犠牲の伴わない崇拝,および人間性のない科学』です。確かに,非暴力に基づく世界というガンジーの理想は色あせた夢となっています。
計算の上では,今から15年後にインドの人口は10億になります。その内の6億人は貧困に打ちひしがれていることでしょう。3,000万ないし5,000万人の若者は失業しているかもしれません。このような統計は不吉な将来を描き出します。
非暴力というガンジーの崇高な訴えは,それが芽を出したインドで真に根を張ることができませんでした。なぜでしょうか。その失敗の原因は,音信そのものにあるのではありません。また,ガンジーが悪いわけでもありません。ガンジーの目指したものは確かに博愛的なものでした。しかし,ガンジーは人間にすぎませんでした。彼が教えることのできた事柄もその教えを受けた人の数も限られていました。人々は学んでも,すぐに忘れてしまいます。歴史はその事実を証言しています。
それでは,人々が非暴力を貫くのは不可能なのでしょうか。インド人だけではなくて,平和に生きるよう全人類に教えることのできる人がいるでしょうか。それにはどんな種類の教育が関係していますか。非暴力の世界がいつの日か実現するでしょうか。
[8ページの図版]
インドの都市の典型的な街路の風景
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非暴力は世界中で現実のものとなりますか目ざめよ! 1984 | 7月8日
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非暴力は世界中で現実のものとなりますか
「人生は単に生き延びるかどうかの問題ですね」。一人の女性はボンベイへ向かってスピードを速める満員の列車の中でそう言いました。その人は,容赦なく降る雨期の雨につかった貧民街が幾キロも続いて美観がすっかり損なわれた景色をながめていました。「近ごろの人々は価値観というものを持っていません。だれも自分以外の人のことは考えなくなっています。伝統的な価値観でさえ,その影響力を失ってきています」とその女性は言葉を続けました。
この女性の観察は,定まった倫理的価値観の体系を何ら持たずに存在している無数の人々の生活を反映していました。貧富の別を問わず,そうした人々は受け継いだ道徳律をさえ,現代の生活には役立たないとか現代の生活をあまりにも拘束しすぎるとして,退けたり放棄したりしています。そうした人々は,自己の法則,つまり自分が生き延びることと自己満足とをもってそのような道徳律に代えています。
安定をもたらす価値観が全くないために,苦もんや怒りを味わうようになった人は少なくありません。暴力のあふれる世にあって,自己防衛はごく普通の戦術となっています。そして,大勢の人々が『攻撃は最大の防御』と信じているために,暴力は,言葉によるものであれ腕力によるものであれやはり暴力を生み出します。
『危険に満ちた時代』
全人類の創造者はこのような時代,つまり人々が神から与えられた価値観を退け,そのためにもがき苦しむ時代が来ることを予見しておられました。その結果は,2,000年近く前に言い表わされた知恵の言葉の中で,わたしたちのために明らかにされています。「しかしあなたは,終わりの日に,その時代が危険に満ちたものとなることを認識しなければなりません。人々は全く自己本位になり,金銭に貪欲で,大言ばかり吐くようになります。彼らは誇ったり,人を侮辱したり,親から教わった事柄を全然顧みなくなります。彼らは感謝の念や,崇敬の念や,正常な人間の愛情の全く欠けた者になります。……彼らは見せ掛けだけの『宗教』を維持しますが,彼らの生活はその真実さを否定するものとなります」― テモテ第二 3:1-5,J・B・フィリップス訳「現代英語の新約聖書」。
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