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  • ポンテオ・ピラト ― ローマの政治家
    ものみの塔 1971 | 12月1日
    • します。イエスはみずからを「神の子」と称していると彼らが述べるのを聞いて不安にかられたピラトは,イエスを中に引きいれて,さらに尋問します。ピラトはイエスを釈放しようと最後の努力を払いますが,逆に反対者たちから,ピラトはカイザルにそむく罪を犯すことになりかねないと警告されます。その脅迫のことばを聞いたピラトは裁きの座に着き,祭司長たちが王としてのイエスを再び拒絶し,「カイザルの他われらに王なし」と断言するに及んで,イエスを刑柱に釘づけにさせるため身柄を彼らに渡しました。―マタイ 27:1-31。マルコ 15:1-20。ルカ 23:1-25。ヨハネ 18:28-40; 19:1-16。

      前述のことからして,ピラトは典型的なローマの支配者であることがわかります。ピラトは目下の者に腰の低い人間でないことは明らかですが,それにしても忠誠心の欠如をあらわにしています。彼は第一に自分の地位のことが,つまり自州内でさらに騒ぎが生じ,それが上官の耳にはいった場合,なんと言われるだろうかということが心配だったのです。扇動の罪で告発された者たちに対して寛大すぎると思われはしまいかと恐れました。ピラトはイエスが無罪であること,またイエスの告発者たちを動かしたのはねたみであることを知っていました。それにしても,ピラトは自分の政治的経歴を傷つける危険を冒すよりも,群衆に屈することをよしとし,無実の人間を殺させました。

      ヨセフスは,ピラトは後日,その上官であるシリヤの総督にサマリヤ人から訴えられたことが原因となって解任されたと報じています。そして史家ユーセビウスによれば,ピラトは自殺したとされています。

  • エデンの園はどこにあったか
    ものみの塔 1971 | 12月1日
    • エデンの園はどこにあったか

      エホバ神が最初の人間夫婦,アダムとエバのための住みかとして設けられた美しい園もしくは庭園は,エデンとして知られている地域の一画に位置していました。ゆえにそれは,「エデンの園」と呼ばれました。アダムとエバは不従順ゆえにその楽園のような住みかを追われました。その楽園のような住みかに戻る道は明らかに,大洪水の荒れ狂う大水でその園が拭い去られるに至るまでケルビムと燃える剣によってさえぎられました。―創世 2:8,15; 3:24。

      エデンの園の位置についてモーセはこう書きました。「河エデンより出て園を潤し彼処より分れて四の〔かしら〕となれり其第一の名はピソンといふ是は金あるハビラの全地を繞る者なり……第二の河の名はギホンといふ是はクシの全地を繞る者なり 第三の河の名はヒデケルといふ是はアッスリヤの東に流るるものなり第四の河はユフラテなり」― 創世 2:10-14,〔新〕。

      大洪水前に存在したクシ,ハビラ,アツスリヤ(アシユル)の地域の名称は,ノアの子孫に由来するものであることがわかります。(創世 10:7,22,29)古代の地理的な名称としての「クシ」は事実上エチオピアの同義語となりました。ハビラと呼ばれる地域はアラビア半島北西部を含め,シユルの荒野があったと考えられるシナイ半島まで,あるいはその近くに及ぶ地域とされています。(創世 25:18。サムエル前 15:7)創世記の記述はヒデケルあるいはチグリスを「アッスリヤの東に流るるもの」としています。(創世 2:14)このことから,ここで言及されている時代のアッシリアはおそらくバビロニアを含め,チグリス以西のかなりの地域を領有していたと考えられます。

      したがって,こうした証拠からすれば,モーセは彼の時代のよく知られていることばづかいを用いてエデンの園の位置を示したといえます。もちろん,創世記の記述はエデンの園がそうした地域全体にまたがるものであるとは告げていません。クシ,ハビラ,アッスリヤ(アシユル)に言及した箇所は,それらの川の水路の位置を明らかにするのに役だちます。いずれにしても,指摘されているこうした名称は,モーセの同時代の人びとにとって,問題の園とそうした名称の地域との関係を理解するのに役だったと考えられます。しかし今日のわたしたちにとっては,エデンの園の位置を確定するのにそうした地域そのものはさほど助けになりません。

      川については,今日,ピソンとギホンの位置を明らかにすることはできませんが,それももっともです。もし,モーセの記述のこの部分が大洪水以前の時代に関するものであれば,大洪水そのものがピソンおよびギホン両河の水路を消失もしくは変位させるものになったといえるでしょう。しかし,もしそれらの川が大洪水後存在していたものであれば,地震その他の自然現象のために後日水路が変位させられたとも考えられます。近年のできごとはそうした変位が生じうることを示しています。たとえば,1950年,インドのアッサム地方を襲った強烈な地震は,幾つかの河川を消失,もしくは水路を変位させました。

      とはいえ,ユーフラテスは広く知られています。イディクラト(ヒデケル)は,前者と同様に有名なチグリスの別名で,古代アカド語(アッシリア-バビロニア語)の碑文に出てきます。これらの川はエデンの園の位置を探る真の手がかりとなります。創世記 2章10節(新)で「かしら」と訳されているヘブル語がこの問題に関係しています。それはエデンの園がチグリス,ユーフラテス両河の水源に近い山地に位置していたことを裏づけるものとなります。アンカー聖書が創世記 2章10節の注解で述べるとおりです。「ヘブライ語で河口は『終わり』と呼ばれている(ヨシュア 15:5; 18:19)。したがって,ロの『かしら』の複数形はここでは上流をさすに違いない。……この語法の正しさはアカド語の同族語レスに関して確証されている」。

      チグリス,ユーフラテス両河は現在,メソポタミア平野の北の山地に源を発しています。意見の相異はありますが,それでも多数の学者はその地域,つまりトルコ東部のワン湖の数キロ南の地をエデンの園のあった場所としています。

  • おぼえていますか
    ものみの塔 1971 | 12月1日
    • おぼえていますか

      あなたは最近の「ものみの塔」誌を注意深くお読みになりましたか。そうでしたら,次の重要な点を覚えておられるでしょう。

      ● 神を知るとはどういう意味ですか。

      神を知るとは,神とそのりっぱな属性を親しく,また深く理解し,さらに神がどんなにすばらしい友であるかを心に深く認識するようになること。それには,知識や愛そして感謝の念を深めるよう努力しなければならない。―457,458。a

      ● サタンがエデンの園で提起した主要な論争はなんでしたか。

      それはエホバの主権が当然で,正当で,義にかなっているか,という点に関する論争であった。すなわち,神はご自分の支配を被造物に実際に益となるような仕方で行使されているかということが問題にされた。―460。

      ● 結婚関係における自分の責任に無関心な人はなぜ偽り者ですか。

      キリスト教世界ではたいていの人が,配偶者に愛や誉れを示し,また堅く付くことを神の名において誓っている。他の人たちの間でも,結婚は事実上一種の契約である。そうした誓いに従って行動しない人は偽り者である。―535-537。

      ● あわれみはわたしたちの生活の中でどんな役割を果たしますか。

      あわれみとは自分に対して罪を犯した相手の人を容赦するだけでなく,窮境にある人に対して同情の念を積極的に表明することをも含む。それには,人によく思われるためではなく,他の人々に対する関心のゆえに他の人に霊的な援助を与えたり,病気の人やさびしそうな人を励ましたり,しかるべき人にできる範囲で物質面の援助をしたりすることが含まれる。―601-604。

      ● 真のクリスチャンの奉仕の務めには,伝道すること以外に何が含まれていますか。

      クリスチャン会衆内で監督たちが行なう仕事はもとより,病気の人や貧しい人,また困っている人に対する奉仕,クリスチャンの集会場所の世話をする仕事,ベテル・ホームでの奉仕,その他自分自身の生活に神のことばの助言を適用し,他の人々に真の崇拝を正しく示していることを実証する数多くの活動が含まれる。―648-651。

      ● 神はなぜ義人が苦しむのを許してこられましたか。

      神に対する人間の忠誠に関する問題がエデンで提起されたため。神は,サタンとその世からの圧迫に耐えつつ試練のもとで仕えて神の名前を擁護する特権に人間があずかることを許された。―679。

      ● アダムとエバは完全な人間として創造された以上,ふたりはどうして罪を犯しえたのですか。

      両人は機械のような働きをするものとして作られたのではなく,神に似た自由な道徳的行為者であった。創造者であられる神の標準と両人に対する神の目的によれば,完全,あるいは完成されたものであった。したがって,善悪の選択能力がなかったなら,両人は完全ではなかったということになる。―691,692。

      ● クリスチャンがヤコブ書 5章6節で述べられている『正しき者を殺す』罪を犯す場合がありうるのはどうしてですか。

      身分の低いクリスチャン兄弟を見さげたり,そうした兄弟を援助するのを拒んだり,あるいは,むさぼりやねたみ,また誇りの気持ちに動かされるまま兄弟たちのだれかを憎むようになったりすれば,そうした罪を犯すことになる。キリストの兄弟たち,つまり「正しき者」に対してなされたことは,キリストに対してなされたこととみなされる。―702,703。

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