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  • 「あなたの進歩がすべての人に明らかになるようにしなさい」
    ものみの塔 1974 | 6月1日
    • 正しいことをしっかり守る態度によって,自分の霊的な進歩を明らかにしているだろうか。自分の身なりや服装を決めるさいに,クリスチャンである自分の親に協力しているだろうか。それとも,慎しみの欠けた極端な流行を取り入れ,親にも圧力をかけて自分と同じ見方をさせようとしているだろうか。

      26 クリスチャンとして生活する点での進歩についてどんなことが他の人の目に明らかになるべきですか。

      26 ひとりで生活している人も家族の一員となっている人も,また,クリスチャンの円熟に達した人もそれを目ざして努力している人も,自分の霊,つまり神のご意志を行なおうとする動機となる自分の支配的な力における進歩を明らかに示すべきです。神のことばに従うことがあなたをより良い男子または婦人とし,より良い妻また母親,より良い夫また父親,より良い息子また娘としているということが,他の人の目から見て明らかになるべきです。クリスチャンの家庭は,争いや叫び声ではなく,幸福と平和と愛の行き渡るところとなるべきです。それは清潔できちんと整えられた所であるべきです。あなたの家庭の場合これは真実ですか。神のしもべとなっている人の生活に霊的な成長を示すものが現実に見られるのでなければ,わたしたちの伝道の業はあまり意味がありません。わたしたちの宗教,わたしたちの崇拝は,それがわたしたち自身とわたしたちの日常の生活に生み出すものによっておおむね判断されるのです。―コロサイ 3:8-14。

  • 人類に対するわたしたちの愛を広げる
    ものみの塔 1974 | 6月1日
    • 人類に対するわたしたちの愛を広げる

      1 イエス・キリストが示したとおり,仲間の人間に愛を示す面で全き者となることにはどんなことが含まれていますか。

      あなたは仲間の人間に対する愛を表わす面で自分を広くしていますか。あなたは自分の愛を全きものとする点で進歩していますか。これは,自分に好意をいだいてくれる人に親切と寛大さを示すということ以上のものを含んでいます。イエス・キリストはこう語りました。「自分を愛してくれる者を愛するからといって,あなたがたにとってなんの誉れとなるでしょうか。罪人[評判のよくない人]たちでさえ自分を愛してくれる者を愛するのです。そして,自分によくしてくれる者に善を行なうからといって,あなたがたにとっていったいなんの誉れになるでしょうか。罪人たちでさえ同じことをするのです。また,利息なしで貸すとしても,その人から受け取ることを望んでいるのであれば,あなたがたにとってなんの誉れになるでしょうか。罪人たちでさえ,同じだけ取り戻そうとして,罪人たちに利息なしで貸すのです。それとは反対に,あなたがたの敵を愛し,善を行ない,何か返してもらうことなど期待せずに利息なしで貸すことを続けてゆきなさい。そうすれば,あなたがたの報いは大きく,あなたがたは至高者の子となるのです。彼は感謝しない邪悪な者にも親切であられるからです」― ルカ 6:32-35。

      2 エホバは感謝しない者や邪悪な者に対してさえどのように愛と親切さを示してこられましたか。

      2 エホバ神が感謝しない邪悪な者にもいかに親切にしてこられたかを考えてください。そうした人々も,地上の生命活動を可能にするためにエホバが働かせておられる種々の循環から益を受けています。エホバは,空気,太陽の光,雨など,生存に必須なものを彼らから奪い取ることはされません。「ご自身がすべての人に命と息とすべての物を与えておられ」ます。(使徒 17:25)また,「邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせて」おられます。―マタイ 5:45。

      3 エホバの過去の行動は,雨や太陽の光を与えないようにするエホバの能力について何を示していますか。

      3 エホバ神はご自身の選択によって親切さと寛大さを示しておられます。創造者として,エホバ神は生命活動に必須なすべてのものを掌握しておられ,選別的な方法によってご自分の賜物をある者に与えないようにすることもできます。そのことはエホバの過去の行動から明らかです。モーセの時代,エホバはエジプト人に三日のあいだ太陽の光を与えず,その同じ期間にイスラエル人に対しては光を与えました。(出エジプト 10:23)その幾世紀ものち,イスラエル人が不忠実になった時,エホバは降雨に対する支配力を行使されました。ご自分の預言者アモスを通してエホバは民に次のことを思い出させました。「わたしはまた,刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて,あなたがたの上にくださず,この町には雨を降らし,かの町には雨を降らさず,この畑は雨をえ,かの畑は雨をえないで枯れた」― アモス 4:7,口。

      4 (イ)エホバ神が感謝しない者や邪悪な者から生命に必要なものを奪い取らなかったのはなぜですか。(ロ)エホバがその愛の表現として単に必要物を備えるよりはるかに大きなことをなされたことについて述べなさい。

      4 しかし,エホバ神が,邪悪な者たちから雨や太陽の光を奪い取ることもできたのにあえてそうされなかったのはなぜですか。神からの賜物に対してなんの認識も示さない者に対してさえ愛と親切さを示してこられたのはなぜですか。それは,そうした人々に変化の機会,エホバに仕える道を選び取る機会を与えるためでした。事実,彼らが単に生活上の必要物を受けるということよりはるかに多くのことを許されたのです。神は,そうした人々および人類の他のすべての人が罪と死から解放されるための備えを設けられました。しかもそれを,ご自身の大きな犠牲のもとに,つまりご自分の独り子を犠牲とすることによって行なわれたのです。(ヨハネ 3:16)「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです」,と聖書は述べています。(ローマ 5:8)この愛の行為は,アダムが人間としての完全な命を自分とのちに生まれてくる自分の子孫に対して喪失して以来その受け分となってきた罪への奴隷状態から人類を買い戻すための法的な根拠を据えるものとなりました。

      5 人類はだれのものですか。なぜ?

      5 その贖いの代償となったのはイエス・キリストの,完全な人間としての命です。代償となったのはイエスの命であったため,イエスは,この取決めの創設者であるエホバ神に加わって,人類に対する所有権を分け持つ者となっています。聖書が神とキリストの双方を,この買い取る行為を行なった者としているのはそのためです。「神がご自身のみ子の血をもって買い取られた神の会衆」について述べられています。(使徒 20:28)また,イエス・キリストについて,啓示 5章9節は,「自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人びとを買い取った」と言明しています。神の会衆の成員だけが買い取られた人々の中に入っているのでないことは,テモテ第一 2章6節から明らかです。その部分は,イエスが「すべての人のための対応する贖いとして」ご自身を与えたことについて述べています。人間はみな実際には神とキリストの所有物であるという認識のもとに,仲間の人間に対するあなたの愛はいっそう広いものとなっていますか。

      6 神は命をどのように評価しておられますか。

      6 エホバ神は命をきわめて価値のあるものと見ておられます。み子の貴重な血で買い取った人々が滅びることは望んでおられません。社会的身分にかかわらずどこにいる人も真理を学び,神の備えを受け入れて命を得ること,これがエホバ神の願いです。(テモテ第一 2:1-4)神は「ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望(んでおられる)」と使徒ペテロは書きました。―ペテロ第二 3:9。

      神の手本に見倣う

      7,8 自分が人類に対する神の態度を反映しているかどうかについてどんなことを自問できますか。

      7 あなたは他の人々との関係において,人類に対する神の態度を反映していますか。エホバ神は邪悪なことを強く嫌悪されますが,それでも,ご自身の所有物としての人類に愛をいだき,人類に最善の事がらだけを願い求めておられます。あなたは人々を神の所有しておられるものとして扱い,神の所有権に敬意を払う人々に神が備えておられる数々の祝福にそうした人々もあずかることを願っていますか。人類に対して神と同じ見方をしているなら,わたしたちは愛と親切さと寛大さを働かせようと努力していることを示すはずです。

      8 この問題をさらに調べるにあたって,あなたは次の点を自問できるでしょう。自分の時間,資産,能力などを自分の自由に使えるとき,自分はそれをただ自分自身および自分の家族や友人のためだけに使うだろうか。それとも,たとえその個性が自分に特に好ましく思える場合でなくても,不幸な境遇にある人や淋しい環境にいるのではないかと思われる人たちのために自分にできる事がらについて考えるだろうか。自分は感謝されているという感じを他の人々に与えているだろうか。なんら報いを期待する気持ちをいだかずに他の人々のためにすすんで自分を与えようとしているだろうか。自分に対して非常に不親切な態度を取ってきた人が肉体面で非常に困った状態に陥った場合,自分はそれに対してどのように応じるだろうか。その人をかわいそうに思うだろうか。その人を助けようとするだろうか。食事の準備,買物,洗たく,家のそうじなど,何か家事の面でその人を喜んで助けるだろうか。その人の経済状態が全く望みのない状態で返済できないことがほとんど明らかな場合でも,自分はすすんでその人にお金を貸すだろうか。―出エジプト 23:4,5と比較。

      9 イエス・キリストがルカ 14章12-14節で指摘したとおり,寛大さという面で神の手本に見倣うなら,わたしたちはどんなことを確信できますか。

      9 あなたの寛大さ,親切さ,愛が,それの当然に示される範囲を超えて,不幸な人,またあなたを好意的に扱わなかった人をさえ包含するようになるなら,あなたはエホバ神を見倣っていることになります。また,仲間の人間に対する愛を広くしていることになります。そして,そうした人々が神とキリストによって買い取られているという事実に一致して行動していることになります。それゆえにあなたは,神が報いてくださることを確信できます。イエス・キリストはその点に注意を引いてこう語りました。「あなたが正さんや晩さんを設けるときには,[いつも]友人や兄弟,また親族や富んだ隣人など[だけ]を呼んではなりません。おそらく彼らはいつかあなたを招き返して,それがあなたへの報いとなることでしょう。むしろ,あなたがごちそうを設けるときには,貧しい人,かたわ,足なえ,盲目の人などを招きなさい。そうすればあなたは幸いです。彼らにはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは義人の復活のさいに報いを受けるのです」― ルカ 14:12-14。

      10 親切さは,不親切で愛の欠けた人にどんな良い感化を与えますか。

      10 さらに,不親切で愛のない精神を示す人々に対しても愛と親切さとをもって接することによって,そうした人々に,自分に対する神の所有権を認めるべきことを悟らせることができます。ローマ 12章20節がこの点でどう述べているかに注意してください。「あなたの敵が飢えているなら,食べさせなさい。渇いているなら,飲む物を与えなさい。そうすれば,燃える石炭を彼の頭に積み上げることになるのである」。火が鉄を溶かすのと同じように,あなたの親切さが相手の固い態度をやわらげさせることになるかもしれません。そして,恥じらいを感じさせ,あなたに対する以前の態度を後悔して改めさせることにもなるでしょう。それは,真のキリスト教がどのようなものであるかに目を開かせ,あなたに加わって真の崇拝を始めるための段階を踏むようにその人を促すことができます。

      11 愛や寛大さや親切さを示す面で全き者となっているかどうかを決定するのはなんですか。

      11 当然のことですが,わたしたちが個人として他の人のためにどれほどのことをできるかは状況によって左右されます。身体的または経済的な限界,もしくはその両面の限界があるかもしれません。したがって,他の人と同じほどにできない場合があっても,だれも失望する必要はありません。わたしたちが愛や寛大さや親切さの表現において全き者であるかどうかを決定するのは,その量ではありません。それは,自分の支配的な霊として寛大さ,親切さ,愛をいだいているかどうか,自分の能力や資産を存分に活用して他の人の励みや祝福のもととなっているかどうかの問題です。

      12 神から離れた人類世界に対する責任がクリスチャンの主要な責任ですか。

      12 クリスチャンとして,わたしたちには,自分の家族や仲間の信者に対する優先する務めがあります。聖書はこう述べています。「自分に属する人びと,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪い」。(テモテ第一 5:8)「すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」。(ガラテア 6:10)したがって,人類世界の他の人々を助けようとする一方で,自分の家族や仲間の信者のことをなおざりにするのであれば,それは正しくありません。肉的また霊的な意味でつながりを持つ人々に対するわたしたちの関係は,親切さや愛,またその福祉に対する積極的な関心をとくに反映すべきです。

      13 どんな場合には物質上のものを与えないことがその人に対する愛の表現となりますか。

      13 しかし,寛大さを示すことがそれを受ける人の助けとならない場合もあります。ある人々,ときには仲間のクリスチャンの中にさえ,自分の責任を負わず,怠惰で,できる仕事があるのにそれに就こうとしない人がいます。そうした人が物質面での援助を受けるとすれば,それは,仕事に対するその人の誤った見方を正すように励ますことにはなりません。そうした人の場合,聖書のテサロニケ第二 3章10節にある指示が当てはまります。「働こうとしない者は食べてはならない」。また,自分に与えられるものを神の非としておられる活動や習慣のために用いるような人の援助を拒むのは,クリスチャンにとって正当なことです。人にあるものを与えないでおくことが,考え方を改めるべきこと,また他の人がほねおって得た資産を誤用すべきでないことをその人の心と思いに銘記させるのに役だつならば,それは実際には,その人に対する愛と関心の表現となります。

      重要な仕事 ― 王国を宣べ伝え,弟子を作ること

      14 霊的な援助を与えることが今日とくに急を要するのはなぜですか。

      14 物質面で人に与えるよりさらに重要なのは,クリスチャンが与えることのできる霊的な面での援助です。特に今,これは急を要する問題であり,人の生死を左右する事がらです。どうしてですか。聖書の預言と,それの成就となる実際のできごととは,西暦1914年以来の世代が「終わりの時」を迎えていることを証明しています。(マタイ 24:3-14,32-34。ルカ 21:25,26。テモテ第二 3:1-5。啓示 6:2-8)a つまり,献身してみ子の弟子となり,エホバ神のしもべとなっていない人はみな,自分の命を失うかもしれない危険な立場に立っているのです。

      15 今日の人々の立場は,神の裁きが執行された以前の幾つかの場合にそれに直面した人々の立場とどのように異なっていますか。

      15 どこにいる人もこの危険について知らされなければなりません。今日の人々の立場は,以前に神の裁きが執行された幾つかの場合にそれに直面した人々の立場と異なっています。例えば,エホバ神がバビロニア人を用いて不忠実なユダとエルサレムに対する裁きを執行したさいに滅びた幾千人の人々は,そうでなくてもやがて死ぬことになっていました。そして,彼らの死は全くの滅亡を意味していたわけではありません。しかし,神を知ろうとせず,イエス・キリストについての「良いたより」に従わない人々に対して今の世代に表明される裁きは最終的なものです。聖書はこう述べています。「この同じ者たちは,主のみまえから,またその力の栄光から離れて永遠の滅びという司法上の処罰を受けます」。(テサロニケ第二

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