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  • 「御心が地に成るように」(その30)
    ものみの塔 1960 | 3月15日
    • た後,さらに多くの「キッテムの船」が西方から来ました。外交上の論戦がアメリカとドイツのあいだで起りました。事態は悪化して1916年4月6日,アメリカのウイルソン大統領は,ドイツに対する宣戦を布告しました。それから,アメリカの軍艦は西から来て北の王と敵対し,アメリカの軍隊は欧州大陸に上陸しました。南の王である英米両国の世界強国は,いまや敵対の王と全力をかたむけて戦いました。しかし,1916年の9月,英国は装甲されている陸上の軍艦とも言うべき奇妙なものを登場させて北の王に立ち向かいました。それは,索引車とも言うべき「タンク」でした。

      18 1917年,北の王はどのように世界共産主義を援助しましたか。

      18 意義深いことは,1917年にロシヤの皇帝が退位して後,カイザル・ウイルヘルムはニコライ・レーニンをスイスから呼んで,ドイツおよびスエーデンを通つてロシアにつかわしたということです。それは,ロシアの軍隊を弱化させて,破壊するために過激主義すなわち共産主義をひろめるためでした。(アドルフ・ヒットラーの共力者ルーデンドルク将軍は,その回顧録の中で,そのように言つています)北の王は,この戦略を用いることにより,世界共産主義を援助しました。

      19 いつ北の王は「おびやかされて帰り」ましたか。そして,どのように? またどんな世界の出来事により1914年は重要な意味を持つものと示されましたか。

      19 しかし,1918年の11月,北の王は「脅かされて」かえりました。戦争に敗れて敗退したのです。父親フレデリック3世が1888年に死んで以来,支配を行なつてきたカイザル・ウイルヘルムは,王位を断念して外国に亡命し,ドイツは共和国になりました。それで,第一次世界大戦は終りました。しかし,食糧不足,疫病,そしてヱホバの聖所級に対する迫害と共に,西暦1914年が「七つの時」「諸国民の定められた時」が終つた年であり,神の御国が天で生まれて,悪魔の支配するこの古い世が「終りの定められた時」に入つた年であることは,はつきり示されました。―マタイ 24:7-9。ルカ 21:10-17。

      20 カイゼル・ウイリヘルムが追放されたいま,北の王が「聖なる契約に対して憤る」とは,どういうわけでしたか。

      20 カイゼル・ウイルヘルムの場合,彼の心は聖なる契約に敵対していました。(ダニエル 11:28)彼は亡命者として1941年6月4日に死にました。しかし,北の王が「聖なる契約に対して憤り,事を行う」とは,どういうわけでしたか。これは,オーストリア人,アドルフ・ヒットラーが,フランツ・ボン・パペンなどのドイツ・カトリック政治家たちの援助を受けて権力をにぎつたことにより生じました。1933年の1月,ボン・ヒンデンベルグ大統領はシュライハーを職務から追放し,ヒットラーをドイツ宰相,ボン・パペンを副首相に任命しました。それから,ボン・ヒンデンベルグ大統領は,次のように言明しました,「諸君,いまから神と共に前進!」a それは実際には『神に反対して前進!』でした。その時までには,ドイツのヱホバの証者の数は,1万9200人以上できわめて顕著な存在になつていました。ナチ・ヒットラー総統が最初に行なつた事柄の中には,ヱホバの証者を禁ずること,ヱホバの証者の証言の道具を没収すること,ヱホバの証者を牢獄や収容所に投げこむことでした。b 1933年4月1日,ヒットラーは独裁者になりました。ドイツ帝国会議<ライヒシユタツク>は立法権力をヒットラー政府に4年間与えたからです。この処置によりドイツ共和国はなくなつて「第3番目のドイツ帝国」が生じました。最初のドイツ帝国は,962年から1806年までのドイツ神聖ローマ帝国で,第2番目は1871年から1918年までのホーヘンゾレン帝国でした。第3番目の帝国は,ヒットラーの独裁主義でした。

      21 北の王は,「聖なる契約を顧り見る」ことにより,どのように「事を行い」ましたか。

      21 しかし,彼はどのように「その事を行い」ましたか。1926年9月8日,ドイツは国際連盟に加入しました。しかし,ナチの独裁者,ヒットラーは,1933年10月14日,連盟からドイツを脱退させました。彼は大胆にも世俗的な成功を次から次に収め,オーストリアを合併し,それからチェッコスロヴァキアのズデートランドを併合し,そして遠方の国,日本をもふくむ枢軸強国を形成しました。ヒットラーの成功の大部分は,「聖なる契約を捨てる者を顧み用いること」によりました。神の御国契約を支持すると主張する者たちは,キリスト教国の牧師でした。特にローマ・カトリックの教職者たちです。これらの者たちは,正当な相続者イエス・キリストが1914年に御国に来ることを待たず,むしろ自分たちの宗教 ― 政治政府をつくり,神聖ローマ帝国を設立したのです。1933年の7月上旬,副宰相ボン・パペンは,ヒットラーの為にピオ11世と和親条約を交渉しました。この条約により,法王はドイツにあるカトリック中央党の解体に同意し,一方,ヒットラーはカトリック教会がドイツで宗教的な自由を十分に持てると約束しました。このことによつてヒットラーはドイツ国内に一つの政党がある,すなわち国家社会党がある,と宣言することができました。

      22 ローマ・カトリックからの情報によると,北の王の戦争目的は何でしたか。イタリア共働者の帝国主義的な野望は,どのように暴露されましたか。

      22 第二次世界大戦中,1940年2月17日のニューヨーク・タイムス紙は,「ワシントン,2月16日の日付」の記事の中で,次のようなローマ・カトリックのニュースを述べていました,「ドイツの戦争の目的は,神聖ローマ帝国の再建であると今日示された。これは,〔カトリック〕ジョージタウン大学の外国宣教学校の評議員〔ローマ・カトックの牧師〕エドモンド・エイ・ウオルシュ博士の語つた言葉である。……ウオルシュ博士は,ドイツ帝国であつた神聖ローマ帝国の再建がぜひなされねばならぬというアドルフ・ヒットラーの言葉を聞いた,と語つていた」。洗礼を受けていたカトリック信徒ヒットラーの枢柚国共働者がイタリアのムッソリーニ首領であつたことは周知の事実です。ムッソリーニは,1929年に法王ピオ11世と和親条約を締結し,バチカン市は独立国家として設立されました。それから幾年かたつて後,ムッソリーニの軍隊はカトリック司祭の祝福の下に,カトリックでないエチオピアに侵略しました。そして,1936年7月9日,ムッソリーニは,カイザルによるローマ帝国の復興を宣言し,そしてビクター・エマヌエル王がエチオピアの皇帝であると宣言しました。1937年の12月,ムッソリーニ首領は,ファシスト・イタリアを国際連盟から脱退させました。

      「聖所」と「憎むべきもの」

      23 このところで,ヱホバの御使は北の王に関連して聖所級のことを,どのように言及していますか。

      23 しかし,北の王と和を求めず,ヱホバの統治する御子による御国の聖なる契約に忠実をかたく保つた者たちについてはどうでしようか。御使は,その質問について答えています。御使は,第二次世界大戦の詳細なことを多く論ずるようなことをせず,むしろ忠実な聖所級について言葉を述べています。御使は,その言葉の中に,北の王の個性と国籍のいちじるしい変化を指摘して,次のように述べています,「彼から軍勢が起つて,神殿と城郭を汚し,常供の燔祭を取りのぞき,荒す憎むべきものを立てるでしよう」。―ダニエル 11:31,新口。

      24 共産主義者たちは,1917年にカイゼル・ウイルヘルムの援助を受けて,ロシアで何を行ないましたか。そして,新しいロシアは何に加入しましたか。

      24 「彼から軍勢が起つて」と述べられているこの軍勢は,北の王の支持者たちを指しています。北の王は,この軍勢を用いて第二次世界大戦には南の民主主義的な王と戦います。しかし,世界支配を狙つたこの第二次世界大戦前とその最中およびその後には,おどろくべき出来ごとが生じました。北の王は1917年に世界共産主義をすでに援助していました。そのとき,革命家のレーニンはカイゼル・ウイリヘム政府の保護援助をうけて亡命地スイスから,ロシアにもどりました。そのとき以来,共産主義者はロシア政府を奪取し,全体主義的な政府と独裁主義を持つソビエット社会主義者共和国連邦を設立しました。このソビエット社会主義者共和国連邦は,1937年9月17日に国際連盟に加入しました。それは西洋の民主主義と交渉を行ないました。

      25 「西欧民主主義の裏切り」は,共産主義ソビエット政府により,どのように生じましたか。そして,なぜそれは国際連盟から除名されましたか。

      25 1939年の8月,英国とフランスは共産主義政府と交渉を行なつていました。そのとき,「西洋民主主義の裏切り」と言われるのが突然に生じました。北の王の立場にいたナチは,第二次世界大戦を始めようとしていた矢先であり,東の側面の保護を必要としました。この目的のために,北の王はロシアと協同条約をむすびました。それで,8月19日,ロシアの首都はナチと1年間の通商条約をむすんだと発表しました。さらに不思議なことが起りました。8月24日,モスコーはドイツと10年間の不可侵条約を署名することにより,西洋をたいへんびつくりさせました。この両者のあいだには密契がありましたか。時はそのことを示しました。9月1日,ナチの「軍隊」はポーランドに侵入して,第二次世界大戦を点火しました。c 彼らは電撃作戦<ブリツツクリーグ>で前進しました。9月17日,共産主義者の政府は別の側からポーランドにロシヤ軍隊を侵入させたのです。それから5日の後,ナチ・ドイツと共産主義者ソビエット連邦は,ポーランドを分割し,それぞれ手に入れた土地を占拠するという同意宣言文を発表しました。それから2カ月の後,ソビエット・ロシアはフインランドを攻撃し,ロシアは国際連盟から除名される最初の国になりました。

      26 第3番目のドイツ帝国は,どのように北の王の立場を失いましたか。

      26 約2年のあいだ共産主義者ロシアは,北の王ナチの同盟国でした。それは独裁主義で,その同盟国とおなじく世界支配を狙つていました。1941年,6月22日,ヒットラーがロシアに巧かつな攻撃を加えたので,ロシアは己むを得ず南の民主主義的な王の側に立ちました。しかし,ロシアが西の民主主義の側に立つたため,ナチ・ドイツは敗北し,ロシアは全体主義的,独裁主義的な北の王の立場をにぎるようになりました。1945年,共産主義者ロシアは,ナチ-ファシストの敵に対する同盟国の勝利に参加しました。引きつづいて,フランス,英国,アメリカ,そしてロシアの四大強国によつて,征服されたドイツの分割が行なわれました。ヤルタ条約にしたがい,ロシアは東部ドイツを取りました。第七次世界強国である英米両国の世界強国の敵対者,すなわち北の王ドイツは,もはや存在しなくなつたのです。その代りに政治的に強くて新しい強国が立つにちがいありません。それは,世界支配を狙うふたりの王のあいだの敵対が,最終的な決定にまでつづいて行くか,または後退して足踏み状態になるためです。

  • 発表
    ものみの塔 1960 | 3月15日
    • 発表

      1960年の記念式発表

      残れる者も他の羊もヱホバの民が会衆として集まり,あらゆる記念式の中でも最も意味深い記念式を守る時は近づいています。それは主イエス・キリストの死を年に一度祝う記念式です。今年は4月10日の日曜日に行なわれます。どの会衆も記念式の取り極めを設けるべきです。そして,ヱホバ神と御子イエス・キリストに善意を持つすべての人々は,出席する明白な取り極めを設けたいと思われるでしよう。4月7日-10日の東京大会に出席するすべての人は,日曜日午後6時半から世田谷区民会館で記念式に出席することができます。

      『ものみの塔』の研究

      4月24日: 人間を自由にする真理を見出す 1-21節 103頁

      5月1日: 人間を自由にする真理を見出す 22-43節 108頁

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