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信仰にふさわしい生活をしていますかものみの塔 1963 | 1月15日
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うか。それはあなたが自分の信仰を表わす楽しい機会であり,正しい結婚生活への出発であると考えてください。茶菓を出したあと,もし望むなら音楽をかけ,ダンスをすることもできましょう。しかし,ほかにも準備できるものがあります。エホバを賛美する歌をグループに歌ってもらうこともできるでしょうし,参会者に違った部分を歌ってもらって混声合唱にするのもおもしろいでしょう。もし手にはいるなら,楽器の演奏も悪くないでしょう。また結婚という神の贈り物に対する感謝とか,結婚にかんする聖書の原則を守ることによって得た幸福などについて,数人の円熟したクリスチャンたちに,彼らの感想とか経験をとおして簡単に話してもらうのも非常によいことです。信仰のうちに,従順な子供たちを育て上げたクリスチャンたちから,実際的な助言を得ることもできるでしょう。また,既婚者がいまの時代によくぶつかる問題の解決策や落し穴などを話してもらうのもよいでしょう。
こうした種類のプログラムは,あなたが実際に信仰に一致した生活をしているというすばらしい証明です。そのような結婚披露会は,新郎新婦にとって,クリスチャンの夫妻になるというたいせつな仕事へのよい出発点となり,またすべての参会者を啓発するものでもありましょう。そういう宴会に出席したクリスチャンでない親せきやお客は,自分たちがほんとうのクリスチャンたちの間にいるということを必ず感じるでしょう。あなたはそれとは違った印象をお客に与えたいと思いますか。では結婚式に関した事柄においても,あなたの信仰を表わしてください。
贈り物をすること
結婚式という密接な関係のあるのは贈り物をすることです。このことについてイエスは,私たちがどのように信仰と一致した行ないをすることができるかを,つぎのように教えておられます,「自分の義を,見られるために人の前で行わないように,注意しなさい。もし,そうしないと,天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから,施しをする時には,偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように,自分の前でラッパを吹きならすな」。(マタイ 6:1,2,新口)これはなにも,あなたが贈り物をしたことが決して人に知られてはならないという意味ではありません。イエスがいけないと言われたのは,人に見てもらうためにする正しくない贈り物のことです。競争心とか,だれかに恥をかかせるために贈り物をすることも間違っています。(ガラテヤ 5:26)贈り物をする時,あなたの信仰にふさわしくない行動をすることは,あり得ることです。
たとえばある国の婦人たちは,「シャワー」を催すのを好みます。これは,結婚する人に,たくさんの贈り物を「あびせる」会のことです。クリスチャンがそれをするかどうかは,その「シャワー」の仕方によります。それぞれの贈り物に,贈り主の名前をつけないで,これらは全部「私たち」からの贈り物ですと言って,グループで贈る方法もあります。あるいは,一つのカードに参会者全部が署名して,贈り物と一緒に渡すこともよいでしょう。このように,グループで贈るというクリスチャンらしいやり方で贈り物をする時,身分不相応のお金を使ったり,自分が金持であることを「見せびらかす」という誘惑に陥らなくてすむでしょう。(ヨハネ第一書 2:16)たとえ貧しい未亡人の贈り物が,あなたのすばらしい贈り物のそばで開かれても,何気なしに比較されて主に属する貧しい人の心を傷つけるようなことはないでしょう。いちばん貧しい人でもそのような「シャワー」には,なんの恐れもなく出席することでしょう。
また,贈り物を渡すこと,署名したカードを読むことなどが,自分の寛大さを人の前で発表する「ラッパ」とならないように気をつけてください。そういう発表は実際には,あなたが信仰にふさわしく生きていないことを,エホバと人々に発表しているのと同じです。しかし,いつに限らず,家族の者とか親しい友だちに贈り物をしたい時は,それをこっそり渡すのであれば,なにも名前をかくす必要はないでしょう。―マタイ 6:3,4。
クリスチャンの信仰にふさわしい生活をすることが,全時間の仕事であることはいうまでもありません。それは,物質主義,快楽に夢中になること,偶像崇拝,不道徳などをさける以上のことを意味します。また,神の御国の良いたよりを熱心に伝道する以上のことを意味します。もしあなたの信仰が生きているなら,それはあなたのすることすべてに影響するでしょう。
しかし,忘れてならないことは,あなたの兄弟が信仰と一致した生活をしているかどうかを,神があなたにお尋ねになっていないということです。問題は,「あなたは信仰に生きていますか」ということです。兄弟の行いではなく,あなた自身の行いに,祈りのうちに深い注意を払ってください。よい模範を示すことにより,命への道を歩むにさいして,仲間のクリスチャンたちを励ますことも,あなたの信仰の一部です。あなたが実際に信仰に生きているがゆえに,喜びを持ち,祝福されていることを,あなたの兄弟に示してください。そうすると兄弟も信仰に生きることを望むでしょう。あなたはその中にある知恵を認めますか。イエスはこう言われています,「もしこれらのことがわかっていて,それを行なうなら,あなたがたはさいわいである」。―ヨハネ 13:17,新口。
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熱心に求める者にエホバはこたえるものみの塔 1963 | 1月15日
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熱心に求める者にエホバはこたえる
ブイ・シー・カーカネスの経験談
人間を探し求める責任が神にありますか,それとも,神を求める事は私たちの務めですか。イエスは教えました,「求めよ,そうすれ,ば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう」。(マタイ 7:7,新口)どんなに時代が経過しても,この言葉の真実さに変わりはありません。私の44年間にわたる数々の経験が私にはっきりと確信させる事は,使徒パウロがヘブル書 11章6節で語った言葉は絶対の真理であるということです。「信仰がなくては,神に喜ばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,ご自身を求める者に報いて下さることとを,必ず信じるはずだからである」。
真理を探し求める
私はギリシャ正教徒の両親の下に生まれました。父親は長年のあいだ教会で執事の職を勤めていました。1909年,母は死亡し,その後間もなくして私はアメリカに渡りました。家族と離れ,仕事も忙がしかった私は教会へ行くのを止めました。それでも,「天にいますわれらの父よ,……」という短かい主の祈を朝晩ささげる事は止めませんでした。ある日曜日,私が生活を共にしていたメソジスト派の一家は,一緒に教会に行こうと誘ってくれました。私も快く受けました。その教会で私が喜んだのは,仲々立派な椅子が備えられている事でした。というのは,私が以前になじんでいたギリシャ正教の教会にはそのような席がなかったからです。そこへは幾度か通いましたが,なにか心の中にわだかまりを感じました。
ついて1918年,私は初めて当時聖書研究生という名で知られていたエホバの証者の証言を聞きました。強い印象を受け,職場で,彼らが持って来た「聖書の研究」第1巻を大きな興味を抱いて読みました。神について,神の御国についてもっと知りたいと思う気持が強くなり,
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