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  • あなたは試練に首尾よく耐えることができますか
    ものみの塔 1978 | 10月15日
    • 成員なのです』。(エフェソス 2:19)貧しい者は,神およびキリストとの関係,またクリスチャンの兄弟たちの愛という卓越した富のゆえに,地上での貧しさを忘れることができます。また「良いたより」を分け与えることによって他の人々を助けることができるという喜びが得られます。こうした事を誇れます。

      16 富んでいる兄弟は,「自分の低められること」をどのように喜べますか。

      16 クリスチャンになった富んだ者について言えば,その人は『自分の低められることを大いに喜ぶ』ことができます。今は,自分にとって本当に価値のあるのは富ではありません。富は往々にして高慢さを生み出しますが,キリストの精神はへりくだった思いや謙そんさです。(フィリピ 2:3-8)神の過分のご親切により,今では「富の欺きの力」と,富は頼りにすべきものでないということを識別する能力が自分にあることがわかって歓べます。(マタイ 13:22)富んだ人はまた,世の富を築くために時間と努力を費やすことがむだなことで,霊性を破壊しがちであり,多くの場合健康をも損なうことに気づいています。ヤコブはその理由を次のように述べています。「富んだ者は草木の花のように過ぎ行くからです」。自分の富が寿命を延ばし得ないことを富んだ者は知っています。「太陽が焼けつくような熱さを伴って昇り,草木を枯らすと,その花は落ち,その外観の美しさはうせるのです。富んだ者もそれと同じように,生涯の途上で消えてゆきます」― ヤコブ 1:10,11。

      17 富んだ者とその「美しさ」とがどうなるかについてヤコブが述べていることを説明してください。

      17 草木は太陽にあたって枯れ,その美しさはあせてしまいます。それと同じように,富んだ者が年を取って死ぬとき,彼を取り囲んで『美しくしている』富の華麗さは失せてしまいます。もちろん,貧しい者も死にますが,貧しい者は,富んだ者の美しい花のような外観を見せることはありません。しかし富んだ者のこの「美しさ」は相続人や他の者たちの手に渡り,彼が築きつつあった「帝国」はたいてい解体します。あるいは彼が追い求めていた目標は放棄されます。彼は「生涯の途上で」,もしかしたら商用で旅行しているときに,あるいはさらに多くの富を得る計画を実行している間に,死にます。多くの場合,富んだ者の死は,その富を楽しまないうちに臨みます。一方,クリスチャンになる富んだ人は,神の王国の関心事の促進に富を用いるので,かえって富を楽しむことができます。そういう人は普通より多くの時間を,「良いたより」の宣明にささげるように手はずを整えることができ,また集会所の維持や,全世界で行なわれている王国の業の促進のために寄付することができます。

      忍耐の報い

      18 試練に忠実に耐える人に与えられる報いをヤコブはどのように述べていますか。

      18 ヤコブは,3節と4節の中では,忍耐の直接の益を指摘し,12節ではその最終的結果 ― 試練にしっかりと耐えることの報いを強調しています。彼は次のように書いています。「試練に耐えてゆく人は幸いです。なぜなら,その人は是認されるとき,エホバがご自分を愛しつづける者たちに約束されたもの,すなわち命の冠を受けるからです」。(ヤコブ 1:12)「命の冠」とは命の賜物のことで,神がしもべたちを完全にするため,ともに働かせておられる多くの試練の間も「ご自分を愛しつづける者たちに」与えられるものです。もし彼らがその試練にしっかりと,妥協することなく,神の助けにより首尾よく耐え抜くなら,神はそれを与えられます。(ローマ 8:28)これは自分の業すなわち忍耐によって命に対する権利を獲得するという意味ではありません。というのは,命はイエス・キリストへの信仰を通して与えられる無償の賜物だからです。しかし忍耐するクリスチャンはその信仰があることを証明しました。その信仰の質は試されて,強い完全なものであることがわかりました。

      19 では試練に対するクリスチャンの正しい見方とは何ですか。

      19 したがってクリスチャンはどんな試練が臨んでも,最も激しい試練でさえも,耐えることができます。クリスチャンは自分の力を頼んでそのような試練に向かうべきではありません。イエス・キリストの名による祈りを通して神の知恵と力を求めるべきです。イエスは地上におられたとき,忍耐の完全な模範を示されました。クリスチャンは使徒ペテロが述べた慰めとなる保証の言葉に,全き確信を置くことができます。「あなたがたがしばらくのあいだ苦しみに遭ったのち,キリストとの結びつきにおいてあなたがたをご自分の永遠の栄光に召された,あらゆる過分のご親切の神は,自らあなたがたの訓練を終え,あなたがたを確固とした者,強い者としてくださるでしょう」― ペテロ第一 5:10。ローマ 8:35-39。

  • 山上の垂訓 ―『あなたのあわれみの施しをひそかにするようにしなさい』
    ものみの塔 1978 | 10月15日
    • 山上の垂訓 ―『あなたのあわれみの施しをひそかにするようにしなさい』

      隣人を正しく扱うことについて諭した後,イエスは,神の目に真に価値のある崇拝について助言されました。イエスは次のように述べて,山上の垂訓のこの部分を話し始められました。「人に注目されようとして自分の義を人の前で行なうことがないようによく注意しなさい」― マタイ 6:1前半。

      この場合の「義」とは,何が正しいかに関する神の規準に従った行動を意味しています。(マタイ 5:6,20と比較してください。)神は,人々が生活のあらゆる面で義を示すことを望んでおられます。その中には,人が独りでいるときの行ないや,神や仲間の人間との関係も含まれるはずです。

      イエスの言葉は,敬神の行ないを他の人々の前で決してしてはならないということを意味しているのではありません。もしそうなら,イエスの話を聞いていた人々に対する『自分たちの光を人びとの前に輝かせなさい』というイエスの以前の諭しに反することになるからです。(マタイ 5:14-16)しかし,その動機は,決して『人に注目されようとする』ことであってはなりません。人は,自分があたかも劇場の舞台の上にいるかのように,自らを人前にさらそうとすべきではありません。

      イエスは,自分たちの徳を大げさに誇示する傾向のある人々すべてに向かってこう言われました。「天におられるあなたがたの父にあってあなたがたに報いはありません」。(マタイ 6:1後半)神との親密な関係や神の王国の支配が永遠にわたってもたらす祝福などを含むそうした『天からの報い』は,自分に注意を引こうという動機で神を崇拝する人々のためのものではありません。

      西暦一世紀のユダヤ人にとって,崇拝の三つの主要な面とは,施し,祈り,断食でした。その最初のものに関してイエスはこう言われました。「あわれみの施しをするさいには,偽善者たちが人から栄光を受けようとして会堂や街路でするように,自分の前にラッパを吹いてはなりません」― マタイ 6:2前半。

      「あわれみの施し」という表現は,貧しい人々を助けるための惜しみない寄付のことです。ヘブライ語聖書は,しばしば,困っている人々を援助することの重要性を

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