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神の属性を反映するように励まされた宣教者たちものみの塔 1969 | 1月15日
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神の属性を反映するように励まされた宣教者たち
「鏡をのぞくとき,皆さんはそこに何を見ますか」。この問いは,ものみの塔協会会長N・H・ノアが1968年9月8日午前に行なった講演のテーマとなりました。それは,ニューヨーク市にあるものみの塔ギレアデ聖書学校の第46回生の卒業式の時でした。
同会長は大きな鏡を持ち上げ,これをのぞく時,皆さんはそこに何を見るでしょうか,と2,045名の聴衆に尋ねました。そこに見るものは,のぞく人の姿でしょう。しかし,それは人の身体的つまり外面的な形でしかありません。人の内面は映し出さないのです。
ついで会長は開いた聖書をかゝげ,「この鏡をのぞく時,皆さんは何を見ますか」と尋ねました。この本をのぞく人は,そこに自分の姿を見ることができるでしょうか。聖書を読む時,わたしたちはエホバ神の語られることを聞くのです。それによってわたしたちは,エホバがわたしたちに何を求めておられるかを知り,真実の自分と神の標準とを照らし合わせることができます。したがってクリスチャンは,神のみことばを見ることによって,実際の鏡をのぞく以上に自分の姿を知ることができるではありませんか。聴衆はこの良いたとえの意味を十分に理解しました。
ヤコブ書の第1章から次のことが指摘されました。つまり,神のみことばを聞くだけで,それを行なわない人は「鏡にておのがうまれつきの顔を見る人に似」ています。「おのれをうつし見て立ち去れば,直ちにそのいかなる姿なりしかを忘」れるからです。(23,24節)他方,神の完全な律法をじっと見つゞけ,その助言を心に深く刻む人は,自分のひととなりを変え,それを神の律法に合わせるでしょう。その時,その人は「わざを行ふ者」であり,「聞きて忘るる者」ではないので,「その行によりて幸福」になるでしょう。―25節。
この助言は,ギレアデ学校での訓練を終え,これからほかの土地に派遣されようとしている99人の宣教者にとって特に適切でした。彼らは,神にとって人の外見は大切でないことを思い出したのです。「神は人の外面を取りたまは」ないからです。(ガラテヤ 2:6)はるかに大切なのは,神のみことばに照らした場合にどのように見えるかということです。これらの宣教者は霊感を受けた聖書の真理をほかの土地の人々に携えて行くのですから,自分の真の姿,つまり自分が神と神のみことばを擁護し,神の律法にしたがって生活していることを土地の人々に示さねばなりません。
この講演ののち,卒業生に卒業証書が手渡され,個々の卒業生の派遣される国の名前が聴衆のために発表されました。8か国から来ていたこれら99人の卒業生は全部で32の土地に派遣されることになりました。その多くは中南米地方とアフリカです。
これよりも前,協会の副会長F・W・フランズは,人の息がその人のからだや感情の状態,またロの中に何を入れたかを示すと同じように,象徴的な意味で人が『吐く息』つまり人が口に出すものは,その人のひととなり,もしくは心の奥にあるものを物語るという話をしました。(箴言 20:27,新)引用されたのは,サウロが「主の弟子たちに対する脅迫,殺害の息をはずませ」(口語)ていたという使徒行伝 9章1節です。しかし,キリスト教への改宗後,彼は使徒パウロとなり,他の人々の益となることばを口から出すようになりました。
副会長は,サタンの配下にある今の邪悪な世界の雰囲気を吸う人は,他の人の害となる事柄を吐き出すようになるであろうと語りました。しかし,神についての知識をたゆまずに取り入れ,それを自分の生活にあてはめる人は,他の人の益のために働くようになるでしょう。その人は,愛,平和,あわれみなどの『息』を吐き,他の人々の救いを願うようになります。宣教者その他の人々は,神の国の福音をロから出すことによって,神の恵みを受け,神の新しい体制の下で実際の命の息を永遠に続けるという祝福を受けるようになるでしょう。
昼食の休けい後の午後のプログラムには,取りそろえた幾つかの歌と,「経験が語られる時,あなたは耳を傾けますか」という題のきわだった討議とがありました。老齢のクリスチャン兄弟姉妹たちの心あたゝまる経験は,宣教者として,あるいはニューヨークにあるものみの塔協会本部などのベテル・ホームで全時間働くことを考えている,若い人々の大きな励みとなります。
こののち,プログラムの最後となったのは,「エホバにより頼むことによって勇気を保つ」という題の印象的な劇でした。この劇の中で強調されたのは,今日のエホバの民が,昔の場合と同じように,エホバの約束は必ず果たされるとの全くの確信をもつことができるという点でした。生き生きと描き出されたのは,預言者ダニエルが,バビロンのベルシャザル王の時代に,エホバの約束に対していだいた信仰です。この励みとなる劇ののち,結びの歌と祈りをもって卒業式は終わりました。これに出席した人々は,心を高める数々の教訓に深く感謝しました。それは,前途の仕事に備えて,クリスチャンたちを強めるものとなったのです。
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読者からの質問ものみの塔 1969 | 1月15日
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読者からの質問
● 婚約したクリスチャンがそれを破棄するのは正しいことですか。―アメリカの一読者から
結婚は神の賜物であり,人に幸福と満足な気持ちとを与えます。同時にそれは,重大な責任をももたらします。したがって,結婚を軽く扱うべきではありません。今でもある土地では,親が自分の子供の婚約を取り決めていますが,多くの社会では,独身の成人が自由に配偶者を選ぶことが許されています。後者の場合,ふたりのクリスチャンが結婚に同意し,あるいはそれを約束したなら,正常の条件下では,その約束を守ることが求められます。
人は,あることに同意する前に,それに伴って自分に求められる事柄を考慮すべきです。その上で同意するならば,「あなたがたの『然り』は『然り』を意味し,『否』は『否』を意味するようにせよ」という,イエスの助言に従うことができるでしょう。(マタイ 5:37,新)クリスチャンにとって,自分のことばの真実性を示すための特別な誓いは必要ありません。クリスチャンが何かを言う場合,それはそのことばどおりの意味であるべきです。
それで,ふたりのクリスチャンが結婚の合意に達した場合,両人のことばは変わるべきではありません。特別な行為あるいは公の声明がなされている場合もありますが,これは普通には必要ありません。「アメリカ法」第8巻849,850ページは,「結婚の約束の破棄」について取り上げ,「[婚約]をかわすのに特にきまったことばは必要ない。当事者の心が一致し,双方が婚約に同意していれば十分である」と述べています。
もとより,結婚の申し込みがなされただけで,他方がそれを受け入れていない場合には婚約ではありません。こゝに引用した法律書はこう述べています。「一方の当事者が約束しても,それに対応する約束がその者に与えられない場合,それは単に結婚の申し出であって,契約[婚約]ではない」。(849ページ)このように,わたしたちが婚約について語る場合,それは当事者双方の正直なことばを伴う互いの合意を意味しています。
ヘブル人の間では,婚約は非常に真剣な事柄とみなされていました。それで実際に結婚するまで性交を許されなかったのは当然にしても,婚約した婦人は相手の男子の妻として扱われたのです。(創世 29:21。マタイ 1:18,19)また婚約した婦人の法的な立場は,婚約していないおとめの立場とは異なっていました。(出エジプト 22:16,17。申命 22:23-29)これは婚約した状態にあることの重大さを示すものです。
しかし,一方的な婚約の破棄を正当にするような事柄が何かあるでしょうか。円熟したクリスチャンにとって,一方的に婚約を破棄することが許されるような事態はごくまれでしょう。重要な事実が曲げられ,あるいは隠されていた場合などは,婚約の停止を正当にするかもしれません。二つの例をあげましょう。ある婦人は聖書的に見て結婚する自由がないにもかゝわらず,その事実を故意に隠し,ある男子からの結婚の申し込みを受け入れたとします。その男子は相手の婦人の結婚関係について十分には尋ねませんでした。彼女がまだ結婚できる立場にいないことをあとで知った場合,男子がその婚約を解消することは正当でしょう。事実,そうすることは彼の聖書的な務めでもあります。(マタイ 5:32)あるいは男子が計画的にうそをついて事実を隠し,それによって婦人から結婚の同意を得た場合,事実と彼の偽りとを知った婦人は婚約を停止することになるかもしれません。(コロサイ 3:9)これらの場合,クリスチャン会衆の道徳上の清さを守る務めを持つ霊的に古い者たちは,他のクリスチャンを保護する処置を講ずるため,こうした不正を調べるでしょう。
こうした正当な理由なくして一方的に婚約を破棄するのは,未熟さ,および心の不安定さの表われです。そのような人をクリスチャン円熟の模範として会衆の前に掲げることができないのは明らかです。クリスチャン会衆内の男子がこれを行なうなら,その者は会衆内の責任の地位につく資格がありません。監督と補佐のしもべたちは「責むべき所」のない者でなければならず,こうしたことを行なうなら,「責むべき所」のない者であるとは言えないでしょう。(テモテ前 3:10)結婚に関して自分自身の心を知らず,自分のことばを尊重できない人は,他の事柄においても同じでしょう。その人はもっと円熟しなければなりません。
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