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「善意の人々」であることを,みずから実証するものみの塔 1971 | 2月1日
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キリストの,油を注がれた弟子たちの残れる者とともに,エホバに神聖な奉仕をささげるためです。(黙示 7:9-15,新)霊的な清さを保ち,また,メシヤの治める王国への忠節を保つことによって,彼らは喜びを得ています。それは,自分たちのささげる賛美の犠牲,および善を行ないかつ他の人々と惜しみなく分かち合うという犠牲を,エホバが受け入れてくださっていることを知る喜びです。彼らの励みのため,次のことが遠い昔に預言的に書きしるされました。「われこれをわがきよき山にきたらせ,わが祈りの家のうちにて楽しましめん,かれらの燔祭と犠牲とはわが祭壇のうへに納めるべし,わが家はすべての民の祈りの家と称へらるべければなり」― イザヤ 56:7。
20 わたしたちは,わたしたちのことを何をもって覚えてくださいと,天に向かって祈りますか。したがって,わたしたちはいつも,どんな種類の会話をする人々とともにいますか。
20 今日,エホバの「善意の人々」とともになっているということは,非常に大きな喜びです。その一員としてふさわしい者とみなされるために,清さと忠実さを保つことはわたしたちの願いです。それゆえ,わたしたちは天に向かって絶えずこう祈ります。「エホバよ,あなたの民への善意をもって,わたしを覚えてください。あなたの救いをもって,わたしを顧みてください」。(詩 106:4,新)これらの人々とともにいる時,わたしたちはエホバに喜びとなる会話を耳にします。「正義の者のくちびる ― それは善意を知るに至る。しかし,邪悪な者たちの口はひねくれている」― 箴言 10:32,新。
21,22 (イ)エホバの善意のもとにある状態と,わたしたちがその怒りのもとにあった時とは,どのように著しく異なっていますか。(ロ)わたしたちは,エホバの善意のもとに,いつまでとどまりたいと願っていますか。それとともに,どんな叫びをあげますか。
21 エホバ神の意志,もしくはその喜ばれるところを行なわなかったがゆえに,わたしたちは,かつて神の怒りのもとにありました。しかし,エホバの「善意の年」を活用してきたので,その過去の経験はつかの間のようであり,過ぎ去った,暗い陰うつな晩のように見えます。それは,神の不興から立ち直った時に語った詩篇作者ダビデの次のことばを思い出させます。「彼の怒りのもとにあるのは,つかの間であるゆえ,彼の善意のもとにあるのは生涯である。泣き悲しみが晩にわたしたちに宿るとも,朝には喜びの叫びがある」。(詩 30:5,新)残されたエホバの「善意の年」を活用することによって,わたしたちは,神の怒りのもとにあったつかの間の泣き悲しみの晩から解放され,「喜びの叫び」がある,その善意の朝にはいりました。
22 わたしたちは,エホバの善意のもとにあることを,ただ一朝だけでなく,「生涯」とすることができますように。わたしたちには,それをとこしえの「生涯」とする機会があるのです。その時わたしたちは,エホバの善意のもとにあることを感謝しつつ,「喜びの叫び」を常にあげるでしょう。そして,わたしたちの叫びは,イエス・キリストを通してエホバに感謝と賛美とをささげる叫びでしょう。
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エホバのお目的にそった生き方をするものみの塔 1971 | 2月1日
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エホバのお目的にそった生き方をする
イエス・キリストの使徒たちが行なったのと同様に,20世紀の人々もエホバのお目的にそった生き方ができることを,ギレアデ学校第49回生の70名は証明してみせました。学生たちは六つの異なった国々から来ており,創造者であるエホバ神に対する崇拝と奉仕を,個人の生活の中で最重要なものとみなしたのです。そのことは,彼らが最近,20か国で宣教のわざを行なうのに備えて,5か月間の徹底的な教育を終了した事実から明らかです。
1970年9月13日,それら70人の献身した人々がギレアデ学校を卒業するにあたり,教訓となる忠告が彼らに与えられました。たとえば,ひとりの話し手は,エホバを喜ばせたいと常に願うことこそが唯一の賢明な道であると卒業生に銘記させ,ユダ書の20節と21節を引用しました。そこには,「己がいと潔き信仰の上に徳を建て……神の愛のうちに己を守(れ)」との忠告がしるされています。
ものみの塔協会の副会長は,卒業生への話の中で,彼らが「宣教者」という新しい名称で呼ばれるようになると述べ,「宣教者」ということばが,ある考え方に人々を引き入れる目的で派遣される者を意味することを知っており,かつ,そうされることを好まないゆえに,卒業生を歓迎しない国々がある事実を指摘しました。そして副会長はさらにこう語りました。「それらの国々であなたがたは,共産主義を広める宣伝者,あるいはよからぬ意図を持って敵国から派遣された者」と見なされます。「そうした国々で,キリスト教世界の宣教師たちはキリスト教の評判を悪くしたのです」。ついで,副会長は「福音伝道者」ということばが,卒業生のこれから行なうとする業を的確に表現していると指摘しました。
テモテ後書 4章5節を新世界訳聖書から引用しながら,話し手は福音伝道者であることに関する要点を強調しました。その聖句は次のとおりです。「しかし,あなたはすべての事柄に冷静を保ち,悪をしのび,福音伝道者のわざを行ない,あなたの奉仕をじゅうぶんに成し遂げなさい」。そして卒業生たちに,それは良いたよりを携える者を意味すると述べました。
副会長は結論としてこう語りました。「きょう卒業するあなたがたを前にして,わたしは次のことを思い起こします。つまり,たいせつなのは,何を始めたかではなく,何を成し遂げたかであるということです。伝道之書 7章8節にはこうしるされています。『事の終はその始よりも善し』。さて,あなたがたが,ものみの塔ギレアデ聖書学校の卒業生として,きょうから出発するのは良いことです。しかし,このことがさらによくなる見込みがありますか。使徒パウロがみずから行ない,かつテモテにも行なうよう告げたこと,すなわち『あなたの奉仕をじゅうぶんに成し遂げ(る)』ならば,それはさらに良い事態へと進みうるのです」。
一連の話の結びとして,ものみの塔協会の会長が卒業生に最後の訓戒を与え,エホバのお目的は彼らが王国の良いたよりを伝道することであることを強調しました。そして,エホバは王国の良いたよりを宣べ伝えさせるためにイエスをつかわされ,またイエスは,伝道するよう他の人々を訓練されたことを思い起こさせました。天に昇る直前,イエスはそれらの人々に,「エルサレムと,ユダヤの全土およびサマリヤにおいて,また,地の最も遠いところにまで」イエスの証人になるようにとの明確な指示をお与えになりました。(使行 1:8,新)ついで会長は,イエスの弟子たちはそれらすべての場所,および他の地方にまで出かけて行って伝道したことを指摘しました。
ペンテコステの日,キリストの弟子たち,とりわけペテロは,少なくとも15の違った国籍の人々に語りかけ,そのうちの3,000人はイエス・キリストを認めてバプテスマを受け,イエスの弟子になりました。会長はまた,そうした人々のうちのある者が生まれ故郷であるエジプトやリビヤに帰るとともに,王国のたよりはそれらの土地に携えて行かれたと説明しました。こうして,良いたよりは第1世紀にアフリカで伝道されたのです。それから会長は,ギレアデの第49回卒業生の中にも,アフリカに行き,そこで良いたよりを伝道するように任命を受けた人がいると話しました。1942年当時,アフリカでこの伝道のわざに携わっていたエホバの証人は,わずか1万名ほどにすぎませんでしたが,1970年4月には,24万2,000名の人々がその地で伝道に従事しました。全世界では,現在145万3,000名の人々がエホバの証人としてこのわざにあずかっています。
ついで会長は,ヘブル書 12章25節のことばに注意を引きました。そこにはこうしるされています。「言いわけをして,話しておられる彼を拒まないようにしなさい」。結びの中で会長は,「今は,言いわけをして,神がわたしたちにお与えになった仕事を遂行するのを拒むべき時ではありません」と語りました。
協会会長の話が終わると,70人の学生たちは1列になって会長のもとに進み出,卒業証書と祝辞を受けました。しかしプログラムはそれをもって終わったのではありません。学生たちが聖書中のルツ記に基く,すぐれた聖書劇を参列者のために準備していたからです。
その励ましある劇に続いて卒業生全員は,2,022名の参列者とともに美しい賛美の歌,「ルツのごとく堅くあれ」を歌いました。そのあと協会会長によって気持ちの暖まる祈りがささげられ,卒業式は幕を閉じました。卒業生および参列者全員は,霊的に立て起こされ,満足感に浸りながら,引き続き神のお目的にそった生き方をしてゆく決意をいだいて会場をあとにしました。
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