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貴重な関係を維持するものみの塔 1979 | 9月1日
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『神に近づく』ことをしないとすれば,「人を欺く罪の力のためにかたくなに」なり何が起きているか気づかないまま難れはじめる危険があります。この点でわたしたちは互いに助け合い,『日ごとに勧め合う』べきです。「初めにいだいた確信を終わりまでしっかりと堅く保ってはじめて」わたしたちは勝利を得るのです。「揺り動かされることのない王国」とその祝福を受け継ぐためには,この堅い確信とこの不動の信仰を維持することが必要です。―ヘブライ 3:10-14; 12:28。
20 この手紙の中でパウロは,信仰を強調する傍ら,祈りについてどのようにわたしたちを励ましていますか。
20 パウロはまた祈ること,そして「わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスをいっしんに見つめ……罪人たちの,自らの益に反するそうした逆らいのことばを耐え忍んだかたのことを深く考え」ることをわたしたちに勧めています。イエスはご自身罪のない方でしたが,体験された事柄すべてを通して,わたしたちの弱さを思いやることができ,わたしたちはイエスを通して「過分のご親切のみ座」に近づくことができ,必要なときに助けを見いだすことができます。―ヘブライ 4:15,16; 12:2,3。
21 パウロは祈りと神から与えられる「よろい」とを,どこでどのように密接に結びつけ,どのように結んでいますか。
21 終わりに,パウロがエフェソス人に書き送ったように,『すべての機会に霊によって祈る』ことが,「完全にそろった,神からのよろい」を着けることと密接に結びついていることを,常に心に留めていましょう。そしてパウロのように,わたしたちは自分と他の人々のために,『良いたよりの神聖な奥義を大胆さをもって話す能力』を与えられるように祈るべきです。―エフェソス 6:10-20。
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宣教者たちは,人格性を持つ方としてのエホバを知るように教えられたものみの塔 1979 | 9月1日
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宣教者たちは,人格性を持つ方としてのエホバを知るように教えられた
「『皆さんはどんなことを学んだのですか』と,多くの人に尋ねられます」。ものみの塔ギレアデ聖書学校の第66期卒業生代表はそう語りました。彼は,会場を埋め尽くした1,952名の人々を前にして,26名の生徒全員の感慨を言い表わした答辞を読みました。その答辞はさらに次のように続いています。「一人の姉妹はそれを次のようにじょうずに表現しました。『私が感謝しているのは,人格性を持つ方としてのエホバについて,またご自分の民に対するエホバの同情心についてより深い理解を得られたということです。それによって,神に対して,またどんな状況の下でも神が私を顧みることを願っておられるということに対して確信が大いに強められました』」。
生徒たちはどのようにして『人格性を持つ方としてのエホバについてより深い理解』を得るに至ったのでしょうか。卒業生に最後の話をした教訓者K・アダムズは次のように述べて聴衆にその答えを明らかにしました。「私たちはグループとして,聖書全体を研究するという課題に取り掛かりました。毎日10ページから15ページを取り上げ,生徒全員が,研究をして,討議に加わりました。難解な節に行き当たると,(1)文脈,(2)書かれた当時の状況,(3)その聖句中のかぎとなる言葉の意味,を考慮しました。私たちは絶えず,『これはエホバとエホバの特質に関して何を示しているだろうか』と自問しました。私たちはそれがいつもエホバについて何かを語っていることを知りました」。
常に際立っていたのはエホバのどんな特質でしょうか。教訓者のアダムズはこう続けました。『それはエホバの愛ある親切でした。神の崇拝者たちの内に信頼と確信を生じさせ,いかなる場所いかなる状況の下にいようと,エホバは自分たちを顧みてくださると感じさせるのは,この“貴重な”特質によります』。―詩 36:7。
エホバを人格性を持つ方として知ることによりもたらされる顕著な結果の一つは,神の権威に対して心からの敬意を示すようになるということです。それには,会衆内での権威を神から与えられている人々に対して愛ある敬意を払うことも含まれています。学校の教務主任のU・グラスが話したのもこの敬意に関してでした。グラスは,次のように語ってすべての人の注意を引きました。「私たちは皆,エホバに献身し,神の言葉に忠節を示しています。しかし,兄弟たちの中には,神が会衆内の不完全な人々に与えられた権威を受け入れ難く感じている人々もいるようです」。
では,そうした人々に対する私たちの態度はどのようなものであるべきでしょうか。わたしたちは人間の追随者にならねばなりませんか。グラスはヘブライ 13章7節に言及し,それらの人々の行動の仕方を熟考しそれらの人々の信仰に倣わねばならないと話しました。このように愛をもって熟考することにより,権威に対するこの重要な敬意を保つことができます。最初の人間はこの点で試みられましたが,権威に対する人々の態度は,キリストの千年統治の終わりに行なわれる人類の最終的な試みにも関係してくるでしょう。―啓示 20:1-10。
その日のプログラムの次の部分として,マラキ 3章に関する洞察力に富む話が行なわれました。話し手であるC・バーバーは,『神に仕え神の律法を守ることには何の価値も益もない』(14節)と言った,マラキの時代のある者たちのように,消極的な態度を培う危険性があるということを警告しました。それにしても何という不忠実な態度なのでしょう! エホバを人格性を持つ方として知る人々は,すばらしい国際的な兄弟関係を喜んでおり,神からのあふれるばかりの祝福により霊的に豊かにされています。(10節)それらの人々はエホバの崇拝の神殿に,りっぱな業という霊的な犠牲を携えてゆくので,神にとって“特別な所有物”あるいは“宝物”となります。(マラキ 3:16,17,ジ・アンプリファイド・バイブル)一連の七つの講演の最後に,啓示 15章と16章に述べられている七つの災厄の成就に関する話が学校長によって行なわれました。彼は,将来に対して地的な希望を抱く人々が,災厄のような音信を注ぎ出す上でどれほど大きな役割を果たしてきたかを示しました。
12の国々への任命を受けたそれら卒業生たちは,最近クリスチャンになった人々ではなく,3月11日の卒業式以前からすでに長年の間エホバを人格性を持つ方として知ってきた人々です。たとえば,バプテスマを受けたクリスチャンとなってから20年以上もたっているビオラ・スコットは次のように語りました。「私と夫をギレアデに来るよう動かしたのは,エホバに対する感謝と人々に対する愛です」。
マイケル・モリナは,エホバの証人になる以前は海軍機の機関銃射手であり,ベトナムで戦闘任務を受けて284回も飛行しました。そしてその勇気をたたえる数多くの勲章を贈られました。「人殺しが私の仕事であり,私はそれに非常にたけていました」と,彼は語っています。今や彼はすっかり変わり,グアテマラへ行って命を救う業に携わるという,クリスチャンの宣教者としての仕事を始めるのです。それというのも,すべて彼がエホバとの個人的な関係を培ったからです。
生徒により行なわれた楽しいプログラムの中には,二つの聖書劇と,聖書中の音楽の用い方に関するものがありました。それで,幕が降りたとき,出席者すべては,自分自身とエホバとの関係を分析し,神にさらに近付くことの必要性をますます自覚するようになっていました。
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イエスは神でしたかものみの塔 1979 | 9月1日
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イエスは神でしたか
西暦四世紀に,ローマ・カトリック教会の僧職者たちは,三位一体の教理を正式に定めました。それは,イエスがみ父と同等であり,三位から成る神の一部であるとする教理です。ところが,注意深く聖書を研究する人の多くは,広く教えられているとはいえ,この教理には聖書中の実際の裏付けがないとみなしています。
「新約神学新国際辞典」(1976年)の第二巻はこの問題を扱っています。同辞典は,「神のみ子が同時に神と呼ばれるかどうかについて疑問を投げかける聖句が新約[聖書]には幾つか」あることを認めています。しかし,いわゆる“新約聖書”,つまりクリスチャン・ギリシャ語聖書に見いだされる全体像はどのようなものですか。この辞典は次のように述べています。
「イエス・キリストは神の地位を強奪することはない。み子とみ父が一つであるということは,存在の完全な同一性を意味してはいない。地上に来る前の神のみ子は神の像を有していたが,神と等しくなろうとする誘惑に抵抗した(フィリピ 2:6)。地上での存在期間中,み子は十字架の上での死に至るまで神に従順であった(フィリピ 2:8)。み子は救いの仲介者ではあるが,創始者ではなく(コリント第二 5:19。コロサイ 1:20。ヘブライ 9:15),世の罪を負う,神の子羊である(ヨハネ 1:36)。地上での仕事を完遂した後,み子は確かに神の右側に高められ(エフェソス 1:20。ペテロ第一 3:22),天的なキリオス,すなわち主という名誉を与えられた(フィリピ 2:9以降)。それでも,み子はまだ神と等しくされてはいない。神と全く調和しているものの,相変わらず神に従属している(コリント第一 15:28参照)。これは,ヘブライ書の言う天の聖所におけるとこしえの大祭司としてのその地位についてもいえる(ヘブライ 9:24; 10:12以降。詩 110:1参照)。み子は神のみ前で我々の代表を務めてくださる(ローマ 8:34も参照)。黙示録(啓示) 1章13節以降で天的な人の子の姿が,ダニエル 7章に描かれている『日の老いたる者』(神)の特徴をもって描写されているとしても,キリストが神と同等であるというわけではない。黙示録の中では,神と『子羊』はいつも区別されている」。
確かに,聖書全体を見ると,イエスは三位一体の教理の主張するような神ではないという事実が明らかになります。
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