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妊娠中絶手術 ― 一医師の見解目ざめよ! 1971 | 1月22日
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から8週間待たねばならないとのことである。
だれが悪いのか
車で病院を出たときの私の気持ちは,少なくとも穏やかではなかった。さまざまな疑問がつぎつぎに脳裏に浮かんでは,答えを要求した。だれが悪いのだろうか。人間は,ある社会問題,つまり人口の継続的増加という問題を是正しようとして,つぎにはどんなことをしでかすだろうか。
医師はたいてい,不幸な女たちを助けているつもりだ,と言って自分の行為を正当化するが,私はそれらの医師のことを考えてみた。それが彼らのほんとうの,あるいは唯一の動機だろうか。経済的にみずからの益を図ることにも関心があるのではなかろうか。むろん,そうした手術を断わる医師も多数いた。しかし,他の医師たちは,ほんの数週間前まで犯罪とみなされ,人倫に反するとされていた処置の「専門家」になろうとしている気配が濃厚である。
妊娠中絶というような事柄を合法化した政治家のことも考えてみた。しかし,それら政治家は責任の一半を負うにすぎない。というのは,政治家は自分たちの選挙人,つまり自分たちが代表する人々の意志や希望を反映させているにすぎぬからである。
私はまた,キリスト教世界の諸教会と牧師のことも考えてみた。他の人々にも大いに責任があることは明らかであるが,私には,牧師にいちばん大きな責任があるように思われる。人々に道義を教え,生命の尊厳を説くのは,医師の特権でも,教師の責任でもなく,立法府の職分でもない。それは,宗教的な性質をもつ問題であって,長年,牧師の責任とされてきた。
きょう私が見た女性の中には,自分たちの聖書の中で婚前交渉が明らかに非とされていることを牧師から教えられなかったばっかりに,中絶手術を受けに来た若い女性が何人いたことであろう。教会の中で良い立場を占めながらも,胎内の子どもの命を全く無視していることを明らかにした既婚婦人が何人いたことであろう。
妊娠中絶に対しては種々の宗教団体が多少の抗議を行なった。しかし,そうした嫌悪の情を表明する力も,現実を前にして失われてしまった。中絶手術を施す人々,妊娠中絶にかんする法律を制定する人々,出生を阻止される不義の子を宿させる人や,中絶手術を受ける女性などの大多数は宗教的な家庭の出であり,今でもそれぞれの地域社会の教会で尊敬されている教会員なのである。
諸教会は失敗した,と私は確信している。牧師は,教師,助言者,道徳および生命愛護を奉ずる者としての役目を怠っている。諸教会が,教会員の思いと心臓の奥底に,基本的な真理,すなわち生命は最も貴重な資産のひとつであるということを銘記させていないのは疑問の余地のない事実だと私は思う。―寄稿
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偶像崇拝から手を切る目ざめよ! 1971 | 1月22日
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偶像崇拝から手を切る
◆ 日本の一大学生は,子どもの守護者とされる地蔵を崇拝する家庭に育ち,父親が地蔵専門の石工だったので,偶像に囲まれた生活をしてきた。彼の兄は,エホバの証人である以前の友人から,「目ざめよ!」誌の予約の贈り物を受けた。ところが,送られてくる雑誌を熱心に繰り返し読んだのは弟,つまりその大学生のほうだった。
後日,エホバの証人の訪問を受け,6か月間の無償の聖書研究を勧められたその青年は,喜んで聖書研究に応じた。4か月めの終わりになって,彼は,生命のない地蔵その他の石仏の崇拝から完全に手を切って,戸別訪問によるクリスチャン宣教に携わり,生きておられる神エホバについて他の人々に語るようになった。
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