-
残された「善意の年」を活用するものみの塔 1971 | 2月1日
-
-
ぬ者と自ら定むるによりて,みよ,我ら転じて異邦人に向はん』」。(使行 13:45,46)これら敵対的なユダヤ人の中には,過ぎ越しの祝いのため,西暦70年にエルサレムに行き,そこで滅びた者がいることでしょう。
26 暦の上で,1日を1年に比べる場合と同様「復しゅうの日」はどのように「善意の年」と対比できましたか。
26 1年に比べれば,1日は短い期間です。同じように,西暦29年のメシヤ出現から,西暦70年にエルサレムの攻囲が始まるまで40年間続いた善意の期間に比べれば,西暦70年の春から夏にわたった「復しゅうの日」は短いものでした。それでも,神の善意が表わされたこの長い期間は,偶然に終わったのではなく,神の定められた時に終わったのです。神の「善意の年」が,復しゅうを執行する時よりも長かったことは,神の忍耐と寛容とを明らかにしています。
27 どんな期間の終わりが迫っているゆえに,神の忍耐と寛容に対して,どのような行動を取るべきではありませんか。
27 神はご自分の復しゅうを定めの時まで控えておられるのですから,わたしたちは神の忍耐と寛容を軽く扱ってはなりません。それの示されている目的,すなわち,わたしたちの救いを念頭において,わたしたちはそれを活用すべきです。クリスチャンと唱えたローマ人に,使徒パウロの投げかけた問いを,わたしたちもよく考えねばなりません。「神の仁慈なんぢを悔改めに導くを知らずして,その仁慈と忍耐と寛容との豊かなるを軽んずるか」。(ロマ 2:4)わたしたちが今,この問いに対する自分の態度を決定し,それに従って行動することは緊急に必要です。わたしたちは今日,エホバの「善意の年」の終わりに近づいているからです。
-
-
「善意の人々」であることを,みずから実証するものみの塔 1971 | 2月1日
-
-
「善意の人々」であることを,みずから実証する
1 (イ)「主キリスト」が人間として誕生した時,天使の軍勢は声をそろえて,なんと言いましたか。(ロ)そのような「人々」は今日,ごく少数しかいないに違いありません。どうしてそう言えますか。それで,どんな質問が生じますか。
『わたしたちの神の善意の年をふれ告げる』ために油を注がれた者となるべき,「主キリスト」が人間として誕生した時,天使の軍勢は,「上なる高き所では神に栄光,地上では善意の人々の間に平和があるように」と声をそろえて語りました。(ルカ 2:13,14,新)以来,今日までの19世紀間,この「善意の人々」がごく少数であったことは疑いありません。それは,「[神]が好意をもたれる人々」(モファット)であり,エホバ神の善意もしくは好意を得ている人々です。そうした人々は,ほんとうに少数でしょう。なぜなら,特に西暦1914年から今日まで,地上にはほとんど平和がなく,『すべて人の思ひにすぐる神の平和』を得ていないことを示す人々がいよいよ多くなっているからです。(ピリピ 4:7)では,大いに時間の経過した今日,どうすれば神の「善意の人々」のひとりとなれますか。わたしたちは,そうなることを願っているのではありませんか。
2 西暦1世紀当時のユダヤ人からどんな教訓を学び取るべきですか。なぜですか。
2 わたしたちは,西暦1世紀当時にパレスチナにいたユダヤ人の例から警告を学び取るべきです。彼らの悲惨な経験は単に史実であるだけでなく,予影であり,ひな型であり,みせしめでもあるのです。霊感を受けた使徒パウロはこう語りました。「さてこれらの事柄はわたしたちへの見せしめとなった……これらの事柄が彼らに起きたのは,見せしめとしてであり,それがしるされたのは,事物の諸体制の終わりが臨んでいるわたしたちへの警告のためである」。(コリント前 10:6-11,新)確かに,イエス・キリストの到来,人間としての犠牲的な死,復活,そして昇天などをもって,その時まで長く続いてきた事物の諸体制は終わりを迎えていました。それはヘブル書 9章26節(新)に述べられているとおりで,「しかし今,ご自身の犠牲によって罪を除くため,彼は事物の諸体制の終局に一度限りご自身を現わされたのである」。今日のわたしたちは,事物の体制の終局という点で,当時と対応する時代に生きています。そのことは,西暦1914年以来非常に明白であり,聖書の預言,および世界のできごとや情勢によって,疑問の余地なく立証されています。それで,聖書にしるされているひな型もしくは先例は,わたしたちへの警告として書かれているのです。
3 (イ)使徒時代のユダヤ人と同様,わたしたちはどんな時に生きていますか。(ロ)「事物の体制の終局……のしるし」のどんな部分が,いつから世界的に生じてきましたか。それはだれによってなされていますか。
3 西暦1世紀の使徒時代のユダヤ人と同じく,今日のわたしたちも,神の好意の時,「エホバの善意の年」に生きてきました。(イザヤ 61:1,2,新)当時のユダヤ人と同じように,わたしたちも事物の体制の終局の時代に生きているのです。「事物の体制の終局…のしるし」について預言されたイエス・キリストは,ご自分の使徒たちに,「王国のこの良いたよりは,すべての国の民への証として,人の住む全地で宣べ伝えられるであろう。それから終わりが来るのである」と言われました。(マタイ 24:3,14,新)この「王国の良いたより」は今日,全世界で宣べ伝えられていませんか。あらゆる事実と統計が示すとおり,確かに宣べ伝えられています。これは特に西暦1914年以来です。万国聖書研究会が計算したとおり,異邦人の時,すなわち「諸国民の定められた時」は西暦1914年に終わり,同時に,人類を解放するため,神がメシヤによるご自分の王国を天に建てる予定の時が到来したのです。その時以来,きたるべき神の王国ではなく,すでに建てられた神の王国を,良いたよりとして全世界に宣べ伝え得るようになりました。そして,実際にそのように宣べ伝えられてきたのです。だれによってですか。エホバの証人によってです。
4 (イ)西暦1世紀の,場合と同様良いたよりのこの伝道は,神のどんな態度を示す証拠といえますか。(ロ)わたしたちはなぜそれを活用すべきですか。
4 第1世紀においては,「悔い改めよ,天の王国が近づいたからである」という神からの音信を宣べ伝えることが,ユダヤ国民に対する神の善意のしるしでした。(マタイ 3:1,2,新; 4:12-17。イザヤ 9:1,2)同様に今日,建てられた神の王国が西暦1914年以来宣べ伝えられてきたことは,神の善意の証拠です。この王国の伝道が終了すれば,その時,「終わりが来る」のであり,現存する事物の体制のその終わりは,「わたしたちの神の復しゅうの日」となるのですから,このことは明らかです。そして,「王国のこの良いたより」の伝道はまだ続き,しかもエホバの証人はそれをいよいよ大規模に行なっていますから,これは,今の世代のわたしたちがまだ「エホバの善意の年」にいる証拠です。王国の伝道が,これまで,ずっとなされてきましたから,この「善意の年」は終わりに近づいているはずであり,わたしたちは,「復しゅうの日」が現在の事物の全体制に突如到来する以前に,「善意の年」を活用すべきです。わたしたちは,そうしていますか。あるいは,そうしますか。
5 今日のわたしたちと同様な立場にあった人々に対し,パウロはコリント後書 5章21節から6章2節になんと書きましたか。それはエルサレムの滅亡のどれほど前のことでしたか。
5 わたしたちは今,一つの機会を前にしています。しかも,それはわたしたちの命にかかわる事柄です。わたしたちは,その機会を
-