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    ものみの塔 1963 | 5月1日
    • 「福音」の挑むもの

      1 今日いちばん良いたよりは何ですか。なぜそうですか。

      良い知らせは心を喜ばせます。はじめての男の子が無事に生れたことを知った時の父親の喜び! 親しい友,肉親のきょうだい,父母がわが家にたずねてくれるのを知ったときのうれしさ! 畑にまいた種が芽ばえたのを知る農夫のよろこび! 失業のあげく何ヵ月もかかってようやく職を得たときの喜び! これでやっと家族が生活できるという安心。当事者にとって,これはたしかに良い知らせです。しかしすべての良い知らせの中でも,「〔神の〕御国の福音」にまさる良い知らせはありません。これは従順な人類が新しい世で永遠の生命と平和の祝福に与る希望を告げるからです。―マタイ 24:14。

      2 良いたよりを聞いたとき,たいていは何が生じますか。例をあげなさい。

      2 しかし良いたよりと共に責任の生ずることも見逃してはなりません。それはひとつの挑戦です。良いたよりを聞いた者は行動を起こす,つまり良いたよりに対する感謝を行いに表わすことを求められます。行動にうつしてこそ,良いたよりから最大の益が得られるのです。子供が生れたことは夫婦にとって喜びであると同時に,この誕生の奇跡によって人の子の親となった,二人は新しい事態に対処しなければならず,両親としての責任をはたさねばなりません。客を迎えた家の人は,それが楽しいことではあっても,もてなすために働きます。作物の芽ばえは農夫にとって挑戦となります。作物を荒らす鳥を追い払い,除草,灌水などに精を出して,実った作物をとりいれるまでには多大の労力をかけます。職を得た人は就職と同時に責任も引き受けました。職を保持するには忠実に働かねばなりません。これは勤勉な働き人になるかどうかの挑戦です。

      3 (イ)「福音」は地の将来について何を述べていますか。(ロ)誠実な人はいまどんな質問をしますか。

      3 「御国の福音」の場合にも同じ事が言えます。福音はそれを聞く者に挑みます ― それを聞いた者は,喜んで聞いたことを行いに表わすように求められます。それは良いたよりではありませんか! キリスト・イエスの治める神の国は悪の組織制度を滅ぼします。憎しみと戦争,病気と死はなくなり,地は完全な人間が平和と幸福に生きる楽園となるのです。しかも楽園が出現するのは間近く,この時代のことです。(ダニエル 2:44。詩 37:10,11; 46:9。イザヤ 9:6,7。黙示 21:3,4。マタイ 24:3-14,32-34)読者はこの良いたよりをいくらか聞き知っておられることでしょう。この雑誌をいま読んでいることも,「福音」に対する関心,また神の国によって成就される神のお目的に対する関心の表われです。この最善の国の下に住み,永遠の祝福を享受することは,疑いなくあなたの願いでありましょう。誠実にこのことを願う人は,次の問を発します,「何をすべきか。神の国の福音を受け入れたならば,日々の行いはどんなものであるべきか」。

      4 神の国の下で生命を得たいと願う人には,いまどんな行いが要求されていますか。そのことはなぜ変化を意味しますか。

      4 「今は悪い時代なのである」(エペソ 5:16)と述べた使徒パウロの言葉は今日でも真実であり,その事に異論はないと思います。いまは人間の考えも行いも悪い,不義の時代,悪の時代です。人間のすること,国々のすることは神のほまれとならず,神の国にふさわしくありません。この世に生まれた以上は,神の正義の原則と相容れない因襲や習慣の中にはぐくまれ,神のことば,聖書の教えとはほど遠い行いをしている人々とも接します。だれでもその影響を受け,それは生活にも表われてきます。またこの分裂した世界では,家,民族,国など,さまざまなものに対する忠誠が要求され,分裂,憎悪,疑心,誇り,優越感を生む原因となっています。ところが聖書を読んで神の国のことを学ぶと,永遠の生命を得ようとする人には別の忠誠心の要求されていることがわかります。それは宇宙の至上支配者エホバと,キリスト・イエスの治める御国に対する忠節です。また御国の支配に従順に服して生活する道をあたらしく学びます。これは世のものとは異なる生き方であって,「福音にふさわしく生活」することです。―ピリピ 1:27,新口。

      5 「御国の福音」を受け入れるとは,どういう事ですか。

      5 「福音」は神の国にかかわるものであって,この点を理解することは大切です。この国は政府であり,その人民に対して支配権を行使します。国家には国民を治めるための法律があります。その国民の行いを律する法や定めがあるのは,神の国の場合にも同様です。従って「福音」を受け入れることは,天にある神の国の民となる責任を担うことであり,神の国に従い,宇宙の至上支配者エホバ神の戒めを守ることです。そうすることによってのみ,人は「神の国にふさわしい者」となります。―テサロニケ後 1:5。

      6 なぜこれはいま緊急な問題ですか。

      6 これは地に住むすべての人が関心を持つべき,さしせまった問題です。「御国の福音」はいま全地に伝道されています ― その事実は否定できません。それは今が世界の「終りの時」だからであり,すべての人の最後の裁きが行なわれようとしているためです。「福音」にどう聞くか,それに従うかどうか,また福音にふさわしい生活をするかどうかによって,生死が決まります。神の国の王であるキリスト・イエスが天使たちをひきいて来て,「神を認めない者たちや,わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復」する時はまぢかです。―テサロニケ後 1:7-10,新口。

      イスラエルは良いたよりを聞く

      7 エジプトにいたイスラエル民族に,どんな良いたよりが宣べられましたか。

      7 アブラハムの子であるイサクの子ヤコブすなわちイスラエルから出たイスラエル人は,何年もエジプトに住みました。イスラエルの人々はこのパロの国でふえて多くなり,やがて憎しみと迫害を受けました。そして奴隷の境遇に落ち,圧迫に苦しみました。その苦しみのさなかに,良いたよりがもたらされました。後代になってイスラエル人を指して「初めに福音を伝えられた人々」と言われているのは,このためです。(ヘブル 4:6,新口)エホバ神は代弁者モーセを用いて,心をときめかせる音信をイスラエル人に述べさせました,「わたしはあなたがたを,エジプトの悩みから導き出して,カナンびと……の地,乳と蜜の流れる地へ携え上ろう」。(出エジプト 3:17,新口)なんと喜ばしいおとずれではありませんか! これを聞いたイスラエル人の喜び,そしてのちほどエホバが奇跡的な救いをイスラエルのために施した時の人々の喜びは大きかったに違いありません! エホバはエジプトに十の災を下し,遂にエジプト人を紅海に滅ぼしました。その時イスラエル人はモーセに導かれて乾いた土の上を安全へと渡ることができたのです。(出エジプト記 7-15章)まだエジプトにいたとき,モーセは命ぜられた通り次の言葉をこの民に語りました,「故にイスラエルの子孫に言へ我はエホバなり我汝らをエジプト人の重負の下よりひき出しその使役をまぬかれしめ又腕をのべ大なる罰をほどこして汝等を贖はん我汝等をとりてわが民となし汝等の神となるべし汝等はわがエジプト人の重担の下より汝らをひき出したるなんぢらの神エホバなることを知ん」。(出エジプト 6:6,7)これはイスラエル人がエホバの民となってエホバと特別な関係を結ぶという,祝福の約束でした。それでこの特権を持つ者にふさわしい行いがイエラエル人に要求されたことは,いうまでもありません。

      8 (イ)伝えられた良いたよりに,イスラエルが感謝を示す道は何ですか。(ロ)エジプトから遂に救い出されたこの国民は,どんな資質を表わしましたか。

      8 この良いたよりに感謝し,エホバを神とする特権に感激したイスラエル人が,エホバの命ずる事柄をことごとく守って行なおうという熱心な気持ちを抱いたのは当然のことでした。このような従順を示す機会が間もなくおとずれました。まだエジプトにいるとき,エホバは過越しを守ることをモーセによって民に命じたのです。すべての家族はニサンの14日(ユダヤ暦)の晩,おのおのの家に集まり,羊を殺してその血を戸口の柱にぬることが命ぜられました。(出エジプト 12:1-23)モーセからこれらの事を教えられてのち,「イスラエルの子孫去りてエホバのモーセとアロンに命じたまひしごとくなし斯おこなへり」。(出エジプト 12:28)エホバの天使がエジプト人の初子をことごとく撃ったとき,イスラエル人の家が「過越された」のは,この事のためです。「その同じ日にエホバ イスラエルの子孫をその軍隊にしたがひてエジプトの国より導きいだしたまへり」。―出エジプト 12:51。

      9 (イ)イスラエルがどんな国民になると,エホバは言われましたか。(ロ)エホバはイスラエルに何を求めましたか。

      9 エジプトを出て3ヵ月目,イスラエル人がシナイ山に達したとき,エホバは再びモーセを代弁者として用い,イスラエル人がいま神の民として神と特別な関係にはいろうとしていることを明らかにされました。「ここにモーセ登りて神に詣るにエホバ山より彼を呼て言たまはく汝かくヤコブの家に言ひイスラエルの子孫に告べし汝らはエジプト人に我がなしたるところの事を見我が鷲の翼をのべて汝らを負て我にいたらしめしを見たり然ば汝等もし善く我が言を聴きわが契約を守らば汝等は諸々の民にまさりてわが宝となるべし全地はわ所有なればなり汝等は我に対して祭司の国となり聖き民となるべし是等の言葉を汝イスラエルの子孫に告べし是においてモーセ来りて民の長老等を呼びエホバの己に命じたまひし言をことごとくその前にのべたれば民皆等しく応へて言けるはエホバの言たまひし所は皆われら之をなすべしと」― 出エジプト 19:3-8。

      10 エホバは,契約の民を治める律法をどの程度まで定めましたか。

      10 イスラエルの民は特異な存在でした。男も女も子供も全国民が,普通に律法契約と呼ばれるこの契約の下にあり,これによって文字通り取りわけられた民すなわちエホバの民となったのです。たしかにエホバは王であり,王の権威を行使して,生活全般にわたり人々の行いを律する法を定めました。モーセの手を経て与えられたこの律法は,神の崇拝,ささげものや犠牲に関するものです。また飲食,霊的な清さ,清潔,道徳に関する律法をはじめ,結婚関係,夫と妻,両親の義務,子の道を定めた律法がありました。また隣人との関係を教えた律法と原則は,人との交渉において愛とあわれみ正正直と公正の大切なことを強調しています。

      11 神は血に関するどんな律法をイスラエルに与えましたか。この律法はそれ以前のどんな戒めに基づいていましたか。

      11 これらの律法の中には,むかし与えられた律法あるいは原則を敷衍したに過ぎないものもあって,モーセ以前のそれらの律法はアダムとノアの子孫である全人類に与えられた,そして現在でも効力を持つものです。たとえばイスラエルに与えられた律法の中に血の神聖さに関する律法がありますが,これは創世紀 9章にある通り,洪水の直後,神がノアに与えた戒めに基づいています。「すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように,わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を,その命である血のままで,食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには,わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも,わたしは人の命のために,報復するであろう。人の血を流すものは,人に血を流される,神が自分のかたちに人を造られたゆえに」。(創世 9:3-6,新口)血の取扱に関してこのような尊敬を示すのは,血が生命すなわち魂を表わすからです。また生命は神の賜物である以上,神は人間に対し,男女を問わず他の人々また動物の生命を尊重することを当然に要求できます。食用に供するために動物を殺すことは許されましたが,単なるなぐさめのために動物をむやみに殺すべきではありません。それでイスラエル人に与えられた神の律法は,生命を表わす血を尊重することも含め,生命を尊ぶことを強調していました。これはエホバの命じた言葉です,「イスラエルの家の者,またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも,血を食べるならば,わたしはその血を食べる人に敵して,わたしの顔を向け,これをその民のうちから断つであろう。肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で,あがないをするため,わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに,あがなうことができるからである。このゆえに,わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたのうち,だれも血を食べてはならない。またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない。イスラエルの人々のうち,またあなたがたのうちに宿る寄留者のうち,だれでも,食べてもよい獣あるいは鳥を狩り獲た者は,その血を注ぎ出し,土でこれをおおわなければならない。すべて肉の命は,その血と一つだからである。それで,わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは,どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう」。十戒の第6番目すなわち「あなたは殺してはならない」もまた,生命の尊いことを強調しています。―レビ 17:10-14。出エジプト 20:13,新口。

      12 エホバが石の板に書かれた十戒には,何が述べられていましたか。

      12 十戒はイスラエル人を治める十の根本的な律法です。シナイ山でモーセに与えられた2枚の石の板の上に,それは神ご自身により,神の聖霊の力によって刻まれました。たとえ小部分とはいえ,イスラエルに与えられた律法の中で,それは重要な地位を占めていました。それは根本的な律法あるいは原則であって,まずイスラエル人の神に対する関係を定め,ついで親子のあいだ,また他人とのつき合いにおいてどんな行為をすべきかを定めています。最初の四つはエホバを神として専心の崇拝をささげ,その戒めを守るべきことを教え,第5番目は子供が父母を敬うこと,すなわち家族の一致の必要を示し,残りの五つは人間同志の関係すなわち殺してはいけない,姦淫してはいけない,盗んではいけない,偽証してはいけない,貪る,つまり他人の所有物を得ようと望んではならないことを命じています。―出エジプト 20:1-17。

      イスラエル民族は警告の例

      13,14 (イ)神の律法を守り行なうとき,イスラエルは何を得ますか。(ロ)イスラエルはどんな祝福をたしかに受けましたか。なぜそれはながつづきしませんでしたか。

      13 エホバの律法を守ることは,イスラエル人にとってはかり知れぬ祝福となります。神の戒めは,国民の一致,健康,幸福を増進する健全な生活に人々を導くでしょう。しかしいちばん大切なのは,神の戒めによって正しい崇拝,自分たちの神エホバの目に正しく,その恵みを得る正しい行いに導かれることです。神の律法を守るならば,偽りの宗教と不品行から身を守ることができました。従って罪と反逆に陥って神から捨てられるのを避けることができました。

      14 約束にたがわず,神はイスラエル人を乳と蜜の流れる土地に導きました。(出エジプト 3:8。民数 13:27)幾多の経験を経てのち,この国民は約束の土地カナンつまりパレスチナに定着し,ソロモン王の治世には,「周囲至る所に平安を得た。ソロモンの一生の間,ユダとイスラエルはダンからベエルシバに至るまで,安らかにおのおの自分たちのぶどうの木の下と,いちじくの木の下に住んだ」と記録されています。(列王上 4:24,25,新口)しかしこのような祝福は長つづきしませんでした。神の律法を守らず,不従順な行いを重ねたため,遂には神の恵みを失って神の民ではなくなったからです。神が預言された通り,このような不従順は祝福のかわりにのろいをもたらしました。

      15 (イ)イスラエルとエホバとの関係は,どんな二つの基本的な戒めに基づいていましたか。(ロ)エホバはなぜ偽善的な崇拝に欺かれませんか。

      15 律法契約の根底は十戒でしたが,この国民が神と結んだ関係は実際に二つの基本的な原則 ― 神に対する愛と隣人愛に基づいていました。(申命 6:5-9。レビ 19:18)神の恵みを失わないためには,この二つの原則に忠実なことが肝要です。不完全な人間の弱さゆえならば,時には道からはずれても,矯正やこらしめを受けて,なお許しを得ることができます。しかし神を愛することをやめ,全き心で神に仕えることをやめた国民の前途にあるのは災いのみです。(歴代上 28:9。箴言 4:23)見せかけの崇拝で神を欺くことはできません。エホバは「心を見」,「心を探る」神だからです。イスラエルの人々の多くは,神と隣人を愛する心を失い,エホバはそれをごらんになりました。はじめはひそかに,やがて人々の心が悪行になれるに及んで公然と行なわれるようになった悪行を,神はことごとくご存知でした。―サムエル前 16:7。エレミヤ 17:10,新口。

      16 (イ)なぜ災いがこの民に臨みましたか。(ロ)預言者エレミヤはこの理由をどう説明しましたか。

      16 イスラエル人が約束の地にはいったのはキリスト前1473年のことで,土地が全く平定されたのはダビデ王の時です。40年にわたるダビデの治世はキリスト前1037年に終りました。更に40年の後,ねたみと争いのため国は二つに分かれました。すなわちキリスト前997年にソロモン王が死ぬと,イスラエルのもとの国は,サマリヤを都とする北の十支族の国イスラエルとエルサレムを都とする南の二支族の国ユダとにわかれました。十支族の北の国はキリスト前740年,アッシリヤ人の手によって滅ぼされ,ついでキリスト前607年,ユダの国もまたバビロン人に滅ぼされました。ユダの国の滅びも遠くないとき,エレミヤは次の言葉を人々に告げました,「われ汝らの列祖をエジプトの地より導き出せし日より今日にいたるまで切に彼らを戒め頻に戒めて汝ら我声にしたがへといへり然ど彼らはしたがはずその耳を傾けずおのおの其悪しき心のかたくななるに従ひて歩めり,故にわれ此契約の言を彼等にきたらす,こはわがかれらに之を行へと命ぜしかども彼等がおこなはざりし者なりまたエホバ我にいひたまひけるはユダの人々とエルサレムに住る者の中に反逆の事あり彼らは我言をきくことを好まざりしところのその先祖の罪にかへり亦他の神に従ひて之につかへたり,イスラエルの家とユダの家はわが先祖たちとむすびたる契約を破れりこの故にエホバかくいひ給ふ視よわれ災禍をかれらに下さん,彼ら之を免かるることをえざるべし彼ら我をよぶとも我聴かじ」― エレミヤ 11:7-11。申命 6:12-15と28:15,45-47とを比較して下さい。

      17 イスラエル人はどのように一時のあいだ復帰しましたか。

      17 70年の荒廃の後,エホバは深いあわれみを示し,またご自身の約束と目的に従ってこの国民の残れる者をバビロンから約束の地に連れ返しました。捕われの民イスラエルに,再び解放を告げる良いたよりがもたらされたのです。生来のイスラエルの残れる者は,独立した国民としてひとつの国を回復することはなくても,エホバの崇拝を復興するため,パレスチナに復帰しました。

      18 イスラエル民族は,伝えられた「福音にふさわし」いことを証明しましたか。

      18 昔のイスラエル国民は,エジプトでモーセにより伝えられた「福音にふさわし」いことを結局のところ証明しましたか。エホバの命ずることをすべて行なって真に神の民になると言明した先祖の約束を守りましたか。霊感によって書かれた記録を見ると,そうではありません。この国民がふさわしくないことは,約束されたメシヤ,イエスに対する態度を見ても明らかです。人々はイエスを受け入れず,イエスの杭上の死をはかりました。イエスは死の直前,この国民に裁きを宣告し,こう述べました,「ああ,エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど,めんどりが翼の下にそのひなを集めるように,わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに,おまえたちは応じようとしなかった。見よ,おまえたちの家は見捨てられてしまう」― マタイ 23:37,38,新口。ルカ 23:18-25。使行 2:23。

      19 (イ)忠実だった時のイスラエル人は,どんなに大きな特権を享受しましたか。(ロ)神が遂にこの民族をしりぞけたとき,神と人との交わりは終りましたか。

      19 イスラエル人は,エホバの証者の国民となる特権に恵まれていました。(イザヤ 43:10-12)地上の他の国々にエホバのことを宣べ伝えるように命ぜられていたのではありません。しかしエホバに専心の奉仕と崇拝をささげるために選ばれた民でした。忠実だったとき,イスラエルのした真の崇拝と,イスラエルのためにエホバの行なわれた大いなるみわざによって,エホバのみ名は大いにあがめられました。しかしエホバの証者であるからには,真の崇拝を実践し,神との契約を守り,神の戒めを守らなければなりません。イスラエルの人々はこの事をしませんでした。そのために生来のイスラエルはエホバの恵みを失いました。律法は刑柱に釘づけにされ,律法契約はイエスに成就して終りとなりました。(コロサイ 2:14)しかしそれ以後,人間に対して神がなんのかかわりも持たないというわけではありません。キリスト・イエスを仲保者とする新しい契約が,生来のイスラエルとではなく,ふさわしい実を結び,キリストを王とする天の神の国にふさわしい行いをする国民との間に成立したからです。―ヘブル 8:6。マタイ 21:43。

  • 「福音」はエホバの御名を負う民を分ける
    ものみの塔 1963 | 5月1日
    • 「福音」はエホバの御名を負う民を分ける

      1,2 (イ)マタイ伝 21章43節において,イエスが言われたのはどの国ですか。(ロ)この国の王はどなたですか。何時全権力をもって支配し始めましたか。(ハ)この国は特定の民族に与えられますか。

      「その果を結ぶ国人は,これ〔神の国〕を与えらるべし」。マタイ伝 21章43節にあるイエスの言葉に国人とあるのは,どの国民のことですか。また神の国とは何ですか。祝福されたこの国民は,特定の民族あるいは人種,また人間の建てた国の下に結合した人々ではありません。エホバ神はすべての国民の中から人々を選んで世とわかたれたひとつの民,「御名を負う民」を集めることを目的とされました。―使行 15:14,新口。

      2 この人々の仕える御国は,エルサレムなどの地上の都を持つ地上の国ではありません。ここに言われているのは「天にある御国」です。(テモテ後 4:18,新口)不忠実なイスラエル国民が拒絶し,殺したキリスト・イエスはよみがえされて,後には昇天しました。そこでキリストは,御国の力を与えられて支配を始める神の定めの時を待ったのです。(ヘブル 1:13。使行 2:32-36)その時は西暦1914年に来ました。つづいて起きた「天(の)戦争」によって,神と忠実な人間の敵対者サタンは天から追い落とされ,いまでは神の支配に反対してきた世の政府,不義の人々,悪霊と共に滅ぼされるのを待つばかりです。この事はハルマゲドンと呼ばれる「全能の神の大なる日の戦闘」のときに起こります。―黙示 12:7-12。ダニエル 2:44。黙示 16:14,16。

      3 (イ)「小さな群れ」と(ロ)「他の羊」はそれぞれ御国とどんな関係にありますか。

      3 キリスト・イエスを王とする天にある神の国は,いま清められた天において支配しています。この御国は地の諸国民の中から選ばれ,キリストと共に「王」となって治める14万4000人で構成されます。(黙示 20:6; 14:1-4)御国の下に地上で生命を得る大ぜいの人にくらべれば,天の報いを得るこれらの人々はたしかに「小さい群れ」です。この「小さい群れ」のほかに「他の羊」がいます。いまの終りの時に住み,「福音」に善意を持つ大ぜいの群衆も他の羊であり,これらの人々は楽園の地に住む御国の民となります。―ルカ 12:32。ヨハネ 10:16。黙示 7:9,13,14。詩 37:11,29。「御国のこの良いたより」23-28節をごらん下さい。

      4 1900年前,14万4000人の成員がはじめて集められたとき,その人々が御国の支配を受けるようになったと言えるのはなぜですか。

      4 イエスをはじめ使徒たち,1世紀の弟子たちが「御国の福音」を伝道した当時の目的は,エホバの御名を負う民,キリスト・イエスと共に御国の支配に与る14万4000人の人々を諸国民の中から選び出すことでした。この人々は遂には天に行き,主イエスと共にいるように召されており,「福音」によって招かれました。(テサロニケ後 2:14)地を完全に治める神の国の支配は当時まだ始まっていませんでしたが,エホバは常に「永遠の王」であり,イエスは新しいクリスチャン国民の見えないかしらであるため,信じた者はキリスト・イエスを通して神の国の支配の下に来たと言えます。「御国の福音」を聞き,それを受け入れて神の奉仕に献身したとき,神はその人々を「やみの力から救い出して,その愛する御子の支配下に移して下さった」と言えるのです。―コロサイ 1:13,新口。

      5,6 (イ)初期クリスチャンはどんな質問に直面しましたか。今日のクリスチャンにも,どんな類似の質問がありますか。(ロ)イエスの真の追随者が「エホバのみ名を負う民」であることは,何によって見分けられますか。

      5 この事はこの人々の立場にどんな影響を及ぼしますか。この人々といえども同じ世界に住み,いろいろな政府の治める領土に住みました。初期クリスチャンの時代,文明世界の大半を支配したのは6番目の世界強国ローマでした。ローマその他,地上の政府との関係はどうなりましたか。

      6 1900年後の今日でも同じ質問を考慮できます。今日,「福音」を伝道するおもな目的は,天にある御国に召された人々を集めることではなく,地上の楽園に永遠の生命を望む善意者を招くことです。聖書の預言の成就から明らかなように,天の御国は1914年以来,支配しており,従ってこの組織制度の終りが近づいています。「御国のこの福音」は,189の国々と島々でいろいろな形態の政治また政府の支配下にある人々に伝道されています。別の政党が政権を得,また植民地が独立を獲得するなど,支配形態は多くの国において変化します。このような変化が生ずるとき,クリスチャンと政府との関係はどうなりますか。キリスト・イエスの真の追随者は,民族,国家を異にしてもなお一致した民となり,この世からはなれて神の国のために働く民,エホバの御名を負う民となれますか。もしそうならば,どのようにしてこの人々を見分けることができますか。「神の国にふさわしい者」の行いによって見分けることができます。―テサロニケ後 1:5,新口。

      7 それで「福音」は何を挑みますか。

      7 エジプトにおいてはじめイスラエルに伝えられた「福音」はひとつの挑戦であって,一定の行い,律法契約への忠実,王であるエホバへの服従,その戒めを守ることを要求しました。14万4000人の霊的イスラエルの新しい国民がはじめて集められて以来,「他の羊」の大ぜいの群衆が集められている今に至るまで,「御国の福音」がそれを受け入れる者に何か挑むことは昔と変りません。すなわち「福音にふさわしく生活」するだろうかという問題が起きます。―ピリピ 1:27。

      世から離れる

      8 (イ)クリスチャンと世との関係を定めるどんな原則が,ヨハネ伝 17章14-18節に述べられていますか。(ロ)今日のエホバの証者は,どうして新世社会と言えますか。

      8 死の直前,弟子たちと共に最後の時を過ごしたイエスは,天の父への祈りの中でクリスチャンと世との関係を明らかにするひとつの原則を述べました。「わたしは彼らに御言を与えましたが,世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように,彼らも世のものではないからです。わたしがお願いするのは,彼らを世から取り去ることではなく,彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように,彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように,わたしも彼らを世につかわしました」。ゆえにイエスの真の追随者は世の悪い道から離れ,人間の企てや組織に将来の希望をかけていないという意味で,この世のものではありません。その希望は神の国の治める新しい世界にあり,その心は新しい世のことだけに専念しています。それでエホバの現代クリスチャン証者は,新しい世の社会だと言えます。エホバの証者のこの新しい世の社会は,神を深く愛し,エホバを宇宙の至上支配者と認め,神の国に従うので互に一致しています。―ヨハネ 17:14-18,新口。

      9 神の国が存在し,また支配していることを示すどんな証拠がありますか。

      9 神の国は天にあるもので,地上の人間の目に見えないため,諸国家は神の国を認めず,神の国を考慮に入れません。しかし神を見ることができないからと言って,神が存在しないということにはなりません。神の存在することは,創造物に見て明らかです。(ロマ 1:20)あらゆる国民の人々,御国の支配を認める何十万人の間に平和と一致を実現させた新しい世の社会の存在は,神の国の存在を証明しています。詩篇 72篇7,8節の霊感の言葉もこれと一致します,「彼の世に義は栄え,平和は月のなくなるまで豊かであるように。彼は海から海まで治め,川から地のはてまで治めるように」。(新口)この言葉の通り,エホバの証者の新世社会の人々は文字通り「地のはて」にもいます。そして神の国を支持して全地にそれを伝道し,神のみ心を従順に行なって神の国の民であることを行いに表わしています。

      10 なぜエホバの証者は政治問題や,国家間の戦争に関係しませんか。

      10 一致を保つために神の真の僕は,世から離れるという右に述べた原則に従わなければなりません。エホバの証者が政治問題にかかわりを持たないのはそのためです。もしそうでないとしたら,一体どうなるかを考えてごらんなさい! 会衆の成員が異なる政治組織を支持し,抗争し合う党派に組するならば,真のクリスチャンの会衆は内輪で争うことになります。これはヨハネ伝 17章21,22節にあるイエスの言葉と相容れません。「父よ,それは,あなたがわたしのうちにおられ,わたしがあなたのうちにいるように,みんなの者が一つとなるためであります。すなわち,彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり,それによって,あなたがわたしをおつかわしになったことを,世が信じるようになるためであります。わたしは,あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは,わたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためであります」。(新口)自らの手で壁を築いて争い合う諸国家の戦争に加わらないエホバの証者は,国際的な規模においてこの一致を保っています。

      「カイザルのものはカイザルに」返す

      11,12 クリスチャンは,どのように「カイザルのものをカイザルに」返しますか。

      11 しかしエホバの証者は地上の政府の治める領土に今でも住んでいます。エホバはこれらの政府の存続を今に至るまで許されました。これらの政府とクリスチャンとの関係を明確にするためイエスの語った原則は有名です。「カイザルのものはカイザルに,神のものは神に返しなさい」。(マタイ 22:21,新口)この言葉から明らかなように,地上の政府(すなわちカイザル)は当然のこととしてクリスチャンに一定の義務を課します。たとえばマタイ伝 22章においてイエスは税金を払うことを語っています。教育,道路の建設,警察と法廷による法と秩序の維持,水道,電気など,キリストの追随者も政府から多くの恩恵を受けます。このすべては賄われねばなりません。それでクリスチャンは良心のとがめを受けることなく,得たものに対しては税金その他の形で「返し」ます。

      12 加えて真のクリスチャンは法を守り,法の尊敬を認めます。たとえば交通法規にしてもスピード違反などをせず,その他一般の生活において法を遵守します。これはまた法を施行する人々に対して尊敬を示すことです。このすべてはロマ書 13章6,7節にある使徒パウロの言葉とも矛盾しません。「あなたがたが貢を納めるのも,また同じ理由からである……あなたがたは,彼らすべてに対して,義務を果しなさい。すなわち,貢を納むべき者には貢を納め,税を納むべき者には税を納め,恐るべき者は恐れ,敬うべき者は敬いなさい」。

      13 政府の形態が変化しても,エホバの証者は何をしますか。

      13 クリスチャンは時の政府の如何にはかかわりなく,この道に従います。別の政党が政権を得て政府が変っても,エホバの証者は以前と変らない法律遵守の立場をとります。神が地上の政府の支配を許すあいだ,エホバの証者はこのことをします。

      「神のものを神に」返す

      14 (イ)神に返すべき神のものとは何ですか。(ロ)神の要求とカイザルの命令が矛盾するとき,クリスチャンはどうしますか。(ハ)ペテロと他の使徒たちは,この点でどんな原則に従いましたか。

      14 クリスチャンは「カイザルのものをカイザルに」返すだけでなく,「神のものを神に」返すと,イエスが言われたことに注目して下さい。エホバ神は生けるものすべての創造主であり,従って私たちの生命は神のものです。宇宙の至上者,唯一の真の神であるエホバだけに,崇拝をささげなければなりません。今の末の世において神を真に崇拝するには,神の御名を宣べ伝え,「御国のこの福音」をひろめることもまた肝要です。(ナホム 1:2。マタイ 24:14)時には「カイザル」の要求が神の求め給うことと両立しない場合も起きるでしょう。そのときクリスチャンはどうすべきですか。「福音にふさわしく生活」する者のとるべき道は,1世紀のクリスチャンの例に照らして明らかです。ペテロその他の使徒たちがユダヤの大祭司の前に連れてこれらたとき,次の問答がかわされました。「『あの名を使って教えてはならないと,きびしく命じておいたではないか。それだのに,なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を,はんらんさせている。あなたがたは確かに,あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと,たくらんでいるのだ』。これに対して,ペテロをはじめ使徒たちは言った,『人間に従うよりは,神に従うべきである』」。これが崇拝の問題であることを悟ったクリスチャンは,伝道の中止を命じたこの特定の命令に従うことを拒絶しました。神の至上命令に忠実に従ったこれら使徒たちは伝道をつづけ,「御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜」びました。―使行 5:28,29,40-42,新口。

      15 ロマ書 12章12-21節に従い,クリスチャンは迫害される時にも,どんな行いをすべきですか。

      15 たとえ反対や迫害を受けても,使徒たちは権威を持つ者に対して報復しようとはせず,また法廷において不敬を示すこともありませんでした。使徒たちは平静を失わず,威厳を以て自分たちの立場を守り,人間の命令よりもまずエホバの命じたことを行なって忠実を守りました。今日でも同様です。共産主義諸国などのようにエホバの証者の迫害されている国においても,エホバの証者は政府を転覆しようとする企てに加わることなく,神の僕また神の国の伝道を使命とする証者である自分たちの立場を説明します。新しい世の生命の希望に固い信仰を持っているので,エホバの証者はこのようなかん難に耐えることができるのです。また心を苦くして悪を以て悪に報いることをせず,平和にくらし,反対する者が神の言葉の真理を学んで祝福を得るように助けようとさえします。使徒はこう書きました,「望みをいだいて喜び,患難に耐え,常に祈りなさい……あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して,のろってはならない。……だれに対しても悪をもって悪に報いず,すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは,できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐しないで,むしろ,神の怒りに任せなさい。なぜなら,『主〔エホバ,新世〕が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。むしろ,『もしあなたの敵が飢えるなら,彼に食わせ,かわくなら,彼に飲ませなさい。そうすることによって,あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって,善をもって悪に勝ちなさい」。―ロマ 12:12-21,新口。

      16 すでに論じた聖書の原則に従うエホバの証者はどんな結果を得ていますか。

      16 右に論じたヨハネ伝 17章14-18,21,22節,マタイ伝 22章21節および使徒行伝 5章28,29節の原則に従うことによって,エホバの証者の新世社会は世の諸国家とはっきり分かたれています。これはたしかにエホバのみ名と御国のための民です。これはマタイ伝 6章33節にあるイエスの言葉を守って,「まず神の国と神の義とを求め」る人々です。

      17 ロマ書 10章10節によれば,救われるには何が必要ですか。

      17 そこで「福音」の挑むものに答えることは,エホバの証者の組織のようなひとつの組織に加わり,「御国の福音」の伝道者になるといだけのことですか。エホバの新しい世の生命を得る人は,だれでも真理の宣明に与らなければなりません。それは確かなことです。「なぜなら,人は心に信じて義とされ,口で告白して救われるからである」。(ロマ 10:10,新口)従って「福音」を聞いて信ずる者が,公に宣明するわざに加わるため,聖書の勉強に励んで真理の正確な知識を学ぶのは正しいことです。それは「福音」に対する感謝を表わしエホバを崇拝したいという気持ちを表わす道です。

      新しい人

      18 「福音」を受け入れるとき,生活にどれほど大きな変化が必要ですか。

      18 しかし「御国の福音」を聞く人は,その生活の上で更に大きな変化を遂げなければなりません。すなわち生活のあらゆる面において神のみ心に従い,全生活を聖書の原則に一致させることが必要です。聖書は教えています,「何をするにも,人に対してではなく,主〔エホバ,新世〕に対してするように,心から働きなさい」。「あなたのすることはすべて,言葉によるとわざによるとを問わず,いっさい主イエスの名によってなし,彼によって父なる神に感謝しなさい」。(コロサイ 3:23,17,新口)たしかにそれは新しい生活を始めること,新しい人になることです。まず求めるべきものは神の国だけでなくて神の義であり,何時,なにをするにしても神の目に正しいことをしようと努めなければなりません。

      19,20 (イ)使徒パウロは,この変化をコロサイ書 3章5-10節においてどう述べていますか。(ロ)エホバを喜ばせ,新い世の生命を得るには,この変化はどんなものでなければなりませんか。

      19 その意味はこうです,つまり不義と悪とを捨て,神の目に悪と見える事をやめ,善をもって悪にかえてゆくことです。これについてコロサイ書 3章5-10節には使徒の次の言葉があります,「だから,地上の肢体,すなわち,不品行,汚れ,情欲,悪欲,また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために,神の怒りが下るのである。あなたがたも,以前これらのうちに日を過ごしていた時には,これらのことをして歩いていた。しかし今は,これらいっさいのことを捨て,怒り,憤り,悪意,そしり,口から出る恥ずべき言葉を,捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは,古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て,造り主のかたちに従って新しくされ,真の知識に至る新しき人を着たのである」。(新口)

      20 この新しい人を着ることは,神の新しい世の生命を望みながら,神を喜ばせるために神のみ心にかなった生活を送ろうという誠実な願いから出発しなければなりません。1週間に1日だけ新しい服を着るような工合に,一時的によそおう偽善的なものではありません。今日の宗教の多くはこの類のもので,教会に行くときだけ「キリスト教」徒のつもりになり,他の日には世の悪い道に戻って「キリスト教」のことを忘れてしまう,これはよく見られることです。悪を殺して捨て去り,古い人をその行いと共に「脱ぎ捨て」,神のみ心を行なうことによって新しい人を着るための努力と心がけが必要です。人に気にいられるため,よく思われるために,この事をするのではありません。クリスチャンは他の人とくにクリスチャン兄弟の尊敬を得たいと望みますが,まず求めなければならないのは神を喜ばせることです。エホバ神が預言者サムエルに言われた言葉を心に留めて下さい。「わが視るところは人に異なり人は外の貌を見エホバは心をみるなり」。―サムエル前 16:7。

      21 誠実な人は何をすることを望みますか。

      21 「エホバの御名を負う民」と交わることは大きな特権です。真の神に奉仕する喜びはそこから得られます。しかしもっと大切なのは,それによってエホバ神と結びつきを持つことです。正しい心を持ち,「福音」に感謝し,神のみ心を行なおうとする人は,エホバを賛めるために自分の生命を用いたいと望むでしょう。これからは自分の心ではなく,イエスのしたように神のみ心を行なうことを誓ってエホバに祈り,献身します。(詩 40:8; 143:10。ルカ 22:42。ヨハネ 5:30)神に献身して神と結ばれることは,仲保者キリスト・イエスによって可能となるのであり,クリスチャンはその事を認めます。―「御国のこの良いたより」,45-51節をごらん下さい。

      22 コロサイ書 1章9,10節に説明されている通り,「エホバのみ心にかなった生活をする」には何が必要ですか。

      22 「エホバの御名を負う民」と交わりをつづけるには,イエス・キリストを通してエホパ神と結ばれたこの関係を保たねばなりません。エホバの恵みに留まるにはみ心を行なうことが必要であり,従って神のみ心を正確に知ることは最も肝要です。そこでクリスチャンは「あらゆる霊的な知恵と理解力とをもって,神の御旨を深く知り,主〔エホバ,新世〕のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ,あらゆる良いわざを行って実を結び,神を知る知識をいよいよ増し加える」ことを熱心に努めます。―コロサイ 1:9,10,新口。

  • 現代訳聖書
    ものみの塔 1963 | 5月1日
    • 現代訳聖書

      ◇ アメリカ,オハイオ州の一女学生は,次の経験をよせてきました。「ある日,英文学の時間に,文体の見本の一つとして,欽定訳聖書から数節を選んで読みました。先生は,数人の生徒に,現代訳の聖書を何冊か持って来て,欽定訳聖書と比較してみるようにと話しました。私は,新世訳聖書を持って行き,他の翻訳との相違点について説明しました。また,欽定訳聖書は,一般になじみの薄い言葉をたくさん使って,聖書を理解しにくくしている事を話しました。一例として,『Shambles』<シャンブルス>(日本文: 市場)という言葉をあげました。(コリント前 10:25)創造者の名前についても話しました。先生は,非常に興味を示し,生徒たちも良く聞いてくれました。その後,男生徒の一人は,私のレポートがおもしろかったと言ってきたので,新世訳聖書を見せたところ,本屋で買えるかとの事なので,私は彼に1冊配布しました。また,以前に証言したことのある女生徒の一人にも見せましたが,彼女も一部を求めました。それで,教室での割当を機会に,2冊の聖書を配布し,エホバの御名について知られることができました」。

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