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生命のために神権制度を認めるものみの塔 1954 | 12月1日
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16 統治体は何と密接に結んでいますか? その拡張は全地においてどのように行われていますか?
16 今日の目に見える神権制度は,現代の状態と要求に適応し,そしてカイザルにはカイザルのものを与えねばならないために,合法的に設立された奉仕機関『ものみの塔聖書冊子協会』を有しております。同協会は,アメリカ合衆国ペンシルバニア州の法律の下に1884年に法人化されたものです。(マタイ 22:21)『忠実にして賢い奴隷』級の統治体が,管理,合法,出版の目的のために密接に結びついているのは,この合法の法人であります。それは『御国のこの良いおとづれ』が,全国民に対して証しをするため全地に伝道されるのを監督するためです。(マタイ 24:14,新世)御国の伝道はすでに150の国々に拡大したため,この合法の法人はその60以上の国々に支部事務所を持つております。支部は,元始の合法の法人から適宜に,又必要に応じて経済的な支持をうけております。その支部を管理するクリスチャン男子は,献身したヱホバの証者であつて,『支部の僕』と呼ばれます。支部の僕は,全く『僕』あつて,首領ではありません。すべてのことを良く考えて見る時に,今日の神権制度を認めるということは,イエス・キリストを通して今日のためになされるヱホバ神の取り極めと御準備をみな認めるということでなければなりません。忠節な心をもつてそれらを認める証として,私たちは神権制度とその任命そしてその運営部門と忠実に協力するよう努力すべきです。
17 何時からイザヤ書 32章1,2節は適用しますか? そしてどのように?
17 神が西暦1914年に天で御国を設立してより,そして特に1919年以来,イザヤ書 32章1,2節の予言は,御座に即いたイエスと地上にいる任命された僕たちについて適用いたします。『ここにひとりの王あり,正義をもて統治め,その君たち(ヘブル語でサリム)は公平をもて宰どらん。また人ありて風のさけどころ,暴雨ののがれどころとなり旱ける地にある水のながれの如く,倦み疲れたる地にある大なる岩蔭のごとくならん。』ここの『君たち』または『サリム』は,この世的な君たちを意味しているのではなく,主要な神権的な人を意味しています。すなわち,10人だけで成り立つ群であろうとも一つの級または一つの群の任命された長たちのことです。それで,『忠実にして賢い奴隷』級は,ヱホバの証者の『他の羊』について君のような立場を占めております。支部の僕は,油注がれた残れる者の成員であろうと,あるいは『他の羊』級の成員であろうと,それぞれの支部の管轄下にある区域内で,神権的な君またはサリムであります。統治体によつて任命され,10人のヱホバの証者の中で「公平をもつて宰る」男子の僕は,神権的な君,またはサル(サリムの単数形)です。地上にいるすべてのヱホバの証者の中で,神権的なサリムは,今日運営している神権制度を特に認めるべきです。
18 どんな根拠に基いて,人はサリムとして奉仕いたしますか? サリムが「公正に宰る」ためには,何が必要とされますか?
18 ヱホバの神権的な王イエス・キリストは,ただ忠実にして従順な『君たち』だけを地上で用いています。サリムたちは,特別な奉仕を行うために,彼らの主であり御座についたヱホバの王を認め,その王の御手の下に自らを卑くし公平をもつて宰らねばなりません。公平をもつて宰るという意味はサリムは彼らの王イエス・キリストの側にて正しく行わねばならず,又地的な全財産の上に任命されている王の『忠実にして賢い奴隷』の側にて正しく行わねばならず,そして王の他の羊である王の臣下たちの側にて正しく行わねばなりません。審判人の期間のあいだ不幸なことにイスラエルには正しいと認められていた習慣がありました。しかし,王のサリムの地位は,そのような習慣に従うことではありません。『そのころ,イスラエルには王がおらず,それぞれの目に正しいと見えたことをするのが習慣であつた。』(シシ記 21:25,新世)サリムは,その奉仕する人々の模範となるため,彼ら自身制度の教えを実行すべきです。このことは,彼ら自身がそのような教えを注意して良く知らねばならず,又研究しなければならないことを意味します。昔のイスラエルの祭司たちは,聖書の教えを暗記した程です。そのようにして,彼らはその教えの意味を理解し,またその含意を悟り,そして教えの中で明白に述べられていない多くの事柄を取扱うことができます。公平に宰るためには,その後でも彼らは制度の教と常に一致するよう努力いたします。
19 支部の僕を例にとつてみると,支部の僕が制度を認め,そしてその教に従わねばならない第1番の理由は何ですか?
19 例えば,支部の僕の場合ですと,支部の僕は次の点に留意しています。すなわち,木の枝または蔓が幹を支えているのではなく,幹がすべての枝を支えているということです。枝は幹から切離されては,働くことができません。枝が実を結ぶためには,枝はしつかりとついているべきです。同じことは支部の制度についても言えます。支部は,ただに合法の法人の機関であつて資金とか運営の他の手段を支給するもので,経済的には源の法人に依存しております。そのように経済的に依存していること自体によつても,支部の僕は言われることを行わねばなりません。なぜならば,資金を供給する協会は,支部についての金銭を費す場合に責任を取らねばならず,そしてどのように資金を用いるかということは神に責任を取らねばならないからです。協会になされる神権的な寄附ということからしても,金銭を最も賢明な,そして最も効果的な方法で費すことは協会の責任です。この世であつても,そのような処置は,正常で,良い健全な事務手腕と考えられています。従つて,支部の僕は制度の教に従わねばならず,そしてその奉仕の地位にいて効果的であるよう努力すべきです。それは,支部の運営を最も経済的に行うとともに,そして最も良く,又最も大きな結果を得るためです。しかし,支部の僕は王のサリムの一人ですから,経済的な責務や依存という動機よりももつと高い動機がなければなりません。なぜならば,私たちの制度は商業的ではないからです。制度は神権的であつて,ヱホバ神に服従しており,その統治する王イエス・キリストを通して神によつて支配されている事実から高い動機は生じます。これこそ,神に献身しているすべてのものが制度を認め制度に服従し,制度に忠節を証明しなければならない主要な理由であります。
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制度を認める模範ものみの塔 1954 | 12月1日
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制度を認める模範
1 一人の宣教者が制度を認めたということについて,どんな聖書的な模範がありますか? その結果は何でしたか?
神権制度とその統治体を正しく認めることについての多くのよい模範を考えてごらんなさい。キリスト教の会衆がエルサレムで制度化されて間もなく,ユダヤ人宗教家たちの猛烈な迫害をうけて,その会衆はエルサレムの都から散りました。しかし,使徒たちは統治体として同市に残つていました。福音伝道者または宣教者であつたピリポは,北サマリヤで良いたよりを伝道し,その町に会衆を設立するのに成功し,その成員たちに洗礼をほどこしましたが,その会衆には一つの大切なものが不足していました。すなわち,それは奇蹟的な賜物を伴う聖霊でした。ピリポの願いは,その地生まれの証者たちで成り立つ会衆にも,これらの賜物を受けさせたいということでした。彼は神権制度を認めており,また御霊の奇蹟的な賜物は,小羊の使徒たちだけによつて与えられるか,あるいは彼らが直き直きに居合わせる時に与えられると知つていましたので,エルサレムに通知をいたしました。そのことは,福音伝道者または宣教者が無私と忠義の気持で神権制度を認めたものでした。その結果は何でしたか? 使徒時代の統治体は,使徒ペテロとヨハネを遣し,そして洗礼をうけたサマリヤの信者たちには,御霊とその賜物が与えられました。聖書にこう書かれています。『それで二人は下つて行き,彼らが聖霊をうけるようにと祈つた。というのは,彼らは主イエスの名によつて洗礼をうけただけであつて,聖霊は注がれなかつたからである。それで二人は彼らの上に手を置き,彼らは聖霊をうけ始めた。………使徒たちが手を置くことによつて,御霊は与えられた。』― 使行 8:1-19,新世。
2 パウロとバルナバの場合,彼らはどのように制度を認めましたか? どんな結果が,それに続きましたか?
2 後になつて,バルナバとパウロは,無割礼の国民に遣わされた宣教者でしたが,彼らは割礼と異邦人の問題で非常に悩まされました。二人ともその問題については正しく理解していましたが,しかしアンテオケの会衆で争論が起つた時,『彼らはパウロとバルナバおよび彼らのうちのある者たちに,この問題についてエルサレムの使徒や長老たちのところへ行かせるよう取り極めをした。』(使行 15:1,2,新世)神権制度をこのように認めたため,再びよい結果をもたらしました。エルサレムの統治体の特別集会が召集されて,その問題は徹底的に審議されました。ヤコブは神の代弁者として用いられ,聖書の成就に人々の注意を向けさせるとともに,無割礼の異邦人の信者たちが守らねばならない正しい結論を語りました。統治体は聖霊によつて支持をうけ,そのような信者たちに対する基礎的な要求を記した手紙をつくり,パウロとバルナバはその手紙を持つてエルサレムを去りました。その問題が討論されていた多くの町々で,この手紙は読まれました。パウロとその同労者が,信者のいた町々を旅行した時に,『彼らは,その地の人々に語り,エルサレムにいた使徒や長老たちが決定した命令を守るようにと告げた。』この結果からして,会衆が動揺し,意見の分裂をし続けることはなくなり,『会衆は信仰をかたく強められ,日ごとにその数は増し続けた。』(使行 15:3より16:5,新世)神権制度を認めることは,一致を保つて力を強め,多くの増加を得るものです。
3 今日誰が同じように制度を認めなければなりませんか? なぜ,そしてどのように?
3 今日でも,支部の僕や,制度の他のすべての特別な代表者たち,そしてまた
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