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霊的な必要を満たされることから得る喜びものみの塔 1976 | 8月15日
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た一人の人の場合です。彼は教会の戒律を守ることに非常にきちょうめんでした。しかしその教えのあるものは彼の心を苦しめました。彼は愛の神が,みずから造られた理知ある人間を永却の火の責め苦に遭わせることなど,どうしてあり得るのか理解できませんでした。後に彼は聖書研究の手引き「とこしえの命に導く真理」また他にもものみの塔の出版物を読む機会を得ました。
何か月間か思案した末,彼は教区牧師の地位を捨てて世俗の仕事を捜すことを決意しました。彼はその土地のエホバの証人の会衆と定期的に交わり始め,遂に水のバプテスマによってエホバ神への献身を表わすまでになりました。そして今では以前の教区民のある人々と聖書研究を司会して大きな喜びを見いだしています。
小さな始まり
現代におけるエホバの証人の聖書教育のわざは,初め非常に小さなものでした。イタリアも例外ではありません。1946年当時,聖書の音信を隣人に広めていたのは120人に過ぎませんでした。1950年までにその人数は1,211人にまで増加しました。25年後の1975年には5万6,264人が忙しく働いており,聖書を学ぶことを人々に勧めていました。
さらに大ぜいの人々が,王国会館におけるエホバの証人の集会に出席しています。その会衆と交わる証人の二倍の人が出席していることも珍しくありません。例えば,1975年4月7日の主の夕食の記念には,イタリア各地の会衆に12万31人の人が集まりました。
イタリアにおけると同様,他のどこにおいても社会のあらゆる階層の人々がエホバのクリスチャン証人と聖書を学び,その集会に出席して大きな益を得てきました。自分自身の霊的な必要がひとたび満たされると,人々は学び知った事柄を他の人に熱心に分かちます。この事は聖書の次のことば通り彼らの喜びを増し加えます。「受けるより与えるほうが幸福である」― 使徒 20:35。
あなたも霊的な必要を満たされることから得る喜びを望まれるならば,あなたの家あるいはご都合の良い他の場所で無料の聖書研究を司会するようにエホバの証人を招いてはいかがですか。霊的に養うための定期的なプログラムがいかにあなたの生活を豊かにし,はかり知れない喜びをあなたに与えるかをご自身で経験してください。
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「怪しんではならない」ものみの塔 1976 | 8月15日
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「怪しんではならない」
● この世の中に圧制が多く見られるということに驚き怪しまれますか。そのような圧制は,少しも新しいことではありません。古代の明敏な観察者はこう書きました。「あなたは国のうちに貧しい者をしえたげ,公道と正義を曲げることのあるのを見ても,その事を怪しんではならない。それは位の高い人よりも,さらに高い者があって,その人をうかがうからである。そしてそれらよりもなお高い者がある」。(伝道 5:8,口)下級官吏は,上級官吏に監視されており,さらに上級官吏もそれより大きな権威を持つ者に監視されています。いわば底辺にいる,身分の低い人々は,圧力をまともに受けます。そうした圧力は,自分に従う人々を利用して,自らの益を計ろうとする人々によってもたらされます。
とはいえ,無情な人々が何のとがめも受けないで成功するという意味ではありません。そうした人々は,結局,至高の主権者エホバ神に対し,自らの行動について申し開きをしなければならなくなります。聖書はこう述べています。「復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる」― ローマ 12:19。
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