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  • 物質的な繁栄 ― 普遍的な目標
    目ざめよ! 1982 | 3月8日
    • 物質的な繁栄 ― 普遍的な目標

      「物質の消費は国家的な宗教になっていると言われる。アメリカ人はおしなべて金持ちになることを願っているとされ,その文化は安楽と快楽の文化である。……物質主義はアメリカ人の生活に染み込んでいる」。最近,フランスの学校の教科書の中に描かれた,アメリカ人の生活に対する見方はこのようなものであったと言われています。a

      誇張があることは認めるとしても,この評価がある程度まで真実であることに疑問の余地はありません。米国の生活水準は他の国の経済的成果を測る基準になっています。同じ程度の生活水準を保っていることを誇れる国はほかに(スイスやスウェーデンなど)ほんのわずかしかありません。これら恵まれた少数の国は,共産主義諸国を含む他の多くの国々のせん望の的となっています。

      「賃上げ」,「労働時間の短縮」,および「生活状態の改善」。これらは資本主義,社会主義,共産主義などどんな体制の下にあろうと,すべての国の労働者階級が要求する事柄です。

      生活に対する人々の態度に適用される場合,“物質主義”という語は,「安楽,快楽,そして富が唯一あるいは至高の目標または価値基準であるとする主義」と定義されてきました。人類の大多数が生活に対してそのような物質主義的な見方をしていることを否定する人がいるでしょうか。多くの人にとって,物質の繁栄は幸福と同義語になってきました。それは人々が捕らえようとしている普遍的な目標になってきたかの観があります。とはいえ,どのような方法でその目標を捕らえるというのでしょうか。

      工業国に住む人の多くは,資本主義体制が繁栄と幸福をもたらす最善の希望を差し伸べていると心から信じ,国家からの干渉をできるだけ少なくする自由企業体制を支持しています。

      一方,資本主義は少数の人を優遇し,大多数の人に害を及ぼしていると確信している人も無数にいます。そうした人々は共産主義,すなわち共同体あるいは国家が全資産を所有することを基盤にした経済および政治体制を好みます。国家が物質面での繁栄を保証してくれるという条件の下に,ある種の自由を捨てることさえいといません。

      これら二つのグループの中間に,資本主義や共産主義によっては物質の繁栄も幸福も得られないとする無数の人々がいます。そうした人々は資本主義体制の不利な面だけではなく,共産主義体制のもたらす危険をも認めているのです。そして改革を通し,国家による計画,および主要な生産手段の公営化を基盤とした平等で民主的な社会を実現させたいと考えています。これらは,社会民主主義者,労働党員,福祉国家主義者など様々な名で呼ばれる社会主義者です。

      資本主義,共産主義,および社会主義の歴史と各々の体制を通してもたらされた結果を手短に調べてみれば,そのいずれかが真の幸福をもたらし得るかどうかを知ることができます。

  • それらは真の幸福をもたらすことができますか
    目ざめよ! 1982 | 3月8日
    • それらは真の幸福をもたらすことができますか

      資本主義,共産主義,社会主義

      物質の繁栄によって幸福を追い求めるという考えは今に始まったものではありません。古代ギリシャ人やローマ人の多くの生活様式はそのようなものでした。しかし,そうした考え方は中世の期間全体を通して,悪評を招くものとなりました。なぜでしょうか。それは主に宗教的な理由によります。

      中世社会では,宗教が人間の活動のあらゆる分野を支配していました。東方正教会およびローマ・カトリック教会にとって,貧困は美徳でした。それは貧しい人々が受け入れなければならない「試み」でした。金持ちが金持ちで,貧しい人が貧しいのは,神の定められた取決めなるものとされたのです。自ら進んで貧困の生活を送るのは“聖なる”こととされ,“高利貸し”(金貸し業)は教会法によって禁じられていました。

      しかし,ユダヤ人の金貸しを非難しながら,カトリックの大聖堂参事会は高利で金を貸していました。教皇制度そのものも,「中世最大の金融機関」となりました。封建教会制の期間の大部分にわたって,こうした機構が存在しました。

      資本主義の誕生

      封建制度の崩壊に伴い,町および都市間の通商が増大しました。国家間の通商も増大しました。また,印刷機が発明されてからは特に,様々な思想が今までよりも自由に広まるようになりました。カトリック教会の影響力は薄らいでゆきました。

      新しい経済体制の発達を妨げていた最大の障害物は中世のカトリック主義でした。それでも,中世の終わり近くになると,資本主義的な通商,製造および銀行などの業務から得られる財力がカトリックのキリスト教世界のただ中で大きくなってきていました。イタリアのベニス,ドイツのアウグスブルクおよびフランダースのアントワープなどのカトリック諸都市の場合がそうでした。

      その後,16世紀になって,プロテスタントの宗教改革が起こりました。宗教改革が資本主義を生んだと言えば誇張になりますが,それは資本主義を推進する決定的な力となった概念を解き放ちました。一つの点として,カルビン主義は合法的な商売のもたらす利益から“高利貸し”のらく印を除き去りました。さらに,ある種のプロテスタントの信条は,人生で成功を収め,自分たちが“選ばれた者”の一人であることを証明するために勤勉に働くことを人々に促すものとなりました。商売の成功は神の祝福のしるしとみなされたのです。その結果もたらされた富は,自らの投機的事業やその他のものに投資するための元手となる“資本”になりました。こうして,勤勉と倹約というプロテスタントの倫理が資本主義の拡大に貢献しました。

      カトリック国家よりもプロテスタントの国々で資本主義的な経済が急速に発達していったのも少しも不思議ではありません。しかし,カトリック教会はすぐに遅れを取り戻しました。同教会は自らが権力を振るう国々で資本主義が発達するのを許し,自らの力で極めて裕福な資本主義的組織になりました。a

      労働者階級により大きな自由をもたらしたことだけについて考えても,資本主義が封建制度より優れたものを提供したことに疑問の余地はありません。しかし,それは数多くの不公正をももたらしました。貧富の差が大きくなるきらいがありました。それが最悪の形を取ると,搾取と階級闘争をもたらしました。最善の形を取ると,ある国々に見られるような,物質に事欠かない裕福な消費社会を生み出しました。しかし,それは霊的なむなしさをも生み出し,真の永続する幸福をもたらすものとはなりませんでした。

      共産主義は幸福への道か

      プロテスタントの宗教改革は教皇による権力と特権の乱用に対する反抗でした。しかし,それは最初の改革者たちの予想をはるかに超える思想の洪水を解き放つものとなりました。これらの思想はしばらくして,あるいはずっとあとに,宗教以外の分野での革命を生むことになりました。ローマ・カトリック教会に対する反抗は資本主義の発達を促しただけでなく,科学,科学技術および哲学の分野での革新に貢献し,神を認めない信条と結びつきました。

      蒸気機関および機械の到来と共に,資本主義は通商の分野から工業の分野へと広がってゆきました。18世紀後半と19世紀には,小作人や職人,果ては子供たちの間からさえ集められた膨大な労働力を必要とする大規模な工場が設立されました。しかし,資本家の「人間による人間の搾取」の結果,労働運動および共産主義のような革命的な哲学が生まれることになりました。

      理論的には,“共産主義”という語は,「財産の共有,あるいは収入および富の均等な配分を基盤にした社会組織の体制」を指しています。現在実際に行なわれていることからすれば,共産主義とは一党独裁の政治構造のもとで経済を統制する国家が財産を保有することを基盤にした政治体制を指します。

      世界中の無数の無産者たちにとって,共産主義はより良い生活への希望を差し伸べているように思えました。それは資本主義体制の作り出したはなはだしい社会的不平等をなくす最善の方法と思えました。革命によってより良い生活状態を得られるようになるのなら,あえて当面の自由の希望を捨てることをいとわない人も少なくありませんでした。後になれば自由になるだろうと考えたのです。しかし,幾年もの年月が流れました。共産主義政体が多くの国々で何を成し得るかを示すための時間は十分に与えられてきました。その結果は,自由や幸福の点は言うまでもなく,物質の繁栄の点でも失望させるものとなってきました。

      西欧世界では,幾年にもわたって,多くの若い人々 ― それほど若いとは言えない人々も ― が共産主義思想に引かれてきました。しかし,多くの共産国から悪いニュースが絶え間なくもれ出て来て,難民が一方的に流れ込んで来ているために,幻滅を感じさせられた人も少なくありません。

      社会主義はより良い道か

      社会主義に相当する英語の“ソーシャリズム”という語は,“仲間”を意味するラテン語のソキウスからきています。この言葉は19世紀の初めに英国で最初に用いられ,その少しあとでフランスで用いられました。その言葉は,英国人のロバート・オーエン(1771-1858)およびフランス人のサン・シモン(1760-1825)およびシャルル・フーリエ(1772-1837)の社会学説に当てはめられました。

      オーエンは,競争と労働者に対する搾取の上に成り立つ,産業の資本主義的組織を批判しました。オーエンは,男女が“一致と相互協同の村”に住み,農業と工業の両面でその労働の実を享受する相互協同体制を提唱しました。スコットランド,アイルランドおよび米国にもオーエン流の協同体が幾つか設立されました。しかし,それらはやがて崩壊してしまいました。

      フランスでは,フーリエがファランステールと呼ばれる,ひな型となる共同体の創設を提唱しました。それは自分たちの好みに従って仕事をする人々から成っていました。“村”を設立する際に国家の介入を受け入れたオーエンとは異なり,フーリエは自分の体制が全く自発的な基盤の上に立って活動していけると信じていました。さらに,その共同体の成員は,各々の努力に応じて賃金を与えられ,財産を所有することが認められていました。フーリエは,幸福を追い求める人間の自然の欲求にこたえる社会組織を見いだしたと考えました。フーリエ主義者の共同体はヨーロッパや米国に実際に設立されました。しかし,それでもやはり失敗に終わりました。

      現代の社会主義により近いのは,フランス人サン・シモンの思想です。サン・シモンは,生産手段の共同所有と科学・科学技術・産業・財政の各分野の専門家によるその管理を提唱しました。サン・シモンは,科学と産業が協力することにより,人々が各々の能力およびその働きの質や量に従って繁栄を見いだす平等の機会を持つ新しい社会が生み出されると信じていました。

      これら初期の社会主義思想はいずれも成功しなかったものの,その後の運動へと道を開くものとなりました。それらは現代社会主義,つまり品物の生産および流通の主要な手段の公有化と公営化に基づく社会組織の体制と定義される社会主義の産声と言えました。その目ざすところは基本的に共産主義と似ているとは言え,今日の社会民主主義は,革命や一党独裁体制ではなく漸進的な改革を標榜しているという点でマルクス主義と異なっています。

      共産主義よりも個人の自由を尊重しているにもかかわらず,社会主義は国際的な平和と幸福をもたらすことに成功していません。なぜでしょうか。

      どうして失敗したのか

      一つの点として,社会主義は国家主義ほど強力でなかったからです。1889年に創設された,様々な国の社会主義政党と労働組合の連盟である第二インターナショナルに関して,次のように述べられています。それは「心を動かし,人を感動させるような,戦争に反対する声明を数多く出したが,[1914年に]戦争がぼっ発すると自らの無力さをさらけ出した。それを構成していた各国の機関の大半は,自国の政府の側に付き,国際的労働者階級の連帯という考えを捨て去った」― ブリタニカ百科事典(英語版)。

      それ以来,社会主義運動は分裂してゆき,その意味するところは人により異なったものになりました。進歩的な保守政権と似たりよったりのものから,独裁主義的で全体主義的とも言えるものまで,世界中の様々な政府がこの社会主義という名称を用いています。ですから,“社会主義”という言葉は,それが物質の繁栄と幸福の存在する,階級のない社会での世界的な兄弟関係をもたらすと考えていた誠実な多くの人々にとって,あまり意味のないものと化してしまいました。

      フランスの労働組合の指導者であるエドモン・メールがル・モンド紙上に次のように書いたのも少しも不思議ではありません。「労働運動が社会主義を築き上げるというその念願を達成する点で歴史的に失敗してきた結果……労働者と知識人の別を問わず闘士の多くが,長期的な希望まで捨ててしまう事態が生じた。……若い人々は特に,このように社会主義の希望が弱められたことから影響を受けているように見える」。

      ですから,資本主義,共産主義,社会主義のいずれを手段とするかにかかわらず,物質の繁栄と真の幸福をもたらす体制を求める人類の努力は失敗に終わっています。アメリカの社会学者ダニエル・ベルは次の点を認めています。「急進的なインテリ層にとって,古くからのイデオロギーはその“真実味”およびその説得力を失ってしまった。“青写真”を引き,“社会工学”を通して社会的な調和の取れた新しいユートピアをもたらし得ると信じる,真剣な考え方の持ち主はもはやほとんどいなくなった」―「イデオロギーの終焉」。

      しかし,このように物質の繁栄や幸福を求めるのは自然なことです。では,人間の経済および政治の諸体制はどうしてそれを達成できないでいるのでしょう。次の記事はその質問を検討しています。

      [脚注]

      a カトリックの著述家であるニノ・ロ・ベロー著,「バチカン帝国」をご覧ください。

      [7ページの拡大文]

      難民が一方的に流れ込んで来ることに示されるように,多くの人は共産主義に幻滅を感じている

      [8ページの囲み記事]

      資本主義

      品物の生産および流通の手段(土地,鉱山,工場,鉄道など)のすべてあるいは大半を民間の企業が所有し,利潤を上げるために運営している経済体制で,所有者(資本家)は無産者(労働者)の労働力を賃金と引き換えに得る

      共産主義

      共同体あるいは国家がすべての財産を保有することを基盤にした社会組織の体制で,国家が一党独裁の政治構造のもとで経済を計画し,統制する

      社会主義

      品物の生産および流通の主要な手段の公有化と公営化に基づく社会組織の体制。西欧世界では,民主主義社会のわく内で漸進的な改革を標榜しているという点で共産主義とは区別されている

      [6ページの図版]

      1842年当時,英国の炭坑で働く子供

  • 物質的な繁栄だけで十分ですか
    目ざめよ! 1982 | 3月8日
    • 物質的な繁栄だけで十分ですか

      物質的な繁栄を願うこと自体は間違っていません。しかし,それだけで真の幸福がもたらされるでしょうか。資本主義,共産主義そして社会主義は真の幸福の主要な構成要素を忘れているのではありませんか。そして,この肝心なものの欠如は,人々を本当に幸福にする点でこれらの諸体制が失敗している理由の少なくとも一部となっているのではないでしょうか。

      資本主義,共産主義あるいは社会主義を成功させるための活動に自分の全生涯をささげた人々の誠実さを否定することはできません。そして,その各々の体制は,特定の国々の特定の人々の生活水準を引き上げる点で成果を収めてきました。しかし,それらの体制はその国々の大多数の人に真の幸福をもたらしたでしょうか。犯罪や暴力や戦争を終わらせましたか。これらの諸体制の中に,自殺や麻薬中毒やアルコール中毒を除き去った体制が一つでもあるでしょうか。幸福な人々は自殺をしたり,麻薬によって“逃避”したり,アルコールで“うさを晴らし”たりするでしょうか。

      これら様々な人間の体制の明言された目的は,すべての人あるいは少なくとも“最大多数”にとって最善と思われる生活の仕方を促進することです。それらの体制は人間の幸福の基本になるものとして,自由か平等のいずれかに重きを置きます。資本主義は自由のために進んで平等を犠牲にします。共産主義は平等を自由の上に置きます。社会民主主義は,その双方の良いところを取ろうとしています。しかし,その一つといえども人間の本性を変えることに成功していません。人間の利己心は資本家たちの内にある最悪のものを引き出し,その多くを不公正な搾取者にしてしまいます。人間の利己心は共産主義者の試みを国家資本主義へと変え,一般大衆は個々の資本家や巨大な企業ではなく,国家によって搾取されています。また人間の利己心は社会主義者のユートピアの夢を台無しにしてしまいました。

      科学技術では十分でない

      ごく最近まで,どんな傾向を持つ政治思想家も経済思想家も科学の進歩と科学技術に自らの希望をかけていました。次のように書かれています。「新しい科学技術は[自由企業体制の資本主義]にはおあつらえ向きで,功利主義の哲学者たちの“最大多数の最大幸福”という理想を急速に実現することを保証するかに見えた。根本的に異なった政治姿勢で取り組むマルクスやエンゲルスでさえ,科学技術には良い事柄しか認めなかった」― ブリタニカ百科事典(英語版)。

      最も保守的でがんこな資本主義者から最も革命的な共産主義者に至るまで,人間は科学技術を人類の将来の幸福へのかぎとして称賛しました。新しい,より良い機械によって,単調な骨折り仕事がなくなるのです。労働時間は短縮され,旅行や文化活動や楽しみのための余暇の時間が増えるでしょう。これは幸福以外の何をもたらすというのでしょう。

      ところが今では,楽観論は影をひそめています。科学技術はそれが解決したと同じほどの問題を作り出しています。いや,それ以上の問題を作り出していると言えるかもしれません。すぐ前に引用した参考文献は,さらに「交通事故による死傷者,大気および水の汚染,都市の人口過剰,極度の騒音など科学技術の進歩がもたらした社会的な欠陥」について語っています。同百科事典はまた,「人間の個性や伝統的な生活様式に対する科学技術の専制」という深刻な問題にも言及しています。

      科学技術によって家族生活が向上し,人々は満足をもたらす仕事を得,世界はより安全な住みかになった,と今日真剣に主張できる人がいるでしょうか。人々を幸福にするには科学技術以上のものが必要であることに疑問の余地はありません。

      「パンだけによらず」

      技術革新が進行する中で,その危険を予見した先見の明のある人がわずかながらいました。英国の政治家ウィリアム・グラッドストーン(1809-1898)は,「見えない事物に対して見える事物がいよいよ優位を占めつつあること」に関し,また「無言の,はっきり認められていない,無意識の物質主義の力」に関して警告を発していました。アメリカの随筆家,ラルフ・ワルド・エマーソン(1803-1882)は,増大する物質主義に対して次のような詩的な警告を与えています。「物が人類に鞍を載せ,その上に乗っている」。

      R・H・トーニーは自著「宗教と資本主義の勃興」の中で,「物質の環境を支配することから勝ち得た進歩の幻想」を非としています。その進歩は,「あまりにも利己的で,浅薄な競争によって得られたもので,その競争に勝っても何のための競争だったか分からなくなるほど」なのです。トーニーは,「物質の富を得ることが人間の努力の究極の目的であり,人間の成功の最終的な基準である」という概念を批判しています。そして,「人間の本性全体の要求に関する何らかの概念に基づく価値基準」の必要性を強調し,それには,「経済的な必要を満たすことも明らかに肝要ではあるが,他の必要をも同じように満たすことを求めるものである」と語っています。

      確かに,真の幸福を得るには,人間に「価値基準」がなければなりません。しかし,現在の世界の状態は,人間の哲学・政治経済学・科学・科学技術などのいずれも人間に一そろいの妥当な価値基準を与えられなかったことを歴然と示しています。ですから,確かな価値基準を提供している唯一の本である聖書をないがしろにしないのは良いことでしょう。

      ヘブライ語聖書とギリシャ語聖書の双方に,次の基本的な真理を見いだすことができます。「人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」。(マタイ 4:4。申命 8:3)聖書は,然るべきもの,つまり霊的な価値基準に重きを置いています。幸福になるための基本的な必要条件を示し,聖書はこう述べています。「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」― マタイ 5:3。

      人間はそのような霊的必要を満たす能力がないことを示してきました。科学技術と物質的な目標を最優先することにより,人間は一つの危機に真っ向から直面しています。その危機は次のように要約されます。「人間はこれだけの知力を備えているにもかかわらず,共同体の中で,自滅の可能性を秘めた環境に対して無思慮な振舞いをしている。そのため,科学技術が祝福と災い[災害,死,あるいは破滅の原因]のどちらであるかは議論の余地のあるところである。科学技術の歴史は,道具を作るものとなった人間の一番最初の技術的な業績から始まったが,20世紀の最後の3分の1に相当する現在,人類は自滅か,あるいは冒険に満ちた成長と拡大の千年期かの選択を迫られて岐路に立たされている」― ブリタニカ百科事典(英語版)。

      真の繁栄の千年期

      聖書は幸福になるための主要な要素である霊的な価値基準を今この場で提供しているだけでなく,正にこの地上における平和と公正と物質の繁栄の千年期というすばらしい希望を与えています。(13ページをご覧ください。)優に200万を超えるエホバの証人が205の国々に住んでおり,それらの国々の政府は資本主義から共産主義に至るまで,ありとあらゆる種類の経済体制および政治体制を敷いています。その中で,エホバの証人は聖書の道徳的価値基準を実際に当てはめることによって,現在幸福を味わっています。同時に,平和と公正に対する希望を新秩序に関する神の確かな約束に置いています。―ペテロ第二 3:13。

      今エホバの証人になっている人々の多くも,過去においては人間の考え出した政治および経済の諸体制に信仰を置いたり,それらの体制を改革するためにできることがあると考えたりしていました。資本主義的な自由企業体制の熱烈な信奉者もいれば,福祉国家社会主義が人類の諸問題を解決すると考えていた人もおり,さらには闘争的な共産主義者もいました。この最後の部類に属する,フランスに住む一人の人は次のように書いています。「私はマルクス主義を実践することにより労働者階級に属する人すべてが物質面の幸福を得られると信じていました。私は約12年間にわたって,共産党の活発な党員でした。街頭でリュマニテ[フランスの共産党機関紙]を売り,夜もふけてから壁に宣伝ポスターをはりました。人間による人間の搾取を終わらせる唯一の方法は共産主義であると固く信じていたのです。しかし,時たつうちに党にいや気がさしてきました。いつも仕事をするように言いつけられるのは私たち,同じ顔触れのごく少数の人だけでした。他の人々は党員カードを買っていたに過ぎません」。

      エホバの証人になった理由を説明し,この人はこう付け加えています。「エホバの証人は私の持つ疑問すべてに答えてくれました。そして,神の約束の方が共産党の約束よりも現実的であることを悟りました。互いに対して本当に愛を示し合う親切な人々に出会って大喜びしました。今では,共産党を通して実現されるのを見たいと願っていたパラダイスが神の王国を通してもたらされることを学んで知っています」。

      エホバの証人の中には,物質的繁栄だけでは確かに幸福にはなれないということをつらい仕方で学んだ人たちもいます。そうした人々は次の聖書の原則が真実であることを経験しました。「金銭に対する愛はあらゆる有害な事がらの根である」。(テモテ第一 6:10)この言葉は貧しい人にも富んだ人にも当てはまることが明らかになりました。どんな社会的な階層にいようと,エホバの証人は次の聖書の諭しに従います。「自らを霊的な面で訓練しなさい。……霊性の有用さには限りがありません。現時点の生活だけでなく,将来の生活に報いを差し伸べているからです」― テモテ第一 4:7,8,エルサレム聖書。

      パラダイスとなった地球上で聖書の差し伸べている「将来の生活」は,「幸福な神」エホバへの忠実を実証する人々にとって,霊的および物質的なとこしえの繁栄,およびとこしえにわたる幸福な生活をもたらすものとなります。(テモテ第一 1:11。啓示 21:1-5)これは,資本主義も共産主義も社会主義も差し伸べることのできない希望なのです。

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