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逃れの町の中に避難ものみの塔 1956 | 4月15日
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した人によつて予表されている者たちだけのために設けられました。『以前から憎むこともないのに,知らないでその隣人を殺した場合,……そういう人は,これらの町の一つにのがれて命を全うすることができる。そうしなければ,復讐する者が怒つて,その殺した者を追いかけ,道が長いために,ついに追いついて殺すであろう。しかし,その人は以前から彼を憎んでいた者でないから,殺される理由はない。』― 申命 19:4-6,新口。
団体的な流血の罪
11 何時より,血は今までよりも多く流されましたか? 特に,どんな大きな論争に関して流されましたか?
11 キリストによる神の御国が1914年に設立されて以来,人類の歴史上でいまだ曾てない程に多くの血が流されました。個人的な一人々々の殺人とか,偶然の殺人だけでなく,団体的な殺人が行われました。すなわち,第一次世界大戦と第二次世界大戦という全人類が今までに経験したことのない程の一番大きな殺人が行われたのです。相戦つた両方の側は,殺人の熱に浮かされながらも,それぞ自分の義しいことを主張し,いろいろな言い訳を申し立てて,その流血の罪を消し取ろうとしています。ヱホバの証者は,1914年以前から,そして特に1914年以来,この年に『諸国民に定められた時』は終り,神の御国が設立されたことを宣明し彼らに通達して来ました。しかし,私たちの知るごとく,両方の側は,世界支配という論争について相争つたために,大量殺人を行つたのです。第一次,第二次世界大戦は,全体的な戦争でした。その戦争を行うために,全国民が動員され,すべての人は国家的な運動にそれぞれの分を尽くしました。そして,戦線背後の市民の多い中心都市は,戦略的な爆撃の的になりました。
12 それで,自己弁護を図るこの世の諸制度は,どんな聖句を記憶すべきですか? この点からみると,宗教はなぜ清くありませんか?
12 それで,神の前に立つても,なんらの罪をも感じない諸国民やこの世の制度は,パウロの次の言葉を記憶すべきです。『自ら省みて,私には,すこしもやましいところがないが,それで義とされるのではない。私を裁く方は,ヱホバである。』(コリント前 4:4,新世)またシンゲンの中には,次の言葉もあります。『人の道はおのれの目に正しとみゆ。されどヱホバは人の心をはかりたもう。』(シンゲン 21:2)使徒はまた次のように言いました。『自分で自分を推薦する人ではなく,ヱホバの推薦する人こそ,御旨にかなつた人である。』(コリント後 10:18,新世)生命の与え主であり,かつ支え主である神の御前から見るとき,全人類はひとり残らずなんらかの流血の罪を負うています。直接に人の血を流した者はもちろんのこと,道徳的にも又は物質的にも流血を支持した人々は,流血の罪を負うています。この点から見ると,宗教の裾は汚れています。キリスト教国の牧師を含めて,戦争に加つていた国々の宗教指導者たちは,それぞれの神々に祈りを捧げて,自分たちの軍隊の上に,天の祝福あらんことを願つたからです。それで,不忠実なエルサレムに述べかけられた次の予言の言葉は,キリスト教国に適用します。『汝の裾に,罪なき貧しき者の生命の血あり。』― エレミヤ 2:34。
13 流血に関して,ヱホバは人々に共同の責任を取らせますが,そのことを示すどんな模型的な例がありますか?
13 流血ということに関して言うならば,公正な神は,人々に共同の責任を取らせる,ということを銘記すべきです。このことは,イスラエルに与えられた律法の中で,極めて明白に示されました。それは,殺人者が誰であるかが分らないときの被害者に関する律法です。『汝の神ヱホバの汝に与えて得させたもう地において,もし人殺されて野に仆れおるあらんに,これを殺せる者の誰なるかを知らざる時は,汝の長老たちと士師たち出きたり,その人の殺されおるところよりその四周の邑々までを度るべし。しかして,その人の殺されおるところに最も近き邑なるべし。』罪ありと想定されたその邑の長老たちは,その罪を雪ぐために,まだ使つたことのない若い牝牛を,種蒔くこともしない急流の谷に連れて行つて,その頸を折らねばなりません。それは,レビの祭司たちの面前で為されました。何故なら『彼らは汝の神ヱホバが選びて己に事えしめ,またヱホバの名をもて祝することを為さしめ給う者にて,すべての訴訟とすべての争いは彼らの口によりて決定るべきが故なり。』その町の長老たちは,頸を折つた牝牛の上で手を洗い,こう言いました『我らの手はこの血を流さず,我らの目はこれを見ざりしなり。ヱホバよ,汝が贖いし汝の民イスラエルを赦し給え。この罪なきものの血を流せる罰汝の民イスラエルの中に降したもう勿れ。』そのとき『彼らその血の罪を赦されん。汝かくヱホバの善と観たまう事を行い,その罪なきものの血を流せる咎を汝らの中より除くべし。』と神の律法は告げていました。―申命 21:1-9。
14 それで,今日の全国民は,地を染めた血に対しての共同の責任を,どのように負いますか?
14 今日の戦争は,全体的な戦争であつて,国家は総動員され,国際的な友好関係や,条約,交易が結ばれているため,全国民は地を染めた血に対して,共同の責任を負つています。流血の行われる原因は,諸国民がヱホバの宇宙的至上権を認めず,また即位したヱホバの王イエス・キリストの前に平和の裡にひざまつかず,イエスの恵みを求めようとしないからです。
15 今日の誰が,もとより悪(にくむ)ことも無く,知らずして人を殺したイスラエルの殺人のようですか? どうしてそうですか?
15 直接にせよ,間接にせよ,また戦時中でも平和の時でも,今日流血の罪を負わない人がいるでしようか。自動車を不注意に運転したために殺人した人もいるでしよう。または,他の事故のために殺人したり,あるいは故意に殺人した人もいるでしよう。その後に彼らは悔い改め,そして『カイザルのものはカイザルに払え』という原則に従つて,法律上の刑罰をうけるとも,生命の与え主である神の憐みを願い求めました。他の人々は,集団の殺人に参加して,それは良心から判断して,自分の義務であると考えたかもしれません。あるいは,それは神の御意であつて,神に聖なる奉仕を為しているのであると,宗教指導者や教師たちに言いふくめられたかもしれません。その後,彼らは間ちがいをしたことを告白し,いまや神の恵みは必要である,と感じています。他の者は,キリスト教国の牧師やその他の宗教指導者の毒々しい言葉にそそのかされて,ヱホバの証者を迫害いたしました。そのため,神に忠実を保つた幾千人という証者は,死にました。しかし,今や彼らは,タルソのサウロと同じように,悪く教えられ又,悪く導かれたことを今までは本当に悟り,神の恵みを強く必要としている,ということを悟りました。人間の生命が無残にも失われていることに対して,私たちは皆,共同の責任を持つていることに気づきます。事柄をもつと良く知つていて,しかも良く教導されていたなら,私たちは人を殺すとか,あるいは殺人に関係するあらゆる事柄に加らなかつたと感じます。私たちが,神の律法と御意を知らず,また理解していなかつたために,殺人は過失のものであり,あやまつてなされたのです。丁度,イスラエルの昔の殺人と同じようです。彼は『もとより悪むことも無く知らずして,その隣人を殺せる者』です。
16 (イ)逃れの町に逃げ込むということは,何を表わしていますか?(ロ)イスラエルの逃れの町は,どんな国民のために設けられていましたか?
16 逃れの町に逃げ込むということは,私たちが,神に献身していようと献身していなかろうと,できるだけ早く行く,ということを表わしています。そして,流血の罪を神に告白し,全人類の贖の犠牲を備えられた神の大祭司イエス・キリストを通して,神の恵みを頂くようにお願いたします。それで,神の御準備と神権制度内に,しつかりと避難することにより,私たちの悔い改めは真のものであると神に証します。昔の逃れの町は,誰の為に設けられたか,ということを銘記しなければなりません。そのとき,今日におけるその実体により,誰が恩恵をうけるかが,はつきり理解されます。ヱホバの律法は,次のように述べていました。『のがれの町としなければならない。これらの六つの町は,イスラエルの人々と,他国の人および寄留者のためにのがれの場所としなければならない。すべてあやまつて人を殺した者が,そこにのがれるためである。』『これらは,イスラエルのすべての人々,およびそのうちに寄留する他国人のために設けられた町々であつて,すべて,あやまつて人を殺した者を,そこにのがれさせ,会衆の前に立たないうちに,あだを討つ者の手にかかつて死ぬことのないようにするためである。』― 民数紀略 35:14,15。ヨシュヤ 20:9,新口。
17 あやまつて人を殺した者に対する神の保護という御準備の恩恵に,まず誰があずかりましたか? なぜそうですか?
17 このわけで,霊的な『キリストの体』である油注がれたクリスチャン会衆の成員は,この御準備を必要とします。なぜなら,彼らは実体の『イスラエルの子孫』であり,霊的なイスラエルの成員だからです。残れる者の中,もとからの成員は,第一次世界大戦を通過いたしました。しかし,その期間中,彼らはバビロの世に捕われました。それは,彼らが高位の人間を恐れたためであり,またその行はこの世の汚れに染まり,そしてこの世の戦争に対して全き中立を保たなかつたからです。御自分の宮に来られたヱホバが,彼らにどれ程の流血の罪があるかを裁いたかは,つまびらかに分りません。しかし,1919年にヱホバはバビロンの捕われから彼らを解放しました。その後,彼らは,あらゆらる罪をことごとく悔い改めて,その罪を告白し,そしてキリストの導きをうけつつ,ヱホバの崇拝を清めようと努めました。さらに,1919年以来,特に1931年にいたるまで流血の罪に染まつていた幾千人という多くの人々は,御国の音信と,来るべきハルマゲドンの音信を聞いて,実体の逃れの町に逃げ始めました。彼らは悔い改めて,神のあわれみを乞いました。彼らは神の大祭司イエス,キリストに信仰を持ち,以後神の御意を行つてその恵みの御準備内にしつかりと止まるため,神に全き献身をしています。それは,流血の有罪者すべてになされるハルマゲドンの処罰から,身を守るためです。『選民のために艱難の日が短くされている』現在,まず霊的なイスラエル人はあやまつて人を殺した者に対する神の保護という御準備の恩恵にあずかりました。
18 その模型によつて予表されているように,実体の逃れの町は,他の誰のために設けられていますか? その模型の成就する時に関して,このことは何を証明していますか?
18 しかし,むかしの逃れの町は,またイスラエルに住んでいた『他国の人および寄留者』のためにも設けられていました。彼らは,イスラエル人に属さぬ人々を予表しています。つまり,霊的なイスラエル人の神に頼つて,神の大祭司を通してなされる恵みの御準備にあずかりたいと,欲しています。彼らは,全世界の行つている流血の罪を,はつきり見ることができました。彼らは,その罪にあずかることを欲せず,またハルマゲドンにおいてこの世とともどもにその罪の罰を払いたいとは,欲しません。しかし,彼らも目前に迫つている処罰から逃げて,大祭司イエス・キリストの支配する実体の逃れの町に入つて行きます。そこへ逃げるときに彼らは心から悔い改めたことを示し,かつキリストを通してその生命の救を得るため神の恵みに依存していることを示します。どのように? 今より後永遠にわたつて神の御意に従おうと神に全く献身することによります。それで,今日流血の有罪者になされる死から生命を守るため,『他国の人』および『寄留者』級の幾十万という避難者は,残れる者の成員と共に,新しい世の社会というヱホバの御準備の中に入つております。1931年以来の今こそ,主イエスの『他の羊』がイエスの檻に集められて霊的イスラエルの残れる者とともに『ひとつの群』になる時です。この事実も1914年以来の今日こそ,逃れの町についてのこの予言的な縮図が成就されている時である,という証拠を強めるものです。
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逃れの町のなかに止まるものみの塔 1956 | 4月15日
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逃れの町のなかに止まる
1,2 逃れの町に逃げた人に,どんな制限が課せられましたか? それは,どの位の期間でしたか?
血の復讐者から逃げのびた人は,身の潔白なることを示し,意識的に殺人したのではなく,あやまつて殺人したということを証明することが必要でした。その者の逃げ込んだ逃れの町は,まず殺人の起きた町,あるいは附近で殺人の行われた町に,その者を引き渡さねばなりません。その町の会衆は,はたしてその者が,逃れの町の保護をうけるにふさわしいか否かを判定しました。『会衆はこれらのおきてによつて,その人を殺した者と,血の復讐をする者との間をさばかなければならない。すなわち,会衆はその人を殺した者を血の復讐をする者の手から救い出して,逃げて行つたのがれの町に返さなければならない。その者は聖なる油を注がれた大祭司の死ぬまで,そこにいなければならない。』(民数記 35:24,25,新口)逃れの町の一つであるヘブロンは,アロンの子孫である大祭司と,その従属の祭司たちの町でした。それで,次のことが考えられます。すなわち,殺人者が人を殺そうという悪意を持たなかつた場合に,そのことを裁決される御方はヱホバの大祭司である油注がれたイエス・キリストであります。殺人者をヱホバの新世社会の逃れの町に入れるか,どうか,そして新世社会内に止まらせるか,どうかを決定される御方は,イエス・キリストです。
2 避難者が死をまぬがれるのは,ただ神の憐みによりました。その故に,避難者に制限をつける,つまりその自由を限定するのは,全く正しいことです。その者は,その逃れの町と,その町のまわりの1000キュビットの空地の中に止まらねばなりませんでした。その制限の外に出るなら,折角救われた生命も殺されてしまうでしよう。『しかし,もし人を殺した者が,その逃げて行つたのがれの町の境を出た場合,
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