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政府に求められているものものみの塔 1980 | 4月15日
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政府に求められているもの
今から200年以上も昔のこと,ある国民は自分たちを治める政府から抑圧を受けていると感じていました。英国政府からの独立を宣言する文書の中で,米国の政治家トマス・ジェファーソンは,「生命,自由,および幸福の追求」を含む「奪いがたい幾つかの権利」について書きました。
その当時と同じく,今日の政府にとっても,人々にこれらの「権利」を保障することが求められています。今日,自由と幸福を味わいながら,充実した満足のいく生活を本当の意味で享受している人はほとんどいません。このような生活を送るにはどんな変化が必要であるとお考えになりますか。
この問題は多くの人の考慮の対象となってきました。医師アブラハム・フランツブロウとローズ・フランツブロウは,共著「健全で幸福な生活:家庭生活の手引き」の中にこう書きました。「世界中のすべての人を対象に世論調査を行ない,どんな種類の世界に住むことを望んでいるかと問えば,我々すべては幾つかの最低限の要求におそらく同意するであろう」。それらの「最低限の要求」つまり必要とは何でしょうか。
満たしておきたい必要
両医師は,最初に,「戦争のない世界」を挙げました。戦争を終わらせる必要があるということに異存のある人はいないはずです。国民経済を破壊し,愛する人を不具にしたり殺したりする戦争は実に悲惨です。しかし戦争を撲滅するという挑戦に答える能力のある政府がありますか。
医師たちはこう書きました。「第二に,そこは飢饉や貧困が永久に見られなくなる飢えのない世界であろう」。すべての人に十分の食糧が行き渡る必要のあることにわたしたちは心底同意できます。飢えや栄養失調に苦しむことが二度となくなり,地上のすべての人に十分の食べ物があることを知るのは,なんと喜ばしいのでしょう。政府に食糧不足の問題の解決を期待するのは高望みにすぎるでしょうか。
「第三に,そこは病気のない世界,だれもが健やかに成長し,予防および治療可能な病気から解放された生活を日々送る機会を持つ世界であろう」と,両医師は言葉を続けています。健康が優れていなければ,生活を心ゆくまで楽しめないことは,すべての人が疑問の余地なく認めるところです。もうだれも病気になることのない世界,風邪を引くこともほかのどんな苦痛に悩まされることももはやない世界で生活できれば,なんと喜ばしい安らぎが得られるのではありませんか。こうした必要を満たすよう政府に求めるのはあまりにも無理なことでしょうか。
しかし,人々が『生命と自由と幸福』を真に享受するために,政府が満たさなければならない基本的な必要がほかにもあります。わたしたちすべてが住みたいと望む世界には,『各々家族の生計を立てるに足る仕事』があることになろう,と二人の医師は語りました。そうです,失業の問題はなくなり,すべての人が満足のいく生産的な活動に従事するのです。この必要を満たすことのできる政府がありますか。
医師たちはさらにこう言葉を加えました。「それは,すべての人が公正に扱われ,法の下でだれもが自由を享受する世界であろう」。そして「すべての人間に,各々の知的能力と才能を最大限に発揮し,偏り見られることなくその努力に対する報いを受ける機会が与えられるであろう」。今日のはなはだしい権利の侵害や不平等や偏見を取り除く必要のあることに,わたしたちすべては確かに同意できます。しかし,これを本当に成し遂げることのできる政府があるでしょうか。
わたしたちが住みたいと望むような種類の世界が実現するためには,他にも満たされなければならない必要のあることに,わたしたちの多くは同意します。二人の医師はその必要を示して,『そのような世界には生活を楽しむ余暇が十分にあるであろう』と語りました。そして最後にこう結びました。『忠誠,愛,利他的な精神,他の人に対する気遣いといった特質が最も高く評価されるであろう』。
一般的に言って今日,これらの必要は満たされていませんが,その実現を期待するのは本当に高望みにすぎるのでしょうか。人間の真の必要はどのように満たされるのでしょうか。
政府の役割
トマス・ジェファーソンは,米国独立宣言の起草に際して,「これら[生命,自由,および幸福の追求]の権利を保障すべく,人々の間に政府が組織される」と書きました。確かに,人間の必要を満たす上で良い政府は欠かせません。米国の初期の指導的政治家ジョン・C・カルフーンが次のように書いているとおりです。「社会の存在に政府が必要であり,人間の存在に社会が必要である。人間はそのように造られている」。
ところで,政府とはいったい何でしょうか。政府は「権威を持つ管理もしくは統治機構」と定義されてきました。政府は人間の行動を規制する法を制定し,施行します。このことには感謝してしかるべきです。特に今日の複雑な社会においてはそう言えます。例えば,交通の流れを制御する指示がなかったなら,交通量の多い交差点ではどんなことが起きるでしょうか。大惨事が起こりかねません。
しかし,交通の流れを制御することは比較的容易です。人々の間に平和が保たれるよう法を施行すること,すべての人に十分の食べ物が行き渡るよう食糧を分配すること,だれもが健康でいられるよう必要な活動を行なうこと,すべての人に有意義な仕事を提供することなどにはこれよりはるかに大きな困難が伴います。これらの必要や,人々が本当に生活を楽しむためにかなえられなければならない他の必要を満たすには,力量のある政府が不可欠です。
その求めに応じることができるのはだれか
人間の創造者は,人間が政府を,つまり「権威を持つ管理もしくは統治機構」を必要としていることを認めておられます。ですから,神の指示の下に建てられる政府について聖書が語っているのは単なる偶然ではありません。事実,神による支配というこの約束は聖書の主要なテーマなのです。これを知って驚く人がいることでしょう。
「聖書のどこに神の政府のことが書かれているのか」と問う人がいるかもしれません。どうぞ聖書を取って,イザヤ書 9章6,7節をお開きください。お持ちの聖書が文語聖書でしたら,そこにはこう記されています。
『ひとりの嬰児われらのために生まれたり 我らはひとりの子をあたえられたり 政事[政府,欽定訳]はその肩にあり その名は奇妙 また議士 また大能の神 とこしえのちち 平和の君ととなえられん その政事[政府,欽]と平和とはましくわわりて窮りなし』。
神の預言者イザヤはここで,その当時からすれば将来のことであったひとりの嬰児,ひとりの君<プリンス>の誕生について語っていました。この『王子』はゆくゆくは偉大な支配者,「平和の君」になることになっていました。この人物は本当に力量のある政府,限りない平和をもたらす政府を自らの手に託されることになっていました。この嬰児がだれであるかはお分かりのことでしょう。み使いガブリエルは,その嬰児の誕生を発表するに際して,その子はイエスと呼ばれるべきであると語り,さらにこう言葉を加えました。「彼は王として……支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」― ルカ 1:31,33。
イエス・キリストとその地上の弟子たちの主な活動は神のこの王国について宣べ伝え,教えることでした。イエスや弟子たちは,聖書の中でその政府に140回以上も言及しています。『御国の来たらんことを。御意の天のごとく,地にも行なわれん事を』と神に祈るよう,イエスがご自分の追随者たちに教えられたことを思い起こしてください。―マタイ 6:10,文。
しかし,この王国政府の支配は一体どのように確立されるのでしょうか。それはどのように機能しますか。人間がその政府をもたらし,動かすのですか。だれもが住みたいと願うこの種の世界を実現させる政府を,人間の手で作り出すことができますか。
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人間の政府はこの挑戦に答えうるかものみの塔 1980 | 4月15日
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人間の政府はこの挑戦に答えうるか
「地上の教会は神の王国であった」とかつては教えられていました。a その当時,ローマ・カトリック教会が世界で権勢を振るっていたため,このような教えがなされたのです。中世後期に法王は政治上の権威をめぐって王たちと競い合っていました。当時の法王は強力な軍隊を動かしました。ジョン・F・ハーストは,自著「キリスト教会史」の中で,「法王は王の役目をまねて,俗事の裁定者たらんとあらゆる力を傾けた」と説明しています。
カトリック教会の指導者たちは,神から授けられた権威に基づいて自分たちは支配している,と主張しました。後に,様々な国の王たちも支配を行なう神からの権威を主張しました。新カトリック百科事典にはこう記されています。「神からの権威という考えによって諸国の王たちは,自分たちの権威を法王の持つ権威と同様に神聖なものであると正当化できる立場に立った」。
しかし,神からの権威に基づいて支配を行なうと主張する法王や他の支配者たちは良い政府を作り出すのに必要な挑戦に答えたでしょうか。その臣民は生命と自由と幸福を享受しましたか。
そうではありませんでした。それどころか,これらの支配ははなはだしい権利の侵害や圧制にしるしづけられていました。人々は無意味な戦争に狩り出されたり,流血の十字軍に動員されたりしました。そのために幾百万もの人々の命が奪われ,幸福が損なわれました。また,極悪非道な異端審問が行なわれ,幾千幾万もの犠牲者が実にいまわしい仕方で虐殺されました。教会の支配もしくは神からの権威を主張する王の統治を神の王国と同一視するとは,神に対する不敬もはなはだしいものです。
人間の努力は続く
最近の時代になって宗教上の見解に変更が加えられました。1916年に出版された「使徒教会辞典」はこう説明しています。「我々の知っているこの世界はキリスト教の影響の下で進歩し,やがて[神の]王国になるというのが現代のある神学著述家たちの考えである」。しかし,そのようになったでしょうか。
今生きている幾百万もの人々が経験した人類史上最悪の大殺りくの責めは,いわゆるキリスト教国に帰せられてきました。「特に米国の諸教会は第一次世界大戦に対して十字軍的な態度を取った」と,教会史家ローランド・H・ベイントンは語りました。
ベイントンはこう説明しました。米国の僧職者によると,「それは聖戦であった。……ドイツ人は文明破壊者であり,ドイツ人を殺すことは地上から怪物を一掃することであった」。同様に,ロンドンの司教A・F・ウィニングトン-イングラムも,イギリス国民に向かって,「ドイツ人を殺せ。あの連中を殺すのだ。……これまで幾千回となく語ってきたように,わたしは今度の戦争を清さのための戦いとみなしている」と語りました。
ところが,ドイツ人もキリスト教徒を自任していたのです。ですから同じ時に,ドイツの都市ケルンのカトリック大司教はドイツ軍の兵士にこう語っていました。「我々が不本意ながら引きずり込まれた義のためのこの戦いにおいて神は我々と共におられる。国家の栄誉と栄光のために,最後の一滴の血を流すまで戦うよう,我々は神の名においてあなたがたに命ずる」。
それから20余年後の1939年,諸国家は第二次世界大戦の渦中に引きずり込まれていきました。この度も,これら諸国家の多くは,キリスト教を奉ずると自任する人々で成っていました。わたしたちの知っている世界は,キリスト教の影響の下で進歩することも,それによって神の王国となることもありませんでした。
しかし,第二次世界大戦が1945年に終わった後の35年間についてはどうですか。人間の政府は,今やついに人類の必要を満たしているように思えますか。
現在の努力は成功を収めつつあるか
今日の人々は,安らぎを求める自分たちの希望が現実となるどころか,世界的規模の問題が相変わらず山積しているのを目にしています。事実,人間の失敗によって,深刻さの度合いも新たな様相を呈するようになり,文明それ自体の存続さえ脅かされるまでになりました。戦争を撲滅する人間の努力について考えてみましょう。それは成功を収めましたか。
とんでもありません。1945年以来,世界中で約150の戦争が行なわれ,2,500万を超える人々の命が奪われてきました。平均すると,毎日,世界のどこかで12の戦争が行なわれてきたことになります。人間の諸政府は一日に1,000,000,000㌦(約2,400億円)以上を軍備に費やしています。これは,建設,国土の美化,教育,研究などの有益な目的に用いることのできるお金なのです。人々の必要を満たすという点からすると,これは失敗もはなはだしいものです。
道理からすれば,諸政府が集まって軍備縮小の合意に達すればよい,と思えます。しかし実際にそうしていますか。諸政府は合意に達することができないでいます。そのため,『恐怖の均衡』を保つべく軍備競争を続けています。昨年の夏,米国のバンス国務長官は次のように語って,同国の保有する兵器の破壊力のほどを示唆しました。
「今日のミサイルの中には,わずか一発で,第二次世界大戦中にあらゆる戦場で我々の爆撃機すべてが投下したすべての爆弾の五倍の破壊力を持つものがある。もちろん,我々の兵器の大半はそれよりも小さい。しかし,我が方のミサイルや長距離爆撃機には合計9,000個以上の核弾頭や爆弾が配備されている。ソ連は我々をねらうミサイルを約5,000発配備している。しかもその数を著しく増やす潜在力を秘めている。これらの兵器が一,二発使用されるだけで,ミルウォーキー市と同規模の市が跡形もなく消えさってしまうであろう」。
地球とその上に住むすべての生き物を完全に滅ぼしつくす実に大きな危険が存在しています。このような核兵器の破壊力を考える時,安全な気持ちを抱いたり安心感にひたったりしていられるでしょうか。あなたや愛する人々にとって,それは『生命や自由や幸福』に寄与するものですか。おそらくそうではないでしょう。
一方,人間の政府が犯罪を抑制する力を持っていないことに一層の懸念を抱いている人もいるようです。ノーベル賞を受けた米国のアルバート・セントジェルジ医学博士は,「地元の町にいても,日没後は強盗に襲われたり殺されたりする心配があるので外出できない。家にいても不安である」と語りました。悲しいことですが,犯罪のために,幾百万もの人々が家から一歩も出られず,囚人同然になっているのです。そして,このような事態を正す点で政府は無力であることが示されてきました。
その上,世界中で幾百万もの人々が飢えに苦しんでいます。ところが,ある場所では穀物倉庫に食糧がいっぱいに詰まっています。しかし,食糧が余っている国においてさえ,価格の高騰が著しいため,健康を維持するだけの十分の食糧を買えない人が少なくありません。人間の政府がこの問題を解決できないでいるのを見ると,本当にやるせない気持ちになります。
それから,エネルギー問題があります。枯渇や汚染の心配のない莫大な量のエネルギーが太陽,風,川,湖,海洋から得られます。しかし,人間の政府は何をしてきたでしょうか。先見の明が嘆かわしいまでに欠けていたため,補充不能な地球の石油,天然ガス資源をほしいままに使用してきました。しかもそれによって,わたしたちの吸う空気もある程度まで毒されてしまいました。
地上の物事を治める点で人間の払った努力について調べることにより,どんな結論が得られるでしょうか。
人間にできない事柄
人間は人々の必要を首尾よく満たす有能な政府を設けることができなかった,というのがその結論です。米国のキッシンジャー元国務長官はこう語りました。「かつて存在した文明は最終的にいずれも崩壊してしまった。歴史とは,失敗に終わった努力の,そして実現されなかった願望の物語である。……それゆえ,歴史家としては,悲劇は必至であるとの気持ちを抱いて生活せざるを得ない」。
よく考えてみると,過去の政治指導者が解決できなかった問題よりはるかに複雑になっている世界の諸問題を,今日の政治家が解決できると期待する根拠が実際にあるでしょうか。カーター大統領の演説原稿作成主任として二年半働いたジェームズ・M・ファロウズは最近次のように語りました。「政府の内部が大きく変化することは事実上不可能なのではないかと考えている。……カーターにせよ,他の大統領にせよ,現在の政府を変えられるのだろうか,と疑うようになってきている」。
しかし,人間が自分を治めることに繰り返し失敗していることにわたしたちは驚くべきでしょうか。聖書を研究している人にとっては,少しも驚くには当たらないはずです。自らを治める人間の努力について調べることにより,神による次の宣言の真実さを裏書きしているにすぎません。『人の道は自身によるのではなく,歩む人は,その歩みを自分で決めることができない』― エレミヤ 10:23,口。
それにもかかわらず全能の神は,最初の人間夫婦が神の権威に反逆して以来ずっと,自らを治めようとする人間の試みを許してこられました。なぜでしょうか。実例によって人間とみ使いを教えるためです。では,この実例からどんな教訓を得たはずですか。すでに述べた事柄,つまり人間には自らを首尾よく治める能力がないことを学んだはずです。また,次の点つまり人間の政府は神の許しによって活動してきましたが,すべての人が住みたいと願う世界を享受するには,人間は神の王国を必要としている,ということも学んだはずです。
神の王国はどのように到来するか
しかし中には,次のような抗議の声を上げる人がいるかもしれません。「人間は政府に対する挑戦に答えるよう努力すべきではないのか。神はそれを期待しておられるのではないのか。我々が良い政府をもたらすよう努力しないなら,他のどんな方法でより良い世界が訪れるのか」。
神はご自分の王国を建てるために人間をお用いになるという諸教会の教えを考えると,このような抗議の声の上がるのも理解できないことではありません。しかし聖書は,人間の努力によって王国が到来する,と教えてはいません。イエス・キリストは人間の王にされることを拒みました。イエスは,「わたしの王国はこの世のものではありません」と言われました。(ヨハネ 6:15; 18:36)ゾンダーバン聖書図解百科事典には正しくこう記されています。
「神の王国は人間の取る行動,もしくは人間の作り上げたどこかの国の行なう活動を意味するものでは決してない。神の王国を建てるために労するという考えがどれほど尊いものであったとしても,聖書におけるこの語の用法は現代の自由主義的な神学における用法とは全く相いれない。王国は神の行動によるものであり,人間の業績でもなければ,敬虔なクリスチャンの業績ですらない」。
それでは,クリスチャンの祈りに答えて,神の王国はどのように到来するのでしょうか。聖書の答えを注意深くお読みください。人間の諸政府と,それらが価値のないものであることに言及した後,聖書はこう告げています。「それらの王たちの日に,天の神は,決して破滅に至ることのない一つの王国を建てられます。……それはこれらのすべての王国を打ち砕いて終わらせ,それ自体はいつまでも定めなく立ちます」― ダニエル 2:44,新。
ご自分の政府の前に道を開かせるため人間の諸政府を滅ぼすという神のこの行動は苛酷もしくは不当に思えますか。現在の不満足きわまりない様々な形態の政府をいつまでも存続させたいと望んでいる人にはそのように思えるかもしれません。しかし,神の完全な政府を待ち望む人々,その滅びを生き残る人々にとっては,喜びのいわれとなります。その「新しい天」の支配が地上の人類社会に祝福をそそぐことに言及し,エホバは,「歓喜せよ,あなたがた民よ,そしてわたしが創造している事柄に関して永久に喜びに満ちよ」と言われました。―イザヤ 65:17-19,新。
人々の必要を満たす政府を作ることに人間は失敗しています。それを考えると,神がご自分の王国をお建てになるのは時宜にかなったふさわしいことであるという点に,わたしたちすべては確かに同意できるのではありませんか。わたしたちは自分の永遠の福祉のために,神の王国について,またその王国を支持する方法について,可能な限りすべての事柄を学ぼうと望むはずです。そのために,続く記事をお読みになるようお勧めいたします。
[脚注]
a ジェームズ・ヘースティングス編,「使徒教会辞典」1916年版,第1巻,678ページ。
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神の政府 ― 人類の唯一の希望ものみの塔 1980 | 4月15日
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神の政府 ― 人類の唯一の希望
1-3 (イ)人類が直面している問題はどれほど大きなものですか。(ロ)どのように将来を知ることができますか。
昨年の夏,マサチューセッツ工科大学で開かれた科学者と宗教指導者の会議の席上,世界が直面している諸問題は「非常に終末論的」であると評されました。英国リーズ大学の哲学の一教師は,「生き残るための青写真」はないと警告し,「問題が大規模で極めて複雑なものになっているため,人間の理性だけではそれらを克服することはできない」と語りました。
2 ではわたしたちは将来に何を期待することができますか。カナダ連合教会の一僧職者は次のように主張しました。「より良い時代が来ると確信をもって予告できる人は一人もいない。文明が消滅するか否か,すべての人がより豊かな生命を享受する新世界がついに訪れるか否か,熟知している人は一人もいない」。
3 しかしそれは真実でしょうか。真実ではありません。実を言えば,将来がどうなるかを知っている方がおられます。その方は将来をご自分の意のままに形造る力と知恵を持つゆえに将来のことを知っておられるのです。この方は創造者であられるエホバ神です。良い政府をもたらす力が人間にないことは歴然としているのですから,今こそその方に聴き従うべき時であると思われないでしょうか。神はご自分について次のように述べておられます。「初めから結末を,昔から,行なわれていないことを告げる者。『わたしの計り事は立ち,わたしの喜びであることを皆,わたしは行なうであろう』と言う者」。(イザヤ 46:10,新)人間に良い政府を備えることを神は喜んでおられます。
聖書の主題
4,5 (イ)聖書の最も重要な主題とは何ですか。(ロ)その主題はどのように知らされていますか。
4 「聖書の最も重要な主題は何ですか」と尋ねられたら何と答えますか。興味深いことに,「現代の聖職者」と題する宗教雑誌は,「前世紀に神学者たちが重要な貢献をしたとして挙げられるのは,新約聖書の最も重要な主題として神の王国を再発見したことである」と述べました。しかし神学者や僧職者たちは聖書のこの重要な教えを人々に知らせてきたでしょうか。この質問に対して,長老派教会の著名な一平信徒が「キリスト教と危機」の中で書いている答えに注目してください。
「最近,神学者の間で,神の王国の意味や今の世界と神の王国との関係について議論が白熱しているという話は聞いたことがない。説教に関して言えば,私は確かに30年以上の間,牧師が人々に神の王国の現実性について説明しようとするのを聞いたことがない。……平信徒として,私は神学者ならびに聖職者に嘆願する。我々に神の王国について話してほしい。それが何であり,現代の世界とどう関係しているか説明してもらいたい」。
5 しかしこれらの宗教指導者たちはそうしてきませんでした。調査の結果,教会に行っている人の中で,神の王国とは何か,それはどのように到来するか,人類のために何を行なうのかなどをはっきり理解していた人は一人もいませんでした。それとは逆に,あなたが手にしておられる雑誌は「エホバの王国を告げ知らせるものみの塔」という名称にふさわしい働きをしてきました。この雑誌は毎号,王国の音信を強調しています。事実,神の政府は聖書の最も重要な主題なのです。
巻頭から巻末に流れる主題
6-9 (イ)どんな事があったのでエホバは新しい政府の取り決めを設けられたのですか。(ロ)創世記 3章15節は何について預言していますか。啓示 12章はその成就を理解する面でどのように役立ちますか。
6 聖書の記述は,神が人間の住みかとして地球を整え,最初の人間夫婦をエデンと呼ばれる美しい園に置かれたところから始まっています。ところがその夫婦から子供が生まれる前に,神のみ使いの一人が蛇を使って女エバに話し掛け,神の支配に対して反逆するようそそのかしました。その女は次に夫であるアダムに話し,神の指示を退けて自分に加わるよう促しました。(創世 3:1-6。啓示 12:9)それでもエホバは,ご自身が取り決めた,人類を支配する新しい政府が将来必要になることを予見されました。そこで神は,反逆の張本人,自らをサタン悪魔としたみ使いに対し,次のように言われました。「わたしはお前と女との間,またお前の胤と彼女の胤との間に敵意を置く,彼はお前の頭を踏み砕き,お前は彼のかかとを踏み砕くであろう」― 創世 3:15,新。
7 しかし「この預言のどこに新しい政府のことがでてくるのか」と尋ねる方もおられるでしょう。それは,この預言を分析してみれば分かります。聖句の述べるところによれば,サタンと「女」およびサタンの「胤」つまり子供たちと女の「胤」つまり子孫との間には敵意すなわち憎しみが介在することになりました。わたしたちはまず最初に,「女」の実体を見極めなければなりません。
8 この女は地上の女ではありません。サタンは人間の女に特別な憎しみを抱いたことはなかったからです。これは地上の女というより象徴的な女です。この女は聖書巻末の本,ヨハネへの啓示の中では『太陽で身を装い,月がその足の下にあり,頭には十二の星の冠がある』女として語られています。この女の実体を見極めるための助けとして,その子供について啓示がさらに述べている事柄に注目してください。「女は男児を世に送り出した。その男子は鉄の笏で諸国民すべてを支配する。そしてその子供は神とそのみ座のすぐ前のところまで連れてこられた」― 啓示 12:1-5,エルサレム聖書。
9 神の代表者として「諸国民すべてを支配する」この「子供」,政治をつかさどる「男子」とは何のことですか。証拠は追って明らかにされますが,それはキリスト・イエスによる神の王国です。ですから天の女とは忠実な天的な被造物からなる神の組織であり,メシア王国はこの組織から生み出されたものです。それで昔アダムとエバが神の支配権に反逆した時,エホバは自ら行動を起こされ,義を愛する人々の心を奮い立たせ,彼らに希望を与える王国政府を制定されたのです。
王国に関する光は輝きを増す
10,11 (イ)どんな王国を神の古代の僕たちは信頼しなかったでしょうか。なぜですか。(ロ)神はどんな「都市」を彼らのために備えられましたか。
10 エホバ神はこの政府に関する情報をご自分の僕たちに漸進的に啓示され,その政府が人間の頼れる唯一無二のものであることを示されました。その政府が決して失敗しないことは全能の力によって保証されているので,神の忠実な僕たちは人間製の王国を信頼することはありませんでした。彼らは神の天的な王国政府を待ち望んでいることを公に言い表わしました。例えば,使徒パウロはこの点について次のように書いています。
「彼ら[キリスト教時代以前の神の忠実な僕たち]はみな信仰のうちに死にました。彼らは約束の成就にあずかりませんでしたが,それをはるかに見て迎え入れ,自分たちがその土地ではよそからの者,また寄留者であることを公に言い表わしました。……彼らは,さらに勝った場所,すなわち天に属する場所を得ようと努めているのです。ゆえに神は,彼らを,そして彼らの神として呼び求められることを恥とされません。彼らのために都市を用意されたからです」― ヘブライ 11:13-16。
11 神がご自分の古代の僕たちのために用意されたこの「都市」とは何ですか。それは神の天の王国,神の政府です。この王国政府を設立するためになされた準備の幾つかを振り返ってみましょう。ヘブライ人にあてた前述のパウロの手紙の中に記されていたように,古代の神の僕たちは王国に関する「約束の成就にあずかりませんでした」。どんな約束ですか。
12-14 神の政府に関するどんな約束がアブラハム,イサク,ヤコブ,ユダ,ダビデに対してなされましたか。
12 エホバは創世記 22章18節でアブラハムに対して,「あなたの胤によって地のすべての国の民は確かに自らを祝福するであろう」と約束されました。使徒パウロはガラテア人への手紙の中で,国々の民が自らを祝福する手だてとなるアブラハムの胤が,イエス・キリストであることを明らかにしました。(ガラテア 3:16)祝福をもたらす来たるべき「胤」についての同様の約束は,アブラハムの息子イサクと孫ヤコブにも与えられました。(創世 26:3-5; 28:13,14)そういうわけで,これらの約束によって明示されているように,神の女の「胤」はイサクとヤコブの家系を通して到来することになりました。
13 ヤコブの息子ユダにさらに約束された事柄にも注目してください。「笏はユダからそれず,命令者の杖もその足の間から離れることなく,ついにはシロが来る。もろもろの民の従順は彼のものとなる」。(創世 49:10,新)「ユダから出た」イエス・キリストはこの「シロ」となられ,『もろもろの民の従順は彼のものとなる』のです。このことが聖書の中でさらにどのように証拠立てられているかに注目するとよいでしょう。―ヘブライ 7:14。
14 ユダに対する約束の約700年後,エホバはユダ族のダビデについて言われました。「わたしは自分の僕ダビデを見いだし,わたしの聖なる油をもって彼に油そそいだ。彼に関してわたし自身の手はゆるがず,わたし自身の腕も彼を強める。そしてわたしは彼の胤を必ず永久に立てる。その王座を天の日数のように」。(詩 89:20,21,29,新)ダビデの「胤」が「永久に」立てられ,「その王座」が「天の日数のように」長く存続するという神の言葉は,神から任命された支配者イエス・キリストの手中にある王国政府が永遠に続くことを示すものです。このことはどのようにして分かるでしょうか。
神の政府の王が現われる
15,16 (イ)イエス・キリストがダビデの「胤」であることはどのようにして分かりますか。(ロ)ヨハネが「天の王国は近づいた」とふれ告げることができたのはなぜですか。
15 では,西暦一世紀に生じた出来事を考慮してみましょう。エホバはみ使いガブリエルを遣わして,処女マリアから奇跡的な方法で生まれようとしていた子供について彼女に告げ知らせました。ガブリエルは言いました。「あなたはその名をイエスと呼ぶのです。これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。そしてエホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」。(ルカ 1:31-33)イエスの誕生に際し,「エホバのみ使い」は,この者は約束のメシア,救い主なる主であると羊飼いたちに告げました。―ルカ 2:8-12。
16 ゆえに,神の政府は西暦一世紀に現実的な色彩を帯び始めました。やがてバプテスマを施す人ヨハネが「悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と伝道し始めます。(マタイ 3:1,2)なぜヨハネはこのように言うことができたのですか。それはその政府の指命された王が彼らのただ中にいたからです。ヨハネがイエスにバプテスマを施した後,神はご自分の聖霊を注ぎ,天の政府の王となる者としてイエスに油そそがれました。その後3年半にわたる宣教期間中,キリストは蛇にかかとを踏み砕かれた時,つまり死に至るまで神への忠実さを示すことにより,ご自分の王としての資格を実証されました。(創世 3:15)キリストは天の命に復活させられて以来,来たるべき神の世界政府のために道を開くため,「これらのすべての[人間の]王国を打ち砕いて終わらせ(る)」というみ父のご意志を遂行する立場におられます。―ダニエル 2:44,新。マタイ 6:9,10。
17 神の政府の構成についてさらにどんなことが明らかにされましたか。
17 この政府に関してはさらに,人類の中の他の人々が,キリストと共に王として統治する特権にあずかるということが明らかにされました。神は預言者ダニエルを通して「聖なる者たち」と呼ばれる人々がみ子と共に支配することを示されました。(ダニエル 7:13,14,27,新)キリストも忠実な使徒たちに同じことを約束されました。(ルカ 22:28-30)使徒パウロはガラテア人への手紙の中で,「キリストに属しているのであれば,あなたがたは実にアブラハムの胤であ(る)」と,油そそがれたクリスチャンたちに説明しました。ここでパウロは,キリストは約束の胤の主要な者であられたが,神は「王国の相続者」としてキリストに加わる他の人々を選ばれたということを示したのです。(ガラテア 3:16,29。ヤコブ 2:5)この点と調和して,パウロはテモテにこう書きました。「忍耐してゆくなら,わたしたちはまたともに王として支配するようになる」。(テモテ第二 2:12)後に使徒ヨハネは,キリスト・イエスと共に「地に対し王として支配する」人々について書き,14万4,000人という数字を挙げています。―啓示 5:10; 14:1-3。
闇を照らす希望
18-20 (イ)一人の電気技師は聖書の主題をどのように見事に要約しましたか。(ロ)王国の音信を宣べ伝えているのはだれだけですか。
18 神を愛し信頼する者たちの永遠の益のために義の政府を建てるという壮大な目的を,神が説き明かされたいきさつには驚嘆させられるのではないでしょうか。しかし嘆かわしいことに,キリスト教世界の信仰のない僧職者や神学者は自分たちの群れにこの目的を知らせることができませんでした。かくて,精神的な暗闇にあり,王国の知識を持たなかった人々は,次から次へと人間の政府に信頼を寄せ,その結果自分自身が傷つき,失望を味わうことになりました。ではあなたは聖書の音信の価値を認識していますか。「聖書の最も重要な主題は何ですか」と尋ねられたら,何と答えますか。
19 何年か前のことですが,米国オハイオ州デートンのあるデパートに勤める電気技師のエホバの証人は,この質問に答える良い機会に恵まれました。その人は,デパートの新聞の編集者から,最近読んだ本の中で一番面白かったものについて書いてほしいという依頼を受けたのです。その電気技師は次のように書きました。
「この本は生涯をかけても読み切れる本ではない。それは美しい住みかが反逆によって破壊されるところから始まる。悲劇,災難,悲嘆,殺人,死がそれに続く。家族が増えるにつれ,絶望と暗黒の度は深まってゆく。幾世紀かが過ぎ,国々が興っては滅び,幾千もの人物が次々に現われ,激しい露骨な憎しみから殉教者の愛に至るまで人間のありとあらゆる感情が描写されている。始めはかすかな輝きだった希望も,絶対に確信できるものとなってゆく。完全な政府が美しい住みかを再建することになる。その支配者は王なるキリスト・イエス,その政府は神の王国である。その家族とは人類のことであり,その本とは聖書である」。
20 神の王国とそれが人類のために行なうことについて,この電気技師は何と立派な証言を行なったのでしょう。確かに,神の政府は,真実の幸福を伴う充実した生活を楽しむための唯一の希望です。これはエホバの証人が,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」というイエスの預言に調和して全世界にふれ告げてきた音信です。(マタイ 24:14)そうです,人間の政府すべてに,まもなく終わりがもたらされます。人間の政府は人々の必要を満足させることができなかったからです。それは,天の王イエス・キリストとその共同支配者たちの指示と管理の下に置かれる義の新体制の始まりを印づけるものとなります。その神の政府の臣民となるのはなんとすばらしいことなのでしょう。その政府が人間の上に注ぐと聖書に述べられている数々の祝福について少しの間調べてみてください。
人間の必要を満たす支配
21,22 (イ)人間の努力とは対照的に,この王国は戦争,犯罪,恐れなどに対処する点でどんな成功を収めますか。(ロ)神が動物たちを支配することからどんな結果が生じますか。
21 詩篇 46篇8,9節にはエホバの業を調べるようにとの招待がなされています。「来て,エホバの働きを見よ。地上にどのように驚くべき出来事を置かれたかを」。では驚くべきこれらの出来事にはどんなものがありますか。「彼は地の果てに至るまで戦いをやめさせようとしておられ」ます。人間の政府は戦争を終わらせることにみじめにも失敗しました。しかし神は必ず永続的な平和をもたらしてくださいます。詩篇作者は,「悪行者は断たれる,……邪悪な者はもういなくなる」と述べているからです。(詩 37:9,10,新)人間の社会には刑務所や警察やドアの錠前が,そして恐れがなくなります。ですから神は,その王国支配の下に住む人々が生活を楽しみ,「それをおののかせる者はだれもいない」と約束しておられるのです。―ミカ 4:4,新。
22 今日でさえ,動物的な傾向をもった人々が神の言葉を生活に適用することにより,他の人々と平和に暮らすことを学んでいます。神の言葉の示すところによれば,王国の支配下では動物たちでさえ平和に暮らします。聖書はこう述べています。「狼はしばらくの間雄の子羊と共に住み,ひょうも子やぎと共に横たわり,子牛と,たて髪のある若じしと太った動物は一緒になり,小さな少年がそれらを導く者となる」。言うまでもなく,人間の政府はこうしたことを実現させようとも思っていません。―イザヤ 11:6,新。
23 地の新しい支配者の持つどんな力は,王国のすべての臣民のために豊富な食物が供給されることを保証しますか。
23 わたしたちすべてが住みたいと願う世界であるためには,もう一つ重要な条件として,すべての人に豊富な食物がなければなりません。人間の政府は食糧不足や飢きんを一掃できませんでしたが,王国の支配はそれを成し遂げます。地上におられた時のイエスは,神の霊によって,風,海,植物,魚などを制御することができました。(マルコ 4:39。マタイ 21:19。ヨハネ 21:6)このことが王国の支配下で何を意味するかを考えてみてください。全地にわたって完全に気候が管理されます。ですから不作などということはありません。そうなれば,すべての人に豊かな食物が保証されます。聖書はこう述べています。「地には穀物が十分にでき,山々の頂は実りこぼれるであろう」― 詩 72:16,新。
24-26 王国は,病人,足なえの人,盲人のため,さらに年取った人のためにさえどんなことを行ないますか。
24 人間の政府は,人間家族を病気や疾患から解放することができませんでした。その解放は本当に幸福な生活を送る上で是非とも必要なものです。ところが地上におられたイエスはあらゆる種類の病気や疾患を癒され,ご自分のすべての臣民に健康と命を与えるため地球の全域にわたって行なわれる事柄を明示されました。王国の支配下では,「居住者はだれも,『わたしは病気だ』と言わない」という聖書の約束が文字通り成就します。(イザヤ 33:24,新)医師も,歯の治療費ももういりません。診療所も,病院も,病院への支払いも必要ではないのです。
25 年を取ることでさえ,現在では最もゆううつな経験となりかねません。一人の婦人が書いているとおりです。「私はゆううつになるようなタイプではないのですが,現にゆううつになっています。その理由も分かっています。年取ってきたからです。……いつも痛いところがありますが,それも私の容貌ほどには気になりません。若い時はとてもきれいだったのに,今は違います。しわが多くなってきましたが,これは美容整形の医師にも直せません。白髪も増えました。……気のめいるようなこんな状態からどうすれば抜け出せるでしょうか」― 1979年3月23日付ニューヨーク・ポスト紙。
26 実のところ,神の王国こそ,こうした問題に対する確かな唯一の解決策なのです。神の王国の支配下で老人は神の力によって若返り,心身共に若々しく完全になります。人々は完全な健康を取り戻すので『人間の肉は若いころよりもみずみずしくなり』ます。(ヨブ 33:25,新)イザヤ書 35章5,6節(新)に描写されているような状態になります。「盲人の目は開かれ,耳しいの耳もあけられる。そのとき,足なえは雄鹿がするようによじ登り,口のきけない者の舌はうれしさの余り叫ぶ」。
27 死さえも征服されるというどんな証拠がありますか。
27 しかし,「人が病気にならない,年を取らないということになったら,死ぬこともなくなるだろう」と言う方がおられるかもしれません。そのとおりです。確かにそのようなことがこれから起こるのです。葬儀屋は新しい仕事を探さなければならないでしょう。神は「もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない」と約束しておられるからです。(啓示 21:4。イザヤ 25:8)詩篇作者はエホバについて語りました。「あなたは御手を開き,あらゆる生きているものの願いを満たしておられます」。(詩 145:16,新)その意味を考えてみてください。あらゆる人間の正当な欲求や願いが満たされるのです。これは今の不完全な人間の想像を絶するすばらしい状態です。
28,29 (イ)待望のどんな別の祝福も,王国によってもたらされますか。(ロ)死者がよみがえらされるというどんな証拠がありますか。(ルカ 7:11-15; 8:49-56)
28 何という喜びでしょう! 王国の義が行き渡る状態下で,子供たちには学ぶ機会と成長して完全になる機会が与えられるのです。そこには今の世の不安定さや街路での危険もありません。人をとりこにする麻薬や,人を堕落させる悪い交わりの犠牲者になる危険性もありません。どんな人にも自分の知的能力や生来の才能を思う存分みがく機会が与えられ,すべての人のために喜ばしく報いの多い活動が備えられるでしょう。預言者イザヤは王国の支配が可能にする事柄を説明し,次のように述べました。「彼らは必ず家を建てて住み,必ずぶどう畑を設けてその実を食べるであろう……わたしの民の寿命は,木の寿命のようになり,わたしの選ぶ者たちは,自分の手の業を最大限に用いるであろう」― イザヤ 65:17-25,新。
29 ここに描かれている約束は,すべての男,女,子供に威厳と目的を付与する約束です。以前の生活は記憶から拭い去られます。人は建てたもの,植えたもの,刈り取ったものを自分で所有するようになります。子供たちは静かで健全な環境のもとで育てられます。死者でさえよみがえらされます。(ヨハネ 5:28,29)アベルの時代から現代に至るまでの父・母,兄弟・姉妹,おじ・おば,友人・隣人,そのすべてがこの地上で再び結び合わされます。何と驚嘆すべき時なのでしょう!
30 (イ)地に対する神の最初の目的はどんな方法によって達成されますか。(ロ)王国の希望に動かされて,あなたは何をしたいと願いますか。
30 人間の政府の中で,自国の臣民のため,あえてこのようなことを成し遂げようと考えた政府は一つもありません。こうした約束の実現を保証できるのは神だけです。それだけではありません。王国の支配下では全人類がエホバの崇拝において結ばれます。天からエホバの監督を受け,この地は徐々に全地球的なパラダイスへ,その全体がエデンの園へと変えられてゆくのです。そしてそこで生きる人々はみな,神の王国のもとでの完全な健康と永遠の命を享受します。本当にすばらしい希望です。その希望は最も信頼できる源,エホバ神ご自身を基とするものなのです。
[11ページの図版]
アブラハムは王国を「はるかに」見た。―ヘブライ 11:13-16
[13ページの図版]
イエスを指命された王として認めたヨハネは「神の王国は近づいた」と宣べ伝えた。
[15ページの図版]
神の政府の下で,「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない」。―啓示 21:4
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あなたは神の政府の忠節な臣民ですかものみの塔 1980 | 4月15日
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あなたは神の政府の忠節な臣民ですか
1 だれしもが願っている政府とはどんな種類の政府だと思いますか。
今地上に,国民を病気から完全に解放し,足なえの人をいやし,盲人に視力を取り戻させ,耳の聞こえない人を聞こえるようにさせるばかりか,死者を蘇生させることのできる国があったとしたら,その国の政府はそのような業績を誇るのではないでしょうか。そして地上の人間は一人残らず,その政府の下での自分の立場を確保するため,さっそくあらん限りの手を打つのではないでしょうか。あなたもそう思われるでしょう。しかし歴史の示すところによると,多くの人々は異なった考え方に傾いています。
2,3 何が原因で,一世紀のユダヤ人の支配者たちとその臣民は神の王を退けたのですか。
2 神の政府の指命された王イエス・キリストがこのような驚嘆すべき偉業を成し遂げられた西暦一世紀の状況を考慮してみましょう。人々はイエス・キリストをどのように受け入れたでしょうか。彼らはユダヤ人の支配者たちに影響されやすく,その忠節心は分かたれた状態にありました。これらの支配者たちは,人々の最善の益を求めることより,人間の政府内における自分たちの地位や立場を守ることにきゅうきゅうとしていました。聖書の記録はそのことを次のように示しています。
「祭司長とパリサイ人たちはサンヘドリンを召集して,こう言いはじめた。『この人[イエス]が多くのしるしを行なうのだが,われわれはどうすべきだろうか。彼をこのままほっておけば,みんなが彼に信仰を持つだろう。そして,ローマ人たちがやって来て,われわれの場所も国民も取り去ってしまうことだろう』。しかし,彼らのうちのひとりで,その年に大祭司であったカヤファが言った,『あなたがたは何もわかっていない。そして,ひとりの人が民のために死んで国民全体の滅ぼされないほうがあなたがたの益になる,ということをよく考えていないのだ』。……こうして,彼らはその日以来,イエスを殺そうとして相談した」― ヨハネ 11:47-53。
3 ユダヤ人の支配者たちは,自らの利己的なものの考え方に阻まれて,神の政府への忠誠を示さなかっただけでなく,その利己主義に動かされてイエスを退けるよう民に働きかけました。聖書の記述によれば,ローマ総督のポンテオ・ピラトが「見なさい。あなたがたの王だ!」と言ってイエスを差し出した時,人々は「取り除け! 取り除け! 杭につけろ!」と叫びたてました。「ピラトは彼らに言った,『わたしがあなたがたの王を杭につけるのか』。祭司長たちは答えた,『わたしたちにはカエサルのほかに王はいません』」。ですから,人々をいいくるめて神の王と王国への反対票を投じさせたのは宗教指導者たちでした。―ヨハネ 19:14,15。
4 今日のわたしたちは,すべて,どんな選択に直面していますか。
4 気づいていると否とにかかわりなく,あなたも今同様の選択に直面しています。それは,神の政府の忠節な臣民となるか,それともその支配に敵対する人々の側につくかという選択です。イエス・キリスト,及びイエスと共に支配する人々が天におり人間の目に見えないということによって,そうした事柄の現実味が乏しくなるわけではありません。非常に強力な証拠があるのです。キリストは死人のうちから引き上げられました。そして,近い将来に神の命令どおり,共同支配者たちと共に地上の諸政府とその支持者たちを取り除かれます。(ダニエル 2:44。テサロニケ第二 1:6-9。啓示 2:26,27)ではあなたは何を選びますか。人間による支配を支持するでしょうか,それとも神による政府を支持するでしょうか。
臣民となるために必要とされる知識
5 外国人に市民権を与えるに際し,ある政府が要求している資格をあげてください。
5 片手を挙げ,「私は神の政府の臣民になりたいと思います」と言うだけでは十分ではありません。当然,より多くのことが求められます。一例を挙げれば,アメリカ合衆国の市民になることを願う外国人は,特定の資格にかなっていなければなりません。ワールドブック百科事典は次のように説明しています。「移民帰化局の職員はその外国人の調査を行ない,その人と面接する。……その外国人は簡単な英語の読み書きと会話ができることを示さなければならない。……また合衆国政府の歴史と形態についてある程度のことを知っていなければならない」― 1973年版,第14巻,52ページ。
6 神の王国の臣民となる資格を得るには,どんな「言語」を学ばなければなりませんか。
6 神の政府の臣民としての資格を得るにも,同じような要求を満たしていなければなりません。何よりもまず,神の王国の支配下で生きる人々の「言語」を学ぶ必要があります。エホバはみ言葉聖書の中で次のように述べておられます。「その時わたしはもろもろの民を変えて清い言語を話させ,こうしてそのすべてがエホバの名を呼び求め,肩を並べてこれに仕えるようにする」。(ゼパニヤ 3:9,新)この「清い言語」とは,聖書から得られる神に関する真理,特に地上に平和をもたらす神の王国に関する真理です。イエスもその弟子たちも地上にいる時この「清い言語」を語りました。彼らは王国に関する真理を証しし,その音信を絶えず前面に押し出しました。今日,神の王国の臣民になることを願う人々も,同じことをしなければなりません。―ヨハネ 18:36。ルカ 8:1; 10:8-11。
7 神の政府の臣民が答えられなければいけない質問をいくつかあげてください。あなたは答えられますか。
7 それに加え,神の王国の臣民としての資格を得るには,その国の支配者たちのことだけでなく,その歴史についても一応通じていなければなりません。次の質問に答えられればそのような知識を持っていることになります。あなたは答えられるでしょうか。神が王国政府のための取り決めを最初に設けられたのはいつか。神の義の政府の臣民になることを待ち望んでいた,キリスト教時代以前のエホバの僕たちの中にはどんな人がいるか。その人々はこの政府に対する信仰をどのように表わしたか。何人の人々が神の政府の支配者として仕えるか。キリストの共同支配者の資格を有する者として聖書中に名前の挙げられている人にはどんな人がいるか。彼らは忠実さを示すために何を行なったか。イエス・キリストは王となる資格をどのように満たしたか。人類に対する神の愛を明らかにする神の王国の支配下ではどんな状態になるか。こうした事柄に関する知識は重要です。イエスはみ父への祈りの中で,「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」と述べられたからです。―ヨハネ 17:3。
正しい行状が求められる
8 外国人に市民権を与えるに際し,ある政府が要求しているもう一つの資格をあげてください。
8 地上の政府の民となるためにはさらに別の事柄も要求されますが,神の王国の臣民となる場合も同じです。ワールドブック百科事典は米国の市民権の資格を得たいと思う人について次のことを述べています。「その人は道徳的に優れた人でなければならない。……法の定めるところによれば,次のような場合その外国人は道徳的に優れているとは言えない。つまり,泥酔する人,姦淫を犯す人,複数の妻を持つ人,賭博で生計を立てている人」,その他。神の政府の臣民として資格を得るには,同様の道徳的条件にかなっている必要があります。それらの条件は聖書の中に記されています。
9 神の政府の臣民としての資格を得るには,どんな道徳上の要求にかなっていなければなりませんか。
9 例えば,王国の臣民になろうという人は,聖書が正直さについて述べていることを生活に適用しなければなりません。うそつきや泥棒であってはなりません。(エフェソス 4:25,28。啓示 21:8)同時に泥酔を禁ずる聖書の言葉に留意するべきです。(エフェソス 5:18。ペテロ第一 4:3,4)それに加えて,淫行,姦淫,同性愛行為は神のご要求に違犯するものであり,そのご要求によればそうしたことをならわしにする者たちには,神の王国の下で命を得る資格はありません。(コリント第一 6:18。ヘブライ 13:4。ローマ 1:24-27)とはいえ,以前そうしたことを行なっていたとしても,今それらを捨て去っているなら,以前の不道徳な生き方のために資格がなくなるわけではありません。(コリント第一 6:9-11)重要なのは次のことです。つまり神はご自分の法に故意に違反する人々を許されません。神の政府の臣民としての資格を得たいのであれば,人は神のみ言葉にある道徳的な要求に従わなければならないのです。
10 神の政府の臣民は,指示を与えるどんな取り決めに敬意を表わす必要がありますか。
10 これは,神の王国の下で生活する人々は,神の言葉の述べる事柄に進んで従う必要があるという意味です。しかし求められるのはそれだけではありません。神がクリスチャン会衆内の責任ある立場に置いておられる人々の助言や決定に敬意を表わすことも必要です。地上における王国の関心事の監督をキリストから委ねられている「忠実で思慮深い奴隷」の与える指示を無視し,“自分のしたいようにする”人であってはなりません。(マタイ 24:45)使徒ペテロは権威を軽んじていた人々について書き,彼らを「肉を汚そうとの欲望をいだいてそれに従い,主たる者の地位を見下す者」と評しています。その者たちについて使徒は続けて,「向こう見ずで片意地な彼らは,栄光ある者たち[神の会衆の監督を委ねられた人々]におののかず,かえってあしざまに言います」,と描写しています。―ペテロ第二 2:10。
11 (イ)王国の臣民はすべて,神の王のどんな命令に従うことが必要ですか。(ロ)これらの命令にどのように従えますか。これらの命令に従うのはなぜそれほど重要なのですか。
11 神の政府の臣民となるために求められているのは,単に不敬で不道徳な生活の仕方から離れることだけではありません。他の人に対して親切に行動する点でも率先しなければなりません。王であるイエス・キリストから与えられた「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」という神の定められた原則によって生きなければならないのです。(マタイ 7:12)キリストは人類のためにご自分の命を与えることまでされ,他の人に対する愛の模範を残されました。そしてご自分の追随者たちに,「わたしがあなたがたを愛したとおりに,あなたがたも互いを愛する」よう命じられました。(ヨハネ 13:34。ヨハネ第一 3:16)神の王国の支配下で生活を真に喜ばしいものとするものは,この自己犠牲的な愛と他の人々に対する関心なのです。あなたの行状はその命の資格を得させるようなものですか。あなたは他の人々に対して親切を示そうと本当に努力していますか。
神は忠節な支持を求められる
12 外国人に市民権を与えるに際し,ある政府が要求している資格をもう一つあげてください。
12 エホバ神がご自分の臣民に王国政府の支持を求めるとしても驚くにはあたりません。人間の政府も同じことをするからです。ワールドブック百科事典は米国の市民になることを願う外国人についてさらに,「その人は,当国の憲法を支持かつ擁護することと,米国のために武器を執ることを誓う」と述べており,それからその人は,「外国でのあらゆる権利と,他国への忠誠を放棄する宣誓を行なう」ことになります。しかし,神の王国を忠節に支持するためにどのようにすることを神は求めておられるのでしょうか。
13 クリスチャンが神の政府のために実際の武器をもって戦うことの誤りを何が示していますか。
13 それは物質的な武器を取り上げて王国のために戦うことによって示すのではありません。イエスはローマ総督のポンテオ・ピラトに次のように説明されました。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。(ヨハネ 18:36)それより前のことですが,使徒ペテロが主人を守ろうとした際,イエスはペテロにこう告げられました。「あなたの剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです。それともあなたは,わたしが父に訴えて,この瞬間に十二軍団以上のみ使いを備えていただくことができないとでも考えるのですか」。(マタイ 26:52,53)クリスチャンは神の敵を滅ぼすことには加わりません。それは神の天の軍勢の仕事です。聖書は,クリスチャンが文字通りの,肉的な戦争に携わらないことを示しています。―コリント第二 10:3-5; テモテ第二 2:24と比較してください。
14 (イ)神は王国の臣民がどんな業を行なうよう求めておられますか。(ロ)彼らは神への献身をどのように示せますか。
14 神が求めておられるのは,そういうことよりも,ご自分の地上の僕たちがその政府のための代弁者,言いかえると王国の擁護者,つまり王国宣明者になることです。そのわけで『彼らは,救いのために口で公の宣言をする』のです。(ローマ 10:10)それと共に,神はご自分の臣民に献身と忠誠を求めておられます。イエス・キリストは神のご意志を行なうために自らを差し出し,その象徴としてバプテスマを受けられました。(マタイ 3:16,17。ヘブライ 10:5-10)クリスチャンも同じようにしなければなりません。必要な知識を取り入れ,道徳上の神のご要求に従った後に,命を神に捧げ,献身の象徴として水のバプテスマを受けなければなりません。それから,エホバが完遂させることを望んでおられる大規模な広報活動に魂を込めて携わる必要があります。
15,16 (イ)地上におけるイエスの最重要な業は何でしたか。そしてこれが弟子たちにとっても主要な活動であることをどのように示されましたか。(ロ)イエスの指示に従うには,どこを訪問して人々に会わなければなりませんでしたか。
15 すべての人が,神の王国とはどんなもので,どのように人類の諸問題を解決するかということを知るのはエホバのご意志です。その王国によってエホバはそのみ名から非難をことごとく拭い去られ,ご自分の民に祝福をもたらされるのですから,その政府は神の心にかなった貴重なものです。そのため,聖書は地上での神のみ子の主要な活動について,「イエスはすべての都市や村を回る旅に出かけて,……王国の良いたよりを宣べ伝え(た)」と記しているのです。(マタイ 9:35)また別のときですが,イエスは次のようにも述べられました。「わたしはほかの都市にも神の王国の良いたよりを宣明しなければなりません。わたしはそのために遣わされたからです」― ルカ 4:43。
16 イエスは追随者たちがこの同じ業をするよう訓練なさいました。まず最初に十二使徒を遣わし,指示を与えられました。「行って,『天の王国は近づいた』と宣べ伝えなさい。……どんな都市また村に入っても,その中にいるふさわしい者を捜し出し,去るまではそこにとどまりなさい。その家の中に入るときには,家の者たちにあいさつをしなさい。そして,その家がふさわしいなら,あなたがたの願う平安をそこに臨ませなさい」。(マタイ 10:5-14)これら指示どおりのことを行なうため,使徒たちは人々の家を訪れては「ふさわしい」人のところにとどまり,王国の音信を伝えました。イエスはその後にも70人の弟子たちに,「どこであれ,あなたがたが都市に入り,人びとがあなたがたを迎えてくれるところでは,……『神の王国はあなたがたの近くに来ました』と告げてゆきなさい」との指示を与えました。(ルカ 10:1-11)確かにイエスは王国の務めを行なわせるために追随者たちを送り出されたのです。
17 (イ)第一世紀,王国を宣べ伝えるために勇気が必要だったのはなぜですか。(ロ)初期クリスチャンたちは宣べ伝える業でどのように勇気を示しましたか。
17 この活動にあずかるには確かに勇気が求められました。イエスは王国に敵対する者たちの扇動によって殺されましたし,しばらくしてその追随者であるステファノと使徒ヤコブも殺害されました。(使徒 7:54-60; 12:2)でもイエスの追随者たちはひるみませんでした。聖書の記述によれば,使徒たちがむちで打たれた後でさえ,「彼らは毎日神殿で,また家から家へとたゆみなく教え,キリスト,イエスについての良いたよりを宣明しつづけた」のです。(使徒 5:42)その何年か後,テサロニケでは暴徒が使徒パウロとその仲間たちをとがめ,「これらの者たちはみんなカエサルの布令に逆らって行動し,イエスという別の王がいると言っています」と言いました。(使徒 17:7)しかし,その迫害も彼らの伝道を阻むものとはなりませんでした。パウロは『良いたよりの宣明』を断念しなかった,と聖書は記しています。パウロは,悔い改めを必要とするユダヤ人や他の人々に徹底的に証しをし,『公にも家から家にも教え』ました。―使徒 20:20,21。
どんな立場を取るべきか
18,19 (イ)今,果たさなければならない神のご意志とは何ですか。(ロ)何を思い起こすことによって,王国を宣べ伝えることに携わる助けが得られるでしょうか。
18 今日,王国の擁護者であるためには,それに劣らない勇気が求められます。今,王国の音信に対する反対は西暦一世紀当時と全く同じように大きくなっています。勢い次のような質問が生じます。あなたはどんな立場を取っていますか。あなたは神の王国を忠節に支持しますか。神のご意志は,終わりが来る前に大規模な証しの業が行なわれることです。あなたはその証しの業の一端にあずかっていますか。―マタイ 24:14。
19 神の政府について他の人々に話すことに率先するのはむずかしい,と思う人もいるかもしれません。しかしそれは可能です。そうすることはエホバへの愛を証しすることです。(ヨハネ第一 5:3)神がアブラハムに与えられた,息子を犠牲として捧げよという難しい割り当てのことを思い出してください。アブラハムが従ったとき,神は実際に犠牲を捧げようとするアブラハムをとどめ,「あなたが神を恐れていることを本当に知ったからだ」と言われました。そうです,アブラハムの従順は神に絶対の信頼を置いていることの証拠となりました。(創世 22:12。ヘブライ 11:17-19)同様に,わたしたちが熱心に王国を宣べ伝えるなら,神の政府を忠節に支持していることを神に対して表わせます。神はご自分の臣民に,その政府を支持するよう要求しておられます。同時にわたしたちは,人々に対する愛と関心を示します。人々が,足早に迫ってくる「大患難」での滅びを免れる唯一の方法は,王国の音信を聞き,それに基づいて行動することだからです。―マタイ 24:21。ヨハネ第一 2:17。
20 モーセの模範は,道徳上の神のご要求に関連して賢明な立場を取る上で,どのように役立ちますか。
20 しかし,神の政府を忠節に支持していることは,道徳上の神の要求に従うことによっても示せます。この問題について,あなたはどのような立場にありますか。“自分のしたいようにする”,まず自分を喜ばせようとする人も一部にはいます。なるほど,快楽を中心にした放縦な生き方をする大勢の人々と歩みを共にすることは楽しいかもしれません。しかしその楽しみは一時的なものにすぎません。賢明にも,モーセはそのような生き方を選びませんでした。「信仰によって,モーセは,成人した時,ファラオの娘の子と呼ばれることを拒み,罪の一時的な楽しみを持つよりは,むしろ神の民とともに虐待されることを選びました。……彼は報いをいっしんに見つめたのです」。(ヘブライ 11:24-26)これはわたしたちにとっても極めて重要な事です。わたしたちの生き方は自分の利己的な傾向を満足させるだけのものですか。それとも創造者を喜ばせることを行ない,王国政府の関心事を追い求めるものでしょうか。
21 (イ)イエスはすべての人が行なうべき選択をどのように示されましたか。(ロ)あなたはどんな選択をすることを決意しておられますか。
21 確かに,二つの選択しかありません。キリストはそれを二本の道のどちらを選ぶかということに例えられました。イエスの言葉によれば,一方は『広くて大きな』道であり,その道をゆく人々には“自分のしたいようにする”自由が与えられています。ところがもう一方の道は「せばめられて」います。この道をゆく人々には神のご命令を固守することが求められています。大多数の人々は広い道を選んでおり,ごくわずかな人だけが狭い道を選んでいるとイエスは説明されました。あなたはどちらを選びますか。選択をするに当たっては,次のことを思いに留めてください。つまり広い道は突如として行き止まりになり,滅びに至ります。それとは逆に,狭い道は神の新体制へまっすぐに通じており,その新体制では王国の忠節な臣民として永久に生きられるのです。(マタイ 7:13,14)ですから選択はあなたが行なうものです。あなたはどんな選択をされるでしょうか。
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