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    ものみの塔 1975 | 4月1日
    • いることを知っており,自分の信仰を人々の前で言い表わすことをためらわない人々です。(ローマ 10:9,10)彼らは神との良い関係を高く評価しているので,バプテスマを受ける資格を得るために真剣に努力しました。あなたもそのような認識をお持ちですか。それを持つ人々のためには,現在も,また将来においても,すばらしい祝福が蓄えられています。

  • 神の事柄を正しく評価する
    ものみの塔 1975 | 4月1日
    • 神の事柄を正しく評価する

      1,2 エルサレムの神殿で,イエスは正しく評価していることを示すどのようなすぐれた模範に弟子たちの注意を引かれましたか。

      ある日のこと,エルサレムの神殿におられたイエスは,神の事柄を正しく評価していることを示すすぐれた模範を弟子たちに指摘されました。イエスは人々が聞いているところで,『長い衣を着て歩き回ることを好み,道でうやうやしくあいさつをされることや,会堂の中の目立つ座席,宴会のときの上座などが非常に好きな律法学者』たちに気をつけるよう,弟子たちに警告されたばかりのところでした。彼らは神の崇拝の家に対する純粋の敬意に欠けていました。反対に彼らは,自分自身に注意を引いて,自分の利益のためにそれを利用しようとしました。神殿の中でイエスは,富んだ人々がささげ物を納金箱に入れるのを見ておられました。またある貧乏なやもめが,ごくわずかな価しかない小さな硬貨二枚を入れるのもご覧になり,それに弟子たちの注意を引いて言われました。「あなたがたに真実をこめて言いますが,このやもめは,貧しいとはいえ,彼ら全部より多く入れました。これらの者はみな自分の余っている中からささげ物を入れましたが,この女はその乏しい中から,自分の持つ暮らしのもとすべてを入れたのです」― ルカ 20:45-47; 21:1-4。

      2 ごくわずかな価値しかない小さな硬貨二枚を入れたその女は,「彼ら全部より多く入れました」とイエスが言われたのは,たいへん興味深い事柄です。イエスはその女が神殿の価値を正しく評価していたことをご存じでした。神殿は手入れを必要とすることを彼女は知っていたので,その維持費にと思って寄付したのです。『十分のものを持たない彼女は,生活費全部をささげた』のです。(新英語聖書)この貧乏なやもめにそのような認識を示させたその神殿はどんな存在だったのでしょうか。

      3 神殿は,このやもめにその価値を認識させたどのような存在でしたか。

      3 ユダヤ人が,真の崇拝に関係した祝祭を祝うために,少なくとも年に三回,イスラエルの各地方から集まったのはこの場所でした。そのやもめが,犠牲を携えてきて,自分の罪の許しを請い,また感謝を示すためにそれをエホバにささげることを,祭司たちに頼むことができたのもここでした。神のことばが読まれ説明されるのを聞くことができたのもここでした。エホバに関し,またエホバの律法が自分の生活にどのように影響するかについての質問の答えを得ることができたのもここでした。この場所で彼女は,神の会衆の年長者たちややはり崇拝のためにここに来る友だちと,楽しい交わりを持つことができました。彼女は神殿の価値に対して深い認識を持っていました。神は必要なものを備えてくださるという信仰を抱いていたので,生活に必要な物資を得る心配よりも,エホバの崇拝のためになる事柄のほうを第一にしました。マタイ 6:31-33と比べてください。

      4 神の偉大な霊的神殿とは何ですか。わたしたちはそれをどう考えるべきですか。

      4 一時,地上におけるエホバの崇拝の中心であったそのエルサレムの神殿は,今はもうありません。神に仕えると主張する人々によって悪用され,卑俗なもののように扱われたので,神はローマ人がその神殿を破壊することを許されました。しかしその地上の神殿は,人間が理解できる方法で,神の偉大な霊的神殿を表わしていました。この神殿は神の霊の建築物で,地上にいる人間はこれを通し,罪を贖うイエス・キリストの犠牲の価値に基づく崇拝において,天に住まわれる神聖にして目に見えない神に近づくことができます。わたしたちがエホバに賛美の犠牲をささげ得るのは,この神殿の地上の中庭においてです。(ヘブライ 13:15)そしてわたしたちが神の道に関して教えを受けるのは,この霊的神殿を通してです。わたしたちはその神殿の価値を十分に認識しているでしょうか。エホバの家について次のように述べた詩篇作者ダビデと同じように感じているでしょうか。「わたしは一つの事をエホバに願った。わたしはそれを求めている。わたしの命の日の限り,エホバの家に住むことを。エホバの麗しさを仰ぎ見,感謝をもってその神殿を見る,そのために」― 詩 27:4,新。

      5 会衆の集会に定期的に出席することは,エホバの霊的神殿に対するわたしたちの態度をどのように反映しますか。

      5 もしそうであれば,わたしたちは,エホバの崇拝者たちが会衆の集会で集まる時に,彼らとともに定期的に集まるでしょう。エホバの神殿は,彼らが集会を開く王国会館のことではありません。しかし,昔エルサレムの神殿で行なわれたように,神のことばが読まれ話されるのを聞くことができるのはそこです。神のことばの助言を自分の生活にどう当てはめるかを彼らが学ぶのはそこにおいてです。その場所で彼らは,霊的に年長である人々や他のエホバの崇拝者たちとの交わりを楽しみます。彼らは,こうした集会に出席し,神のことばから学ぶ事柄によく注意を払いかつそれを熱心に行なうことによって,自分がエホバの偉大な霊的神殿の価値を本当に認めていることを実証します。あなたはこうした神の事柄の価値を正しく評価しますか。各個人はみな,神の民と共に義の道を歩むか,あるいは世と交わって不義の道を歩むか,どちらの道に行くことを望むかを決定しなければなりません。あなたは何を高く評価しますか。何を大きな価値のあるものとして尊重しますか。―ヨハネ第一 2:15,17。

      「価の高い真珠」

      6 神の王国に対して真のクリスチャンが持たねばならない認識の深さを,イエスは例えでどのように示されましたか。

      6 弟子たちが,最も大きな価値を持つもの,すなわち神の事柄に対する正しい認識を培うのを助けるために,イエスはしばしば例えをお用いになりました。ガリラヤにおられた時のこと,イエスは彼らにこう言われました。「天の王国はりっぱな真珠を探し求める旅商人に似ています。価の高い真珠を一つ見つけると,去って行って自分の持つものすべてを即座に売り,それからそれを買いました」。(マタイ 13:45,46)真珠の価値をよく知っていた商人がいました。彼は,「価の高い」特殊の「真珠」を一つ見つけた時,それを自分の全財産よりも高く評価しました。そしてその最上等の「価の高い真珠」一つを買うために金目の持ち物をすべて即座に売りました。神の王国に入ることを願う人々は,神の王国に対してそこまで深い認識を持ち,神の王国をそこまで高く評価しなければなりません。―ルカ 13:24と比べてください。

      7 イエスは王国に対するご自身の認識をどのように示されましたか。

      7 それを行なう点でイエスご自身は確かに模範を示されました。イスラエルの地を端から端まで徒歩で旅をしながら,「天の王国は近づいた」と宣べ伝えられました。(マタイ 4:17)イエスは,他の者たちもこのふれ告げるわざにあずかるよう訓練し,遣わされました。(マタイ 10:7)また使徒たちに,彼らが天の王国にイエスと共にあずかるということを告げられただけでなく,彼らにそれが可能となるよう,ご自分の命を犠牲にされました。(ルカ 22:19,20,28-30)聖書の示すところによると,キリストの王国において,キリストの共同相続者となり,キリストと共に千年の間支配する人々の数は,14万4,000人です。しかも地上には,その王国の忠節な臣民であることを示す数えきれない「大群衆」のいることが示されています。―啓示 7:4-10; 14:3-5; 20:6。

      8,9 (イ)キリストの共同相続者になる人々にとって神の王国はどれほどの意味を持つものでなければなりませんか。(ロ)パウロは,神の王国について彼がどう感じているかを示すどんなことばを述べましたか。(ハ)王国の臣民として地上の命を望む人々にもそのような献身が要求されますか。

      8 彼らにとって神の王国はどれほどの意味を持つものでなければならないでしょうか。キリストと共に天の王国を得る人々は,最後には,地上の財産をすべて,自分から進んであとに残してゆかねばなりません。天の王国に達するには,自分の命を捨てるところまでゆかねばなりません。しかし彼らは,そのためには死ぬこともいとわないという気持ちを持っていなければならないだけでなく,その王国のために生きることもしなければなりません。(ルカ 12:31)キリストに見倣って,その王国の良いたよりを宣べ伝える者でなければなりません。天の王国でキリストと結びつくことが自分にとってどれほど大きな意味を持つかを示して,使徒パウロは次のように言いました。「わたしは……わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに,いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに,わたしはすべてを失ったが,それらのものを,ふん土のように思っている。それは,わたしがキリストを得るためであり,律法による自分の義ではなく,キリストを信じる信仰による義,すなわち,信仰に基づく神からの義を受けて,キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち,キリストとその復活の力とを知り,その苦難にあずかって,その死のさまとひとしくなり,なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか,すでに完全な者になっているとか言うのではなく,ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは,キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち,後のものを忘れ,前のものに向かってからだを伸ばしつつ,目標を目ざして走り,キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」。(ピリピ 3:8-14,口)そうです,パウロは神の事柄の価値を本当に正しく評価していました。あなたもそうですか。

      9 天の王国において場を得る人々が,自分の所有する何物よりもその王国を重要なものとしていることを証明しなければならないのと同じく,その王国の地上の臣民として永遠の命を与えられる人々も,そのすばらしい見込みに対する認識の深さを実証しなければなりません。彼らがそれについて本当にどう感じているかは試されます。なぜでしょうか。

      反対に直面して堅く立つ

      10 (イ)本当に神の王国を支持するならば,世の手にかかってどんな経験をしますか。(ロ)使徒たちはそのような迫害に対してどんな反応を示しましたか。なぜですか。

      10 神の王国に対する信仰を実際に発揮して,公に神の王国を宣べ伝える人はだれでも,世の反対に遭います。イエスは,この事物の体制の終結について弟子たちに語られた時,そのような反対のあることを覚悟させ,こう言われました。「人びとはあなたがたに手をかけて迫害し,あなたがたを会堂や獄に引き渡し,あなたがたはわたしの名のために王や知事たちの前に引き出されるでしょう。それはあなたがたにとって証しの機会となるのです」。(ルカ 21:12,13)使徒ペテロはイエスがそう言われるのを聞いた人のひとりであり,彼自身迫害を経験しました。彼と他の使徒たちはユダヤ教のサンヘドリンの前に連れ出されました。大祭司は彼らに質問して言いました。「この名によってもう教えてはならないときっぱり命じておいたのに,見よ,あなたがたはエルサレムをあなたがたの教えで満たしてしまい,しかも,この人の血をわたしたちにもたらそうと決めている」。「ペテロとほかの使徒たちは」ためらうことなく,エホバ神とそのみ子イエス・キリストを代表する特権を十分に認識しつつ言いました。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」― 使徒 5:27-29。

      11,12 (イ)神に奉仕するがゆえにわたしたちに臨む「試練」とその結果をどう見るよう使徒ペテロは勧めましたか。(ロ)「大患難」が近づいているとき,アブラハムとモーセの模範は,わたしたちが正しい観点を保つのに,どのように助けになりますか。

      11 ペテロは,神への奉仕に対する正しい認識を養いつつあった人々を元気づけ励ますために,彼らが受けるであろう火のような試練の結果について論じ,次のように書きました。「今しばらくの間,必要ならば,さまざまな試練のもとで苦しむが,このことのゆえに大いに喜んでいる。金でさえ,金を試す者の火の中を通る。朽ちる金よりもさらに貴いのは試練に耐えた信仰である。こうした試練が臨むのは,イエス・キリストが現わされるときに,あなたがたの信仰が,あらゆる賛美と栄光と誉れに価するものとなるためである」― ペテロ第一 1:6,7,新英語聖書。

      12 神の事柄を本当に尊重しているなら,人は,真理を語れば「試練」を受けるかもしれないというだけの理由でしりごみしてそれを語らない,というようなことはしません。イエスが迫害されたように,その追随者たちも迫害されるということを知っています。「試練」は永久に続くものではないということに気づいています。試練には初めがあり,終わりがあります。金を試す者の火の中に入れられた金が,いつまでも入れられたままにされずにそこから取り出されるのと同じく,クリスチャンも迫害のさなかから出て来ます。しかし,そのようにして試された彼らの信仰は,朽ちる金よりもはるかに貴いものです。アブラハムは,おいのロトが異教徒の王たちによって連れ去られたことを知ったとき,エホバへの信頼を示すことをひるみませんでした。彼は全き信仰をもって行動し,そのために祝福を受けました。(創世 14:13-20)モーセも,エジプトの宮廷の高い地位で育ちましたが,自分の信仰は,アブラハムの神エホバにあることを実証しました。「信仰によって,モーセは,成人した時,ファラオの娘の子と呼ばれることを拒み,罪の一時的な楽しみを持つより

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