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  • 感謝の気持ちはどうなりましたか
    ものみの塔 1982 | 10月1日
    • 感謝の気持ちはどうなりましたか

      12歳の男の子が台所でいやいやながら皿をふいていたとき,大皿が手を滑って床の上に落ち,割れてしまいました。一瞬沈黙が続きましたが,その沈黙はたいへん長いものに思われました。やがて母親が言いました。「ロバート,あなたは今までずっと皿ふきを手伝ってくれたけれど,お皿を落としたのはこれが初めてね。記録的なことだと思うわ」。

      すると少年の心配そうな表情は消え,母親を見てにっこり笑いました。時にかなった母親の感謝の言葉一つで,息子も母親もその日一日,不愉快な気持ちで過ごさずにすみました。賢人ソロモンの言葉はまさに至言です。「適切な時に話される言葉は,銀の彫り物の中の金のりんごのようだ」― 箴言 25:1,11。

      「感謝の念を全く持たなくなる」

      ひとことかふたことのほめ言葉や感謝の言葉は本当に心温まるものです。しかし,感謝はどこへ行ってしまったのでしょう。物質主義的な今日の社会では,誠意のこもった感謝の表現が次第に見られなくなっています!「自分が第一」という態度が感謝の気持ちに取って代わりつつあります。多くの人の語いの中には,「ありがとうございます」という簡単な言葉がありません。このような状態は,使徒パウロの次の言葉の成就なのです。「しかしあなたは,終わりの日が危険に満ちた時代になることを悟らなければならない。人々は全く自己中心的になる。……彼らは感謝の念を全く持たなくなる」― テモテ第二 3:1-5,フィリップス訳。

      また,お世辞が感謝の言葉に取って代わることも少なくありません。感謝の表現は私心のない,心から出るものです。しかしお世辞は,誠意がなく,大げさで,人に先んじよう,何らかの個人的な利益を得ようという下心から出るのが普通です。(ユダ 16)心にもないお世辞を聞きたいと思う人がいるでしょうか。しかし,純粋な感謝の言葉はまた別です!

      作家のマーク・トウェーンは,「優れた賛辞を受けるなら,2か月は飲まず食わずでも生きてゆけるくらいだ」と言ったことがあります。大抵の人は心から出たほめ言葉をうれしく思うものです。実際,ほめられたり,誠意のこもった感謝の言葉を述べられたりすると,これからも最善の努力を払おうという気持ちになり,また機会があれば自分もほかの人々をほめ,また感謝の言葉を述べようという気持ちになります。

      心から感謝することが敬虔な美徳であることは聖書中の多くの言葉から見て明らかです。例えば,数々の詩編には感謝の表現が織り込まれています。その一例として,詩編作者ダビデは,一生涯エホバ神の崇拝の家に住み,「感謝の思いを抱いて」神の神殿を見つめることができるようにと祈っています。(詩編 27:4)別の詩編作者アサフは「神よ,わたしたちはあなたに感謝し,あなたに感謝をささげます」と述べています。(詩編 75:1)それでわたしたちがこの感謝の思いを表わすという問題について考えてみるのはよいことです。

      では,どうすれば他の人々に感謝を示すことができるでしょうか。また万物をお造りになった方に対して感謝を示すことについてはどうでしょうか。

  • 「ほかの九人はどこにいるのですか」
    ものみの塔 1982 | 10月1日
    • 「ほかの九人はどこにいるのですか」

      感謝を表わす人とそうすることを怠る人との対比を見事に示しているのは,聖書に出てくる,イエス・キリストにいやされた10人のらい病人の話です。人に近付くことを律法で禁じられていたそのらい病人たちは,ある村に入って行かれるイエスに大声で,わたしたちに憐れみをおかけください,と嘆願しました。イエスは彼らがらい病人であることをご覧になり,「行って,自分を祭司たちに見せなさい」と言われました。それからどうなったでしょうか。霊感による記録にはさらに次のように述べられています。

      「すると,出かけて行く途中で,彼らは清められたのである。そのうちの一人は,自分がいやされたのを見て,大声で神の栄光をたたえながら戻って来た。そして,イエスの足もとにうつ伏して感謝した。しかも,それはサマリア人であった。イエスは答えて言われた,『十人が清められたのではありませんでしたか。では,ほかの九人はどこにいるのですか。神に栄光を帰するために戻って来たのは,この他国の人のほかにはだれもいなかったのですか』」― ルカ 17:11-19。

      『十人全部がいやされたのに,感謝を表わしたのがたった一人とは何と情けない!』と,わたしたちは言うかもしれません。確かに,イエスが言われたことや,「ほかの九人はどこにいるのですか」という質問が暗示する教訓は,だれもが心に銘記すべき事柄です。わたしたちはこの話を読むとき,感謝を表わすようにしようという気持ちになるはずです。

      家族の者に感謝の気持ちを表わす

      友人や家族の者を含め,他の人々に対して感謝の気持ちを表わす機会はたくさんあります。思い掛けない贈り物をもらったとか,友人が訪ねて来てくれたとか,おいしい食事が準備されたとか,衣服を洗ってアイロンをかけてもらったなど,ちょっとした事柄も感謝を表わすよい機会です。

      子供の皆さん,あなたはお父さんとお母さんに感謝の気持ちを表わすことができます。どのようにして? 言い付けられている仕事をぶつぶつ言わずにすぐにします。自分の部屋をいつもよく整とんし,着る物をきれいにしておきます。それからまた,授業の時でも宿題をしている時でも,それに打ち込むことによって,教育を受けさせてもらっていることに感謝を表わせます。ある国では,一人の子供を18歳まで育て上げるのに1,240万円ほどかかると考えられています。お父さんとお母さんがあなたのためにしてくださった多くのことに対して感謝の気持ちをこのまえ言い表わしたのはいつのことでしたか。

      親の皆さん,子供がする事に感謝を表わしますか。子供は大人のようにうまくはできないかもしれません。でも,子供の努力に対してひとこと感謝の言葉を述べるなら,子供は喜ぶでしょう。子供はそれに励まされて,これからはもっと上手にしようという気持ちになるでしょう。

      夫の皆さん,“女の仕事にはきりがない”ということわざを覚えていますか。家事がつらい仕事に思えないように,奥さんをほめますか。聖書は「有能な妻」について次のように述べています。「その子らは立ち上がって彼女を幸いな者と言った。彼女を所有する者も立ち上がり,これを称賛する。有能さを示した娘は多くいる。しかしあなたは ― あなたはそのすべての者よりも優れている」。(箴言 31:10,28,29)夫は,一晩一緒に外出するとか,愛情のこもった身振りを示すなど,多くの方法で妻に感謝の気持ちを表わすことができます。

      妻の場合にも感謝の気持ちを表わす機会がたくさんあります。生活に必要なものを得るため,夫は大抵,様々な気質や習慣を持つ人々と一緒に働かなければなりません。それはたいへん気骨の折れることがあります。ですから家に帰った時,温かく迎えられ,家族のために自分がしていることに妻が少しの感謝の言葉を述べてくれるなら,どんなにか心が温まることでしょう。そして夫は,有能な ― そして感謝の念の深い ― 妻を持っていることを本当に有り難く思うでしょう! 聖書は次のように述べています。「その価はさんごよりもはるかに貴い。彼女を所有する者の心はこれに信頼を置いた。そして,収益に欠けることがない。彼女はその命の日の限り,悪ではなく,善をもって彼に報いた」― 箴言 31:10-12。

      年を取った親もこの問題に関係してきます。年を取った親は何年もの間,子供たちのために多くのことを行なってきました。子供は「エホバからの相続物」ですが,子供たちを育てるということは重い責任です。(詩編 127:3)実際,それは20年にわたる訓練計画と呼べるでしょう。しかし,その長い年月の間の奉仕と自己犠牲に対し親に感謝しようとしない子供は少なくありません。非常に多くの場合,年を取った親は老人ホームに押しやられています。もちろん,場合によっては,そのような所で専門家の世話を受ける必要もあるでしょう。しかし,どんなによく訓練されていても,他人であるその人たちだけが世話をするのでは,お年寄りは自分の家族と一緒にいる場合のようなわけにはいきません。ですから,親を呼んで一緒に住む必要が生じ,そうすることが可能な場合にそれを実行するのは,年老いた親に対する感謝の気持ちを表わす非常に優れた方法です。そのことを使徒パウロはこのように述べています。「次のことを忘れてはなりません。もしやもめに子供か孫かがいるなら,自分たちのためにしてくれた事柄に対して親に報い,自分自身の家庭で自分たちの宗教の純粋さを示すことは元来彼らの義務です。神はそのような奉仕を喜んで受け入れてくださるのです」。(テモテ第一 5:3,4,フィリップス訳)もちろん,年老いた親や祖父母も協力の精神を示し,自分たちのために行なわれる事柄に対して感謝の気持ちを表わさなければなりません。

      家族外の人々

      家族の者が,こちらの言ったこと,またはしたことに対して感謝の気持ちを表わすなら,心温まる思いがするものです。同様に,家族以外の人々がわたしたちにしてくれたことや言ってくれたことに対して感謝を表わすなら,やはり心温まるものになるのです。そのようにして感謝の気持ちを表わす機会は非常に多く,それらを全部挙げる方法は実際にありません。

      あなたは最近,個人研究やエホバの証人との交わりを通して聖書の理解を深めるようになられたかもしれません。神の言葉の知識を得ることは霊的に報いのあることではありませんか。もちろんあなたはそのことに感謝しておられることでしょう。またあなたのクリスチャンの仲間はどうでしょうか。聖書によると,エホバ神は「あらゆる国民を激動させ」られ,あらゆる国民のうちの「望ましいもの」がエホバの崇拝の家に入って来ます。その「望ましいもの」とは,「エホバの家の山」に流れのように向かう,今「霊と真理をもって」エホバを崇拝している人々のことのようです。(イザヤ 2:2-4。ハガイ 2:7。ヨハネ 4:23,24)彼らは愛が深く,正直で,廉直で,神と神の義の原則に全精力をささげています。考えてみてください。無情で,不正直で,感謝の念のないことを特徴とする世の中で,敬虔な思いを抱くすばらしい仲間を持つ特権を与えられているのです。(テモテ第二 3:1-5)その人々との交わりに深く感謝すべきではないでしょうか。確かにそうです。

      他方,わたしたちは長年の間クリスチャンとしての生き方を追い求めてきたかもしれません。もしそうであれば,かなりの期間,忠実なクリスチャンの仲間となってくれた人たちのことを考えてください。その人たちが示してくれた数々の親切な行為に対し,言葉と行ないで感謝の気持ちを表わすのは良いことです。その人々の家にお客として招かれたことがあったでしょうか。あるいは食事を共にしたことがありますか。もしそうであれば,口で感謝の言葉を述べるほかに,感謝の意を表わす短い手紙かはがきを書くのもよいのではないでしょうか。

      誠意のこもった感謝を表わすことによって,自分も他の人々も幸福な気持ちになる方法をそれぞれたくさん見付けだせるはずです。ですから,本当に感謝の念を抱いていたあのいやされたらい病人のようになりましょう。らい病をいやされながら,イエスから,「ほかの九人はどこにいるのですか」と言われた他の者たちのような恩知らずにならないようにしたいものです。

      わたしたちが仲間の人間に対して感謝の気持ちを表わすべきことは明らかです。しかし万物をお造りになった方に対してはどうでしょうか。(啓示 4:11)その方に感謝すべきどんな理由がありますか。わたしたちはエホバ神に対してどのように感謝の気持ちを示すことができますか。

  • 神に感謝を表わす
    ものみの塔 1982 | 10月1日
    • 神に感謝を表わす

      エホバよ我ら感謝せん なが光注ぎたもう

      祈りもてなれに頼る この特権感謝せん

      エホバよ我ら感謝せん み子死に勝ちたまえり

      我に誓い果たさしむ 導きに感謝せん

      エホバよ我ら感謝せん まことの友賜えり

      忠実保つを助く なが霊に感謝せん

      感謝せんみ名と真理 伝うは我が誉れよ

      悪は去りなれの恵み とわならん感謝せん

      これは「エホバよ,わたしたちは感謝します」という歌の歌詞です。『心の調べに合わせて歌う』という出版物,つまりエホバの証人の用いる歌の本に載っています。この歌には,エホバに感謝を表わしたいという証人たちの気持ちがよく表われています。この願いは,「心の調べに合わせてエホバに歌い,わたしたちの主イエス・キリストの名により,常にすべての事に対してわたしたちの神また父に感謝をささげなさい」という聖書の勧めと一致します。(エフェソス 5:18-20)では,エホバ神に感謝し,その感謝を表わすどんな理由がありますか。

      なぜ神に感謝を表わすか

      まず命そのものが神からの贈り物で,これに対して感謝できます。事実,エホバは良いもの,有益なものをすべて備えてくださいます。(使徒 17:24,25)先に引用した歌の中では次のような良いものが取り上げられています。貴重な霊的光(詩編 43:3。ヨハネ 17:3)。祈る特権(箴言 15:8)。神のみ子イエス・キリストの,罪を贖う犠牲(ローマ 6:23。ヨハネ第一 2:1,2)。神のご意志を行なう際に与えられる聖書からの導き(詩編 40:8; 119:9-16,105)。愛に富むクリスチャンの兄弟たち(ペテロ第一 2:17)。人を導く神の聖霊,すなわち活動力(詩編 143:10)。地の災いに取って代わるとこしえの王国の祝福(マタイ 6:9,10。啓示 11:15-18; 12:9-12)。エホバの証人は会衆の集会で歌う時に,こうした事柄を神に感謝します。

      神に感謝を表わすべき理由は非常にたくさんあります。よく晴れたさわやかな朝に目を覚ますことを考えてみるとよいでしょう。太陽は明るく輝き,小鳥たちのさえずる声が聞こえてきます。花や刈ったばかりの干し草などの甘い香りが漂ってきます。胸が弾んで思わず,「生きているって,すばらしいことだ!」と言うかもしれません。しかし,こうした事柄すべてを可能にしてくださった方に対して感謝を表わすのは本当にふさわしいことです。

      神は,人類を益し,楽しませるために実に多くの備えをしてくださいました。光を与えてくれる太陽や月や星のことを考えてみてください。呼吸に必要な空気,そして空気をきれいにする植物があります。エホバは食物と水を豊かに備えてくださいました。また,田園地方を通る旅行を非常に楽しいものにしてくれるたくさんの鳥や動物のことを考えてみてください。(ヨブ 37:5-16。詩編 8:3-9。使徒 14:15-17)さらに神は,わたしたちがこうした備えを存分に楽しめるように,視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚などを与えてくださっています。わたしたちは本当に感謝しなければなりません。

      献身したクリスチャンにとって中でも非常に重要なのは,エホバの霊的な備えです。そのうちの幾つかは,冒頭に引用した歌に取り上げられています。そのような霊的祝福に対して神に感謝するのは確かに正しいことです。

      霊的なものと物質的なものとを問わず,エホバ神が豊かに与えてくださるものすべてについて常に黙想するのもよいことです。そのような黙想は何かを行なうようにわたしたちを動かすに違いありません。わたしたちは言葉と行ないによって神に感謝を表わすように鼓舞されるでしょう。―詩編 1:1-3; 77:11,12。

      感謝を表わす言葉と行ない

      誠意のこもった祈りは,「あらゆる良い賜物,またあらゆる完全な贈り物」の与え主に感謝を表わす一つの明白な方法です。(ヤコブ 1:17)では,わたしたちは祈りの中でいつも神に感謝しているでしょうか。きっと,次のように語った詩編作者ダビデ同様,神に感謝するよう,心を動かされることでしょう。「わたしの神エホバよ,あなた自ら多くのことを行なわれました。すなわち,あなたのくすしいみ業と,わたしたちに対するそのお考えとを。あなたに比べられるものは何もありません。それについて語ったり話したりしようとしても,それは語り尽くすことができないほど多くなりました」― 詩編 40:5。

      ダビデはまた,ほかの人々に語る言葉によっても神への感謝を表わす決意をしていました。ですからダビデは,「エホバよ,わたしは心をつくしてあなたをたたえます。わたしはあなたのくすしい業をすべて告げ知らせます」と述べました。(詩編 9:1)「エホバよ,わたしたちは感謝します」という歌の歌詞も同様に,「感謝せんみ名と真理伝うは我が誉れよ」となっています。神について他の人々に語り,口頭で神の言葉の真理を人々に分かつことは,確かに,神に対する感謝の気持ちを表わす最善の方法と言えるでしょう。

      自分がいやされたことに対して感謝の意を表わすために戻って来た,あの一人のらい病人のことを思い出しましょう。そのらい病人はどのように感謝を表わしたでしょうか。こう記されています。「そのうちの一人は,自分がいやされたのを見て,大声で神の栄光をたたえながら戻って来た。そして,イエスの足もとにうつ伏して感謝した」。(ルカ 17:15,16)その人は,自分がいやされたことをイエスに感謝しただけでなく,命と真のいやしの源である神の栄光をたたえました。しかも「大声で」神をたたえたのです。何週間も,いえ,何か月もエホバをたたえ,そのことについて語り続けたに違いありません。この例から,エホバについて見,聞き,学んだ事柄を語ることによってどのように感謝の気持ちを表わせるかがよく分かります。

      エホバの証人が家から家を訪ねる基本的な理由はそこにあります。神に対する感謝の念に動かされて,良い業,敬虔な行ないに携わるのです。(ヤコブ 2:26)これらの業には,神の王国の良いたよりをふれ告げることが含まれます。エホバの証人は,神の言葉である聖書から自分の学んだ事柄を他の人々に告げ,またこの知識を通してどのように将来に対する希望を得たかを説明したいという強い願いを抱いています。感謝の念の深いあのらい病人のように,彼らも神の栄光をたたえたいと思っています。

      あなたも,聖書から学んだ事柄を幾らか話してみたいという気持ちがありますか。そのような気持ちを抑えないのはよいことです。家族の方たちや,近所の人たち,職場の仲間や友人に話すことから始めることができます。そのようにするなら,あなたは霊的な事柄に対する自分自身の感謝や理解が深まり,もっと学びたいという意欲が強くなるのに気付かれるでしょう。聖書の箴言には,「賢い人に与えよ。そうすれば,彼はさらに賢くなるであろう。義なる者に知識を分け与えよ。そうすれば,彼は学識を増すであろう」と述べられています。(箴言 9:9)幾百万もの人々は心を動かされ,この方法で神に対する感謝の気持ちを表わし,エホバの証人としてそれを行なっています。

      ですからわたしたちが神と仲間の人間に対して感謝の気持ちを表わすことができ,また表わすべきであることは明らかです。わたしたちは祈りによって,また歌で神をほめたたえることによって,神に対する感謝を表わせます。とりわけ,エホバのすばらしいみ業について他の人々に語ることにより,エホバ神に対する感謝を表わすことができます。

      万物をお造りになった方のご意志を学びまた行なうために援助を希望されるなら,エホバの証人はすぐにお手伝い致します。ですからあなたも証人たちと共に,神に対する心のこもった感謝を示すことからくる喜びを味わうことができます。

      [7ページの図版]

      「生きているって,すばらしいことだ!」

  • 人をからかうのは善いことですか,それとも悪いことですか
    ものみの塔 1982 | 10月1日
    • 人をからかうのは善いことですか,それとも悪いことですか

      あるドイツ人の夫婦に5人の子供がいました。一番上と一番下が女の子で,間の3人は男の子でした。一番年上の男の子は姉をからかうのが好きでした。母親はしつけの厳しい人でしたが,姉のほうが弟に悩まされて母親に言い付ける度に,バスジッヒリープト,ダスネクトジッヒ(“人は自分の好きな人をからかうもの”)というドイツのことわざを思い出させるだけでした。言い換えれば,人をからかうのは親愛の情の表現,相手に好感を持っていることの表われだということです。その通りかもしれません。

      しかし,人をからかうにも,もう一つ別の種類のものがあります。年配のあるクリスチャンの奉仕者は,結婚式を執り行ない,新郎新婦に対して話をする際に,次のような助言を与えます。『とりわけ人前で互いにからかい合うのはよくないことです。害のない,ちょっとした座興のように思えるかもしれませんが,からかわれたほうには,傷付けられたような,きまりの悪い,または軽べつされたような気持ちが必ず残るものです』。

      人をからかうにも確かに良い仕方と悪い仕方があります。前述の例や,この語の定義からもそのことは明らかです。その定義を幾つか挙げると次の通りです。『人を悩ます。親しみを込めて,あるいは愛想のつもりで冷やかす。相手が気を悪くしないような冗談を言う。冗談を言って悩ませ,あるいは疲れさせる。しつこくせがむ。困らせる』。人をからかうことが善いか悪いか,またほしいままに人をからかい悩ませてよいものかどうかは,その場の状況とからかい方によります。

      子供たちが人をからかい悩ませるとき

      多くの子供たちは思いやりがないために,先天性疾患や事故のために身体に障害があったり,不利

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