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    目ざめよ! 1980 | 9月22日
    • 同性愛 ― ひとつの生き方としてどれほどの報いがあるか

      「同性愛行為を行なうようになる事情が選択の問題であることは,たとえあるとしてもきわめてまれである」。これは英国諸島におけるローマ・カトリック教会の公式発表です。

      このような考えに直面して,多くの人は絶望します。同性愛の生き方に巻き込まれると,もう変化は全く不可能なんだと考えるからです。しかしそうではありません。クリスチャンの見地からは,神の助けがあれば何も不可能ではありません。そのことを使徒パウロは次のように述べています。「自分に力を与えてくださるかたのおかげで,わたしはいっさいの事に対して強くなっているのです」― フィリピ 4:13。

      次の記事を寄稿した英国諸島のある人の個人的な経験を考慮し,あなた自身の評価を下してください。

      私はいつも異性との交際を楽しんできましたし,10代の時にはガール・フレンドもありました。それでも,同性に対して魅力を感じました。が,同性愛などは若い時でさえ,考えただけでぞっとしました。特にそれが生涯を通じてもたらすであろう様々な結果をよく考えると,同性愛がよいとは思えませんでした。

      1950年代には“ホモ解放”運動は知られていませんでした。しかし,60年代の初めまでに新しい精神が発達しはじめ,同性愛に反対する人はそれほど多くなくなりました。いずれにしてもロンドンのような大都市では同性愛は他の所よりもよく受け入れられていました。それでも私は,提供される多くの機会を退けて,同性愛を避けていました。

      同性愛,しかし偽善的でない

      非常に多くの若い人々がそうであるように,私は理想家でした。私は道徳と規準を持った良い世界を夢想していました。しかし社会に出て初めて世の現実に直面するようになりました。私は世が腐敗しているのを知りました。自分はまじめでまともな人間だと言う人々でさえも,多くの点でしばしば非常に不道徳な行ないをしていました。

      自分が持っていた青年特有の理想は明らかに達成されそうにもないので私は,「なんだ。同性愛行為をしないからといって何も得るところはないじゃあないか。いっそ自分も同性愛者になって思いきりおもしろく暮らしたほうがいいかもしれない」と考えたのを覚えています。こう心に決めた私は,その後何年も続くことになる人生行路のスタートを切りました。

      最初から手の内を見せて,「そうさ,おれはゲイなんだ。それだけさ」と言えたので,いくぶん気持ちが楽でした。私の生き方を不道徳とみなす人が実際にいたとしても,別の面で堕落した生き方をしている人々より悪いとは少しも感じませんでした。少なくとも,表面を装って生きようとする偽善者のようではないので,ある点では,むしろ自分の方がましだと感じていました。いったん同性愛者になってしまったあとは,だれに知られようが気にしませんでした。機会はいくらでもあり,反対する者もいませんでした。

      性交渉が気まぐれで,恋愛関係がこわれやすいのは“ゲイ”の社会では普通のように思われました。それで,自分を出世させてくれるような人たちとの関係を深める方が自分にとって得策であることが,そのうちにはっきりわかってきました。多くの“ゲイ”はそのようにしており,ある程度魅力的であれば,有力で富裕な人々からの誘いには事欠きません。結果として,私はいろいろな男友達に連れ出されて楽しく過ごしました。

      裕福な生き方

      ついに私は非常に金持ちのボーイ・フレンドを得ることに成功しました。彼は高価な服を買ってくれたり,お金など問題でない上流社会の生活を紹介してくれたりしました。彼はロンドンの高級住宅地にマンションを持っており,フランス南部にも一つ持っていました。私は海外でのぜいたくな休暇に連れて行ってもらいましたが,金持ちの有名人たちと交際するのは胸のわくわくするような経験でした。当時はまだ若かったので,すべてが新しく興奮をかき立てるものでした。

      ロンドンには同性愛者たちが会うことのできるクラブがたくさんあります。そういう場所で非常に多くの“上流社会”の人々と知り合いになれたのには驚きました。そういう人々の中には,銀行家,弁護士,政治家などもいました。こうした経験はすべて,いつまでも“ゲイ”でいようという気持ちを強く刺激するものになりました。

      宗教に関しては私は真剣に考えたことがありませんでした。何らかの至高の力があるにちがいないと思っていたので,決して無神論者ではありませんでしたが,そういう事についてはあまり考えませんでした。それは同性愛者がめったに論議しない問題であることに私は気づいていました。

      同性愛者であった間に,司祭や牧師から何度か言い寄られたことがあったので,宗教に関する限り,私には真剣に考える理由がありませんでした。私が見たキリスト教世界は,私が住んでいた世界と変わるところがなかったからです。

      “自由契約”の同性愛者としての生活

      しかし“ゲイ”の生活の魅力は長続きしません。よく知っていますが,“ゲイ”の生活は終わることのない若さと魅力を常に要求するので,多くの者が絶望し,自殺に追いやられる者もあります。ある標準に合った暮らしをし,人の心を引きつける魅力をいつも備えていなければならないとなると,容易ではありません。私は自分の場合も,魅力がしだいになくなり,容姿が衰え始めるなら,非常に多くの者たちがされたように捨てられ,ほうり出されて見向きもされなくなるということを知っていたので独立を選び,富裕なボーイ・フレンドと別れることに決めました。

      ぜいたくな生活の味をおぼえていたので,普通の生活様式に落ち着くのは容易ではありませんでした。どんな仕事をしても長続きしないことに気づいた私は,悪いグループに加わって成り行きまかせの生活をするようになりました。そしてついに自活の道として同性愛売春夫になってしまいました。

      同性愛者間の性病罹病率が乱行のために非常に高いことはよく知られています。ですからそういう者になったということは性病にかかる危険が非常に大きくなったことを意味しました。私のかかりつけの医者は同性愛者だったので(彼を選んだのはそういう理由からでした),この病気の処置には何の問題もないことを知っていました。それでも,売春夫の生活には性病以外に多くの危険があったので,だれにでも勧められるような生き方ではありませんでした。

      落ちついた“結婚”生活

      次の10年間共に暮らすことになる男性に会ったのは,私が人生のこの不幸な時期にあったときのことでした。この新しいパートナーとは最初から本当にうまくやって行けました。私は非常に彼が好きで,普通の結婚した夫婦と同じように一緒に家庭を築き始めました。私たちの関係はむしろユニークで特別なものと私たちはみていました。二人ともこれを珍奇とも奇妙とも感じていませんでした。

      二人の友として私たちはとても幸福でした。私たちの間には熱烈な深い愛情のある関係がありました。実際,その愛は私たちが観察した多くの異性愛者の間の愛よりも深いものだと私たちは感じていました。他の人とつきあおうと思えば機会はいくらでもあり,そうする誘惑も受けましたが,私たちは決して離れませんでした。彼と共にいたその10年間は,それまで私の生涯の中で最も幸福な時でした。

      真理の挑戦

      そうしたある日,私はものみの塔の出版物を一冊手に入れました。それを読み始めたときから,まさに最初の文章から,そこに書かれている事が真理であることに何の疑念も生じませんでした。ずっと読んでいっても,言われていることには文句のつけようがなく,したがって何の疑問も生じませんでした。私はそれまで聖書を研究したことはありませんでしたが,その出版物にはまさに真理の響きがあり,「これこそ真理にちがいない」と考えたことを覚えています。

      私は選択の自由があることに目を開かれました。聖書が人類に与えている希望を学んでいくにつれて,すべての事が全く新しい見地から見られるようになりました。私には物事を考えるための自由な時間はたくさんありました。振り返って見ると,自分では気づいていなかったものの,私が持っていたのは霊的欲求だったように思います。私がいつも感じていたのは,自分にとってもまた全世界の人々にとっても,もっとよい生き方があるにちがいないということでした。本当に目的があって満足のゆく,そして永遠の命を目標とした生き方を選ぶ機会があるということは,道理にかなったことに思えました。

      私は自分が人生の岐路に立っていることに気づくのに長くはかかりませんでした。研究によって聖書の真理に対する理解が深まるにつれ,自分の生き方を変えなければならないことを知りましたが,私はその挑戦に立ち向かうことができるでしょうか。

      私の人生における最大の決定

      そのころまでには,同性愛について聖書が述べている事をすべて知っていました。それ以前には聖書の言葉をつきつけられたことはありませんでしたが,本能的に,聖書が述べていることは正しいと感じました。私の生活は確かに不自然なものでした。しかしその生き方を変える気になるには非常に強い動機付けを必要としました。私をその気にさせたのは,エホバ神に対する私の成長してゆく愛でした。

      最初の反応は,連れ合いに神の方法を学ばせようとすることに現われました。彼にも生活の型を変えてもらいたいと思ったからでした。地元の会衆のエホバの証人たちは,しばしば食事や親ぼく会に私たちを招待してくれました。私たちはたいへん理解ある扱いを受けました。連れ合いも自分だけ取り残されていると考える理由は全くありませんでした。実際,私と同じくらい励まされていました。しかし悲しいことに,私が望んだようには真理を受け入れませんでした。

      私たちはついにマンションを二分して,それぞれ自分の部屋に住むようにしました。しかし間もなく,別れることが唯一の解決策であることを認めなければならなくなりました。どのようにして別れたらよいのでしょうか。「まあそれはエホバが可能にしてくださる」と考えたことを覚えています。私はエホバを信じていました。

      その時が来て,私たちは別れることになりました。それは私の性格の片側全部を切り取って,地面に置き去りにするようなものでした。

      信仰を固める

      「ひとたび同性愛者になると,もう足を洗うことはできない」と言われていますが,私もそれを聞いていました。しかし私の場合はそうではありませんでした。私はきっぱりとやめました。それでもなお私は生活の型を変える努力を続けなければなりませんでした。私の問題を理解してくださるエホバの豊かな包容力をいつも心に留めていたので,ほんとうに大きな安心感がありました。エホバだけが個人の事情と背景を知っておられて,環境その他から受けた害を考慮に入れながら,聖霊を通し,愛情をこめて導いてくださるのだということが一層よくわかるようになりました。

      圧力に屈しなければならないのではないかと感じる時が何度もありました。けれども非常に多くの点で真理から益を受けてきたことを私は知っていました。結局,性的欲求が人生のすべてではないのです。生活にはまだ非常に多くのことがあります。私は神の言葉の真理を得て,私の前に別の道が開かれ,自分のうちに変化を見たいという願いを抱くよう助けられていることに気がつきました。けれども,問題の解決には時間がかかります。同性愛も例外ではありません。

      使徒パウロは,コリント人への手紙aを書いた時,同性愛をはなはだしい罪の一つとして挙げましたが,それを唯一の罪としたり,その手紙の中で挙げられている他の罪より悪いものとして強調したりせずに,人間の他の重大な欠点と並べて記載しています。確かに,そのどれか一つにでも失敗すれば,それは神の不興をこうむることを意味します。しかし,自分の弱点を克服することに努める時,エホバは私たちを強めてくださるということを私は悟っています。即座によくなることを期待するのは間違いでしょう。しかし自制を働かせるようエホバの霊の助けを得て,私は,真理の道を歩み続けクリスチャンの忍耐を示すことが可能であることを学んでいます。―ローマ 5:1-5。

      エホバが私のような者でも用いてきてくださったこと,また不完全なところがたくさんあるにもかかわらず引きつづき強めてくださっていることを考えるとき,へりくだった気持ちにならずにはいられません。

      多くのクリスチャンの兄弟たちはよく励ましてくれ,とても親切です。エホバがそのみ言葉と霊とクリスチャン会衆を通して私に与えてくださった機会と導きを,私は本当に感謝しています。私の心からの願いは,命を与えるものとなるクリスチャン人格を身につけ,エホバのお名前に一層の賛美を帰するために生きることです。―エフェソス 4:22-24。

      [脚注]

      a コリント第一 6:9-11

  • 現代における同性愛者の“解放”
    目ざめよ! 1980 | 9月22日
    • 現代における同性愛者の“解放”

      英国では1861年まで,同性愛は死刑に値する罪でした。事実,同性愛行為のかどで投獄される可能性は,1967年というごく最近まで存在していたのです。西欧には同じような歴史を持つ国々がほかにもたくさんあります。

      しかし,近年になって法律も同性愛の受け止め方も大きく変わりました。例えばこれはカリフォルニア州でのことですが,サンフランシスコ市長選挙のときある候補者は,人口中同性愛者が占める数 ― 推定15% ― に応じて市会や委員会に同性愛者を任命することを約束しました。結果として,同性愛者たちは選挙でその婦人候補者を支持しました。

      現在では,世間で広く知られている有名人も,男女を問わずかなり公然と同性愛者になることができます。牧師の中にも自分が“ゲイ”であることを自ら認め,そのような生き方を何はばかることなく奨励している者が少なくありません。多くの人は同性愛をもはやかつてのように恥ずべき行為とはみなしていません。同性愛はある程度“世間体のよいもの”になりました。

      第一次世界大戦以来,キリスト教世界の司祭や牧師はその権威を問われています。人々はもはや教会の言うことを何の疑問も持たずにそのまま受け入れる気持ちはありません。特に道徳に関してはより大きな自由を要求してきました。

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