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ヱホバをよろこばす正確な知識ものみの塔 1956 | 8月1日
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年に誕生し,また地上における永遠の生命という見込を持つ忠実な『他の羊』級の存在していることを,認識しています。(黙示 12:1-5。ヨハネ 10:16)彼らの学んだそのような『他の羊』は,ハガイ書 2章7節で『万国の願うところのもの』と述べられています。ゼパニヤ書 2章1,2節についての彼らの理解は明白になりました。すなわち,それはヱホバの民にむかつて述べられた言葉でなく,キリスト教国に適用するものです。また今では次のことを悟つています,つまりペテロ前書 3章19節でイエスが『獄にある霊』に伝道したことは,タルタロスの霊的な暗やみに閉じこめられている不従順な霊者に裁きの伝道をしたのであつて,それはイエスが復活して昇天した後になされたにちがいない,ということです。全く,真の崇拝は停滞しているものでなく,また中世紀の宗教的な教義に束縛されるものでありません。真の崇拝は生きているもので,進歩的なものです。
15 どんな特性により,クリスチャンは他の者たちから特別に区別されていますか。その使用を指示するのに正確な知識が必要である,と何が示していますか。
15 イエスの弟子たちは,愛という特性により,他の者たちから明白に区別されるであろう,とイエスは言われました。(ヨハネ 13:35)しかし,人々にうけ入れられるためには,その愛を正しく導くことが必要です。『私はこう祈る。あなたがたの愛が,深い知識において,するどい感覚において,いよいよ増し加わり,それによつて,あなたがたが,何が重要であるかを判別することができ,キリストの日に備えて,純真で責められるところのないものとなり,』(ピリピ 1:9,10,新口)たしかに,クリスチャン愛は神の御意についての正確な知識と判別によつて,導かれねばなりません。そして,私たちはより重要な事柄に注意を向けるべきです。誰を先ず第一に愛さねばならないか,については,はつきりと次のように述べられています,『心をつくし,魂をつくし,思をつくしてあなた方の神であるヱホバを愛さねばならない。』さらに,イエスは,『自分自身のごとく隣人を愛さなければならない。』とつけ加えられました。(マタイ 22:37-39,新世。ヨハネ第一書 5:2,3; 3:14)しかし,古い世を愛すべきではありません。『世と世にあるものとを,愛してはいけない。もし,世を愛する者があれば,父の愛は彼のうちにない。』(ヨハネ第一書 2:15,新口)聖書によると,真の愛は『不義を喜ばないで真理を喜ぶ。』(コリント前 13:6,新口)それで,正確な知識を持つとき,私たちはヱホバ神と,ヱホバ神の認められる人々,そしてヱホバ神の愛せられるものを愛することができるようになります。また,正確な知識を持つとき,私たちは神に反対しているこの世に感傷的な注意を向ける,という罠を避けることができます。
16 もしヱホバをよろこばしたいなら,何が必要ですか。それを得るため,ヱホバはどのように御準備を設けられましたか。
16 もしあなたの創造主をよくよろこばしたいと望まれるなら,あらゆる機会を捉えて神の御言葉の正確な知識に進むようにしなさい。『これは,私たちの救主である神のみまえに良いことであり,また御こころにかなうことである。神はすべての人が救われて,真理の正確な知識に至ることを望んでおられる。』(テモテ前 2:3,4,新世)神は初期のクリスチャン会衆内に,使徒,予言者,そして宣教者を備えられましたが,それは宣教の業をなさせるために兄弟たちを訓練し,その業に対する備えができるよう彼らをして正確な知識に進ませるためでした。(エペソ 4:11-13)神は現在でも僕たちの必要物に考慮を払われ,真理を供給せられると共に,制度を備えられています。それは奉仕者である僕たちが自分の業にたいする準備を助けるためです。ヱホバを十分によろこばすため,あなたはヱホバの御意を正確に知らねばなりません。『あらゆる智恵において,また霊的な事柄の判別において,神の御意の正確な知識に充ちよ。それはヱホバにふさわしく歩み,そしてあらゆる良き業を行つて実を結び,神の正確な知識が増し加つて,ヱホバを全くよろこばせるためである。』(コロサイ 1:9,10,新世)ヱホバをこのようによろこばすため,あなたは御言葉を注意深く研究しなければなりません。この研究という事柄を考えるとき,どのように良い研究をし得るかを考えなさい。
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『山羊』と判断するのは早すぎるものみの塔 1956 | 8月1日
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『山羊』と判断するのは早すぎる
アリゾナにいる全時間奉仕者から次の手紙が送られてきました,『私に任命された区域では,家から家の伝道をする時に「山羊」ばかりいる,と聞かされていました。
『初めてこの区域の伝道にいつた時,どの人もみな私を断りました。2度目のとき,私は1冊の文書も携えず,また呼鈴も鳴らしませんでした。庭にいる人々に垣根ごしにお話ししただけです。新築中の家のところでは,私はその結構なことを賞め,いろいろのところから会話のいと口をつくりました。多くの人は,作物の
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