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自分たちの名前以上に神のお名前を尊ぶ民ものみの塔 1972 | 2月1日
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の神の大いなる日の戦い』におけるエホバの宇宙主権と神聖なるその名前の立証に向かって何ものにも屈することなく前進するさまをも目撃しています。西暦1914年以来,彼らは相当の迫害,そうです,「彼のための民」としての自分たちの存在そのものをさえ危うくする多大の脅威に耐えねばなりませんでした。しかし,今日に至るまでエホバが彼らを救出し,生き長らえさせてくださったゆえに,彼らはエホバのお名前をあらゆる所で知らせているのです。
9 黙示録 15章に描写されているように,油そそがれた残れる者はどんな歌を,どんなことばをもって歌っていますか。
9 神のことば聖書の巻末の書の中で描写されているように,この油そそがれた残れる者は「神の僕モーセの歌と羔羊[イエス・キリスト]の歌」をうたい,次のように語っています。「〔エホバ〕なる全能の神よ,なんぢの御業は大なるかな,妙なるかな,万国の王よ,なんぢの道は義なるかな,真なるかな。〔エホバ〕よ,たれか汝を畏れざる,誰か御名を尊ばざる,汝のみ聖なり,諸種の国人きたりて御前に拝せん。なんぢの審判は既に現れたればなり」― 黙示 15:2-4,〔新〕。
10 その歌を聞いている無数の人びとの中で,エホバを恐れ,そのお名前に栄光を帰すかどうかとの質問に賛意をいだいて答え応じているのはだれですか。どんな決意をいだいてそうしていますか。
10 今日,「彼の名前のための民」の残れる者が「たれか汝を畏れざる,誰か御名を尊ばざる」と歌っているのを無数の人びとが聞いています。この挑戦的ともいえる質問のことばを聞いている幾十万人もの人びとはその質問に関して,油そそがれた残れる者と同様に感じていることを示しています。すなわち,エホバは恐れを受けるにふさわしいかたであり,そのお名前は栄光を受けるにふさわしいものであると感じているのです。彼らはこの世のあらゆる偽りの神々の前で公然と次のように語っています。「今日,人類の大多数はエホバを恐れず,そのお名前に栄光を帰してはいないが,わたしたちは,生ける唯一の真の神としてエホバを恐れ,自分自身の名前以上にエホバのお名前を尊び,そのお名前に栄光を帰します」。彼らはどのようにしてこのことを行なっていますか。
11 それらの人たちはそのことをどのように行なっていますか。
11 それらの人々は,聖書をまちがいやすい人間のことばとしてではなく,実際にそうであるとおり,神のことばとして受け入れることによってそうしています。また,メシヤによる王国に関する聖書の幾多の預言が今やその輝かしい成就の最高潮を迎えようとしていることを信じています。さらに,犠牲にされた神の小羊,イエス・キリストを通して神に近づき,みずからを全く神にささげています。そして,イエス・キリストに見習い,「父と子と聖霊との名において」水によるバプテスマを受けています。こうして,彼らはイエス・キリストの正規の弟子となっているのです。(マタイ 28:19,20,新)また,エホバが今日地上に「彼の名前のための民」を持っておられることを認め,たとえそれが少数の残れる者であるにせよ,その民と忠節に交わります。そして,あらゆる人にエホバのお名前を知らせ,そのお名前に栄光を帰するわざにその民とともにあずかります。こうしてエホバについて証言することにより,エホバのクリスチャン証人であることを恥としていないという事実を実証します。
12 (イ)ゆえに,油そそがれた残れる者はその歌のことばのどの部分が成就しているのをすでに目撃していますか。(ロ)どんな種類の人は今後も「大群衆」の中に自分の立場を取りますか。その人はどんな希望にあずかれますか。
12 神を恐れる人びとのこの「大群衆」はあらゆる国民の中から出て来ました。(黙示 7:9,10,新)歌をうたう油そそがれた残れる者は,「諸種の国人きたりて御前に拝せん。なんぢの審判は既に現れたればなり」という自分たちの預言的な歌のことばがそれら「大群衆」のうちにすでに成就しているのを目撃しています。(黙示 15:4)この数えきれない「大群衆」すべてを集めるわざはまだ終わっていません。問題は,かつて一度も起きたことがない,きたるべき「大かん難」にさいし,エホバが不敬虔な人びとすべてを滅ぼして,ご自分の義の審判をことごとく表明される前に,だれが今後もこの「大群衆」の中に自分の立場を取るかということです。そうする人はすべて,自分自身の名前以上に神のお名前を尊ぶでしょう。その人は,『その聖名にかなふ栄光をもてエホバにあたへよ』と述べる詩篇 96篇8節のことばどおりに喜んで事を行なうでしょう。その人は,「大かん難」を生き残って,『気息あるものが皆』エホバを賛美する正義の新しい事物の体制にはいる希望に「大群衆」とともにあずかれるでしょう。―黙示 7:13-15。詩 150:6; 29:2。
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訓戒をどう見なすべきですかものみの塔 1972 | 2月1日
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訓戒をどう見なすべきですか
若い人々が知りたいと願っている有益な事実
おそらくあなたは,学友か近所の人,あるいは先生の場合さえあるかもしませんが,自分がまちがっている,つまりあやまっていることを認めようとしない人をだれか知っていることでしょう。そうした人のことをあなたはどう思いますか。ところがある日,その人がつかつかとやってきて,「すみませんでした。わたしがまちがっていたことがわかりました」と言ったとしたら,その人に対するあなたの評価は高まりますか,それとも下がりますか。
確かに,わたしたちはみなまちがいをします。真の意味で完全,もしくは非のうちどころのない人はひとりもいないからです。聖書はそのことを教えています。それによれば,人間はすべて最初の親,アダムの不従順のために,生まれながらにして不完全,つまり罪を受け継いでいます。―ロマ 5:12。
まちがいはすべて単に『無知』に起因するわけではありません。不注意によるまちがいも少なくありません。たとえば,洋上を飛ぶ飛行機の中である乗客が,スチュワーデスが救命胴衣の用い方や機内での酸素の補給の仕方を説明するさいに注意を払わなかったため,突然非常事態に面してそうした備えを活用できずに命を失ったとすれば,それは単に当人の無知ゆえの不幸とはいえません。それは知ろうとしなかったための災いです。
ですから,人の犯すあやまちすべてを単なる過失のせいにすることはできません。故意の無知が原因となる場合がしばしばあります。もっと悪いことに,悪いと知っていながらその時点で自分にとってはもっともと思われる理由をあれこれ並べて言いわけをする人もいます。
以上のことからして,わたしたちには矯正を伴う訓戒の必要なことがわかります。わたしたちはすべて,老若を問わず矯正を必要としています。事実,人間の生活のどんな分野についても言えることですが,訓戒や矯正がなければ進歩はありえません。つまり,同じまちがいを繰り返し,同じあやまった考えをいだいているのでは,知識や能力は決して向上しません。
訓戒とは単なる教訓以上の意味を持っています。それは矯正し,形作り,強め,完全にする訓練を意味します。したがって,しばしばしっ責を伴います。つまり,必ずしもそうとは限りませんが,懲罰あるいは懲らしめをも含みます。とはいっても,それは決して単なる罰のための罰ではなく,常に,矯正と将来のための改善をはかってなされるものなのです。
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