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  • 「大患難」において生き残るか,それとも滅びるか
    ものみの塔 1982 | 7月1日
    • 生き残るために王国に逃れる

      15 「羊」と「やぎ」のたとえ話は,人類のすべての国の民にとっての選択についてどのように述べていますか。

      15 確かに,「エホバの大いなる日は近い。それは近い。しかも非常に急いでやって来る」と言うことができます。(ゼパニヤ 1:14,新)わたしたちは,「すべての国の民」がキリスト・イエスの前に集められる裁きの時代に生きています。これらのすべての国の民は,「羊」と「やぎ」という二つの級に分けられており,その最終的な結末については,「羊」は「永遠の命」,「やぎ」は「永遠の切断」であると率直に述べられています。―マタイ 25:31-33,46。

      16,17 (イ)テサロニケ第二 1章6-9節は,「大患難」の時に執行されるエホバの裁きの終局性をどのように示していますか。(ロ)神の民を迫害する者たちに加え,ほかにだれが滅ぼされますか。なぜですか。

      16 さらにパウロは,エホバの裁きの終局性を示し,こう記しています。「これは,あなたがたに患難をもたらす者に患難をもって報い,一方患難を忍ぶあなたがたには,主イエスがその強力な使いたちを伴い,燃える火のうちに天から表わし示される時[アポカリュプシス],わたしたちとともに安らぎをもって報いることこそ,神にとって義にかなったことであると言えるからです。彼はそのさい,神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復をするのです。この同じ者たちは……永遠の滅びという司法上の処罰を受けます」― テサロニケ第二 1:6-9。

      17 「永遠の滅びという司法上の処罰」が,神の民に「患難をもたらす者」だけではなく,「神を知らない者」や「良いたよりに従わない者」にももたらされることに注目してください。パウロはローマ人への手紙の中で,「神を知らない者」がなぜ『言いわけができない』か,またなぜ彼らが裁きを受けるのかということを説明しています。(ローマ 1:18-20; 2:5-16)啓示 14章で語られている『中天を飛んでいる使い』は,「地に住む」人々すべてに「神を恐れ,神に栄光を帰せよ。神による裁きの時が到来したからである」と命じています。ですから人々は,「天と地と海……を作られたかたを崇拝せよ」と勧められているのです。そうしない人々,神のメシアの王国ではなくサタンの政治的な「野獣」に信仰を置く人々はすべて,「神の怒りの大きな酒ぶね」の中でその「獣」と共に滅ぼされます。―啓示 14:6,7,9,10,14-20; 19:11-21。

      18 (イ)生き残ることを希望する人々はすべて,今何を行なうべきですか。(ロ)聖書は,「大患難」に生き残る人々として,だれを挙げていますか。彼らの前途にはどんな見込みがありますか。

      18 「エホバの怒りの日に隠される」ことを願う人は皆,「義を求め,柔和を求め」,「エホバの司法上の定め」を批判するのではなく,それを『守り行なわ』なければなりません。(ゼパニヤ 2:2,3,新)エホバが任命された審判者から「羊」とみなされ,「大患難」の時に命を救っていただくことを願う人々はだれも,「忠実で思慮深い奴隷」級を構成するキリストの油そそがれた「兄弟たち」を積極的に助けまた支持して,自分たちが「義なる者たち」であることを証明しなければなりません。(マタイ 25:33,40,46; 24:45-47)聖書は,キリストの「兄弟たち」つまり「選ばれた者たち」と,「羊」の「大群衆」だけに,「大患難」に生き残るという希望を差し伸べています。その「大群衆」はすべての人に聞こえるように絶えず「救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります」と言い続け,手を休めることなく「神に神聖な奉仕をささげ」ます。「すべての国の人びと」から引き出された,バプテスマを受けた弟子であるこの「大群衆」は,尽きることのない「命の水の泉」に彼らを導く子羊キリスト・イエスによって牧されます。『そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるのです』。―マタイ 24:21,22; 25:34; 28:19,20。啓示 7:9-17。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1982 | 7月1日
    • 読者からの質問

      ■ イエスは赤子の時でも完全でした。それなのに,ルカ 2章22-24節はなぜ,「律法に従ってその浄めの期日が満ちた時」マリアがイエスをエルサレムに連れて行ったことについて述べているのでしょうか。

      イエスは神の完全な人間の子として生まれたので,浄められる必要はありませんでした。(ヘブライ 7:26。ペテロ第一 1:19; 2:22)ですから,ルカ 2章22-24節の「その」という語の指している人々の中にイエスは含まれないでしょう。その聖句は次の通りです。「モーセの律法に従ってその浄めの期日が満ちた時,彼らはエホバにささげるため,彼[幼いイエス]を連れてエルサレムに上った。エホバの律法に,『胎を開く男子はみなエホバにとって神聖なものと呼ばれねばならない』と書いてあるとおりにである。また,エホバの律法に,『やまばと一組もしくは若いいえばと二羽』と述べられているところに従って犠牲をささげるためであった」。

      ヨセフとマリアは子供の誕生に関連して律法の求めるところに従いたいと思っていましたが,それはふさわしいことでした。一つの要求は,初子を神殿で神にささげ,代価をもって贖うということでした。マリアとヨセフはこれを行なうためにエルサレムへ行きました。(民数紀略 18:15,16)別の要求は女が出産の後に浄められることを求めるもので,人類が罪深く子供を産むことにより不完全さを伝えたことを銘記させました。子供が男子であれば40日間,女子であれば80日間汚れることになっていました。浄めの期間の終わりには浄めの犠牲がささげられました。(レビ記 12:1-8)ヨセフとマリアがエルサレムへ旅をしたとき,彼らもこの要求に従ったものと思われます。

      しかし,ルカ 2章22節は,「その[彼らの,英文字義訳]浄めの期日」について語っているので質問が生じました。この「その」という語はだれを指しているのでしょうか。「彼女の」に当たるギリシャ語を入れて,この聖句がマリアだけの浄めに言及しているかのように述べている写本もあります。こうした本文に見られる異文は「その[彼らの]」という読み方に当惑した写本家が取り入れたものと思われます。しかし,今では「その[彼らの]」が正しい読み方として受け入れられています。その読み方は最も質の良い古代写本により裏付けられているからです。では,「その[彼らの]」という語はだれを指しているのでしょうか。

      前述の通り,イエスは浄めを必要としていなかったので,その中にイエスが含まれていたはずがありません。しかし,神殿への同じ旅の際にイエスが「贖われた」ということを根拠に,イエスが含まれていたと言う学者もいます。しかし,この主張の根拠は薄弱です。「浄め」と『贖い』とは律法の二つの別個の要求であったからです。むしろ,「その[彼らの]」という語の中にはヨセフが含まれていたと考えられます。

      一つの点として,この節はさらに,「彼らは……[イエス]を連れてエルサレムに上った」と述べているからです。この彼らはヨセフとマリアのことです。また,浄めの儀式は厳密に母親だけに当てはまるものでしたが,この「旅」を取り決めたのはヨセフであり,ヨセフには家族の頭としてこの犠牲がささげられるのを見届ける責任がありました。このような理由から,ルカは「その[彼らの]」という言葉の中にマリアの夫(イエスの養父)を含めていたのかもしれません。ですからルカ 2章22節は次のようなことを意味すると理解することもできるでしょう。『浄めの期日が満ちると,マリアと,律法が守られるのを見届ける責務のあったその夫は,エホバにささげるため,イエスを連れてエルサレムに上った』。

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