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  • エホバの証人 ― ギリシャで再び「認められる」
  • 目ざめよ! 1976
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  • 絶え間なく圧力をかける策略
  • 「認められた」宗教から「認められていない」宗教へ
  • 恐るべき結果
  • 思い掛けない変化
  • 再び合法的に「認められる」
目ざめよ! 1976
目76 3/22 16–19ページ

エホバの証人 ― ギリシャで再び「認められる」

ギリシャの「目ざめよ!」通信員

ギリシャのエホバの証人は,1975年の7月をいつまでも忘れることはないでしょう。その月の8日,アテネの有力紙は次のように報じました。「エホバの証人同士の結婚 ― 適法と認めらる」。ギリシャの幾千もの家族は,事態のこうした変転を大いに喜びました。

この判決は,7月3日の国家最高裁判所の審理の結果下されたもので,次のように述べています。

「エホバの証人,つまり千年期説信奉者の教理は,憲法の定める『認められた宗教』の条件にかなっており,ゆえに『認可』された教理である……よって,前述の教理に従う者の間で,その教理の定める儀式に従って執り行なわれた結婚は,無効ではない。また,そうした結婚の結果生まれてくる子供は私生児とはみなされない」。

しかし,最高裁によるそうした判決が必要になったのはなぜですか。

これまで四年以上にわたって,ギリシャ政府は,エホバの証人の結婚を「無効」とし,その子供たちを「私生児」とみなしてきました。それはなぜですか。1970年11月13日,当時の副大統領兼内務大臣スティリアノス・パタコスの発した同文通ちょうが,「エホバの証人の宗教は認められてはいない」と布告していたからです。

これを聞いて意外に思われませんか。あなたは,エホバの証人が多くの国や海洋の島々で,全く合法的に活動していることをご存じでしょう。事実,エホバの証人は,20世紀の初めからギリシャで聖書教育の業を続けてきました。70年もたってから,ギリシャ政府が,エホバの証人を「認められた宗教ではない」としたのはなぜでしょうか。

絶え間なく圧力をかける策略

それは,エホバの証人の宣明する,聖書に基づく音信を憎む,ある有力な団体が,絶え間なく政府に圧力をかけてきたからです。この憎悪の目立った表われは1927年以来見られるようになりました。同年,ギリシャ正教会の僧職者たちは,初めてのこととして,当時のギリシャ最高裁長官に,「聖書研究者」(エホバの証人は当時そう呼ばれていた)同士の結婚は合法的で,公式の戸籍に載せられているかどうかを尋ねました。同長官は次のように答えています。

「我がギリシャの伝統的美徳に由来する信教上の自由に関連して,現代公法の最も基本的な原則の一つは……いかなる宗教儀式であれ,それを執り行なう自由が確かにあるということである。ゆえに,同じ信仰の信者同士がいかなる宗派の儀式に従って結婚式を挙げようとも,それは原則的に言って十分に尊重すべきものである。よって,国の戸籍に記載され得る」。

それから20年後,ギリシャの宗教指導者たちは,再び政府に圧力をかけて,エホバの証人に対する法的認可を取り消させようとしました。そのためギリシャの僧職者は,1947年にエホバの証人の結婚の合法性に疑いをはさみました。しかし,それも再び失望に終わりました。最高裁長官が次のように判断したからです。

「その宗教団体がギリシャで『認められた』もの,つまり公のものであり,いかなる秘密教理も秘密儀式も持たず,公序良俗に反しないという点に照らしてみると……彼らは憲法の認める信教の自由を受けるにふさわしい……従って,その信ずるところに従って執り行なわれた,千年期説信奉者[エホバの証人]同士の結婚は,合法的であり……戸籍に記載され得る」。

しかし,ギリシャの僧職者たちは,この敗北を甘んじて受け入れようとはしませんでした。そして,この問題を再び持ち出す機会をうかがっていたのです。その機会は1959年に到来しましたが,公平な法律家はそのような圧力による策略に屈することを再度拒みました。最高裁副長官アンドリュー・タシス氏は十分に証拠を挙げて判決を下し,その中でエホバの証人が「認められた」宗教であり,その結婚は合法的であることを保証しました。

「認められた」宗教から「認められていない」宗教へ

ところが,ギリシャの政治情勢はやがて悪化しました。1967年4月21日の晩,突然,軍隊が国の全権を掌握したのです。そして,イエロニムスという名の軍隊に受けのよい僧職者を,大主教に任命しました。

僧職者たちがエホバの証人に再度襲いかかる絶好の機会が到来したかに見えました。しかし,アテネの大主教は,今回,最高裁長官の下に行かずに,アテネ大学の教会法の教授C・ムラティデス氏に,エホバの証人は「認められた」宗教であるかどうかの判定を下すよう依頼しました。

1967年9月5日,ムラティデス教授は自分の意見を発表しました。同教授は,これまでの最高裁長官たちの判決すべてを無視して,エホバの証人は「認められた」宗教ではなく,エホバの証人同士の結婚は無効にされるべきであると言明しました。

イエロニムス大主教は,問題をパタコス副大統領のところへ持ち込みました。それから,その問題は最高裁にではなく,国家法律評議会に送られました。同評議会を構成していたのは,政府の閣僚にへつらう弁護士たちです。どんな結論が出ましたか。

同評議会は,ムラティデス教授の意見を裏付けとして,1970年11月13日に,エホバの証人は「認められた」宗教ではない,としました。その後,内務省は,全国の戸籍登記所に同文通ちょうを送付し,エホバの証人同士の結婚は「存在しないも同然」なので,それを戸籍に記載してはならないと命じました。さらに,その同文通ちょうは,エホバの証人の夫婦の間にできた子供は母親の姓で登録されるべきであると述べていました。それは,子供を私生児とするも同然です。

恐るべき結果

そのような立法措置がもたらす悲惨な結果を想像できますか。一夜にして,幾千組ものギリシャ人の夫婦は,不法に同せいしているとみなされるようになり,エホバの証人の未亡人は年金を受け取れなくなりました。今や法律は,それら未亡人が実際には結婚していなかったとみなしているからです。社会福祉協会も出産や葬儀の費用の支払いを拒否しました。

政府の役人は,戸籍簿の中からエホバの証人の家族名を消し去ることに着手しました。妻に関する資料は夫の姓の下から除かれ,妻の父親の戸籍に転記されました。そうした婦人の子供は結婚外の子供と記入されました。役人の中には,結婚しているとはもはやみなされなくなった夫婦の所有地すべてを取り上げることさえした人もいます。そうした夫婦には土地の所有権がないというのです。

もちろん,すべての役人がそれほど厳しい処置を取ったわけではありません。パタコスの同文通ちょうは「非常識」であると認めた者もいました。しかし,そうした役人は,「残念ながら,無視するわけにはゆかない」と嘆きました。同情心のある役人たちは,その問題を裁判所に訴えるようエホバの証人に勧めました。

そのようにしたエホバの証人は少なくありませんでした。そして,下級裁判所で有利な判決か得られた場合もありました。しかし,そうした判決を戸籍吏に示しても,彼らはそれに従おうとはしませんでした。明らかに戸籍吏は,パタコス副大統領に対する不服従の結果を恐れていたのです。副大統領は,エホバの証人に対する反対をやめようとはしませんでした。その同文通ちょうのもたらした嘆かわしい結果に対する抗議に,同副大統領はこう答えました。

「(イ)千年期派は,憲法上の意味において『認められた』宗教ではない。

「(ロ)この宗教に従って執り行なわれた結婚は無効であり,戸籍に記載してはならない。上記の事実を考慮し,論理と法律によって決められる問題に関して,感情的または博愛的な理由に訴えるのはやめてもらいたい」。

そのような「論理と法律」のもたらすはなはだしい結果は,一人の赤子の死に関連した事件からも明らかです。その子の父親デメテリオ・カザニスが埋葬許可を求めたのに対し,戸籍吏はそれを与えることを拒みました。その戸籍吏は,“入籍”もしていないのに“籍を抜く”ことなどできないと述べました。その官吏に関する限り,赤子は生まれていないのも同然なのです。

恥ずべきことに,父親が事態を収拾する方法を捜している間,死んだ赤子を冷蔵庫に入れておかねばならなかったのです。それはすぐ報道関係者の知るところとなり,ある雑誌は次のような見出しを掲げました。「狂信の名において赤子の死体冷蔵庫へ」― エピカイラ誌,1973年1月26日号,20ページ。

ついに検察官が介入し,その子供を父親の名の下に記載し,埋葬するよう命じました。しかしそれは,ギリシャのエホバの証人の大半にとって,事態を正すものとはなりませんでした。結局は無視された下級裁判所の判決や報道関係者の一部からの支援なども,内務大臣の同文通ちょうを取り消すには至りませんでした。どうしたらよいでしょうか。

思い掛けない変化

法律顧問と長時間相談した結果,二つの事件を国家評議会に提出することになりました。一つはプロコピアス・A・デリスに関する事件です。その人の結婚は,1957年に合法的に登記されました。にもかかわらず,コルフ島のバニアタデス地区の戸籍吏は,その地で妻と子供の住民登録をさせたいとのデリスの求めを却下しました。

二番目の事件は,ペリステリ-アテネ市役所の執行官スタマチアス・カリンデリスに関するものです。政府当局者は,カリンデリスに対する家族手当の支給を打ち切りました。それは,「彼とメリー・ホルモバは共に,『認められ』てもおらず,『認可』されてもいない宗教であるエホバの証人派に属しており,その宗教の儀式に従って執り行なわれた結婚は無効である」からです。

これらの事件の重要性を考慮して,国家最高裁判所は,二つの事件の審理を,1975年4月22日にまとめて行なうことに決めました。審理が近づくにつれて,幾つかの質問がエホバの証人の脳裏に浮かびました。国家最高裁判所は,宗教的偏見なしに審理を進めるだろうか。僧職者はどう反応するだろうか。イエロニムス大主教は事態に干渉するだろうか。

ところが,昨年四月の審理の数か月前に,思い掛けないことが起こりました。軍事グループは,臨時政府を更迭し,新しい政府を作りました。新政権は,前政権に劣らず圧制的でしたが,政権を執ってわずか数週間で不名誉な崩壊を見ました。そこで軍人たちは,政治家に政権を譲りました。政治家たちは,十年間フランスのパリに亡命していたコンスタンチン・カラマンリス元首相を大統領に任命しました。エホバの証人にとって事態は改善されるでしょうか。

カラマンリス政府は,総選挙と国民投票を実施し,その結果,民主政体が実現しました。新生ギリシャ国会は,自由主義的な憲法を採択しました。同憲法は,宗教的信念のいかんを問わずギリシャ人民に,個人的な自由と市民としての平等な権利を保証しました。興味深いことにこうした事態は,エホバの証人に関する事件の審理が予定されていた日の直前に起こりました。

新しい内務大臣ステファノプロス氏は,以前パタコスの発したものに代わる新しい同文通ちょうを発する可能性について尋ねられました。ステファノプロスはそれに答えて,二つの訴訟を続けるよう提案しました。同氏は,法が「正しい解決をもたらす」との自分の期待を表明し,次のように付け加えました。「反対の結果が出たような場合には,何ができるか考えることにしよう。お分かりのように,これは単に以前の同文通ちょうを取り消すというだけの問題ではなく,最高裁で未決になっている法律上の問題である」。

再び合法的に「認められる」

審理は首尾よく進行しました。裁判所の記録係M・S・ムズラキス氏は,エホバの証人に関する問題の全貌の優れた説明を行ないました。それから同氏は,政府の以前の命令を取り消すよう提案しました。理屈に合わないようですが,政府の法務官の一人はそれに同意しました。一方,もう一人の法務官は,エホバの証人を法的に認めなかった以前の同文通ちょうをわずかながら弁護しようとしました。その結果はどうなりましたか。

1975年7月3日,国家最高裁判所の裁判長は,両方の事件に関してエホバの証人に有利な判決を下しました。内務大臣は,この判決に対する同意を表わし,全国の市役所と地方自治体そしてギリシャの在外公館に新たな同文通ちょうを送付しました。それは,エホバの証人同士の結婚,およびその間に生まれた子供たちを登記するよう命じたものです。

それは,ギリシャのエホバの証人にとって,どんなに快いものだったでしょう。法律上の大きな障害が除かれたので,あらゆる音信の中で最も重要な音信である,神の設立された王国の良いたよりを隣人に伝えるため,証人たちは再び全精力を集中することができるのです。―マタイ 24:14。

[18ページの図版]

1975年7月3日に国家最高裁判所が重大な判決を下した,以前王宮であった建物

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