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罪?―それは一体何ですか目ざめよ! 1979 | 7月22日
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な人々は,参加することを拒む人だけだ,と思うことがある」― 102,103ページ。
自分の罪悪に取り組むのです!
正直であろうとすれば,わたしたち各人は自分の罪と罪悪をありのままに認めなければなりません。しかし,精神衛生の面からするとわたしたちはそれを捨て去らねばなりません。エホバはそうするための方法を備えてくださっています。
神の言葉は,罪に取り組む唯一の妥当な方法を指摘しています。罪をありのままに認めるのです。「『自分には罪がない』と言うなら,わたしたちは自分を惑わしているのであり,真理はわたしたちのうちにありません」。(ヨハネ第一 1:8)「自分の違反を覆い隠す者は成功しない」。(箴 28:13,新)自分の罪を神に告白することです。「わたしは言いました。『わたしは自分の違反についてエホバに告白しよう』。(詩 32:5,新)告白に続いてゆるしが与えられます。「わたしたちが自分の罪を[神に]告白するなら,神は忠実で義なるかたであり,わたしたちの罪をゆるし……てくださいます」。(ヨハネ第一 1:9)そのあと,罪悪感は消え去ります。神のゆるしはキリストを通してもたらされ,そのようなゆるしは「わたしたちの良心を死んだ業から清め」ます。(コロサイ 1:14。ヘブライ 9:14)そうすれば,わたしたちの良心が罪悪感を覚える必要はもはやありません。
ですから,自分の罪をありのままに認め,認知し,神に告白し,ゆるしを求めるのです。時には罰がその後に与えられることもありますが,大抵の場合,罪を告白するとゆるしが与えられ,それで問題は終わります。
自己の世代<ミー・ゼネレーション>は,罪を否定することによって罪悪感をぬぐい去ろうとします。罪という語は,字義通りには「的をはずす」ことを意味します。自己の世代の「新しい道徳」は,その生み出す実の示すとおり,確かに的をはずしています。わたしたちは個人的な決定を下さず,それゆえ何の責任も負っていない,という行動主義心理学者の主張は,罪を覆い隠すものです。それは無過失の心理学です。つまり,だれにも責任はない,だれも悪くない,だれにもとがはない,だれも罪を犯していない,というのです。それは心理学上のたわ言にすぎず,自分第一主義者<ミー・ファースター>はそれをしっかりつかみ,その後ろに身を隠し,驚いたようにまゆを上げ,「罪? それは一体何ですか」と尋ねます。
罪を認め,それに取り組むのが健全な心理学です。そうすることを可能にする鍵は神の言葉です。神の言葉は,わたしたちが自分に対してそれなりの配慮を示し,他の人に関心を示し,そして何よりもわたしたちの創造者であるエホバ神を愛し,自分たちの導きとして神の原則を受け入れねばならないことを示しています。次の記事にはこれらの諸点が詳しく論じられています。
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必要なこと: 神をよく知り,他の人をよく知り,自分をよく知ること目ざめよ! 1979 | 7月22日
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必要なこと: 神をよく知り,他の人をよく知り,自分をよく知ること
『あなたは……あなたの神エホバを愛さねばならない。……あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』― マルコ 12:30,31。
わたしたちは自分をありのままに見,自分の造られた様,また自分たちについて歴史の明らかにしている事柄を悟る必要があります。どんな道が実際的で,有益であることが示されてきましたか。
わたしたちは肉体を持つ存在ですが,それでも霊的な側面を有しています。快楽主義者のようになって,常に肉欲を満たしてゆきますか。それとも,禁欲主義者のようになって,精神の高揚を図るために肉体を手荒く扱いますか。
もちろん,聖書は快楽主義をよしとしてはいません。また,ある宗教の例とはうらはらに,聖書
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