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権利,それとも義務 ― そのどちらですかものみの塔 1973 | 6月15日
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事実,なぜ神の会衆内にそのようなものを持ち込もうとするのでしょうか。
12 ある人は,『それは現代的なやりかたです。わたしたちは現代的なことをして世の中におくれないようにしたいのです』と言うかもしれません。しかし考えてみてください。この世の精神は急速に堕落し腐敗していっているのです。そして時がたつにつれて事態はいっそう悪化することが予想されます。過去においてもそれぞれの世代は,それは「現代的」で他に先んじている,と考えました。しかしそれらの世代と彼らのやり方はどうなりましたか。聖書は次のように述べています。『おのれの目に自らを潔者となしてなおその汚れをあらわれざる世類あり』― 箴 30:12。
13 わたしたちは自分独自の考えを持つよりも,今はむしろ何をすべきですか。なぜですか。
13 わたしたちは会衆内に騒ぎを起こしてよいでしょうか。あるいは自分独自の考えを持って,今会衆に全面的に協力することを少しでも差し控えるべきでしょうか。むしろわたしたちは,『大いなる患難』の嵐の雲がいっそう濃くなっており,この世の「風潮」はいよいよ冷ややかになっているのを見ているのですから,クリスチャンの組織にますます近づき,暖かい愛のうちにますます緊密な関係を強めていかねばなりません。(箴 18:1)わたしたちは,神に対する自分の態度や立場について特別に注意しなければなりません。使徒ペテロはこの必要を力説し,次のように言いました。『義人もしかろうじて救わるるならば,不敬虔なるもの,罪ある者はいずこにか立たん』― ペテロ前 4:18。
14 この世ではやっているあるスタイルや型に興奮するのはなぜむなしいことですか。
14 それに,今わたしたちが非常に重要視しているものでも,神の新秩序においては全く無価値なものになるかもしれません。そうです,今から一年先でさえ,わたしたちが自分の権利(ある種のスタイル,ある習慣,ある型の音楽)として戦いとろうとするものが完全に時代おくれになっているかもしれません。そうなればわたしたち自身それを欲しいとは思わなくなるでしょう。ではなぜそれを今会衆内に持ち込みたいのでしょうか。この世のスタイルや型はすぐにすたれ忘れられてしまいます。しかし神の会衆は永遠につづきます。聖書は,『この世の状態は過ぎ行くべければなり』と述べています。(コリント前 7:31)この世の状態は今だんだん悪化していますが,やがて完全に新しい状態に変えられるでしょう。(ヨハネ第1 2:17)そして完全に流行おくれとなるのです。その時にはモッド・スタイルはどこにあるでしょう。もじゃもじゃの頭髪は? だらしない服装は? 今わたしたちが自分の権利として固執するかもしれない事柄はどこにあるでしょうか。
わたしたちの動機を分析する
15 会衆内の責任ある立場にいる人びとが与える助言に注意を払うことは,わたしたちにとって有益です。なぜですか。
15 エホバは信仰をもって近づく者をすべて愛されます。エホバは心からの奉仕と服従を望まれます。(ロマ 6:17)したがって,エホバのご意志が何かを明確にし,会衆の成員すべてが理由を理解するように助けること,つまりすべての人がエホバをより十分に知るように援助することがクリスチャン会衆の目的です。ですから,会衆内の責任ある人びとが,起きてくるいろいろな問題にかんして与える助言に注意を払うことは,わたしたちにとって非常に有益です。―出エジプト 18:15,16と比較してください。
16-18 権利と思われる何事かを行なうことに関して,人はどのように自分の態度と動機を分析してみることができますか。
16 もしあなたが,あなたの権利にかんする問題のことで困っているなら,自分がどんな考えと動機を持ち,それらが神の考え方と合うかどうかを分析してみるのはよいことです。例によって説明するために,長い,手入れの悪い髪の毛をしている男の人,もしくは青年の問題を考えてみましょう。あるいはあなたはそのスタイルが好きで,そういう髪の毛をしているかもしれません。そして兄弟のひとりが,髪を刈ってもっときれいにまとめるほうがよいと提案したかもしれません。
17 あなたはこのように考えてみることができます。『自分はこのほうがよく見えると思うからこういうスタイルにしているのだろうか,それとも自分が交わる人たちの影響を受けているだろうか。その人びとは会衆内の友だちだろうか,それとも外の世界の友だちだろうか。会衆内でそのようなスタイルをしている人がいるとすれば,それは円熟した人たち,長老たち,奉仕のしもべたち,奉仕に熱心な人たちだろうか』。このことを考えるさいには,『神のことばを汝らに語りて汝らを導きし者どもを思え,その行状の終りを見てその信仰にならえ』という使徒の勧めを記憶していましょう。―ヘブル 13:7。
18 次に,『一般の人びとは,私のスタイルを見て私をどういう部類の人間と見なすだろうか。私が訪問する人は,私をエホバの証人の奉仕者と認めるだろうか』と考えてみます。なぜ長髪でなければ外部の友だちといっしょにいる時に落ちつかないのですか。彼らが何か言いはしないか恐れていますか。あなたは彼らが,エホバの証人のひとりであるあなたに,彼らと同じような服装をすることを期待していると考えますか。それとも,奉仕者であるあなたが彼らと同じような服装をすれば,彼らはあなたをもっと尊敬すると思いますか。
19,20 もし会衆内の兄弟たちから,わたしたちのあるスタイルまたは習慣を変えるように勧められたなら,どんな模範に従うのが賢明ですか。
19 もし会衆内の責任ある兄弟たちがあなたにスタイルを変えるように勧めるなら,あるいは他の人たちがあなたのスタイルを奉仕者にふさわしくないスタイルと考えるなら,あなたは進んで自分のスタイルを変えますか。あるいはあなたは,彼らのほうがまちがっているとか,時代おくれなんだなどと考え,会衆内の人びとの気持ちを不快にするというだけの理由で変える必要はない,と思うかもしれません。ではキリストご自身がお示しになった模範は受け入れますか。
20 使徒パウロはイエスについてこう言いました。『キリストだに己を喜ばせ給わざりき,録して「なんじをそしる者のそしりは我に及べり」とあるがごとし』。(ロマ 15:3)キリストはご自分の権利を要求されませんでした。別の道を歩んだほうがキリストにとってはずっと都合がよかったでしょう。しかし,もしそうされたなら,わたしたちにとっては何の助けにもならなかったでしょう。―マタイ 26:53,54。コリント後 5:14,15。
21 会衆のメンバーが,他の人びとをつまずかせる習慣を固執するのはクリスチャンにふさわしくない行ないであることを,使徒パウロはどのように示していますか。
21 もしだれかから,あなたが肉を食べているのを見て会衆内のある人がつまずいたので,肉を食べるのをやめてくださいと頼まれたとしたらどうですか。ええっ? そんな基本的な権利まで断念するのですか。しかし使徒パウロはキリストの模範に従い,次のように書きました。『されば我ら平和のことと互いに徳を建つる事とを追い求むべし。なんじ食物のために神のみ業をこぼつな。…肉を食わず,ぶどう酒を飲まず,そのほかなんじの兄弟をつまずかする事をせぬは善し』。ついでパウロは,肉を食べても良心のかしゃくは感じないけれども会衆の福祉のためにそれを食べない,という人たちに次のように言います。『なんじのもてる信仰を己みずから神の前に保て』― ロマ 14:19-22。コリント前 8:12,13と比較してください。
22 王国の良いたよりの不名誉となっている,と兄弟たちが考える習慣やスタイルを変えなければならない他の理由をあげなさい。
22 ですから,たとえほかの人の意見に完全に同意しなくても,またたとえ自分が,今していることはまちがっていない,と考えても,折れて,自分は神を喜ばせているという満足感を心のうちにいだくほうがよいのです。あなたが自分の好むスタイルをしても,それをいちばんよく見るのは結局だれですか。そのスタイルのあなたがほんとうにどのように見えるかを知っている人,そしてあなたの格好と他の人たちの格好とを比べることができるのはだれですか。あなたは自分を見ないではありませんか。そうです,あらゆる角度からあなたを見るのはほかの人たちです。もしあなたの兄弟たちが,あなたの格好は人びとにまちがった印象を与える,あるいはあなたの広める音信を誤り伝える,またはその音信の不名誉となると感ずるなら,それを変えて気楽な気持ちになるのはいかがですか。
スタイルではなく,この世的な習慣から離れていることである
23 イスラエルでは,あごひげをのばすよりもきれいにそることを好んだ男子はどんな立場にありましたか。
23 わたしたちは,スタイルや服装の問題を別の見地からも考えてみることができます。仮にあなたが,律法の下にあるイスラエルびとの時代に住んでいた男の人で,あごひげがきらいだったとしましょう。あなたは,エジプト人のようにひげをきれいにそったのが好きだったかもしれません。あなたはどうしたでしょうか。ひげをそる自分の個人権を行使したでしょうか。そうはしなかったでしょう。というのは,あなたにはそのような権利はなかったからです。あなたはあごひげをのばしていなければならなかったでしょう。なぜなら,律法はすべての男子に対して,『汝らかしらのびんを丸くきるべからず 汝ひげの両方を損ずべからず』と命じていたからです。―レビ 19:27; 21:5。
24 律法がイスラエル人にあごひげをのばすことを要求した理由は何にありましたか。
24 この律法はスタイルのことを考えて与えられていたのでしょうか。そうではありません。それは,イスラエルびとに,周囲の異教国民のまねをさせないようにするためでした。しかしイスラエル人は,あごひげをきれいにそろえ,きちんと手入れをしていなければなりませんでした。手入れのされていないあごひげや,あごひげをそりおとすことは,なんらかの災厄にあった悲しみや嘆きを表わしました。(サムエル後 19:24-28。イザヤ 7:20)頭髪も,ナジルびとの誓願をかけていないかぎり,ときどき刈られました。エゼキエルの預言の中では,祭司たちは髪を刈り,長くのばさないように命ぜられています。―エゼキエル 44:15,20。
25,26 神のことばである聖書は,衣服のスタイルの適否について,神のお考えをどのように示していますか。
25 また神は,衣服の型のためにまちがって区別されるおそれのあることを認め,『女は男の衣服をまとうべからず また男は女のきものをきるべからず すべてかくするものは汝の神エホバこれを憎みたまうなり』とお命じになりました。(申命 22:5)なぜでしょうか。なぜなら,それは不道徳の誘因となるおそれがあるからです。
26 ですから,女性のスラックス,男性のズボンのようによく以た型の衣服もありますが両性の衣服にはやはり型や素材に明確な区別があるのが普通です。しかし,男にせよ女にせよ,実際に異性と見分けがつかないような衣服を着れば,それはエホバの目には悪いことです。からだにぴったりつきすぎたり,からだが露出したりするため不道徳を刺激しやすい,またいまわしい習慣があるという評判の人びとと同列に見られるような衣服についても同じことが言えます。それでもし,髪や衣服のある型,またはある習慣をどうしても捨てたくないと思うなら,『自分はこの世の人びとをまねるためにそれをしているのだろうか』と,自問してください。
「自然に」知る
27,28 (イ)使徒パウロは,スタイルについては,クリスチャンにとって何が適切かに関し,どのように良い指針を与えていますか。(ロ)ある聖書学者たちは,「自然」ということばにかんして何と言っていますか。
27 聖書には,たとえば,髪の長さやスカートの丈はこのくらいでなければならないといった明確な規則は述べられていません。しかし,霊感を受けた使徒は確かに,どんなスタイルや習慣が適切で品があるかを,誠実な,献身したクリスチャンや会衆が知ることのできる良い指針を示しています。彼は次のように述べています。『なんじら自然に知るにあらずや,男もし長き髪の毛あらば,恥ずべきことにして,女もし長き髪の毛あらばその光栄なるを。それ女の髪の毛は,被物として賜わりたるなり』― コリント前 11:14,15。
28 使徒のこのことばについて,聖書学者のアルバート・バーンズは次のように述べています。
「この自然ということばは…明らかにすべての人間が有する,そして一般の,もしくは普遍的なすべての習慣に表われている,物事の適否を判断するあの感覚を意味する。…それは,人びとの中にある物事の適合性を判断する,自然の感覚が要求する事がらのようなものである。…したがってここで用いられていることばは,両性の性質を意味しているのでも,また用途や習慣を意味するものでもなく,…何が適正で正しいかを判断する深い内的感覚をさしているのである」。
またギリシア語の学者,A・T・ロバートソン博士は次のように述べています。
「ここではそれは,単なる習慣に加えて,物事の適否を判断する生来有する感覚(ロマ 2:14と比較せよ)を意味する。しかしそれは,物事の本質の客観的相違に基づく感覚なのである」。
29 (イ)クリスチャンは,何はしてよい,何はしてはいけないという規則を必要としません。なぜですか。(ロ)もし,知らない人がある場合,その人はどうすべきですか。
29 したがってそれは,規則によるように,何をしなさい,何をしてはいけないと,ことこまかに告げられることの問題ではありません。わたしたちがクリスチャンであり,そしてわたしたちの心が正しい事を愛する心を持っているならば,わたしたちは自然に,とくに訓練された良心によって,ある事柄が自分の宣べ伝える良いたよりの誉れを増すものであるか,あるいは傷つけるものであるかを知ります。他の人びとの前で,会衆の評判もしくはイメージを築き上げているか,それともこわしているかを知ります。しかし,もしだれかがそれを知らないとすれば,その人はクリスチャン会衆の明らかな良心の指導を受けるべきです。その人は良い助言を受け入れ,責任ある兄弟たちの良い判断を信頼すべきです。―箴 12:15。
30 (イ)会衆内の責任ある立場にある人びとはみなどんな責任を負っていますか。(ロ)わたしたちを守る指導原理は何ですか。(ハ)わたしたちはなぜ権利よりも義務のほうにより多くの関心を払うべきですか。
30 真のクリスチャンはお互いに愛し合います。そして責任ある立場にいる人びとは,模範を示すことにせよ,助言を与えることにせよ,兄弟たちのために最善となることだけを行なう責任のもとにあります。そしてわたしたちすべての行ないは常に,自分は『あらゆる事柄において,わたしたちの救い主である神の教えを飾っているだろうか』という原則に支配されていなければなりません。もしわたしたちが,人間にではなくエホバに対するように魂をつくして働き,自分の義務を果たすなら,エホバは,長い命や平和に加えて,わたしたちが自分で確立するいかなる「権利」よりもはるかに大きな祝福をもって報いてくださるでしょう。―テトス 2:10。コロサイ 3:23,24。箴 3:1,2。
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自由な民 ― しかし従順を保つものみの塔 1973 | 6月15日
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自由な民 ― しかし従順を保つ
『なんじら自由なる者のごとくすとも,その自由をもて悪のおおいとなさず,神のしもべのごとくせよ。なんじらすべての人を敬い,兄弟を愛し,神を畏れ(よ)』― ペテロ前 2:16,17。
1 使徒パウロは,彼と彼の仲間の弟子たちが有していたどんな自由を示しましたか。
『キリストは自由を得させんために我らをとき放ちたまえり。されば堅く立ちて再び奴隷のくびきにつながるな』。神の子たちの自由について説明したのち使徒パウロはこのように書きました。この神の子たちは,神の自由の天的組織,「上なるエルサレム」,彼らの「母」の子でもあります。それでも,神との完全な関係の自由をもつこの「母」組織は,エホバ神の妻として表わされていました。したがって,彼女の自由は比較的な自由でした。彼女は天の偉大な夫のかしら
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