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    目ざめよ! 1980 | 10月22日
    • 外科で使われるレーザー光線

      ◆ トロント・スター紙によると,カナダの医師たちは消化器管の出血の治療にレーザー光線を使い始めた。レーザー光線は熱を発する極度の光のエネルギーである。レーザーは潜望鏡のような器具に取り付けられ,のどを通してそう入される。レーザー光線が生きている組織に当たると,細胞中の水分は蒸発し,組織のたんぱく質は凝固もしくは溶解する。レーザーを使えば手術切開をする必要がない。したがって,レーザーは老齢の慢性病患者で慢性的な出血に悩む人々に特に有用である。その器具はドイツで開発されたもので,潰瘍の出血を抑えるのに90%の成功を見たと言われる。カナダでは,その成功率は今のところ70%と推定されている。

  • 聖書理解の助け ― カナン,カナン人
    目ざめよ! 1980 | 10月22日
    • 聖書理解の助け ― カナン,カナン人

      「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。

      カナン,カナン人 [恐らく,『卑下する』という意味のヘブライ語『カーナー』から。ゆえに,低い,低められた,の意]。

      1. ハムの息子として4番目に挙げられている人。ノアの孫。(創世 9:18; 10:6。歴代上 1:8)東地中海ぞいの,エジプトとシリアとの間の地域に住みついた11の部族の始祖となった人で,「カナンの地」という呼び名はこの人に由来しています。―創世 10:15-19。歴代上 16:18。No.2を見なさい。

      ノアの酔酒にちなむ出来事の後,カナンはノアの預言的なのろいの下に置かれ,カナンはセムとヤペテ双方の奴隷となるであろうと予告されました。(創世 9:20-27)記録によると,「カナンの父ハムは父の裸を見て,そのことを外にいる自分の二人の兄弟に告げに行った」(新)とだけ述べられているため,どうしてハムではなくカナンがのろいを受けるようになったのか,という疑問が提出されます。24節は,ぶどう酒の酔いから覚めたノアに関し,「彼は一番下の息子が自分に対して行なったことについて知った」(新)と記していますが,この点に関し,ロザハム訳の脚注はこう述べています。「明らかにカナンのことで,ハムではない。セムとヤペテはその恭順のゆえに祝福されているが,カナンは記述されていない何かの卑しい行為ゆえにのろいを受けている。ハムはその手抜かりのゆえに言及から除外されている」。同様に,J・H・ヘルツ編集のユダヤ教の出版物「モーセ五書と詠唱預言書」も,この短い物語は「何かのいとわしい行為を暗示していて,それにカナンが関係していたのであろう」と述べています。そして,24節で「息子」と訳されているヘブライ語が「孫」をも意味しうることを述べた後,同じ書は,「これは明らかにカナンのことを言っている」としています。A・コーヘン編集の「ソンチノ版モーセ五書」も,カナンが「[ノア]に対して倒錯した性欲にふけった」ものと信ずる人々のいることを挙げ,「一番下の息子」という表現はハムの一番下の息子であったカナンを指す,としています。

      もとよりこれらの見解は推測の域を出ていません。カナンがノアに対する非行にかかわっていたかどうかについて聖書は詳細を記していないからです。それでも,何らかの関連のあったことを示そうとする意図ははっきり表われているようです。ノアの酔酒について述べる直前にカナンの名が突然記述に導入されていること(18節),ハムの行動を描くにあたって「カナンの父ハム」と記している点(22節)にそれは見られます。『父の裸を見た』という表現がカナンの関係した何らかの凌辱または倒錯した行為を指していたであろうと見るのは妥当です。聖書が『人の裸をさらす』もしくは『裸を見る』と言う場合,それはおおむね近親相姦その他の性的な罪を意味しているからです。(レビ 18:6-19; 20:17,新)それで,カナンは意識のないノアに対して何かの凌辱の行為を犯しもしくは犯そうとし,ハムは知りながらそれをとめるもしくは懲戒の処置を取ることを怠り,むしろノアの不名誉な行為を自分の兄弟たちに知らせてその非行の帳消しを図ったのではないかと考えることができるでしょう。

      課せられたのろいの預言的要素についても考慮すべきです。カナン自身がその生涯中にセムやヤペテの奴隷となったという証跡はありません。しかしこの場合,神の予知力が働かされました。ノアの言い表わしたのろいは神からの霊感によるものであり,神の不興は当然の理由なく表明されることはありませんから,カナンは既に堕落的な性向,恐らくは肉欲的な性質をはっきり表わしていて,神はその傾向ゆえにカナンの子孫のうちにいずれ生じる悪い結果を予見されたのでしょう。それ以前のカインの場合,エホバは誤った心の態度に注目され,罪に打ち負かされる危険をカインに警告しました。(創世 4:3-7)神はまた,洪水前の大多数の人々の悪に走る傾向が矯正しがたいものであり,そのゆえに当然の滅びに値するものであることをも見きわめておられました。(創世 6:5)それで,カナンに課せられたのろいの正当性を示す最も明瞭な証拠は,その子孫の後の歴史に見ることができます。彼らは堕落と不道徳の際だった不潔な記録を残しているからです。それは聖書の記述にも一般の歴史にも十分裏書きされています。カナンに対するのろいはそれが宣告されてからおよそ8世紀後に成就を見ました。それはカナンの子孫がセム系のイスラエル人に平定された時です。後には,メディア・ペルシャ,ギリシャ,ローマなどのヤペテ系諸勢力の支配下にも置かれました。

      2. カナンの名は,ハムの息子から出たその民族およびその民族が住んだ土地を指しても用いられます。カナンとは,パレスチナのうちヨルダン川の西側の部分を指す元々の名でした。(民数 33:51; 35:10,14)もっとも,カナン系のアモリ人はイスラエルによる征服以前にヨルダン川の東の地に侵出して来てもいました。―民数 21:13,26。

      境界と初期の歴史

      カナンの地の境界に関するごく初期の記述によると,それは,北方はシドンから南西はガザの近くのゲラルにまで及び,南東はソドムとその近隣の諸都市をも含んでいました。(創世 10:19)しかし,アブラハムの時代に,ソドムおよびその「ヨルダン地区の諸都市」はカナン本土とは別にみなされていたようです。(創世 13:12,新)アブラハムとロトの子孫が住んだ後代のエドムとモアブの領土もカナンの地の外と考えられていたようです。(創世 36:6-8。出エジプト 15:15)イスラエル国民に約束されたカナンの領土は民数記 34章2-12節にその輪郭がより詳細に描かれていますが,明らかにそれはシドンよりずっと北に始まり,南は「エジプトの奔流の谷」(新)とカデシバルネアにまで及んでいました。カナン人ではないペリシテ人(フィリスティア人)(創世 10:13,14)はシャロン平原以南の海岸地域を占拠していましたが,その地域も以前にはカナン人の地と「見なされて」いました。(ヨシュア 13:3,新)ケニ人(ミデヤンの子孫,民数 10:29。士師 1:16),アマレク人(エサウの子孫,創世 36:12)などの他の部族もこの地域に侵入していました。―創世 15:18-21。民数 14:45。

      カナンの子孫はバベルでの分散のあと直接にこの地に来て定着したのか(創世 11:9),あるいは最初にハム系諸族の主体と共にアフリカに行き,その後パレスチナの地域に再び上って来たのか,聖書はその点について述べていません。いずれにしても,西暦前1943年,アブラハムがパダンアラムのハランを出てこの地に旅した時までに,カナン人は既にそこに定着しており,アブラハムはアモリ人ともヘテ人(ヒッタイト人)とも多少の交渉を持ちました。(創世 11:31; 12:5,6; 13:7; 14:13; 23:2-20)アブラハムは,その胤つまり子孫がこの地を相続するという約束をエホバ神から繰り返し与えられ,「その地を,その長さと幅いっぱいに行き巡(る)」ようにと指示されました。(創世 12:7; 13:14-17; 15:7,13-21; 17:8,新)この約束を頼みとし,また神の加えられたのろいに対する敬意のゆえに,アブラハムは息子イサクの妻がカナン人ではないように注意を払いました。―創世 24:1-4。

      アブラハムが,そして後にイサクやヤコブが家畜の大群を連れて比較的自由にこの地を動き回れたことは,この地域の人口が当時まだそれほど密でなかったことを示しています。(創世 34:21と比較)考古学的調査の結果も当時の定住者がまだむしろまばらであったことを示しています。海岸ぞいの町の多く,死海地域,ヨルダン渓谷,エスドラエロン平原についてこれが言えます。W.F.オルブライトは西暦前二千年紀初頭のパレスチナについてこう述べています。「概して丘陵地帯はまだ定着民の居住するところとはなっていなかった。ゆえに,族長たちが中央パレスチナの丘陵地や南部の乾燥地帯の全域をさすらったという聖書の伝承はまことに正しい。そこには彼らのための余地がまだ十分にあった」。(「旧約聖書注解」,140ページ)明らかに当時のカナンはメソポタミアの(よってセム系の)影響および支配下にありました。創世記 14章1-7節の記録および一般の歴史にもこの点は示されています。

      アブラハム,イサク,ヤコブが近くに宿営した町として,シケム(創世 12:6),ベテルとアイ(12:8),ヘブロン(13:18),ゲラル(20:1),ベエルシバ(22:19)などがあります。カナン人がこれらヘブライ人の族長たちに強い敵がい心を示すことはなかったようですが,それでも族長たちが攻撃されなかったことには神による保護という大きな要素がありました。(詩 105:12-15)それで,ヤコブの息子たちがヒビ人の都市シケムを襲撃した後にも,「彼らはヤコブの子らの跡を追」いませんでしたが,それは「神の恐怖」がその近傍の諸都市に臨んだためでした。―創世 33:18; 34:2; 35:5,新。

      大飢きんが起きてヤコブが家族を連れてエジプトに移り住むことになった時,カナンの地はその飢きんのために疲弊し,食物供給の面で大いにエジプトに依存しました。(創世 47:4,13-16)一般の歴史によると,イスラエルによる征服に先だつおよそ2世紀の間エジプトはカナンに対する宗主権を行使しました。この時期にシリアやパレスチナの属国の支配者がアメンホテプ三世やイクナートンなどのファラオたちに送った書信(「テル・エル・アマルナ書簡」として知られる)は,その地域でかなりの内部的抗争や政治的策謀の行なわれていた模様を示しています。イスラエルがその境に到着した時(西暦前1473年),カナンは多数の都市国家もしくは小王国が分立する所となっていました。もとより,部族的関係に基づく結合を保っていたところもあったはずです。それより40年ほど前,この地の様子をうかがった斥候たちは,それが実り豊かな地であり,そこにある都市にはいずれも十分に防備が施されているのを見ました。―民数 13:21-29。申命 9:1,ネヘミヤ 9:25参照。

      カナン諸部族の分布

      カナン人の11の部族のうち,アモリ人がこの地で主要な地位を占めていたようです。バシャンやギレアデなどアモリ人がヨルダン河東で征服した地を別にすると,アモリ人に関する言及はこの民がカナン本土の山岳地帯において,その北部でも南部でも強勢を振るっていたことを示しています。(ヨシュア 10:5; 11:3; 13:4)強さの点で第二の地位にあったのは恐らくヘテ人でしょう。ヘテ人は,アブラハムの時代にはヘブロンにまで南下していましたが(創世 23:19,20),後には主に北方,シリア方面に集中したようです。―ヨシュア 1:4。士師 1:23-26。列王上 10:29。

      他の部族の中では,エブス人,ヒビ人,ギルガシ人などが上記の2部族に次いで最も多くイスラエルによる征服時の記録に出て来ます。エブス人はエルサレム周辺の山岳地域を中心としていたようです。(民数 13:29。ヨシュア 18:16,28)ヒビ人は南はシケムから(創世 33:18; 34:2),北方はヘルモン山ろくあたりにまで分散していました。(ヨシュア 11:3)ギルガシ人の領地は明示されていません。

      残る6部族,つまりシドン人,アルワデ人,ハマテ人,アルキ人,

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