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  • 幸福に暮らすことは本当に可能ですか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 1章

      幸福に暮らすことは本当に可能ですか

      「生きているって,いいことだなあ」。幸福な時にはそのように感じます。しかし,現実的な人ならば,人生はいつも幸福であるとは限らないことを知っています。人生には様々な問題が生じます。それがあまりにも多く,あまりにも重大であれば,真の幸福など夢にすぎないように思えます。これはどうにもならないことでしょうか。

      2 幸福な生活には様々な要素が関係しています。生活を楽しむには,十分な食物と適当な衣服,それに雨露をしのぎ,憩うことのできる住まいが必要です。しかし,これらは基本的なものにすぎません。楽しい交わりや健康も大切な要素です。

      3 ところが,このような条件がある程度そろっている人の中にも,真の幸福を熱望する人たちがいます。それは,自分が今している仕事の種類や作業環境に満足できないためかもしれません。また,夫婦や親子の間がうまくいっていない家庭もたくさんあります。それに,わたしたちはみないつ病気になるか,いつ急死するか分からない状態にあるということも無視できません。あなたは,真の満足が得られるように,このような問題や他の問題に対処することは可能だと思われますか。そう考える理由はあります。しかし,幸福に暮らすには,だれもが持っているとは限らないもの,つまり生きる理由がまず必要です。

      4 真に幸福であるためには,生活が意味のあるものでなければなりません。S・M・ジュラード教授は自著「ありのままの自己」の中で次のように述べています。

      「人生に意義と価値を見いだしている限り,また,生きる目的を持っている限り,人は生きるものである……自分の経験に意義や価値や希望が見いだせなくなると,たちまち生きる意欲を失う。つまり死にはじめるのである」。

      今では産業界もこの点を認めています。長期欠勤に関するカナダの一報告書には次のような見解が載せられています。

      「人々は人生に意義を見いだそうとしており,社会機構の中の,強いていなくてもよい,だれとも分からないいわば歯車のような存在ではもはや満足しないようになっている」― アトラス・ワールド・プレス・レビュー誌。

      5 このことから,富んでいる人の多くが心から満足していない理由をうかがうことができます。むろん,その人たちは食べ,眠り,家庭を持ち,ある程度生活を楽しみまた慰安を得ています。しかし,それだけなら動物とあまり変わるところがない,人生はそれだけのものではないはずだ,となんとなく感じているのかもしれません。

      6 また,長生きしさえすれば真に幸福になれるというわけでもありません。年配の人の中には,何かを成し遂げた充実感や自分は有用な存在であるという満足感を味わえないなら長生きしてもつまらないということを,経験から知っている人が大勢います。あなたもそのような人を見て同様に感じたことはありませんか。

      7 生きる高尚な理由のない人は高年層だけに限られるわけではありません。日本の大東文化大学が行なった調査によると,1,500人の高校生のうち,女子の50%および男子の34%はすでに自殺を考えたことがあるということです。それはなぜでしょうか。多くの理由が挙げられましたが,その筆頭は,「人生が無意味である」というものでした。この点でヨーロッパやアメリカやアフリカの場合は大きく異なっているでしょうか。世界中で自殺が増えていることは,不幸な,そして人生に絶望する人が増加の一途をたどっていることを物語っています。

      8 わたしたち自身はそこまで追いつめられた気持ちを抱いてはいないかもしれません。いろいろと問題はあっても,ある程度幸福でいられると考えているかもしれません。それでも,人生には真の意義があるのだろうか,どうすればいつまでも幸福でいられるだろうか,という疑問は依然として残ります。

      9 はるか昔,一人の王は,家庭を持つこと,富を得ること,高い教育を受けること,おいしい食物を楽しむこと,りっぱな建物を建てることなど,人が人生において追求する様々な事柄を観察しました。それらは楽しいことのように思えるかもしれません。しかし,人の心をひどくいらだたせることもその王は知りました。そして次のように問いかけます。

      「一体人は,自分のすべての骨折りと日の下で骨折ってなすその心の追求とによって何を得ることになるのだろうか。そのすべての日々にわたってその営みは苦痛といら立ちであり,また夜の間もその心は休まることがない。これも実にむなしい」。a

      10 のちほど王は,遠からず人に臨む事柄,つまり視力や手足は衰え,歯は悪くなり,また抜け落ち,眠りは浅くなり,ついには死ぬことを述べて,人生のむなしさを強調しています。b

      11 ですから,たとえ人生に幸福を見いだせると思っても,すべての人間にかかわる難問もあります。現在は特にそう言えます。なぜでしょうか。編集長のバーモント・ロイスター氏は,ほぼ50年間に人間の知識は飛躍的に拡大し技術は進歩向上したと述べましたが,同時にこう付け加えました。

      「これは不思議なことだと思う。人間そのもの,また人間が陥っているジレンマ,この宇宙で人間が占めている位置などを静かに考えてみると,我々は時間が始まった時からほとんど進歩していない。人間とは一体何なのか,なぜ存在しているのか,今後どうなるのかという疑問はそのまま存在している」― サイエンス・ダイジェスト誌。

      12 むろん,そういう疑問を無視して“生活を楽しもう”とする人もいることでしょう。様々な問題はあっても生活に喜びを見いだすのは良いことかもしれませんが,見せかけの生活をするのは実際的とは言えません。c 「人間とは一体何なのか,なぜ存在しているのか,今後どうなるのか」ということを理解できるようになれば,わたしたちの生活は真に意義のあるもの,そして幸福の基を持つものとなるでしょう。それはわたしたちに理解できるのでしょうか。

      13 まじめに物事を考える人の多くは,「神は存在するか」という根本的な問題を解決しなければその答えは得られないという結論に達しています。神が存在するのであれば,当然,神は人間の起源や,現在人間が存在している理由,これからどうなるかということを知っておられるはずです。また,悪が存在している理由や悪が終わるのかどうかということ,終わるとすれば,どのようにして終わるのかということもご存じのはずです。そして,人生をより幸福な,より有意義なものにするにはどうすればよいかということも知っておられるはずです。では,「神は存在するのでしょうか」。

  • 神を信じることは道理にかなっていますか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 2章

      神を信じることは道理にかなっていますか

      人が直面する最も重要な問題の一つは,「神は存在するか」という問題です。このことに関しどんな結論に達するかによって,家族や仕事,お金,道徳などに対する見方や命そのものに対する見方まで変わってきます。

      2 「神は存在すると思いますか」と尋ねられると,多くの人は本で読んだり他の人から聞いたりしたことをそのまま答えることでしょう。しかし,この問題は自分で考えるべき性質のものです。アイバー・リスナー博士は「人間,神および魔術」と題する著書の中で「人間と獣の根本的な相違」について,「人間はただ眠り,食べ,体を温めることだけでは満足しない」,人間は「霊性」とも呼べる「心を駆りたてる不思議な力を生来」持っていると述べています。そして,『人類の文明はすべて神を探し求めることから始まっている』と付け加えています。ですから,「神は存在するか」という問題に真正面から取り組むことは,その大切な属性,つまり霊性をなおざりにしていないことの証拠です。

      3 では,ある辞書が神と定義している,『宇宙の造り主であり支配者である宇宙の主権者』が存在するかどうかを見定めるには,どのようにすればよいでしょうか。道理から言って,『宇宙の造り主』がいるなら宇宙に始まりがあったことを示すものや,設計がなされた証拠,また秩序が見られるはずです。それらの有無を調べるにあたって,生物学者が生命について発見した事柄,物理学者と天文学者が望遠鏡や探査機で宇宙に関して学んだ事柄などを考えてみるのは有益です。

      人の命は偶然にできたものですか

      4 まずわたしたち人間のことから始めることにしましょう。人は命をどこから得たでしょうか。むろん両親から得たことに間違いありません。しかし,地上の生命は最初どのように生じたのでしょうか。

      5 化学者たちは,研究室で生命をつくり出してその起源を解明するという目的で,特別の気体の混合物に火花を浴びせました。その一つの結果として幾つかのアミノ酸(生命体のいわば“建築用材”とも言うべき分子)ができました。しかし,それらのアミノ酸は生命体ではありませんでした。また,単なる偶然の結果できたものでもなく,知識と経験に富む科学者たちが近代的な研究室で一定の条件の下につくり出したものです。

      6 自然界には200種余りのアミノ酸がありますが,生物のたんぱく質には20種類の特殊なアミノ酸が含まれているだけです。たとえ稲妻の作用で幾つかのアミノ酸ができたとしても,生物に見られるちょうど必要な20種類のアミノ酸をだれが選んだのでしょうか。また,それらのアミノ酸はどのようにして,たんぱく質の構成に必要な順序に正確に配列されたのでしょうか。化学分析の専門家J・F・コペッジ博士の計算によれば,アミノ酸の偶然の配列によって1個のたんぱく質分子ができる確率は10287分の1です。(10287は10にゼロが287個ついた数。)さらに同博士は,『理論上の最小生命体には』一つのたんぱく質分子ではなく,『最低239のたんぱく質分子が必要である』と指摘しています。このような証拠から,生命は全く偶然の所産であると考えられるでしょうか。それとも生命は理知ある設計によるものでしょうか。

      7 「生命の創造」というふうに新聞で報道されたもう一つの実験についても考えてみましょう。科学者たちは複雑な装置を使って,生命を有する有機体からウイルスを1個取り,その構成成分を分離しました。そのあと,それらの成分を再び集めてウイルスにしました。しかし,生物学者のルネ・ドュボスはブリタニカ百科事典(英文)の中で,この偉業を「生命の創造」と呼ぶのは実際に間違いであると述べています。その科学者たちも他の科学者たちも,無機物質から新しい生命をつくり出すことに成功してはいません。この実験は,生命が偶然に生じたことを示しているというより,生命に必要とされる「生物学的仕組みのすべて」は「先に存在していた生命によってもうけられなければならなかった」ことを明らかにしました。

      8 仮に科学者が無機物質から生命を有するたんぱく質をつくることができたとしても,そのことは,方向付けをする力として,先に存在する理知ある生物が必要であることを確証するにすぎません。人間が地上にいて生物を造ったのでないことはいうまでもありません。しかし,人間を含め生物は造られました。ではだれが造ったのでしょうか。聖書の筆記者たちははるか昔に,真剣な考慮に値する一つの結論を出しました。一人の筆記者は「全能者の息がわたしに命を与えた」と述べ,別の筆記者はさらに,「[神]こそ万有の命の与え主」a と語りました。

      9 人体を詳しく調べるなら,この点に関してさらに検討するのに役立ちます。

      細胞 ― 脳 ― 人

      10 約100兆個の小さな細胞から成る人体の中では生命が躍動しています。細胞は地上のあらゆる生物の基本的な構成要素です。注意深く研究すればするほど,それは一層複雑なものに見えてきます。

      11 人体の各細胞は,顕微鏡でしか見えない,城壁をめぐらした都市にたとえることができます。細胞には,エネルギーを発生させる発電所に相当する部分が幾つかあります。細胞内の“工場”はホルモンやたんぱく質をつくり,体の他の部分に送り出します。化学物質を細胞の内外に運ぶための,網の目のような複雑な経路があります。また,細胞内に運び込まれたものを制御したり,侵入者と闘ったりする“歩しょう”が立って番をしています。これらの働きすべてを支配しているのは,細胞の“市役所”ともいうべき核です。核は細胞のあらゆる活動を指揮し,遺伝の青写真をその中に持っています。細胞のある部分はあまりにも小さいため,20万倍の電子顕微鏡を使っても,細かなところをはっきり見ることはできません。(アリを20万倍に拡大するとすれば,その体長は大体,800㍍余りになる。)人体をつくり上げている100兆個の小さな細胞の一つ一つがそのように驚くほど複雑な組織になっていることは,何を物語っているでしょうか。

      12 人はみな最初は1個の受精した細胞で,母親の胎内にいました。その1個の細胞が分裂して2個の細胞となり,ついで4個となるというぐあいに細胞分裂が次々に行なわれていきました。後に,その一部は筋肉組織になり,一部は目や骨や心臓となりました。細胞が適切な時に,位置をたがえることなく,人体のそれぞれの部分になるのはどうしてでしょうか。例えば,細胞がひざや腕の上にではなく,所定の位置で殖えて耳になったのはなぜでしょうか。

      13 もっと詳しく調べてみましょう。各細胞には,幾万もの遺伝子と重要なDNAがあり,そのDNAは,どのように働きどのように増殖するかということを細胞に教えます。各細胞のDNAは,1,000巻の百科事典をうずめ尽くすほどの情報を含んでいると言われています。髪の毛の色,成長の速度,どんな笑顔をするか,その他無数の細かな点はDNAが決めました。そのすべては,母親の胎内にあった1個の細胞のDNAに“書き記されて”いたのです。

      14 細胞についてこのように二,三の点を考えてみただけでも,驚くべき遺伝の青写真や細胞を親が意識的に用意したのでない以上,一体だれがそれをしたのだろうか,理知のある設計者を度外視して,納得のいく説明をすることができるだろうか,という疑問が生じます。

      15 人の器官の中でも一番驚嘆すべき器官は,自分では決して見ることのない脳ではないでしょうか。脳は地上の人間の数の2倍を上回る約100億の神経細胞から成っています。そして,各細胞は他の神経細胞との間に数多くの連結を持っているようです。その結合の総数は想像もつかないほどの数に上ります。

      16 脳には無数の事実や映像が収められていますが,脳は単なる事実の倉庫ではありません。結び目の作り方や外国語を話すこと,パンを焼いたり,くちぶえを吹くことを学べるのは,脳が働くからです。また,どんな休暇になるか,水気の多い果物はどんな味がするか,などを想像することもできます。さらに,何かを分析したり創り出したりすることができます。計画すること,感謝すること,愛すること,自分の考えを過去や現在や未来と関連付けることも可能です。脳の設計者はどんな人間の知恵よりも高い知恵を持っています。なぜなら科学者たちは次のように言っているからです。

      「こうした働きが,目をみはるようなパターンの,整然としていてしかもとてつもなく複雑なこの機械とも言うべきものによってどのようになされるかは,明確には分かっていない。……人間が脳に関するなぞのすべてを解明することは決してないだろう」― 科学アメリカ誌。

      17 至上者なる創造者が存在するかどうかを考える上で,体の他の部分を見過ごすことはできません。目はどんなカメラよりも精巧で適応性があります。耳は様々な音を聞き取り,方向感覚や平衡感覚をつかさどることができます。心臓は最も優秀な技術者の能力をもってしても模造することのできない高性能のポンプです。さらに挙げるならば舌,消化器系統,手などもそうです。大型のコンピューターの設計と組立てを担当しているある技師は次のように言いました。

      「私が造るコンピューターに設計者が必要であったのであれば,まして複雑な物理学的・化学的・生物学的機構を有する私の体を造るのに設計者が大いに必要であったことは言うまでもない。しかも,私の体は無限に近い宇宙のごく微小な部分にすぎないのである」。

      宇宙の「第一原因」

      18 今から3,000年ほど昔,中東に住んでいたエリフという名の人は,『天を仰いで,見よ』b と言いました。

      19 あなたは月のない晴れた夜に空を見上げたことがありますか。すべての人がそうしてみるべきです。肉眼で見える星の数は5,000個ほどにすぎませんが,一つの星雲を成すわたしたちの銀河系には1,000億を超える星があります。一体,星雲は幾つぐらいあるのでしょうか。天文学者によれば,それは幾十億もあります。星ではなくて星雲がそれだけあるのです。そしてそれぞれの星雲は何億という星の集まったものです。これらに比べると人間はなんと微々たる存在なのでしょう。ところでこれらのものはどうして存在するようになったのでしょうか。

      20 星雲は宇宙の中心点から飛び去っているらしい,ということを科学者は発見しています。多くの天文学者の理論によれば,幾十億年もの昔に起きた大爆発,“ビッグバン”によってエネルギーと物質が拡散しはじめ,現在のような宇宙になったということです。その理論は,爆発を引き起こしたものが何かを説明していませんが,興味深い事柄を示唆しています。つまり,宇宙に始まりがあった,宇宙が誕生した時があったということです。

      「宇宙が“ビッグバン”によってできたという考えを支持する証拠が増えているために,現在科学界が動揺しているのが感じられる。そのことから,その爆発の前に何が起こったのかという疑問が生じる。そして科学者たちは根本的な問題に答えられないことを痛感させられて,最も基本的な考えをゆさぶられている」― ウォール・ストリート・ジャーナル紙。

      21 神を信じない人々にとっては確かに難解な問題が幾つかあります。宇宙に物質を存在させるようにしたのは何か,あるいはだれか,宇宙は無から創造されたのか,物質はエネルギーの一形態であると考えられているが,そのエネルギーの源は何か,などの問題がそれです。

      22 米国航空宇宙局ゴダード宇宙研究所の所長,ロバート・ジャストロー博士は,「そのような証拠を考えると,宇宙を創造した神が存在するという考えは,他の多くの考えと同様科学的に納得のいくもののようである」と述べました。

      23 どの時代においても,知識のある人々は,理知を持つ第一原因,至上者なる創造者が存在するに違いないという結論に達しています。彼らがどのように感じていたかを聖書は次のように言い表わしています。「天は神の栄光を告げ知らせ,大空はみ手の業を語り告げる」。c

      24 神は存在すると結論しているにせよ,そうでないにせよ,生命や人体や宇宙に関してこれまで考慮してきたことは,多くの考え深い人々が神の存在を確信している理由を説明するのに役立つはずです。神が存在するということになると,それに関連して次のような疑問が起こります。つまり創造者が間違いなく存在するのであれば,創造者は被造物と通信して,人間は何のために地球上にいるのか,悪がはびこっているのはなぜか,将来はどうなるか,どうすれば幸福を見いだせるか,といった疑問に答えてくださるのは当然ではないだろうか,という問題です。

      [脚注]

      a ヨブ 33:4; 使徒 17:25,新英訳聖書。

      b ヨブ 35:5,新英訳聖書。

      c 詩 19:1,新。

      [研究用の質問]

      『神は存在するか』ということについてよく考えなければならないのはなぜですか。(1-3)

      地上の生命はどんなことを示唆していますか。(4-9)

      神の存在について考える際に役立つどんなことを,人体の細胞に関して学べますか。(10-14)

      人間の脳には,それが設計されたものであることを示すどんな証拠が見られますか。(15-17)

      多くの人はどんなことから,宇宙は神によって創造されたという結論に達しますか。(18-24)

      [13ページの囲み記事]

      「今日,生物学を扱う科学者の少なくとも8割は,生活現象と生命が何らかの高い力によって統制されていることを認めているものと考えられる。

      「種々の生命現象や細胞および分子レベルの基本的な作用に見られるすばらしい秩序と規則性は,より高い力が存在するという考えに大きな影響を及ぼしている」―「アメリカ医師会ジャーナル」。

      [19ページの囲み記事]

      秩序はどこからもたらされているか

      ロンドンにあるキングズ・カレッジの応用数学の講師ポール・ディビース博士は「ニューサイエンティスト」誌の中で次のように書いています。

      「はるかかなたにある多くの星雲から原子の深奥に至るまで,宇宙のどこを見てもそこには秩序がある。……情報と秩序は自然の傾向としてなくなるのが常であるならば,世界をこのような特別の場所とする情報のすべては元来どこからもたらされたのだろうか」。

      英国の有名なジョドレル・バンク天文台のバーナード・ラベル卿は,アルバート・アインシュタインが述べた次の言葉に共感を覚えると書いている。

      「自然の法則のすばらしい調和には驚嘆するほかはない。この調和に見られる知恵は卓絶していて,これと比べるなら,人間の組織的思考や行動はみな,全く取るに足りないものである」―「無限の空間の中心」。

      [13ページの図版]

      人の細胞

      ミトコンドリア エネルギーを出す化学物質をつくる

      核 細胞のあらゆる活動を支配する

      網状の経路 化学物質の搬入と搬出を行なう

      リボゾーム 体の他の部分へ送るたんぱく質とホルモンをつくる

      細胞膜とたんぱく質 細胞内に入れるものを制御し,侵入してくるものと闘う

      [15ページの図版]

      脳の働きによって

      自転車のバランスをとり,

      近付いて来る自動車の音を聞き,

      花の香りをかぎ,

      そよ風を感じ,

      犬を見守り,

      家へ帰る道を覚えていることができる

      [17ページの図版]

      人体を設計したのはだれだろうか

      脳: コンピューターよりはるかに優れており,現在人が一生の間に使う能力の10億倍もの能力があるとされている。

      目: 全自動,焦点自動調整,ピンボケ防止,カラー映画撮影機。

      心臓: 人間が考案したどんな機械よりもはるかに効率のよいポンプ。毎日5,700㍑以上の血液を送り出す。

      肝臓: 500以上の機能を持つ化学工場。1,000種類を超える酵素を製造する。

      骨: 重さはわずか9㌔しかないが,鉄の大梁と同じほどの強さを発揮する骨組み。

      神経組織: 毎秒1億の刺激を感じるかまたはそれに基づいて活動する情報伝達網。

      [20ページの図版]

      無数の星雲がある宇宙はどのようにして出現したのだろう

  • 導きはどこに見いだせますか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 3章

      導きはどこに見いだせますか

      幸福の妨げとなるものは何でしょうか。人が直面する様々な問題でしょうか。そのような問題の中には健康や金銭,性,家族のことなどが関係した,個人的な性質の問題もあれば,犯罪の危険,生活必需品の欠乏,仕事上の失敗,偏見,戦争の脅威といった問題もあるでしょう。確かに,ほとんどの人は幸福の妨げとなる問題を抱えています。

      2 最高の教育を受けた,経験の豊かな人々の努力にもかかわらず,問題は解決するどころか悪化しています。昔に書かれた次の言葉は真実となっています。『人の道はその人自身によらない。歩む方向づけをするのは歩く人によるのではない』。a 永続的な幸福を見いだしたいと思うなら,人間よりも知恵のある者の導きが必要であることは明らかではないでしょうか。しかし,そのような導きはどこから得られるでしょうか。

      3 宇宙はある意味で,創造者を証しする“創造の本”である,と考える人は少なくありません。昔のあるヘブライ人の王もそう考え,『天は神の栄光を告げ知らせる』と書き記しました。その王はまた,創造者が,『経験のない者を賢くし』喜びにあふれさせる知識を文字通りの書物として備えてくださったと述べました。b

      4 人間が意思を伝達する能力を持ち,宇宙空間から地球に情報を伝えることさえできるのですから,人間の創造者も当然同じことができるのではないでしょうか。それに地球には,創造者が人類に関心を持っておられる証拠となるものが数多くあるので,創造者が人間を助けたいと思っておられることが理解できます。それは,愛情豊かな家族において親が子供に知識を伝え導きを与えるのと同じです。しかし,人間の創造者は人間の益のためにどのようにしてそれを行なわれるのでしょうか。

      5 文字に書くことは,昔から,情報を正確に,長く残るように伝える優れた手段となっています。文書にされたものは,口頭のみで広く伝えられる音信よりも誤りがずっと少ないに違いないからです。また本であれば,幾冊も作ったり,どんな言語を話す人でもその内容を読むことができるように翻訳したりすることが可能です。人間の創造者が情報を伝えるのにそのような手段をお用いになったのは道理にあったことに思えないでしょうか。

      6 聖書ほどに,神からの手紙と考えられてきた宗教書はほかにありません。だからこそ,聖書の普及率にはめざましいものがあるのです。人類の創造者がすべての人に対する音信を収めた本を備えるのであれば,その本は多くの人が入手できるものであるはずです。聖書は正にそのような本で,世界人口の97%が自分の言語で聖書を読むことができます。聖書のように幾十億冊も生産配布されている宗教書はほかにありません。

      7 確かに聖書は全人類のための宗教書です。なぜなら,聖書は文明発祥の地の近くで書きはじめられ,全人類の歴史をその始まりにまでさかのぼっている唯一の聖典だからです。さらに聖書は,「地のすべての国」の人々に永続的な祝福を楽しむ機会を差し伸べるという神の目的を伝えています。―創世 22:18,新。

      8 ブリタニカ百科事典(英文)は聖書を「人類史上最大の影響力を有する書の集大成」と呼んでいます。聖書はどの聖典よりも歴史にきわめて広範な影響を及ぼしてきた本です。ですから,聖書を読んだことがなければ,十分な教養を身に着けたとはみなせないとさえ言えるでしょう。

      9 それでも一部の人々は聖書を避けてきました。その原因は大抵,聖書に従っているはずの人々や国家の行ないにありました。ある国々では,聖書は戦争に導く本,植民地主義の本,あるいは『白人の本』などと言われています。しかし,それは誤った見方です。聖書は中東で書かれました。聖書は,キリスト教の名の下に行なわれてきた植民地戦争や貪欲な搾取をよしとしてはいません。それとは反対に,聖書を読むと,利己主義から生まれる戦争,不道徳,他人を搾取することなどを強く非難していることが分かります。悪いのは貪欲な人々であって,聖書ではありません。(ヤコブ 4:1-3; 5:1-6)ですから,聖書の助言に反した生き方をする利己的な人々の不行跡を見て,聖書に含まれる貴重なものにあずかり損なわないようにしてください。

      どんなことが書かれているか

      10 初めて聖書を読むとき,多くの人は驚きます。聖書が本来戒律や教義を収めた本でなく,また普通の人にはほとんど意味のない,ばく然としたことわざや哲学の収録でもないことを知るからです。聖書は,わたしたちと同様に心配事や問題を抱えていた,実在していた人々のことを述べています。また,過去において神が人間とどのように交渉を持たれたかをも示しているので,今のわたしたちに対する神のご意志を洞察することができます。聖書の巻頭の書,創世記をぜひお読みください。その興味深い内容から,全人類に対する神の目的に関して多くのことを学ぶことができます。また,何が人の幸福を損なうかについても教訓が得られます。さらには,人を成功に導き,また神を喜ばせる特性や行ないについても学べます。

      11 聖書の66冊の本の中には,古代イスラエルの歴史と宗教活動を扱っている本があります。(楽しく読める本を二,三挙げるなら,出エジプト記,ヨシュア記,サムエル前書などがあります。)その歴史が書き記されたのは,わたしたちがそれから益を得るためでした。(コリント第一 10:11)ですから,神はもはやある特定の国を指導することも,古代イスラエルだけに与えた律法をすべての人が守るよう期待することもなさいませんが,わたしたちは聖書のそれらの本から多くを学ぶことができます。また,あとで分かりますが,神がイスラエル人に対して行なわれたこと(イスラエル人が神に捧げた動物の犠牲も)は,わたしたちの生活にとって意味があります。

      12 聖書の全体を把握するためには,イエスの生涯に関する記録を少なくとも一つ読むことも必要です。短いマルコの福音書などは適当でしょう。そのあと,「使徒たちの活動」に収められている,キリスト教が確立される過程についての胸の躍るような記録をお読みください。それから,ヤコブの手紙にあるような,クリスチャンに対する聖書の実際的な助言を読んでみるとよいでしょう。聖書の各部が持つ基本的な特質を一通り味わってみるなら,聖書が幾世紀にもわたって大いに重んじられてきた理由を知るのに役立ちます。

      13 聖書を読むときに理解できないことが少しくらい出てきても,あきらめないでください。聖書には意味の深い事柄がたくさん書かれているのです。人類が幾世紀にもわたって研究するために創造者が備えられた本なのですから,それは当然のことでしょう。(ペテロ第二 3:15,16)多くの疑問があっても,答えはそのうちに分かってきます。聖書の記録は相互に関係しているからです。一つの箇所で幾つかの疑問を感じても他の聖句がそれに答えてくれます。聖書は読めば読むほど,有益で納得のいく本だということがよく分かってきます。また,聖書に書かれている事柄は,大抵の教会が教えている事柄や習慣的に行なっている事柄とはひどく違うということにも,すぐに気付きます。そうなると聖書全巻を読みたいという意欲が生まれ,いつしか聖書を繰り返し開くようになるでしょう。

      聖書 ― その源は何か

      14 文学書あるいは古代の知恵の書として聖書に敬意を表しながらも,聖書は神の言葉ではなく人間が考えて書いたものだと思っている人たちもいることでしょう。事実はどうでしょうか。

      15 聖書を読んでいくと,なるほどその内容は色々な人によって書かれたのだということが分かります。最初の人はモーセで,西暦前1513年から書きはじめています。最後の人はイエスの使徒ヨハネで,西暦1世紀の終わりごろに書いています。全部で40人ほどの人が聖書の様々な本を書きました。その人たちはどんな人々だったでしょうか。自分個人の欠点も自分の国の欠点もためらわずに示す謙そんな人々でした。彼らはまた,神から書くように命じられた事柄を書いたとも述べていますから,その正直さも注目に値します。サムエル後書 23章1,2節,エレミヤ記 1章1,2節,エゼキエル書 13章1,2節などはその良い例です。このことからわたしたちは,『聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です』という聖書の保証の言葉を真剣に考慮するよう促されるのではないでしょうか。―テモテ第二 3:16。ペテロ第二 1:20,21。

      16 聖書筆記者たちの筆になるものは,多くの点で大抵の古代の記録とは異なっています。古代史の研究者ならだれでも知っている通り,エジプト,ペルシャ,バビロンその他の古代諸国家の記録には神話が含まれており,支配者のことや彼らがたてた手柄のことが実際以上に大げさに述べられています。それとは対照的に,聖書は真実と正確さを特色とします。聖書は,確証できる,そして年代を確定することさえできるはっきりした名前や詳細な事柄で満ちています。例えば,ダニエル書 5章にはベルシャザルというバビロニアの支配者のことが記されています。批評家たちは長い間,ベルシャザルは実在の人物ではなく,ダニエルが創作した人物であると主張していました。近年になって粘土板が発掘され解読されました。その内容はダニエルの記録と細かな点まで一致しています。それで,R・P・ドアティ教授(エール大学)は,聖書は他の書物よりも正確で,ダニエル書が聖書に示されている通りの時代に書かれたことを証明していると書いています。―「ナボニドスとベルシャザル」。

      17 エルサレムへ行くと,堅い岩をくり抜いた昔のトンネル水路の中を通ることができます。この長いトンネルが発見され,中がきれいにされたのは,19世紀のことです。なぜそれが興味深いことなのでしょうか。なぜなら,そのことは,2,000年余り昔に聖書に記録された事柄,つまりヒゼキヤ王がエルサレムに水を引いたということを確証するからです。―列王下 20:20。歴代下 32:30。

      18 聖書が歴史的に見ても地理学的に見ても信頼できるものであることを証明する例はこのほかにもたくさんあります。しかし,関係しているのは単に正確さだけではありません。現代の歴史書の中にも正確な本はあります。聖書には,単なる人間が書いた本であるならば説明のつかない事柄が書かれているのです。それらの事柄を注意深く調べて,聖書が至上者からのものであると確信した人は少なくありません。

      19 聖書は科学の教科書として書かれてはいませんが,科学的な事柄に触れる場合,その内容は正確で,書かれた当時の人間が得られるはずのない知識を反映しています。例えば,アルノ・ペンズィアス博士(1978年のノーベル賞受賞者)は宇宙の起源について次のように語りました。

      「私の言いたいのはこのことです。すなわち,たとえモーセ五書,詩篇,聖書全巻以外に何もよりどころとするものがなかったとしても,現在ある最も優れたデーターに匹敵する事柄を予言し得たであろうということです」。

      さらに,創世記には,現在科学者の間で一般に認められているのと全く同じ順序で,生物の種類が次第に増えていったことが記されています。(創世 1:1-27)また,他の国の人々が地球は象や巨人によって支えられているといった神話を教えていたのに対し,聖書は,地球が何もないところに懸かっていて,しかも丸い,と正確なところを示しています。(ヨブ 26:7。イザヤ 40:22)科学者が近年になって“発見”した事柄を聖書の筆記者たちはどのように知ったのでしょうか。自分たちよりも高いところから情報を得たに違いありません。

      20 聖書の源を明らかにする,さらに大切な事柄があります。それは預言です。人間は将来の出来事を推測することはできますが,将来のことを終始一貫して正確に予告することはとてもできません。(ヤコブ 4:13,14)ところが聖書はそのことをしているのです。バビロンが世界強国となってエルサレムを荒廃させるはるか以前に,神は,バビロンが敗北して倒れることを予告するよう預言者イザヤにお命じになりました。およそ200年も前に,神はバビロンの征服者がクロスという名前の人物であること,そして,バビロンの都市がどのように陥落するかということをお告げになりました。イザヤはバビロンの最終的な荒廃について詳細な点まで記しました。それはその荒廃が臨む1,000年余り前のことでした。(イザヤ 13:17-22; 44:24-45:3)それはことごとく成就しました。ティルスとニネベに関する聖書の預言もやはり成就しています。(エゼキエル 26:1-5。ゼパニヤ 2:13-15)中東の遺跡を見学すれば,その証拠を自分の目で確かめることができます。

      21 ダニエル書はまた他の国際情勢の進展についてもはるか以前に予告していました。バビロンはメディア-ペルシャによって征服され,そしてメディア-ペルシャはギリシャに敗れます。ギリシャの傑出した指導者(アレクサンドロス大王)が死んだあと,4人の部下がギリシャ帝国の支配権を執ります。(ダニエル 8:3-8,20-22)それはあらかじめ書き記された長期間にわたる歴史であり,予告通り確かに成就しました。ダニエルはどうして将来のことが分かったのでしょうか。唯一の納得のゆく答えは聖書そのものにあります。「聖書全体は神の霊感を受けた」と聖書は述べています。これはわたしたちに関係のある事柄です。というのは,あとの章で考えますが,聖書はわたしたちの時代に起きた事柄を預言していたからです。そればかりか,聖書は,これから起きる事柄も鮮明に述べています。c

      22 聖書は,将来のことを扱っているだけでなく,現在の事柄に首尾よく対処するための助けも与えてくれます。また多くの苦しみが存在する理由も説明していますし,人生の目的を理解する助けも与えます。また,聖書は個人的に様々な問題を克服して,現在も将来も人生に最大の幸福を見いだす方法に関する創造者の導きを差し伸べています。このあと幾つかの章で,聖書の実際的な助言と共に,人生の諸問題を幾つか考慮したいと思います。しかし,まず,その助言を与えてくださった方をよりよく知るのが順序というものでしょう。

      [脚注]

      a エレミヤ 10:23,改訂標準訳聖書。

      b 詩 19:1,7,8,新。

      c 聖書は神が書き記させた本であるということについてさらに調べたい方は,ものみの塔聖書冊子協会発行の「聖書はほんとうに神のことばですか」と題する本をお求めください。

      [研究用の質問]

      神が導きとなる本を備えてくださったということはなぜ道理にあったことと言えますか。(1-5)

      聖書を尊重すべきどんな理由がありますか。(6-9)

      聖書にはどんな事柄が書かれていますか。(10-13)

      聖書が単に人間が著わした本であるかどうかに関して,どんな証拠がありますか。(14-19)

      将来の出来事に関して聖書が述べていることにはどんな意義がありますか。(20-22)

      [22ページの図版]

      人工衛星は地球に情報を送ることができる。創造者にはそれ以上のことができないだろうか

      [23ページの図版]

      神が人類のために本を備えたのは理にかなっていないだろうか

      [27ページの図版]

      ヒゼキヤのトンネル

      エルサレムにあるこの古いトンネル水路の中は歩いて通れる。この水路は聖書が正確であることを確証している。

  • 目に見えないものについて学ぶ
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 4章

      目に見えないものについて学ぶ

      非常に興味をそそるもので人の目に見えないものはたくさんあります。例えば,胎児の発育の不思議は長い間目に見ることのできない一つの“奇跡”でした。ですから,それが初めて写真に撮られたときは大きな驚きでした。

      2 このほかにも,重要なものでありながらわたしたちの目にはどうしても見えないものがあります。磁力や引力などがそうです。しかし,磁力や引力は現実に存在しています。それらが及ぼす影響を観察するとき,磁力や引力について多くを学べます。神についても同じことが言えます。しかし,創造者のことを学びたいなら ― そうあるべきなのですが ― 身を入れて学ばなければなりません。―ヨハネ 3:12と比較してください。

      3 目に見えない神について学ぶ方法はおもに二つあります。イエス・キリストの使徒パウロはその一つに触れて,「神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められる」と書いています。(ローマ 1:20)確かに天地万物は至上者の存在を証ししています。加えて,その至上者の特質,つまり至上者がどのような方であるかを示しています。二つ目の方法はこれよりもはるかに重要です。なぜなら,それによって神に関する一層正確な知識を得ることができるからです。その手段とは,聖書に収められている文字に書かれた啓示です。

      神はどのような方か

      4 聖書に記されているように,イエスは,「神は霊であられる」とおっしゃいました。(ヨハネ 4:24)これはつまり,創造者はわたしたちのように形のある肉体を持ってはおられないという意味です。引力・磁力・電波といった,目には見えなくても現実に存在するものについてよく知っている人にとって,これは受け入れにくいことではないはずです。しかし,神に関する特徴は,わたしたちに識別できる属性を持つ,理知のある生きた人格的存在であるということです。その属性とはどんなものでしょうか。

      5 あなたは岩の多い海岸に大波が打ち寄せては砕けるのをながめたことがありますか。あるいは火山の強大な威力を目撃したことがありますか。それらは,創造者が持っておられるに違いない力を小規模に表わしているにすぎません。創造者は地球とその自然力をお造りになった方だからです。

      6 科学者たちは,E=mc2というアインシュタインの有名な方程式に基づいて,すべての物質は基本的な原子の中にとじ込められているエネルギーにすぎないと説明します。人間は原子爆弾を爆発させて,それが事実であることを証明してみせました。しかし,その大爆発によって放出されるエネルギーは原子が本来持っているエネルギーの1%にも満たないということです。宇宙のすべての原子を結合させた創造者の恐るべき力を考えてみてください。アインシュタインが生まれるはるか昔に,聖書は至上者が膨大なエネルギーの源であることを認めていました。(イザヤ 40:29)この至上者が聖書の中で「全能の神」と呼ばれているのはもっともなことです。―創世 17:1,新。啓示 11:17。

      7 神は幾度も人間に直接影響するような仕方でその力を行使されました。出エジプトはその一例です。このとき神はモーセとイスラエル人をエジプトから救い出されました。出エジプト記 13章21節から14章31節までの短い記録を声を出して読んでください。そして昼は畏怖の念を起こさせる雲の柱,夜は明るく燃える火の柱で保護される人々の中に自分がいたと想像してください。追跡して来た軍隊に追い詰められたかに見えた時はどんな気持ちだったでしょうか。前は紅海です。しかし,あなたを逃がすために,神がその力を用いて水を分け,両側に水の壁を作られるのを見守るところを想像してください。なんとすばらしい神ではありませんか。―出エジプト 15:1,2,11。ダニエル 4:35。

      8 出エジプト記は神が遠方から物事を成し遂げる能力をお持ちであることも示しています。それをするためには,神は目に見えない活動力すなわちご自分の霊もしくは聖霊をお用いになります。その活動力は人格的な存在ではありませんが,強い風のように,力を発揮します。神はその霊を用いて物質の宇宙を創造されました。(詩 33:6。創世 1:2)しかし,人を強めたり助けたりするためにも霊をお用いになることができます。―士師 14:5,6。詩 143:10。

      9 機械を設計し製作した人は機械の構造と機能に関する知識を持っているはずです。であれば,天や地に見られるものは神が膨大な知識を持っておられることを保証していないでしょうか。化学者たちは自然に存在する物質の構造を理解することに一生を費やします。それらの物質を創造された方の知識は非常なものに違いありません。科学者はまた細胞や微生物を研究していますが,創造者は最初に命をつくり出されましたから,そのためにはそうした分野に精通しておられたはずです。

      10 神の知識は宇宙全域に及んでいます。神はその創造物である無数の星の名前を一つ一つ呼ぶことがおできになるのです。(イザヤ 40:26)神の膨大な知識のごく一部について述べられたとき,ヨブという人は謙そんな態度で次のように告白しました。「私はあなたがすべてのことをなし得ることを知りました。そして,あなたには達成し得ない考えはないことを」。(ヨブ 42:2,新)わたしたちも同じように感じる十分の理由があるのではないでしょうか。

      11 神は知識を的確に応用されるので,いわば知恵そのものでもあられます。例えば,水と空気中の炭酸ガスから,人間や動物の食物として必要な糖とでんぷんを合成することができるように植物を造られました。植物は,また,複合の脂肪やたんぱく質,そして人間が健康を保つために使うビタミンをつくることもできます。人間の食物は,太陽・雨・雷・地中のバクテリアなどが関係する驚くべき循環に全く依存しています。(エレミヤ 10:12。イザヤ 40:12-15)神の行動について学ぶと,人はある聖書筆記者が,「ああ,神の富と知恵と知識の深さよ」と叫んだわけを心の中で認めるようになります。(ローマ 11:33)自分の崇拝を受け入れてくださる神について,あなたもそのように感じることを願うのではないでしょうか。

      人を引き付けるご性質

      12 創造者が思いやりのある,そして豊かに物を供給してくださる方であることは容易に分かります。食物に関する神のご配慮についてはすでに幾らか触れましたが,詩篇の筆記者は次のように述べています。

      「あなたは谷間に泉をわき出させ,山々の間を流れ下らせて野の獣に水をお与えになる,……あなたは家畜のために若草を生えさせ,その植物は人間にも利用される。それは食物を土から得るため,すなわち心を楽しませるぶどう酒,幸福にする酒,体を強くするパンを得るためである」― 詩 104:10-15,エルサレム聖書。

      神は,全人類があり余るほどの食糧を得られるように地球を準備されました。非常な苦しみの原因となる悲惨な食糧不足はたいてい人間の貪欲さや誤った管理に起因しています。

      13 わたしたちの創造者は,命を支えるのに必要なものをあり余るほど豊かに供給するだけでなく,それを楽しめるようにもしてくださっています。神は,栄養はあっても全く味のない食物を備えることもおできになったはずです。しかし滋養の多い食物にもおいしい味があり,しかもその味が変化に富んでいます。また,神がわたしたちを花や果物の美しい色などを楽しめるように造ってくださったことも忘れないようにしましょう。さらに音楽を楽しむ能力も与えてくださっています。こうした事柄を考えるとき,あなたは神についてどのように感じますか。

      14 多くの人は以上のようなことを考えて,神はたいへん愛の深い方に違いないという結論に達しました。使徒ヨハネが『神は愛です』と書いているように,聖書もその考えを支持しています。(ヨハネ第一 4:8)創造者は正に愛そのものです。愛は神の支配的な属性です。神はどんな方かと尋ねられたなら,あなたはまず,神は愛ですと答えるに違いありません。神は人間に対する温かい愛情をやさしく表現なさいます。神は抽象的な観念でもなければ,人間の近付けない絶対者でもありません。愛に満ちた関係の結べる温かい方です。イエスの言葉によると,イエスの追随者たちは神に対して自分の父親のように,自分に関心を持ってくれている親しい者に対するように祈ることができます。―マタイ 6:9。

      15 だれかを本当に愛している場合,その人に良いことがあるように願うものです。神は人間に対してそのような気持ちを持っておられます。愛すればこそ,人間に害となる事柄を警告してくださいます。その警告はわたしたちの保護となると同時に,神の規準や神の行動あるいは反応を人間が理解する助けとなります。例えば聖書には,神は偽りを言うことを憎まれるとあります。(箴 6:16-19; 8:13。ゼカリヤ 8:17)このことからわたしたちは,神ご自身が偽らない方であること,したがって神の言葉はすべて,全面的に信じてよいという確信を抱くことができます。(テトス 1:2。ヘブライ 6:18)ですから,厳しいと思えるような聖書の言葉に行き当たるときには,それを神の愛情深い,義に富まれるご性質,また人間に対する関心の表われとみなすべきです。

      16 さらに聖書は,神が愛に加えて様々な感情をお持ちであることを示して,わたしたちが親しくすることのできる方として神を見るよう助けてくれます。例えば,人間がご自分の義の道に逆らったとき,神は「苦痛を感じ」られたとあります。(詩 78:8-12,32,41,新)人間が正しいことを擁護するなら,神は『喜ばれ』ます。(箴 27:11,新。ルカ 15:10)わたしたちが間違いをするとき,神は同情やあわれみや理解を示してくださいます。そのことを述べている詩篇 103篇8節から14節を読むと励みが得られます。創造者は,すべての人に日の光と雨を与え,人種や国籍を問わずに人々の崇拝を受け入れる公平な方でもあられます。―使徒 14:16,17; 10:34,35。

      17 幸福はわたしたちほとんどが望んでいるものです。したがって,わたしたちには至高者を知るようにならねばならない理由があります。聖書は至高者を「幸福な神」と述べており,わたしたちが幸福になるのを望んでおられることも示しているからです。(テモテ第一 1:11。申命 12:7)神はご自分に信仰を示す人々にいつも報いを与える方です。(ヘブライ 11:6; 13:5)神は人間が無限に健康かつ幸福でいられる道を設けてくださいました。そのことについては後の章にゆずります。

      唯一無二の神

      18 創造者に関して聖書が明らかにしているもう一つの大切な事柄は,創造者に固有のみ名があるということです。そのみ名はヘブライ語でיהוהと四つの子音字で書き表わされます。現代のほとんどの言語には,その特有のみ名に対して一般に使われる訳語があります。日本語ではそれはエホバです。詩篇 83篇18節(新)の言葉によれば,人々は「エホバという名を持たれるあなたが,そのあなたのみが全地を治める至高者であることを知る」べきであることが分かります。(ヨハネ 17:6と比較してください。)エホバのみが至高者であるという点に注意してください。至上者はただ一人しかいないのです。古代イスラエル人はそのことをしばしば次のように言い表わしました。「わたしたちの神エホバはただひとりのエホバです。それで,あなたは心を尽くし,魂を尽くし,活力を尽くして,あなたの神エホバを愛さなければなりません」― 申命 6:4,5,新。ヨハネ 17:3と比較してください。

      19 道理からしても分かるように,わたしたちの神エホバは永遠の神です。科学者によれば,宇宙の歴史は幾十億年ということですから,宇宙の創造者は当然それ以前にすでに存在しておられたはずです。そのことは,聖書が創造者のことを始めも終わりもない「とこしえの王」と呼んでいるのと一致します。(テモテ第一 1:17。啓示 4:11; 10:6)永遠に存在しておられるエホバに比べるなら,地上の人間の数千年などほんのひとときにすぎないのです。―詩 90:2,4。

      目に見えない者はほかにもいる

      20 聖書は霊者も創造されて存在していることを明らかにしています。全能者は長い間独りで存在しておられましたが,その後,他の霊者を創造することになさいました。まず,「全創造物の初子」であり「創造の初め」である方をお造りになりました。(コロサイ 1:15。啓示 3:14)創造が始まったとき,その初子は創造者と共にいました。後にエホバは初子を,他の者たちと対話する際の代弁者つまりことばとしてもお用いになります。(ヨハネ 1:1-3。コロサイ 1:16,17)やがて初子であるそのみ子は,人間となるために地に遣わされました。それがイエス・キリストです。―ガラテア 4:4。ルカ 1:30-35。

      21 神は最初に創造したみ子を用いて創造の業を行なわれ,一般にみ使いとして知られている他の霊者をお造りになりました。その霊者たちは神の使者となったり,人間のための奉仕を含む宇宙内の様々な務めを果たします。―ペテロ第二 2:11。ヘブライ 2:6,7。詩 34:7; 103:20。

      22 理屈からしても,また聖書の示すところからしても,神によって創造され地に遣わされた初子なるみ子がみ父と同等であるということは考えられません。聖書を信じると唱える人の中には,イエスとみ父は,一つの混成の神の同等の構成要素であると教える人がいます。これは新しい考えではありません。古代には,一群の神々を崇拝する宗教は少なくなかったからです。しかし,これに反して聖書は,イエスが別個の存在で,全能の父から力を与えられたことをはっきりと述べています。したがって,全能者はイエスが知らないことも知っておられたこと,また,地上にいた時もそのあともイエス・キリストは決してみ父と同等ではなかったことは確かです。―ヨハネ 5:30; 8:28; 14:10,28。マルコ 13:32。

      23 み子は長期間天で全能の神と親しい間柄にありましたから,神から学び,神の物事の仕方を見倣うことができました。ですから,一人の弟子が「わたしたちに父をお示しください」と言った時,イエスは「わたしを見た者は,父をも見たのです」とお答えになりました。(ヨハネ 14:8,9; 1:18)イエスの地上における生涯についての聖書の記録を調べると,神が物事を行なわれる理由や,わたしたちがどうあることを望んでおられるかなど,み父について多くの点を学ぶことができます。ある時イエスは,「わたしは道であり,真理であり,命です」とおっしゃいました。(ヨハネ 14:6)わたしたちがイエスをより良く知り,そうすることによってみ父をも知ることは非常に大切です。ヨハネの福音書を読むと大変参考になります。その場合,単なる事実や詳細だけを追うということをしないで,キリストが持っておられたような精神を吸収することに努めてください。イエスは,あなたが学び得る最も重要な人物です。

      わたしたちは神を必要としている

      24 創造物を観察し聖書を読んで全能者のことを学ぶにつれ,人間は神から独立して生きるようには造られていないということが分かってきます。わたしたちは神と関係を持つように造られました。わたしたちの命は神から与えられたものであり,それは,神が日ごとに備えてくださるものによって支えられています。神と神の言葉である聖書から独立しようとすることは,詳しい地図を持たずに道を探しながら見知らぬ荒野を通ろうとすることに等しいと言えるでしょう。そのようなことをすれば,やがてすっかり道に迷い,命を支えるものがなくなって死ぬことになるでしょう。人間が生活の中で神と神の導きをないがしろにするなら,同様の結果になります。聖書と歴史から見て確かなことは,最善の生き方をするには衣食住だけでは不十分だということです。本当に幸福であるためには,造り主の導きと援助が必要です。―マタイ 4:4。ヨハネ 4:34。

      25 多くの人は創造者のことをほとんど知りません。そのような人に接するとき,状況が許すなら,これまで考慮してきた良い事柄を少し話してあげるのはどうでしょうか。愛情深い天の父エホバについて知り得た大切な真理を他の人と分かち合いたいという気持ちがあるなら,それはすばらしいことです。―詩 40:5。

      [研究用の質問]

      どうすれば目に見えない神について学ぶことができますか。(1-3)

      神が恐るべき力とそれを用いる能力を持っておられることをどうして確信できますか。(4-8)

      神の知識について,また知恵についてどんなことを知っているべきですか。(9-11)

      神がそのご性質を発揮されることから,あなたはどんな益を受けますか。(12-14)

      神はあなたに対する優しい関心をどのように示されますか。あなたはそれをどう感じますか。(詩 30:4,5)(15-17)

      神のみ名とその命の長さについてわたしたちはどんなことを知ることができますか。(18,19)

      神は天にただ独りでおられるのではありません。それはなぜですか。(20,21)

      父と子はどんな関係にありますか。(22,23)

      あなたの生活の中で神が大切な存在とならねばならないのはなぜですか。(24,25)

      [33ページの図版]

      神の力によって紅海は分けられた

      [36ページの図版]

      太陽,雨,産出的な土は,神について何を示唆しているでしょうか

      神は物を豊かに備えてくださる,愛の深い方ではありませんか

  • あなたは生活上の問題に対処できる
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 5章

      あなたは生活上の問題に対処できる

      「人生は問題でいっぱいだ」と人々は言います。あなたもそうお考えかもしれません。

      2 金銭上の問題で多くの人は心を悩ませています。例えば,請求書,インフレ,不安定な職業,適当な家を見付けることなどの問題があります。夫婦間の深刻なトラブルや家庭の問題は珍しくありません。多くの若い人々の間では,性,アルコールあるいは麻薬が問題となっています。年配の人々は健康の衰えからくる問題を抱えています。このような事柄すべては有害な感情的緊張やストレスを生みます。

      3 あなたは生活上の問題にどれほどうまく対処しておられますか。うつ病が広まっているというニュースや自殺のニュースは,これらの問題に対処できない人が多いことをはっきりと物語っています。しかし,逆境に面しても平衡を失わない人が大勢います。それはなぜでしょうか。

      4 後者に属する人々は,聖書に記されている人類の創造者の助言により頼むことを学んでいるのです。心理学者であれ,結婚問題のカウンセラーであれ,あるいは新聞の身の上相談の欄の担当者であれ,人生について神ほど知っている人は一人もいません。神は最初の人間を創造されたので,人間の身体や精神や感情のつくりをことごとくご存じです。(詩 100:3。創世 1:27)エホバは,わたしたちの心の中で起きていることや,わたしたちが色々な物事を行なう理由を,短命な人間よりもよく知っておられます。―サムエル前 16:7。

      5 さらに神は,今の世の中でわたしたちが遭遇する諸問題を,わたしたちのだれよりもよくご存じです。ほんの数年などではなく,人類の最初から,エホバは人類の問題を,そのすべてを観察してこられました。聖書には次のように述べられています。「エホバは天から見つめ,すべての人の子をご覧になった。……地に住むすべての者を注視された。神は……そのすべての業を考え計っておられる」。(詩 33:13-15,新)ということは,わたしたちがどんな問題を抱えていようと,それにどう対処すれば成功するか,あるいはしないかを神はご存じだということです。

      6 神は,寛大にも,わたしたちが神の知識と経験から恩恵を得られるようにしてくださっています。聖書には神の助言が記されています。しかもそれは,わたしたちの置かれている境遇や住んでいる場所にかかわりなくわたしたちの必要に適合するように述べられているのです。詩篇 19篇7-11節(新)にはこう書かれています。「エホバの律法は完全で,魂を引き戻す。エホバの諭しは信頼に値し,経験のない者を賢くする」。

      7 人が抱える二つの深刻な問題,つまり,はなはだしいストレスと孤独を克服する上で,それらの諭しがどれほど役立つかを少し考えてみましょう。それらの問題に対する聖書の実際的な助けを考慮したのち,金銭,結婚,麻薬に関係した,他の一般的な問題を調べることにしましょう。

      ストレスにはどのように対処できるか

      8 激しいストレスは経験したことがない,と言う人はまずいません。個人の問題,例えば金銭,家族,性,犯罪に関する問題が増加すればするほど,ストレスは一層強くなります。最近のある新聞の報道によれば,今の時代を一番よく特徴付けているのは,行動の仕方でも,服のスタイルでもなく,「ひどい緊張感」です。

      9 ストレスが寿命を縮めることさえあるということをあなたはご存じでしたか。次の報告に注目してください。

      「『20世紀の殺し屋』と呼ばれているストレスは,主に現代生活の様々な心理的要求に起因する。ストレスから来る身体的な病気のために,毎年少なくとも何千万人という大勢の入院患者や死亡者が出ている」― アフリカのニュース雑誌,トゥー・ザ・ポイント。

      「ストレスが非常に強いときや長期間にわたるときには,体は,皮疹や普通のかぜから心臓発作やガンに至るまでの様々な病気にかかりやすくなる」― アメリカのウォール・ストリート・ジャーナル紙。

      胎児でさえ影響を受けます。夫との不和や失業の恐れなどから,妊娠している女性にストレスが生じると,おなかの子供の身体や精神や感情に障害をきたすことがあるのです。

      10 ストレスは,また,他の様々な問題を生むので有害です。ストレスのために欠勤することが多くなり,したがって金銭的な問題が増えるということはよくあることです。また,ストレスは暴力を生みます。それは,夫婦の間にさえ生じます。ある夫は次のように書いています。

      「わたしの緊張といら立ちは日増しに大きくなります。人さえ見ればあたりちらしたい気持ちです。その犠牲になるのは大抵妻です。わたしは前後不覚になるまで酔っ払ってしまいたいような気持ちですが,そんなことはなんの益にもなりません」。

      11 ある程度のストレスを感じるのは正常で,必ずしも悪いとはかぎりません。朝起きる時にも野球の熱戦を見る時にも,ストレスはあります。有害なのは激しい,長期間にわたるストレス(もしくは苦しみ)です。むろん,自分にかかってくる圧力の中には,他の人々や自分の生活の事情が関係していて避けられそうに思えないものも少なくないことでしょう。それにしても,有害なストレスをなんとかする方法はないものでしょうか。ストレスをよりよく処理できるなら,健康に影響するような他の問題を減らすことができるかもしれません。

      12 かつて存在した最も偉大な教師の一人として世界的に認められている人,イエス・キリストは,ストレスに対処する秘けつを教えてくださいました。神の戒めの中で最も大切な戒めは何かと尋ねられた時,イエスはこうお答えになりました。『あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてエホバを愛さねばならない。そして,あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。(マタイ 22:37-39)この言葉を実行するのです。そうすればストレスに対処するのが容易になります。

      13 例えば,配偶者や親族に対して親切にするなら,平和な関係が促進されることはまず間違いありません。温かく幸福な雰囲気が生まれ,緊張は弱まります。確かに,聖書のこの助言に従えば,ストレスを緩和する上ではっきりした結果が得られます。

      14 そうなるのは家族の場合だけではありません。自分にして欲しいと思うとおりに人にも同じようにするという『黄金律』を含め,愛を示すようにという聖書の助言を実行するなら,他の人から一層好かれるようになります。(ルカ 6:31)そのことは職場や学校や地域社会において実際に起きています。いくらかの衝突はあるにしても,それが少なくなることは確かです。その結果,ストレスを感じることが少なくなることは容易に理解できます。

      15 ストレスを緩和し,それに対処する上で聖書の勧めが役立つことは科学者の間でも認められています。ストレスの影響に関する一流の権威者の一人であるハンス・セリエ教授(モントリオール大学)は,次のように助言しています。

      「ストレスに対処するには,麻薬その他に頼るよりもほかにもっと良い方法があると思う。それは,生活の中で起きてくる様々な出来事に対する態度を変えることである」。

      セリエ教授は,「人々が生活の規準となし得る行動哲学」の必要と,その哲学が,「いかなる発見よりも人類一般に多くの益をもたらす」ということを強調しました。40年間ストレスを研究した末,その根本的な解決策は結局愛にあると言うのです。

      16 聖書の勧めに従って愛を示すことが,日々の生活においても非常に実際的であるのはなぜでしょうか。なぜ効果があるのでしょうか。セリエ博士はこう語っています。

      「ストレスの有無の原因となる二つの大きな感情は愛と憎しみである。聖書はこのことを繰り返し強調している。それはわたしたちが,生来持っている利己心をどうにかして改めなければ,他の人に恐れや憎しみを抱かせるということである。……人に憎まれるのではなく愛されるようにすればするほど,自分自身安全であり,ストレスも少なくなる」。

      17 ストレスを生じさせる別の原因は怒りです。だれでも時には怒ります。そのことは聖書も認めています。しかし聖書はこう助言しています。「怒ることに遅い人は力ある者に勝り,自分の霊を制している人は都市を攻め取る者に勝る」。(箴 16:32,新。エフェソス 4:26)したがって,神の忠告は,怒るとしてもかんしゃくを起こすとか,『かっとなること』のないようにということです。その忠告を無視する人は,ひどい言葉を口走ったり,暴力を振るったりすることがよくあります。その結果,時には体を害したり,人に悪く思われるようになってストレスが長く続きます。ですから,怒りに関する聖書の賢明かつ実際的な助言に従えば従うほど,ストレスに対処することはやさしくなります。

      18 もう一つ例を挙げるなら,聖書は変化に富む,平衡の取れた生活を奨励することによって,わたしたちがストレスを少なくするよう助けてくれます。いつも猛烈に働いている人がいるかと思えば,めったに働かない人もいます。いつもまじめな人がいるかと思えば,まじめになったことのない人もいます。そのような極端は十中八九問題を引き起こし,ストレスを生む結果になります。しかし,伝道之書 3章1-8節の言葉を読むと,神は,あらゆる活動には時があると述べておられます。聖書は,生活に対するもっと平衡の取れた,そして現実的な見方を示しています。労働は怠惰の反対ですから良いことです。聖書は,いくらかくつろいで労働の実を楽しむことも勧めています。(伝道 3:12,13; 10:18。箴 6:9-11)しばらくの間,人生の意味や人生をいかに生きるべきかなどをまじめに考えることはためになります。しかし,家族や友人と共にくつろぐのも価値のあることです。平衡に関する聖書の助言にどれほど従うかによって,ストレスの問題はずっと少なくなることでしょう。

      孤独の苦しみに対処する

      19 トロントに住むヘンリー・レヘルというソーシャルワーカーは,「孤独感は万人に共通のものである。通りを歩いている人をだれでもいいから呼び止めて,『あなたの孤独感について話してください』と言うなら,その人はとめどもなく話し続けるだろう」と言いました。5万2,000人を対象に行なわれたある世論調査で,40%余りの人は,「寂しさを感じることがよくある」と答えました。孤独感は,ほとんどの場合,不安を生み,幸福を損なっていました。孤独感はまた人を選ばないので,老若男女を問わずだれでも襲われます。やもめのように独りで暮らしている人を孤独な人の典型と考えがちですが,一番寂しい思いをしている人の中には,心の通わない結婚生活を送っている人もいます。

      20 不倫な関係によって寂しさを締め出そうとしたり,アルコールで孤独感を紛らわそうとしたり,あるいはむやみに物を食べて寂しさを忘れようとしたりする人は少なくありません。それでも原因はなくなりません。その要因の一つは大都市の発達です。大都市では,人々に囲まれてはいても非常に孤独を感じることがあります。結婚の破綻も問題を大きくしています。テレビでさえ,会話を閉ざして,人をさらに孤独にしているように思われます。

      21 孤独感を克服するにはどうすればよいでしょうか。問題を簡単にするつもりはありませんが,聖書は孤独によりよく対処する上でだれにでも役立つと言えるでしょう。なぜ聖書は役に立つのでしょうか。一つには,孤独感は多くの場合,抑うつ状態や自尊心の欠如を招きます。創造者との良い関係を培うことは,そのような人が元気を取り戻すのに役立ちます。神が自分に関心を持っていてくださるということを認識すると,自信が持てるようになり,人生に対してずっと積極的な見方ができるようになります。(マタイ 18:10)聖書はさらに,孤独感を解消する上で役立つ生き方の大要をクリスチャンのために述べています。

      22 寂しい人はよく,「忙しくしていなさい」と言われます。それもある程度良いことですが,聖書はもっと現実的で実際的な助言を与えています。その助言がクリスチャンたちに勧めているのは,人のためになることを活発に行なうことです。そうすることは幸福を生み出します。(使徒 20:35)ドルカスの場合はその一例です。この婦人は他のクリスチャン,特にやもめたちのために着る物を作ることに時間を用いました。その努力は彼女たちを物質面で援助することになりましたが,孤独感を克服する助けにもなったことでしょう。その上にドルカス自身も人々から愛され,孤独を感じなかったに違いありません。ドルカスについては使徒 9章36節から42節をお読みください。

      23 多くのクリスチャンにとって以前から非常に報いのある活動となっているのは,他の人が神と聖書について学ぶのを援助することです。事実,使徒パウロは,そのことをより多く行なう自由があることは独身の人の一つの利点であると述べています。独身者にとってもその活動が孤独感を克服する上で役立つことは言うまでもありません。(コリント第一 7:32-35)パウロ自身がその代表的な例です。使徒 17章1-14節を読むなら,パウロが,特に激しい反対に遭ってもたゆむことなく,テサロニケ市で多くの人を援助することに専念した様子がうかがえます。そして,その結果として,テサロニケ第一 2章8節に述べられているように,パウロとその人たちとの間に親愛の情が生まれたことに注目してください。他の人に聖書を教えることに励むのがどれほど報いのあることかを証言できるエホバの証人は今日幾十万もいます。

      24 また,エホバの証人は多くのグループに分かれて定期的に集まり,聖書を学びます。学んでいる間に,温かいクリスチャンの交わりを楽しむのです。多くの都市生活者が知っている通り,確かに,人々に囲まれているということ自体は孤独の問題の解決にはなりません。しかし,そうした集会に出席する人々は,他の人に純粋の関心を示すようにという聖書の勧めを真剣に実行しようとしているクリスチャンに囲まれているのです。(フィリピ 2:4)集会は励ましの多い楽しい時です。出席者は神への短い祈りに加わりますが,その祈りは,自分が決して独りでないことに気付かせてくれる,と多くの人は考えています。(ヨハネ 16:32)あなたもぜひエホバの証人の集会に出席してください。そうすれば,大勢の人が聖書の助言に従うことによって,孤独の問題や,金銭あるいは家族の関係した問題に対処する点でどれほど助けられているかを,ご自分の目で見ることができます。

      [研究用の質問]

      生活上の問題に対して楽観的になれるどんな理由がありますか。これには神がどのように関係していますか。(1-7)

      ストレスの問題はどれほど深刻ですか。(8-11)

      ストレスに対処する上で聖書の助言はどのように役立ちますか。(12-14)

      科学者たちは愛に関する聖書の助言について何を知りましたか。(15,16)

      ストレスに関して聖書の助言はそのほかどのように役立ちますか。(17,18)

      孤独はどれほど深刻な問題ですか。(19,20)

      孤独に関して聖書のどの助言は,どのように役立ちますか。(21-23)

      交わりにはどんな価値がありますか。(伝道 4:9,10)(24)

      [45ページの囲み記事]

      人生の中でも特に“ストレスの高じる”状況

      順位 人生の出来事

      1 配偶者の死

      2 離婚

      3 夫婦の別居

      4 懲役刑

      5 近親者の死

      6 自分の身に及ぶけがや病気

      7 結婚

      8 解雇

      9 破綻していた結婚関係の回復

      10 退職

      11 家族の成員の健康の変化

      12 妊娠

      13 性の悩み

      14 家族の成員が新たに増えること

      15 仕事の調整

      T・ホームズ及びR・H・ラーン両博士の研究 ―「現代における成熟」に基づく。

      [50ページの囲み記事]

      「エホバの証人は,その独自の会衆生活において,信頼と受容とからなる偽善のない社会を形成している。……エホバの証人は,以前の生き方に代わる生き方を[人に]与えるが,それは信者が主体性と自尊心を得,受け入れてもらえる社会と将来への希望を見いだす道を開く」―「現代アメリカの宗教運動」。

      [41ページの図版]

      インフレ

      病気

      不安定な職業

      家庭の問題

      住宅問題

      [49ページの図版]

      ドルカスのように,人のためになることをするなら,孤独にならないですむ。

  • 金銭の問題 ― どんな助けがあるか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 6章

      金銭の問題 ― どんな助けがあるか

      「ごちそうにあずかることはあなたを喜ばせ,ぶどう酒はあなたを元気付ける。しかし,お金がなければどちらも得ることはできない」― 伝道 10:19,福音聖書。

      2 お金はどこの国でも人々の関心の的となっています。その一つの理由はインフレです。生活費は日ごとに高くなっており,必要な食物を買うことさえできない人も少なくありません。二つの仕事を持たねばならない人や働きに出る主婦が増えています。家族は苦しい思いをし,健康は損なわれます。この上に,クレジットで買い物をするとなれば,問題は一層大きくなるのが普通です。たくさんの負債を抱えていながら,クレジットに頼って,特別必要でもない物にお金を費やし続ける人は大勢います。これは先進国だけでなく,人々が貧しい土地においても見られます。

      3 聖書からどんな実際的な助けが得られるでしょうか。その助けは,仕事を見付けたり,失業しないようにしたりするのに役立つでしょうか。それによって,金銭についての家族の心配は和らげられ,より幸福な生活が送れるようになるでしょうか。

      正直であることと,ほねおって働くことは助けになるか

      4 「ほねおって働く人はすばらしい幸運に恵まれることがない。あなたもそう思いますか」。ある調査で85%の人は,そう思うと答えました。成功はごまかし,盗み,わいろ,そして有力な縁故関係にかかっているかのように思える場合がよくあります。しかし聖書は,正直さと勤勉さの価値を強調しています。例えば次のように述べています。

      「盗む者はもう盗んではなりません。むしろ,ほねおって働き,自分の手で良い業を(しなさい)」― エフェソス 4:28。

      「怠惰な人は渇望するが何も得ない。勤勉な人は豊かにあてがわれる。あなたは仕事を巧みに行なう人に会うだろうか。そのような人は王たちに仕えるようになるだろう」― 箴 13:4; 22:29,モファット訳。

      「わたしたちが以前に話したように,静かに生活し,他人の私事に干渉せず,自分で生計を立てることを目標としなさい。そうすれば,信者でない人々の尊敬を得ます。また,だれかに頼って必要なものを得なければならないということもありません」― テサロニケ第一 4:11,12,福音聖書。

      5 歴史的にも,多くの経験からもこの助言が実際的であることは証明されています。なるほど,怠惰な人の中にも成功しているかに見える人がいます。しかし,一般に,また結局のところ,聖書の助言を適用する人はそれを無視する人よりも成功します。

      6 従業員がよく遅刻をし,怠けてばかりおり,不潔で信用できない,といった苦情を雇用者はしばしば口にします。ですから聖書の原則に従って,時間を守り,注意深く,清潔で,信頼できそして勤勉な人は,大抵良い就職口を見付けます。そして比較的良い賃金を得るものです。なぜなら,雇用者は,出来ばえの良い仕事にはそれに見合った賃金を払ってもよいと考えていることが少なくないからです。そういうことが実際にあったという報告がエホバの証人からたくさん寄せられています。

      7 しかし,今では,うそをついたり欺いたりすることは必要悪に近いと言えるのではありませんか。聖書の原則に従うがゆえに盗むことやうそをつくこと,人を欺くことなどをしようとしなかったクリスチャンたちは,聖書の助言に従うとうまくいくことを経験してきました。

      南アフリカはヨハネスブルクの,ある電気器具販売店は,経営不振に陥っていました。その原因の一つは,盗みをする従業員が多いことでした。ある日,店の支配人は,アフリカ人の店員を集め全員を解雇しました。ところが,翌朝一人の従業員はいつも乗る通勤電車の中で,同僚に会いました。『おや,今日出勤ですか』と尋ねました。その同僚の話によれば,支配人は,その人が正直なので例外を設けたのだと,個人的に話したということでした。先の従業員も自分の場合もそうだと言いました。職場に着くと,やはり,普通どおり仕事に来るように,と個人的に告げられたという3人目の従業員がいました。その3人はみな真のクリスチャンたちでした。

      英国の道路建設会社に勤務していたロバートという人は次のような経験をしました。ある日ひとりの重役が,だれかから電話がかかってきたら,いないと言ってくれ,とロバートに言いました。しかしロバートは電話に出た時,重役は今忙しくて手が離せない,と答えました。それを聞いて,重役はロバートをとがめました。しかし,ロバートが私はエホバの証人なのでうそはつけませんと言うと,重役はそれ以上何も言いませんでした。(エフェソス 4:25)後日ロバートが昇進することになった時,ある貪欲な同僚はロバートの正直さを疑わせるようなことを言いました。すると,重役は,ロバート君は正直な人間だときっぱり言い,彼を昇進させました。

      8 自分で事業をしている場合,正直であることは可能でしょうか。場合によっては,正直に事を行なうのは実際的でないように思えるかもしれません。それでも正直であることは最善の道です。神のみ前に清い良心を持つことができますし,心の平安を得ることができます。それに,多くの人は,ごまかしのない人と取り引きするほうを好みます。また,正直であれば,聖書の言葉通り,「信者でない人々の尊敬を得ます」。

      住宅難を克服するにも助けになる

      9 適当な家を見付けることももう一つの大きな問題です。国によっては,一家全員が一室にすし詰めのようになって生活しなければならないところもあります。あるいは,家賃が手ごろで清潔な家を見付けることが難しい場合もあるでしょう。聖書はこれらの問題の解決にも役立つでしょうか。

      10 家を借りれば,人の資産を取り扱うことになります。神がイスラエル人に,他の人の持ち物を尊重して大切に扱うよう勧めておられることは注目に値します。(申命 22:1-4)神は身体を清潔に保つことも奨励されました。(申命 23:12-14。出エジプト 30:18-21)ですから,良心的なクリスチャンは,資産を傷付けないようにし,借りている家ならどんな家でも清潔に保ちます。こうした理由や『静かに暮らす』ということもあって,良心的なクリスチャンは良い借家人として広く認められており,家を探すのはあまり難しくありません。

      クリスチャンの一家族は,アフリカのある首都の前市長の家を借りていましたが,その家を清潔に保ち,家賃をきちんと支払っていました。(ローマ 13:8)その家族は引っ越すことになった時に,会衆の別の家族を家主に紹介しました。すると家主は,普通ならば家賃を「上げるのですが」と言いました。それは家賃が2倍になるということでした。しかし家主はそのクリスチャンたちが信頼できる,清潔な人たちであることを知っていたので,家賃をすえ置きにしました。それはそのあたりにある同じ程度の家の家賃の約半分でした。

      11 事情がどうしても許さないために,良い家を見付けることができない場合でも,クリスチャンはやはり益を得ます。クリスチャンは家を清潔にきちんと保ちます。それが一層健康で幸福な生活を送るのに役立つのです。

      お金を賢明に用いる

      12 富裕な王ソロモンは書きました。「知恵は金が身の守りであるのと同じく身の守りとなる……。しかし知識の利点は,知恵がそれを所有する者たちを生き長らえさせることである」― 伝道 7:12,新。

      13 お金は,貧困に伴いがちな苦しみに対する守りとなる,ということをソロモンは認めていました。わたしたちもそれを認めなければなりません。ですからお金は浪費せずに賢明に管理すべきものです。聖書は,お金を管理する上でどんな実際的な助言を与えているでしょうか。

      14 イエスはこう語られました。「あなたがたのうちのだれが,塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,自分がそれを完成するだけのものを持っているかどうかを調べないでしょうか。そうしないなら,その人は土台を据えてもそれを仕上げることができないかもしれず,それを見ている人たちはみな彼をあざけ(るでしょう)」― ルカ 14:28-30。

      15 この言葉は家計にもあてはめることができます。大きな買い物をしようとする場合,それができるかどうか,またそれを買うのが賢明かどうかを考えるため,一緒に座って家計を冷静に検討するのがよいことに,多くの夫婦は気付いています。また,予期しない事が実際に起こるという聖書の諭しからも益を得ています。(伝道 9:11)そのために衝動買いをしたり長期にわたる借金をしたりしないように助けられました。

      16 また,「借りる人は貸す人の奴隷である」という至言にも注目してください。(箴 22:7,改訂標準訳)聖書は貸し借りを禁じてはいないものの,不必要に借りる人は結局銀行や貸す人の奴隷になる,と警告しています。近ごろは,ついついクレジットで買い物をして結局負債を抱え込んでしまい,高い利子を払う人が非常に多い,ということを忘れない人は賢明です。

      17 聖書は,むだを省いて金銭の問題を減らすよう多くの家族を助けてきました。イエスはりっぱな手本を残しておられます。大群衆に食物を与えた後,残りを集めるように指示されました。(ヨハネ 6:10-13)このような手本に倣ってクリスチャンは,年を取っていても若くても,むだを避けるようさらに気を付けることができます。

      18 金銭に関する聖書の助言に従うことを学ぶには,考え方を大きく変えねばならないかもしれませんが,次の例が示す通り,良い結果が得られます。

      ジンバブエのある若い夫婦は,結婚後間もなくお金の問題を抱えるようになりました。夫の収入は少ないのに,妻のほうは多くの新しい物や特別な食べ物を欲しがりました。そのうちに妻も働きはじめましたが,たいして足しになるとは思えませんでした。夫婦の関係は非常に緊張し,二人が一緒に暮らせるかどうかも危ぶまれました。そこで数人のクリスチャンの長老が援助を申し出ました。聖書に基づいて,予算を立てることの大切さが話し合われました。(ルカ 14:28-30)その夫婦は,大体の値段を書き込んだ買い物メモを作ることや,食品を1週間分まとめて買うとかなり節約できることを知りました。(箴 31:14)長老たちは,満足することや,今は手の届かないぜいたく品を欲しがらないようにする必要について,聖書が与えている助言を一緒に考えました。(ルカ 12:22-31)その聖書的助言は大きな助けになりました。金銭の問題が大分落ち着いたので,その夫婦は以前よりも幸福になりました。近所の人たちでさえ,二人の関係が良くなったと言いました。

      19 収入の固定している人たちも,聖書の実際的な助言から益を得ています。スペインの退職したある夫婦の場合もそうでした。

      フランシスコとマリアの固定収入はとても十分とは言えません。それでも二人は,聖書から学んだことを実行して上手にやっていると言っています。例えば箴言 6章6節から8節(新)には次のように書かれています。『ありのところに行きなさい。そのやり方を見て,賢くなりなさい。ありは夏に食物を備える。収穫の時に食糧を集めたのである』。マリアはこの言葉から,旬の果物のように,手に入りやすく値段が普通より安い物を買うことを学んだと語っています。また,バーゲンセールを待って,次の年に着る衣類を買います。また,家から歩いて45分くらいの所にあるわずかな土地に菜園を作って,『夏に食物を備えています』。ヨハネ第一 2章16節の言葉も役立ちます。二人は,たとえ古めかしい家具でも,それで満足することを学びました。そしてお金のかかる娯楽よりも,他の人が神について学ぶのを援助することを楽しんでいます。

      経済に支障をきたさないようにしなさい

      20 麻薬,過度の飲酒,喫煙,とばくなどにふけると,お金は財布からどんどん出ていきます。聖書はこうした面での助けも与えています。a

      21 アルコール飲料について考えましょう。聖書はアルコール飲料を適度に用いることは禁じていません。しかし次のような忠告は確かに与えています。

      「快楽を愛する者はいつも貧しく,ぶどう酒と良い暮らしを愛する者は,富むことがない」。

      「いつも酒をちびりちびり飲んでいる人間になってはいけない……大酒飲みと大食家とは貧しくなり,うとうとしていると,ぼろをまとうようになるからである」― 箴 21:17; 23:20,21,エルサレム聖書。

      22 大酒は色々な面で家計に響いてきます。アルコール飲料自体が高価なもので,1週間分の給料の半分を酒に使ってしまう人もいるほどです。カナダのケベック州だけを見ても,年間10億㌦(約2,400億円)を上回るお金がアルコール飲料に費やされています。大酒に伴う他の事柄,例えば欠勤,飲酒による事故などのために,さらに多額のお金が失われます。

      チリの南部に住むひとりのくつのセールスマンは,大酒のせいで仕事を失いました。それで,借りていたあばらやのわきの差し掛け小屋でくつの修理を始めました。それでも収入の大部分は酒に費やされ,妻はしばしば夫を留置所に引き取りに行かねばなりませんでした。食費を賄うために妻も夜遅くまで,かつらを作る仕事をしなければなりませんでした。ところが妻はエホバの証人と聖書を学びはじめ,もっと理解のある,そして支えになる妻にならなければと思うようになりました。その結果,夫も研究に同席するようになりました。大酒飲みはクリスチャンになれないことを知ると,夫は酒をやめました。それで家族は,前よりも良い食事をすることができるようになりました。やがてその夫婦は小さな家と仕事場を買うまでになり,夫のくつの修理の仕事はうまくいきました。

      23 競馬場やカジノでの大きなかけにせよ,絶えず富くじを買うことにせよ,とばくはどうでしょうか。多くの人はかけ事に引きずられてお金の問題を抱え込みます。そのような人は「大もうけ」することを絶えず夢見ていますが,実際に行なっていることは資産の浪費で,家族を苦境に追い込むことが少なくありません。

      24 オーストラリアのある男の人は,長年の間「とばくに完全にとりつかれ,毎日かけ事を行ない,1週間がもっと長くてもやはりずっととばくをしていただろう」と語っています。その人は,友達から金を借りたので,しまいには彼らも寄りつかなくなりました。「損をすると,時々,壁に頭をぶっつけて,『50㌣でいいからくれないか。今度は勝つよ』と妻に哀願したものです」。

      25 その人は聖書研究を始めた時,「油断なく見張っていてあらゆる貪欲に警戒しなさい」というイエスの助言に心を動かされました。(ルカ 12:15。コリント第一 6:9,10)かけ事をするのは非常な貪欲さの表われだと考えたその人は,一生懸命に努力してとばくをやめました。すると給料を家族のために使えるようになったので,次の箴言の言葉をいっそう深く認識することができました。「たくらみによって得た富[「かけ事で得た富」,リビングバイブル]は少なくなる。しかし,少しずつ集める人は蓄えを増す」― 箴 13:11,アメリカ訳。

      満足することがかぎ

      26 金銭に関しては,個人の考え方の面で聖書が大いに役立ちます。テモテ第一 6章7-10節には次のように書かれています。

      「わたしたちは何を世に携えて来ただろうか。何も携えては来なかった。わたしたちは何を世から携えて行くことができるだろうか。何も携えては行けない。だから,食物と着る物があるなら,それで満足すべきである。しかし,富むことを欲する者は誘惑に陥り,多くの愚かで有害な欲望のわなに捕らえられる。……ある者たちは[金を]得ることを欲するあまり信仰から迷い出て,多くの悲しみで心を痛めた」― 福音聖書。

      27 貧しくても金持ちでも,金銭を愛する人は満足するということがありません。カリフォルニアのある会社の猛烈幹部は妻に向かって,「ぼくは金持ちになりたい……だから,君と[会社]のどちらを選ぶかと言われると,会社の方だね」と言いました。その人はある大会社の社長となり億万長者となって,70万㌦(約1億7,000万円)の家に住んでいます。しかしその人は「どんなに持っていてもそれで十分ということはない」と言っています。この事は,お金が幸福の保証とならないことを示しています。大金持ちの石油業者J・P・ゲッティーは亡くなる2年前に,「金銭は必ずしも幸福と関係があるわけではない。むしろ不幸のほうと関係があるかもしれない」と言いました。

      28 聖書は,金銭その他の物を持つことを非としてはいないものの,それらに対する愛を大きくすることを強く警告しています。そして命は持っているものによらないということを思い起こさせています。―ルカ 12:16-20。

      29 ですから富を得ようとして心配の多い生活を送るより,持っている物,あるいは無理なく得られる物で満足することです。ルカ 12章22-31節に述べられているイエス・キリストの次の言葉はそのような見方を持つように助けてくれます。

      「何を食べるだろうかと自分の魂のことで,また何を着るだろうかと自分の体のことで思い煩うのをやめなさい。魂は食物より,体は衣服より価値があるのです。わたりがらすが種をまいたり刈り取ったりしないことによく注目しなさい。また,納屋も倉も持っていません。それでも神はそれを養っておられます。あなたがたは,鳥よりずっと価値があるではありませんか。……それで,自分は何を食べるだろうか,何を飲むだろうかと尋ね求めるのをやめ,心配して気をもむのをやめなさい。これらはみな,世の諸国民がしきりに追い求めているものですが,あなたがたの父は,あなたがたにこれらのものが必要なことを知っておられるのです」。

      30 高価な衣服・豪華な食事・豪しゃな家はある程度の喜びを与えてくれるかもしれませんが,それらは人の寿命を1年たりとも延ばしてはくれません。むしろ何年か縮めることさえあります。一方,富はなくても,人生に大きな幸福を見いだすことができます。

      31 友達を得るのにも富は不必要です。友達の心を引くためにお金に頼る人は,考え違いをしています。その種の「友達」はその人の食物を食べ,持ち物を使いますが,お金がなくなれば,彼らもいなくなります。―伝道 5:11。箴 19:6。

      32 ところが労働に関する聖書の平衡の取れた見方を受け入れ,生活に喜びを持ち,他の人に善を行なう人は,「神の贈り物」を得ます。伝道之書 3章12,13節(新)はこのことを次のように表現しています。「彼らにとって,その一生の間歓び,善をなすに勝るものは何もない。また,人はすべて食べ,実に飲み,自分のすべての勤労によって善を見る……それは神の贈り物である」。

      33 こうした事柄に関する神の助言は非常に健全なものなので,次のように考える人があっても不思議ではありません。神はいつの日か,金銭の問題につきものの,貧困・栄養不良・粗末な住宅などが完全に無くなる道を開かれるだろうか。神は確かにそれらのものに終わりをもたらされます。後の章でそう確信できる根拠となる証拠を考慮します。しかしまず人々の生活に現在深刻な影響を与えている他の問題を考えましょう。

      [脚注]

      a 10章の「健康の増進と長生き ― その方法」もご覧ください。

      [研究用の質問]

      金銭に関してなぜ導きが必要ですか。(1-3)

      聖書には,労働に関するどんな異なった,そして実際的な見方が示されていますか。(伝道 8:12,13)(4-6)

      正直さはどれほど価値がありますか。(ローマ 2:14,15)(7,8)

      住まいに関して聖書の教えを適用すると,どのように役立ちますか。(9-11)

      金銭に関してどんな実際的な助言が得られますか。(12-16)

      聖書の助言を十分に役立たせたどんな例がありますか。(17-19)

      飲酒に関する聖書の助言はどうして役立ちますか。(20-22)

      とばくはどのように問題を一層大きくしましたか。(23-25)

      満足するようにという聖書の助言はなぜ役立ちますか。(26,27)

      イエスは富に関してどんな健全な助言をお与えになりましたか。(28-30)

      より豊かな人生を送るために聖書の助言はどのように役立ちますか。(31-33)

      [53ページの囲み記事]

      南アメリカのある女店主の話

      ガイアナのジョージタウンで,48歳のノルマという婦人は,大きなマーケットの一つに店を持っていました。ノルマははかりをごまかし,塩漬の魚4オンスの注文があるとそれを3オンス量るというぐあいにしていました。また,天びんのおもりも目方が足りなかったので,店の客が注文通りに品物を得ることはありませんでした。

      ある日曜日のこと,ノルマは親せきの人から,商売に関する聖書的原則を扱った「ものみの塔」誌をもらいました。それには不正直な行為について述べられていたので,そのことがノルマの心に突き刺さったようでした。(箴 20:23。レビ 19:35,36)月曜日にノルマは目方の足りないおもりを捨てて正確なおもりを手に入れました。そしてエホバの証人の王国会館で開かれている集会に出席し,聖書研究をするようになりました。家族からはばかにされましたが,ノルマ自身は,自分が正しいことをしたのだという確信を強めました。

      商売の方はどうだったでしょうか。ごまかさなければもうけのない商品もありました。それでそのような商品を扱うのをやめなければなりませんでした。しかしその他の商品については,客は変化に気付いて,『奥さんがクリスチャンになってから,以前よりもたくさんくれるようになった』と言いました。その結果,商売は実際にはうまくいきました。正直な方法でお金をもうけて,ノルマは住宅ローンを返済することができ,銀行に預金をし,寛大な寄付をすることができました。また,ごまかしを見破られはしないかという心配があったときのような,神経性の頭痛がなくなったので,体の方も元気になりました。

      [59ページの囲み記事]

      「過去3か月間に,オーストラリア人の87%が何らかのとばくに手を出した」― サンデー・メイル紙(ブリスベーン)。

      「3度のめしより,とばくのほうがいい! クィーンズランドの人たちは週に推定1,200万㌦(約1億4,400万円)をとばくに費やしている ― それは野菜や肉に費やすのとほぼ同じ額である」― サンデー・メイル紙(ブリスベーン)。

      [57ページの図版]

      聖書の助言は,家計のやりくりに役立った

      [60ページの図版]

      酔酒,喫煙,とばくなどに関して聖書の原則はどれほど実際的だろうか

  • 性 ― 実際に役立つのはどの助言か
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 7章

      性 ― 実際に役立つのはどの助言か

      「幸福に寄与するものは何か」ということについて世論調査を行なうとすれば,性に関係した答えが多いに違いありません。正常で健康な人にはすべて,神から与えられた性的感覚や欲望がありますから,それも当然のことです。

      2 性を話題にすることは昔に比べてずっと自由になりました。また性行為も変化しました。早くも十代の初めに性交渉を持つ若者が増加の傾向をたどっています。同棲して結婚関係外の性関係を持つ男女も非常に多くいます。その中には年配になって退職した人々もいます。既婚者の中には,結婚外の性関係を持つことを夫婦合意の上で,グループ・セックス,妻の交換,“開かれた結婚”を試みている人が少なくありません。

      3 こうした事柄に関しては,各方面から助言が与えられます。今日,一般的と考えられている事柄は,多くの医師や結婚問題のカウンセラー,牧師などによって勧められたか,少なくとも認められてきたものです。“手引き”書や雑誌の記事を読んでそのようなことを思いつく人々もいますし,学校で行なわれる性教育の影響を受けている人々もいます。さらには,あからさまに性を扱った小説や映画やテレビを見て覚えただけの人もいます。

      4 ほとんどの人の知る通り,聖書もこの問題について論じています。しかし,現在多くの人は,聖書の規準を厳し過ぎるとして避ける傾向にあります。しかし,本当にそうでしょうか。それとも,聖書の助言を適用すれば,実際に多くの心痛から守られ,それによって人生をより幸福に過ごせるでしょうか。

      結婚前の性関係 ― なぜいけないか

      5 性的欲望に目覚め,性的能力が発達するのは普通十代です。結婚前に性行為を行なう若い人は昔から少なくありません。(創世 34:1-4)しかし,近年,婚前交渉は次第に一般的になっており,ごく当たり前のことになっている所さえあります。それはなぜでしょうか。

      6 婚前交渉が増えている一つの理由として,映画や大衆小説で性が広く取り上げられていることが挙げられます。若い人の多くは好奇心が強く,『どういうものかやってみたい』という気持ちがあります。それがひいては仲間の圧力を生み,その好奇心を満たすよう,グループの者たちを動かすのです。婚前交渉や結婚関係外の性交が広く行なわれるようになったので,いま多くの僧職者は,当事者双方が『互いに愛し合っている』限りそれは許されると述べています。ですから未婚の男女で『避妊具を使えば,性交したってかまわないではないか』と考える人が多くなっています。

      7 医学関係の特別欄執筆者サウル・カペル博士は,婚前交渉の背後にある他の理由とその結果について次のように述べています。

      『性は,親に対する反抗の手段として誤用されている。また,一種の“SOS”として注意を引くために誤用される。さらに男らしさや女らしさを“証明”する方法として誤用される。受け入れてもらおうとしてむなしい試みをする際の社交上の支えとして誤用される。

      『性がこのように誤用されるなら,その原因となった問題は決して解決されない。大抵は,あいまいになるばかりである』。

      8 婚前交渉の理由が何であろうと,婚前交渉がどれほど一般的になっていようと,またいかに多くのカウンセラーや僧職者に認められていようと,聖書の助言は次の通りです。

      「これが神のご意志で(す)。すなわち,……あなたがたが淫行を避けることです。また,だれもこの点で(他の人)の権利を害するようなことをせず,またそれを侵さないことです」― テサロニケ第一 4:3-6。

      神はこの点で不必要な制限を課していると感じる人がいるかもしれません。しかし,性そのものがエホバ神からの贈り物で,神こそ生殖能力を持つ人間を創造された方であるということを忘れないようにしましょう。(創世 1:28)人間の性的能力の創造者がそれに関して最も良い助言,人間を悲しみから実際に保護する助言を与えることができるのは理にかなっていないでしょうか。

      結果は喜ばしいものですか,それとも苦しいものですか

      9 性的魅力や欲望は,しかるべき状態の下ではすばらしい結果を生みます。その一つは,むろん子供です。性関係の一番古い記録には,「さて,アダムはその妻エバと交わり,彼女は妊娠した」とあります。(創世 4:1,新)家庭では産まれる子供は真の喜びとなります。しかし,結婚していない者が性関係を結ぶ場合はどうでしょうか。その結果も,たいてい妊娠と出産です。

      10 結婚前に性関係を持つ人の多くは,そんなことをひどく心配する必要はないと感じています。避妊具や避妊薬を使えばいいという気があるからです。所によっては,十代の若者が親の知らないうちにそのような物を手に入れることができるのかもしれません。しかし,「わたしはそんなへまはやらない」と言う大人びた十代の若者の間にさえ,妊娠する例が少なくありません。その証拠に,次のようなニュースが伝えられています。

      「昨年ニュージーランドで産まれた赤ん坊の20%余りは,未婚の親の子供だった」。

      「結婚式で結婚の誓いを復唱する20歳未満の英国女性3人のうち一人はすでに妊娠している」。

      「[アメリカで]十代の少女5人につき一人は,高等学校を卒業しないうちに妊娠する」。

      11 婚前交渉から生じる悲痛な結果に,多くの若い男女は苦しんできました。堕胎しようとする人もいますが,感受性の強い人たちは,母親の胎内で発育している子供を殺すということに非常に動揺します。(出エジプト 20:13)女性としての感情や良心も関係してきます。それらは非常に強いので,堕胎をしてしまったあとで多くの人がひどく後悔します。―ローマ 2:14,15。

      12 十代の妊娠は,成熟した女性の妊娠よりも母子にとって危険です。出産中に死亡する恐れがあるばかりでなく,貧血症や中毒症あるいは異常出血を起こしたり,陣痛が長引いたり,人工分べんをしなければならなくなるなどの危険が大きいのです。16歳未満の母親から産まれた赤ちゃんの場合,生後1年以内に死ぬ可能性は2倍になります。私生児をもうけた親は多くの個人的・社会的・経済的な問題を抱えるようになります。さらに,子供の安全と発育は,安定した家庭環境に大きく依存しているのです。私生児であるためにそういう環境に恵まれない子供は,一生続く深刻な障害を身に負うことになるかもしれません。では,婚前交渉の全般的な結果は喜ばしいものでしょうか。それとも苦しいものでしょうか。『淫行を避けなさい』という聖書の助言は賢明な身の守りとなりますか。

      13 聖書のこの助言を無視したために別の面でひどい目に遭った人,つまり病気に冒された人は少なくありません。十代で多数の男性を相手に性生活を始めるようになった女性は子宮頸部のガンにかかる率がずっと高いのです。また,性病にかかる危険も間違いなく存在します。淋病や梅毒はすぐに発見でき治療できるという考え違いをしている人がいますが,国連世界保健機構の専門家たちの報告によれば,今では性病の中に抗生物質の効かないものもあるということです。また医師たちは陰部ほう疹の急増を憂慮しています。それにかかっている女性から産まれる子供は,その害を受ける場合が少なくないからです。聖書の次の警告が真実であることを,悲しい目に遭って学んでいる若者は大勢いるのです。

      「人が犯すかもしれないほかの罪はすべてその体の外にありますが,淫行をならわしにする者は自分の体に対して罪を犯しているのです」― コリント第一 6:18。

      14 結婚前に性を経験していれば,結婚後の性生活への適応が容易になると考えている人がいます。ある国では,金持ちの父親が,“教育する”ために息子を売春婦のところへ連れて行くのが普通になっています。それは名案だと考える人があるかもしれませんが,人類のすべての経験を観察してこられた創造者によれば,そうではありません。結婚前に純潔を保つことの方が幸福な結婚のためのはるかに良い土台となります。カナダで行なわれた幾つかの調査によれば,早くから婚前交渉をした十代の若者は,いったん結婚すると配偶者に対して不貞を働く可能性が大きいということです。しかし結婚前に純潔を保つ人は結婚後も貞潔である可能性は大きく,結婚式後もそれ以前と同様結婚を尊重します。

      姦淫についてはどうか

      15 今日行なわれる,性は自由だという考えに基づいた助言も姦淫を増やしています。ヨーロッパや北アメリカの報告は,結婚している男性の約半数が妻に対して不貞を働くことを示しています。また,今では,人生が一層ロマンチックになると考えて,姦淫を認め自らも姦淫を行なう女性が増えています。

      16 聖書はこの点に関して非常にはっきりと次のように助言しています。「夫は妻に対して[性的に]その当然受けるべきものを与えなさい。また妻も夫に対して同じようにしなさい」。(コリント第一 7:3)箴言 5章15-20節にも,象徴的な言葉で,結婚している人は結婚関係内で性的な喜びを得るべきであり,配偶者以外のだれかからそれを得るべきでないことが書かれています。幾世紀にもわたる経験はこの助言が身の守りとなることを証ししています。この助言は病気にかかったり,私生児を産むことになったりしないように,身の守りとなります。また姦淫にしばしば伴う心痛や悲しみを避けることができます。

      17 男女は結婚の時,互いに相手のものとなることを誓います。どちらか一方が欺きによってその信頼関係を破るなら,どうなるでしょうか。次の報告は,結婚外の関係に関する一調査に基づいたものです。

      「約束を破るということには,はなはだしい罪がある。だれを欺きあるいは傷つけるかをはっきりと知っているので,姦淫は個人的レベルの犯罪である」。

      このことは,配偶者以外の異性と性関係を持つことを認めるのが建て前の“開かれた結婚”を勧められてそれに大勢の夫婦が従った後に一層明らかになりました。時たつうちに,“開かれた結婚”を先頭に立って唱えていた人たちが持説をひるがえさなければならなくなりました。そういうひどい結果になったので彼らは,「やはり相手の貞節に対する確信こそ,大方の結婚の重要かつ必要な特質である」と結論せざるを得ませんでした。

      18 姦淫はねたみや精神の不安定を生むものです。神はそれらがもたらす害について賢明な助言を与えておられます。(箴 14:30; 27:4)ですから,自分の方がよく知っている,姦淫は正当な行為だと考える人たちもいますが,事実はそうでないことを示しています。臨床心理学者のミルトン・マツ博士は次の点を率直に認めています。

      「自分の生活の中で結婚関係外の性行為が行なわれた場合,ほとんどの人はそれによって打ちのめされる。これは,それを行なった当人であれ,その配偶者であれ変わりはない。……

      「結婚外の性の問題を取り扱ってみて分かったことは,結婚関係外の性行為は関係者すべてに非常な苦しみをもたらすということである。幸福になる方法としては,結婚外の性は何の役にも立たない」。

      夫婦の性関係

      19 聖書は,性に関して避けるべき事柄だけを述べているわけではありません。どんな事柄を積極的に行なえば,人生を実りあるものにするのに役立つかをも教えています。

      20 聖書は,性を単なる生物学的機能として述べるのではなく,性が夫婦双方の喜びの源となり得ることを正しく示しています。そして,夫婦間の性的表現に『酔う』とか『陶酔する』といったことに触れています。(箴 5:19,新)そのような率直さは,夫婦間の正常でむつまじい関係に対するとりすました態度や,それを恥ずべきこととする考え方を払いのけてくれます。

      21 創造者は夫に対して,「妻を愛しつづけなさい。妻に対して苦々しく怒ってはなりません」と助言しておられます。(コロサイ 3:19)性関係が真に喜びあるものであるためには,夫婦の間に苦々しい感情や憤りといった壁があってはなりません。それがなければ,夫婦関係は楽しいものとなります。それこそその本来あるべき状態です。それは深い愛や自分が相手のものとなっていることや優しさを表現する一つの方法です。

      22 神はさらに,「知識にしたがって」妻と共に住むことを夫に勧めておられます。(ペテロ第一 3:7)したがって,夫は妻の感情や身体の周期を考慮に入れなければなりません。夫が無神経な要求をしたりせず,考え深くて妻の感情や必要に敏感であれば,妻も夫の感情や必要に一層敏感になることでしょう。そうすれば夫婦とも満足を得ることになります。

      23 妻は冷たい,反応を示さないといったぐちがよく聞かれます。その一つの原因は,夫が性交を望む時以外は,よそよそしかったり,むっつりしていたり,あるいは厳しい態度を取ることにあるかもしれません。しかし,夫が妻に対していつも温かで親しみやすいなら,妻が冷淡になることはあまりないのではないでしょうか。「優しい同情心,親切,へりくだった思い,柔和,そして辛抱強さ」を身に着けるようにという助言に注意を払う夫の方に妻はよりよく反応するのは当然のことです。―コロサイ 3:12,13。

      24 聖書は,「受けるより与えるほうが幸福である」と述べています。(使徒 20:35)この言葉はいろいろな事にあてはまり,性的な喜びを得る面でも原則として実際的な助けとなっています。どうしてそれが助けになるのでしょうか。妻が性関係から喜びを得るかどうかは,主に心と思いにかかっています。近年になって,女性が自分の肉体の快感や喜びに注意を集中することが盛んに強調されるようになりましたが,多くの人はそれでも満足を得られないようです。しかし,この問題を研究したマリー・ロビンソン博士は,妻が夫に対する敬意を培い,受けるよりも『与える』手段として性交を考えるなら,妻自身がもっと満足を得ると指摘しています。同博士はこう述べています。

      「[妻は]夫に対して新たに優しさや気遣いを示すことを,性の抱擁の目的の一部にしていることに次第に気付く。そして自分が性の面で夫と打ち解けることが夫を喜ばせていることを見また感じとる。そしてこの過程は循環する。夫の喜びが増せば,それによって妻の喜びは一層大きくなる」。

      以上のように,他の人に与え,他の人に関心を持つようにという聖書の助言は,こうした親密な面においても人の幸福に寄与するのです。―フィリピ 2:4。

      25 この助言に注意を払うことは別の面でも益になります。命を伝える能力を含む性に対する見方は,命の与え主である神との関係に影響します。ですから,淫行や姦淫を避けることが賢明であると言えるのは,それが身体的・精神的・感情的な面で益となるという理由だけにとどまらず,それらの行為は『神に対する罪』でもあるからです。(創世 39:9,新)また,配偶者に対して忠実でなければならないことに関し,ヘブライ 13章4節はこう述べています。

      「結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきです。また結婚の床は汚れのないものとすべきです。神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれるからです」。

      26 性が人の幸福とどれほど関係が深いかを考慮するなら,将来の事まで考える必要があります。聖書は,わたしたちの永続的福祉を考えに入れて,自分の行ないが自分自身と他の人々に明日,そして来年,また一生を通じて影響を与えることを考えるよう助けてくれます。

      [研究用の質問]

      今,性に関する聖書の助言を考えなければならないどんな理由がありますか。(箴 2:6-12)(1-4)

      婚前交渉が増えたのはなぜですか。(5-7)

      神は婚前交渉をどうご覧になりますか。(8)

      婚前交渉はどんな結果を生みますか。(9-12)

      他のどんな理由から,性に関する聖書の助言を尊重すべきだと思いますか。(13,14)

      姦淫についての聖書の助言に関して,証拠からどんなことが分かりますか。(15-18)

      夫婦間の性について聖書は何を勧めていますか。(19-22)

      この助言に従えばどんな益がありますか。(23-26)

      [70ページの囲み記事]

      「新しい『性の自由』は『解放的』であるかもしれない。……しかし,どこに行っても絶えず耳にすることは,それとは大分違う事柄である。それは,フリー・セックスが確かに大部分の人に何らかの影響を与えているということである。フリー・セックスは有害である」― 特別欄執筆者G・A・ゲイヤー,「オレゴニアン」紙。

      [71ページの囲み記事]

      「不貞は,罪の意識・心痛・不信を生む傾向があるが,一方貞節は安心感と深い喜びをはぐくむ」― 夫婦・家族相談センターの理事C・B・ブロドリック博士。

      [69ページの図版]

      聖書の助言に従う人は,不道徳な行ないをしないので,望まないのに妊娠したり,性病にかかったりなどして不道徳の結果を悲しむようなことはない

  • 家族生活 ― どうすればうまくいくか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 8章

      家族生活 ― どうすればうまくいくか

      大多数の人は,家族生活が幸福と関係のあることを認めます。ある調査では,男性の85%が,「幸福で満足のゆく人生を送るには,『家族生活』は非常に重要だと思う」と答えました。しかしあなたは,離婚を選んだ男性を大勢ご存じかもしれません。女性の方も,退屈な結婚生活,争いや虐待に明け暮れる結婚生活に終止符を打つために離婚を選ぶ人が増えています。

      2 わたしたちはほかの人がすることを変えさせるわけにはゆきませんが,自分自身の家族生活を向上させること,特に夫婦の関係を改善することには関心を持つべきです。『わが家はその点うまくいっているだろうか』と考えてみるのは当然のことと言えるでしょう。

      3 創造者は家族制度の創始者です。(エフェソス 3:14,15)ですから創造者の助言は実際的です。その助言によって,どれほど多くの夫婦が幸福な家族生活を送ることに成功したかしれません。あなたも,同じ助言から益を得ることができます。

      最初の結婚の実際的な教訓

      4 聖書の初めの方には,神が最初の人間家族を創始された記録が載っています。最初の人間アダムを創造されてからしばらくして,エホバ神は次のように言われました。

      「『人が独りのままでいるのは良くない。わたしは,彼のため彼を補うものとして助け手を造ろう』。それからエホバ神は,人から取ったあばら骨を女に造り上げ,それを人のところに連れて来られた。すると人は言った,『これこそついにわたしの骨の骨,わたしの肉の肉……』。そのようなわけで,男はその父と母を離れて自分の妻に堅く付き,ふたりは一体となるのである」― 創世 2:18,22-24,新。

      5 最初の家族は,二人の人が一緒に住むことを決めた結果できあがったのではないことに注意してください。神がその結婚を正当と認め,二人は永遠に結び合わされたのです。アダムは,宇宙の最高権威者の前でエバを自分の妻として受け入れました。

      6 合法的な,認められた結婚をするために必要な段階として,男女は公に誓いを交わします。(創世 24:4,34-67。マタイ 25:1-10)しかし,正式に結婚しないで同棲するだけの場合には,そうした誓いは行なわれません。その関係は聖書が「淫行」とか「姦淫」と呼んでいるものです。(ヘブライ 13:4)たとえ,二人が愛し合っているとはっきり言っても,二人の関係は,聖書が非常に大切であるとしている結婚の堅い誓いがないので,いずれは損なわれるでしょう。例えば:

      34歳のある女性は次のように語っています。「考え方が古いのかもしれませんが,結婚の誓いをすると安心感が強くなります……一生共に住むということを,自分たち自身と世間に対して認めたという気楽さが好きです」。

      28歳のある教師も,自分が気付いたことを次のように語りました。「二,三年して,わたしはむなしい生活をしているように感じはじめました。[正式の結婚でない]同棲生活では,将来のめどが立ちません」。

      社会学者のナンシー・M・クラットウォージーは,この問題に関するある研究調査で,結婚前に同棲したりしないで正式の結婚によって立場を固めた夫婦の方に「より大きな幸福感と満足感」が見られることに気付きました。

      7 聖書にある最初の結婚に関する記録は,親や姻せきとの問題を避ける上でも参考になります。ある結婚問題カウンセラーによれば,それは一番多い問題の一つです。ところが親や姻せきとの問題が起こる以前に,聖書は最初の結婚について,「男はその父と母を離れて自分の妻に堅く付(く)」と述べています。―創世 2:24,新。

      8 ほとんどの人は親を愛します。それは自然の情で当然のことです。聖書は,親が年老いて物質面で援助を必要としているならば,その援助を差し伸べることさえ勧めています。(テモテ第一 5:8。申命 27:16。箴 20:20)しかし聖書は,結婚と同時に,配偶者が最も近い身内となることを強調しています。第一に愛し,世話をし,相談相手とすべき人は配偶者であるべきなのです。

      9 そういう見方をすれば,問題が起きた時に実家に『逃げ帰る』ことなど考えないでしょう。また親も,結婚した子供は,たとえ習慣や経済的な理由で親の近所に住んだり,しばらくの間親と一緒に生活したりしても,親を「離れ」,独立した家庭を持ったのだということを認識できます。子供が親の知恵や経験を重んじ,その助けを借りることがあるとしても,それは当を得たことです。(ヨブ 12:12; 32:6,7)しかし,創世記 2章24節の言葉は,親は結婚した子供の生活を支配しようとしたり,監視しようとしたりしないようにという警告です。聖書のこの助言に従えば,結婚生活は確かに成功します。

      何人の配偶者を持つことができるか

      10 神はアダムにただ一人の配偶者をお与えになったということも創世記の記録から分かります。中には,男性が幾人もの妻を持つことを許す文化もあります。しかし一夫多妻は家族を幸福にするでしょうか。経験が示すところによればその反対で,根深いしっとや対抗心が生まれ,多くの場合,年上の妻たちが虐待されがちです。(箴 27:4。創世 30:1)古代ヘブライ人の間でも,一夫多妻や,離婚によって妻を出すことが行なわれていました。神はそれを大目に見る一方,ひどい虐待を防止するための律法をイスラエル人にお与えになりました。しかし,イエスは,その問題について論じた際,創世記に述べられている神のご意志に注意を促しました。離婚はどんな根拠による場合でも許されるのかと尋ねられた時,イエスは次のように言われました。

      「あなたがたは読まなかったのですか。人を創造されたかたは,これをはじめから男性と女性に作り,『このゆえに,人は父と母を離れて自分の妻に堅くつき……』と言われたのです。……それゆえ,神がくびきで結ばれたものを,人が離してはなりません。……[神の律法の中で]モーセは,[ヘブライ人の]心のかたくなさを考え,妻を離婚することであなたがたに譲歩したのであり,はじめからそうなっていたわけではありません。あなたがたに言いますが,だれでも,淫行以外の理由で妻を離婚して別の女と結婚する者は,姦淫を犯すのです」― マタイ 19:3-9。

      11 イエスが明確にされた点は,イエスの追随者の守るべき規準は一夫多妻ではなく,神が最初に取り決められたようにただ一人の配偶者を持つということでした。(テモテ第一 3:2)この点に関する神の知恵と権威を認めることこそ,幸福への第一歩です。

      12 このことは,イエスが離婚に関して語られた事柄についても言えます。簡単に離婚できると,離婚は増えます。今日の状態は正にそれです。しかし,神は結婚を永久的なものと考えておられます。なるほどイエスは,配偶者が「淫行」(ギリシャ語では,ゆゆしい性的不道徳を意味するポルネイア)を犯し,別の人と「一つの肉体」となるなら,潔白な方の配偶者は離婚して再婚することができると言われました。しかし,そういうことがなければ,創造者は夫婦を永久的な結合とみなされます。ですから,この点に関して神の権威を認める人々には,自分たちの結婚関係を強め,すべての問題を克服するよう努力しなければならない十分の理由があります。(伝道 4:11,12。ローマ 7:2,3)したがって,この見方は,人を不幸にするどころか,結婚を成功させる助けになります。経験もそのことを示しています。

      13 『でも,深刻な問題を抱えている夫婦や,どうしてもうまくいかない夫婦もある』と考える人がいるかもしれません。その場合はどうでしょうか。わたしたちは聖書からほかにも実際的な事柄を学ぶことができます。

      妻を真に愛する夫

      14 家族の幸福へのかぎは,妻に対する夫の考え方や扱い方にあります。しかし,どれが最善の方法かを教えるのはだれでしょうか。最初の結婚に関する聖書の記述はここでも助けとなります。それによれば,神はアダム自身の体の一部を用いてアダムの配偶者をお造りになりました。後ほど聖書はこの点をさらに拡大して次のように述べています。

      「夫は自分の体のように妻を愛すべきです。妻を愛する者は自分自身を愛しているのです。自分の身を憎んだ者はかつていないからです。むしろ人は,それを養い,またたいせつにします。キリストが会衆に対してするようにです」。

      ついでパウロは創世記 2章24節を引用し,その後続いてこう述べています。「あなたがたひとりひとりも,それぞれ自分を愛するように妻を愛しなさい」― エフェソス 5:28-33。

      15 男性の中には,妻は厳しく,あるいは冷淡に扱うべきだと考えている人がいるようです。しかし,結婚の創始者は,夫は妻を深く愛し,その愛を示すべきであると述べています。妻が真に幸福であるためには,自分が本当に愛されているということを感じる必要があるのです。

      16 夫が『妻を自分の体のように養い,また大切にする』ということには,良い働き手であるように努力することが含まれます。しかし,妻と共に過ごして,一人の人間としての妻に温かい関心を示すことを怠るほど生活費を得ることに没頭すべきではありません。さらに,正常な人であれば,たとえいら立っていても,自分の体を憎んだり虐待したりすることはありません。ですから,聖書の言葉からすれば,夫が妻を激しく怒ることは許されません。―詩 11:5; 37:8。

      17 最初の女性は,『夫を補うもの』として造られました。(創世 2:18,新)神は男性と女性のつくりが異なっていることを認められました。そのことは今日でも変わりありません。普通女性の特質や物事の仕方は男性のそれとは違います。男性は決断力に富んでいると言えるかもしれませんが,女性はもっと優しくてがまん強いところがあります。女性は他の人たちと一緒にいることを好むようですが,男性は一人でいることを好みます。男性は時間厳守を強調しますが,女性はその点に関してもっと「のんびり」しています。神がエバを「補うもの」として創造されたという聖書の言葉は,夫がそうした違いを理解する上で役立つはずです。

      18 使徒ペテロは,『知識にしたがって妻とともに住み,弱い器である女性としてこれに誉れを配する』ことを夫に勧めています。(ペテロ第一 3:7)その『誉れを配する』ことには,さらに,自分の好みとは違う妻の好みにも気を配ることが含まれます。夫はスポーツを好み,妻はウインドーショッピングやバレーを見ることを楽しむという場合もあるでしょう。夫に好みがあるように,妻にも好みがあってよいはずです。敬意があればそうした違いを認めるゆとりが持てます。

      19 体の周期的な変化の影響で妻の気分が変わる時,夫は,そして妻自身も,当惑することがあるかもしれません。しかし夫は,理解を示し,『知識にしたがって妻とともに住む』よう努めることによって,互いの幸福に貢献することができます。妻にとって一番必要なのは,夫が優しく抱きしめて愛情のこもった言葉をかけてくれることである場合が少なくありません。

      夫を敬う妻

      20 家族が幸福であるためには,妻もその分を果たさなければならないので,創造者は妻に対しても導きを与えておられます。

      21 夫に対して妻を愛するように命じたすぐ後で,聖書はさらにこう述べています。「一方,妻は夫に対して深い敬意を持つべきです」。(エフェソス 5:33)最初の結婚の場合,エバが夫を敬う気持ちになる当然の理由がありました。アダムは最初に創造されましたし,エバよりも知識や生活経験が豊かで,神から指示さえ与えられていました。

      22 しかし今日の結婚についてはどうでしょうか。夫が,これまで考えてきた聖書の助言に従うよう誠実に努力するなら,妻の敬意を得ることはまず間違いないでしょう。たとえ,妻がある点で優れていたとしても,あるいは夫に何か欠けた所があるとしても,敬意を培うべき理由があります。それは神の取決めを尊重することで,家族はその取決めの一部だからです。使徒パウロはこう書きました。

      「妻は主に対するように自分の夫に服しなさい。夫は妻の頭だからです。それは,キリストが会衆の頭で……あられるのと同じです」― エフェソス 5:22,23。

      23 といっても,夫は家族の中で物知り顔をする暴君でなければならないというのではありません。それは,キリストが示された愛と思いやりと理解の手本に反します。神は妻に,夫の指示を待つよう勧めておられます。家族の重要な問題については,夫と妻は,一つの体の共に働く肢体のように,二人で相談することができます。しかし神は,家族に対する責任は主として夫にあるとしておられます。―コロサイ 3:18,19。

      24 この問題に関する聖書の教えが正しいことは経験から分かります。妻が,夫の愛と思いやりに値するように努め,家族の問題に関して夫の導きを求めるなら,多くの場合,夫は自分の責任を担うことに一層励み,それを愛のこもった方法で果たしていきます。―箴 31:26-28。テトス 2:4,5。

      良い家庭を築くために協力する

      25 意思の疎通は非常に重要な要素ですが,あまりにも多くの家庭にこれが欠けています。ある社会学者は,「ほとんどの夫婦は相手の言うことをよく聴かない。そのためにけんかをする夫婦が多い」と述べました。日常生活の中で,いら立ちや欲求不満や失意を経験することは避けられません。そうしたことのために夫婦の関係が損なわれないようにするにはどうすればよいでしょうか。それには意思の疎通を十分に図ることです。意思の疎通など当たり前のことと考えないように注意しなければなりません。さもないと,二人で話し合うことが次第に少なくなっていきます。

      26 心を通じ合わせることに努めてください。自分がしていることや感じていることを話し合うのを実際に習慣にしていますか。自分ばかり矢継ぎ早にしゃべって,相手の話は聞かないというのはよくあることです。(箴 10:19,20。ヤコブ 1:19,26)ただ話す機会を待つというよりむしろ,話に耳を傾け,『……という意味かい』あるいは『……ということなの』と言ったりして理解するように努めます。(箴 15:30,31; 20:5; 21:28)夫であれ妻であれ,相手の言うことに誠実に耳を傾ける人が,利己的な振舞いやがんこな振舞いをすることはまずないでしょう。

      27 夫婦が聖書の助言に照らして互いの問題を話し合うなら,その話し合いは一層有益なものとなります。例えば,テモテ第一 6章6-10節および17-19節,マタイ 6章24-34節には,家計について話し合い予算を立てる際の優れた基本原則が示されています。「あなたの家族生活を幸福なものにする」a と題する本には,家族生活の中で生じがちな様々な事態に関する,聖書に基づいた助言が多く載せられています。

      28 聖書の助言は,結婚と家族生活の最高権威であられるエホバ神の助言ですから,辛抱強く,徹底的に守るなら,その助言は成功を目ざして努力する際の大きな助けとなります。これを実行して幸福な結婚生活を送るようになったクリスチャンの夫婦は,世界中にたくさんいるのです。

      [脚注]

      a ものみの塔聖書冊子協会発行。

      [研究用の質問]

      家族生活を一層幸福にすることを目ざしてどのように努力できますか。(1-3)

      最初の結婚において誓いはどのような役割を果たしましたか。それはなぜ重要なことですか。(4-6)

      親と姻せきに関して最初の結婚から何が学べますか。(7-9)

      配偶者の数に関して創世記からどんな実際的な教訓を得ることができますか。(10,11)

      聖書は離婚をどう考えるように勧めていますか。(12,13)

      夫は聖書の助言をどのように自分にあてはめることができますか。(14-16)

      妻が「補うもの」であるということは,夫に何を求めるものですか。(17-19)

      聖書は,夫をどのように見るよう妻に勧めていますか。(20-22)

      妻は,この助言が役に立つことをどうして確信できますか。(23,24)

      幸福な家庭を築く上で,意思の疎通はどんな役割を果たしますか。(25-28)

      [80ページの囲み記事]

      アメリカ西部出身のある男の人は次のように語っています。「結婚生活を送る間に私は,美しい家や何台もの車,船や馬など,欲しい物はなんでも手に入れました。しかしそうした物を持っていても,幸福ではありませんでした。妻は私が興味を持っていることに関心がなかったので,けんかの絶え間がありませんでした。私は心の安らぎを求めてマリファナを吸っていました。

      「週末はたいてい猟に出かけて家にはいませんでした。また,仕事で留守にすることもありました。そのため姦淫の生活をするようになりました。妻は私を愛していないと思ったので家を出て行き,次々に何人もの女性と関係を持つようになり,最後に私は生活の行き詰まりを感じました。

      「その間,私は聖書をいくらか読みました。エフェソス 5章を読んで,もう一度妻と一緒に暮らしてみようという気持ちになりました。それまで妻は従順ではありませんでしたし,私も正しくリードしてはいなかったことに気付いたのです。しかし,次の週のバス旅行で私はまたもや姦淫を犯しました」。

      ある友人はその人に,神に本当に関心があるなら,エホバの証人の援助を受けてはどうかと提案しました。その人はさらにこう語りました。「エホバの証人は確かに助けてくれました。会衆の監督の一人が時間を取って私と聖書研究をしてくれました。私の生活態度が大きく変化したので,妻も研究に加わりました。今や初めて,二人の家族生活は幸福なものになりました。二人の娘もその変化に気付いたほどです。聖書の教えを生活にあてはめることにより,私たち夫婦がどれほど幸福になったかは,言葉では言い尽くせません」。

      [84ページの図版]

      意思の疎通 ― 幸福な家族生活に欠かせないもの

  • 若い人たちはどうすれば幸福になれるか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 9章

      若い人たちはどうすれば幸福になれるか

      青春は,人生の中で最も興奮に満ちた時代と言えます。若者には未来があります。ですから青春を最高に有意義なものにし,幸福を追い求めるべきです。

      2 しかし,それはやさしいことではありません。ロバート・S・ブラウン博士は,理想の社会と政府を目ざして活動する決意をした青年たちを対象に調査を行ないましたが,その報告によれば,その青年たちの3分の1余りは数年後に幻滅を感じて意気阻喪しており,不安を抱いていました。

      3 要は良い教育を受けることだとしばしば言われます。しかし今日では,良い教育を受けた若者の中にも就職口を見付けるのに苦労している人たちが少なくありません。かと思うと,経済的には豊かでありながら,その高給の職業ゆえに,生活における自分の役割を果たせないことに気付いている若者もいます。また,若い人の恋愛のほとんどは不幸な結果に終わります。十代の結婚の8割が5年以内に失敗に終わっているという所もあります。

      4 そういうことにならないように,そして現在を本当に楽しむと同時に満足のゆく将来を確かなものとするために,若い人たちは何ができるでしょうか。また親であれば,そうした目標を達成するよう,子供をどのように援助できるでしょうか。

      創造者を考慮に入れる

      5 若い人たちは,往々にして人生経験の浅い同年配の若者たちの影響を受けます。聖書はこう述べています。

      「明敏な者は,災難を見て身を隠す。しかし経験の足りない者はそばを通って,必ず刑罰を受ける」― 箴 22:3; 13:20,新。

      現実的な若者であれば,学友もしくは友人で,自分の永続する福祉を気遣ってくれる人はほとんどいないことを認めるでしょう。『何年か後になって友達は,今僕のすることがその時僕の幸福にマイナスになっていないかどうか心配してくれるだろうか』と考えるとよいでしょう。

      6 一方,若い人たちのことを気遣って若者に最善の助言を与えることができるのはだれでしょうか。それは創造者です。創造者は若者たちが生活を楽しむことを望んでおられます。若者の心や目を引くものすべてを否定しておられるわけではありません。創造者は,向こう見ずなことをした若者がその苦しい結果を身に受けないよう保護することなどされませんが,若者を真に気遣う人がしてくれそうなこと,つまり悲しみと災いをもたらす事柄について警告し,そうした落とし穴を避ける方法を教えてくださいます。(箴 27:5。詩 119:9)聖書はこの点に関しこう述べています。

      「歓べ,若者よ,あなたの若い時を。またあなたの心が青春の日にあなたに善をなすように。そして,あなたの心の道を,あなたの目の見る物事のうちを歩みなさい。しかし,それらすべてのために真の神があなたを裁かれることを知りなさい。それゆえ,あなたの心からいらだちを取り除き,あなたの肉体から災難を払いのけなさい」― 伝道 11:9,10,新。

      7 しかし,創造者を考慮に入れるべき理由は,創造者が若者に関心を持っておられるということだけにとどまりません。たぶんお気付きと思いますが,これという人生の目的もなく,成り行きまかせの生活をしている若者が大勢います。そのような若者は,はっきりとした目標や生活の基礎となるしっかりした規準を持っていません。それで生活のむなしさを紛らわすために,あるいは退屈な生活の中で何らかの刺激を求めて,多くの場合,麻薬やたばこ,危険なスリルに目を向けるのです。それらの危険に気付いていたかどうかはさておき,あなたもそうしたもののどれかに手を出したことがあるかもしれません。あなたは,今までの自分の生活や今後の見込みに,満足していますか。今は,あなたが自分の生活を振り返ってみるべき時ではないでしょうか。

      8 前に述べたように,生活を意義のある,現実に即したものにするためには,人は宇宙の創造者の存在を認めなければなりません。人間の造り主でもあられる創造者は,規準を設けておられます。(詩 100:3)人間は,その規準に則して生きるように造られています。その規準は実際的で,人を幸福に導くものです。わたしたちはその証拠を,婚前交渉・過度の飲酒・とばくなどについて述べている前の各章で見ました。a ですから,楽しく暮らすことを望むなら,どんな生き方をするか,どんな規準を守るか,またどの方向に進むかを考えるときに創造者を考慮に入れるのが賢明ではないでしょうか。

      目的と自尊心のある生活

      9 聖書の伝道之書 11章9,10節には,若い人々に対して言われている言葉があります。そしてその書は結論としてこう述べています。

      「すべてが聞かれたいま,ことの結論はこうである。真の神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである」― 伝道 12:13,新。

      10 人生についてまじめに考えている若者は全世界に大勢います。それらの若者たちは創造者のことを考え,そのみ言葉を学びました。そして,幸福になるための基本的な条件の一つは,造り主と良い関係を保って暮らすことであることを理解しています。それはあなたの本分でもあり,人生の目的とすべきものでもあるのです。聖書に略述されている生き方をすることは,奇抜なことでも,極端なことでも,不快なことでもありません。むしろそれは平衡の取れた有意義な生き方です。その生き方をする人は,金銭,職業,道徳,家族生活,娯楽その他に関係した,現在直面している問題や将来直面する問題に賢明に,うまく対処することができます。聖書に基づく知恵が有益であることは,エホバの証人の経験によって確証されています。その知恵は,

      「それを捕えている者たちにとっての命の木であり,それをしっかりつかんでいる者たちは,幸いな者と呼ばれることになる」― 箴 3:18,新。

      聖書は次のように助言しています。「わが子よ,わたしの教えを忘れてはならない。わたしの原則を心に保ちなさい。それらによって,あなたの日は長くなり,命の年は延び,幸福は増すからである」― 箴 3:1,2,エルサレム聖書。

      11 聖書の助言に従うと,一般の若者とは少し違ってくるので目立つようになるかもしれません。実際,そのことをとがめる人も何人かいるでしょう。(ペテロ第一 2:20; 4:4)あなたはそのためにしりごみをして,人生をより楽しくする道を進もうとしないでしょうか。

      12 若い人たちは,自主的に物を考えるということをよく口にしますが,実際には,他と異なることを恐れています。しかし聖書には,群衆に従わなかった若い人たちのりっぱな模範が幾つか載せられています。彼らはあなたが持っているような関心事や心配事や希望を持っていた普通の若者でしたが,神の賢明な助言を導きとして物事を考え,行動しました。

      13 ダニエル書 1章6節から20節,3章1節から30節に記述されているのはその一つの例です。ダニエルの仲間であった3人の若いヘブライ人にとっては,自分たちが周りの大勢の人々と異なっていることはむしろ望むところでした。3人は,神の言葉が禁じている事柄,すなわち一つの像を拝むことを命ぜられた時,それを拒否しました。あなただったら,そうすることができたでしょうか。そのような態度を取ったので,ほかの人は彼らを殺そうとさえしました。それでも彼らは節を曲げなかったために,神は,記録が示している通り,3人の行為をよしとされ,彼らを保護されました。ついには,バビロンの王も3人をほめ,ソロモンの書いた次の言葉の正しさが立証されました。「わたしは,真の神を恐れている者たちにとり,その抱く恐れのゆえに事が良くなることに気づいてもいる」― 伝道 8:12,新。出エジプト 20:4,5。

      14 その若者たちは他の人の尊敬を得ましたが,自尊心も持っていました。現代の大勢の若いエホバの証人についても同じことが言えます。学校の友達は,クリスチャンの若者たちが強い信念を持っていること,また人生の目標を見定めていることをほめます。人から尊敬され,自尊心も持てるなら,人生は一層有意義なものとなると思いませんか。

      家族の幸福

      15 聖書の助言はまた,家族のきずなの強化に寄与する点からも,若い人の生活を一層実り多いものにします。

      16 あなたは,親とごく幼い子供,あるいは十代の子供との間に溝のできている家庭があるのをきっとご存じでしょう。この断絶は,親が子供を指図しようとし,子供は,あれをしなさい,これをしてはいけないと言われることに反発することから始まる場合が多いようです。

      17 聖書は,子供にも親にも,例えば次のような,つり合いの取れた導きを与えて,この問題を克服するのを助けてくれます。

      「子供たちよ,親に従うのはクリスチャンの務めです。それは行なうべき正しいことだからです。『父と母を敬いなさい』は最初の戒めであって,これには約束が付け加えられています。すなわち,『あなたにとって万事がうまくいき,その地で長生きできる』という約束です。親たちは子供を怒らせるような扱い方をしてはなりません。むしろ,キリストの規律と教えとをもって育てなさい」― エフェソス 6:1-4,福音聖書。

      18 むろん,完全な親というものはいません。それでも,子供が親を敬うことは「正しいこと」です。それはなぜでしょうか。一つには,親は子供に食べさせ,病気の時には看病し,家や必要な物を備えるために働くなど,子供のために多くの事を行なってきたからです。親がしてくれたことをすべて,親と同じ愛情のこもった関心をもってしてくれる人を雇うことなど子供にはできません。ですから,親を敬うことは道徳的に正しいことです。自分でも,将来いつか子供ができたら,子供から敬われたいと思うでしょう。

      19 こうした聖書の助言を適用するよう誠実に努力する若者は,一層の安心感を得るでしょう。それは家族がより親密になることに寄与することであり,それによって若い人自身の生活も一層平安で幸福なものになります。また,問題を避けることもできます。なぜなら,親は,豊かな人生経験からそうした問題を予見できるからです。(箴 30:17)さらに,創造者の意志と一致して行動していることを自覚することから満足が得られることも見逃せません。

      20 聖書の助言に従うことは,ほかの面でも若い人の益になります。協力することの大切さや権威を敬うことの価値を認識すれば,学校で,また後には労使関係において,さらには役人と接するときに,摩擦を起こさずに事を行なうことが一層容易になります。(マタイ 5:41)また,聖書の助言を心に留めているなら,自分が結婚し子供を持ったときに幸福はそれによって一層大きくなります。

      親の役割は重要

      21 若い人たちはどうすれば幸福になれるかを考える際に,親の果たす重要な役割を無視することはできません。子供に良い物を食べさせ,良い物を着せ,また気持ちのよい家に住まわせるよう努力する責任を感じていない親はまずいません。しかし,子供がりっぱな人間となるためには,親の指導や矯正や道徳的な導きが必要です。聖書は親がそれを行なうための最も優れた規準となってきました。(マタイ 11:19)申命記 6章6,7節によれば,そのような指導は時たま行なうのではなく,家族生活の一部とならなければなりません。それは,子供がごく幼い時に始めることができ,また始めるべき事柄です。―テモテ第二 3:15。マルコ 10:13-16。

      22 幼い子供を持つ人で,「愚かさが少年[もしくは少女]の心に結び付いている。懲らしめのむちはそれを彼から遠くに取り除く」という言葉を読んで驚く人はまずいないでしょう。(箴 22:15,新)しかし,それはどういう意味でしょうか。親の中には,子供をたたいてけがをさせるほど厳しい人もいれば,子供は好きなようにさせるべきだと言う人もいます。その両極端はいずれも正しくありません。

      23 先ほど読んだように,親は『キリストの規律と教えとをもって育てる』べきです。(エフェソス 6:4,福音聖書)クリスチャンが与える懲らしめは残忍なものではありません。(箴 16:32; 25:28)愛に基づく懲らしめは,き然とした言葉で与えることもできます。親が,規則を定めた理由を明らかにし,首尾一貫してその規則を実行するなら,それは特に愛に基づく懲らしめとなります。それでも子供が,その心の愚かさゆえに従おうとしないなら ― よくあることですが ― 何らかの形で罰を与えると,教えられていることが心に強く印象づけられるでしょう。しかし神の言葉は,場合によっては体罰が,例えばおしりをたたくといったことが必要であることも述べています。―箴 23:13,14; 13:24。

      24 子供の成長に応じて,その扱い方も変わります。小さな男の子には,おしりをたたくのが一番効き目があるかもしれませんが,大きくなれば,もっと効果的で適切な方法があるでしょう。同じように,親は息子や娘の行動の自由を少しずつ大きくして責任を持たせるようにします。―コリント第一 13:11。

      25 子供をしつける上で,子供への愛は非常に大切です。懲らしめの動機は愛でなければなりません。そうすれば矯正は受け入れやすいものになります。子供に導きや懲らしめを与えないのは,親であることを否定するようなものです。ヘブライ 12章5-11節にはそのことが説明されており,エホバご自身が愛すればこそ懲らしめをお与えになることが述べられています。

      26 神に対する愛も大切です。この愛があれば,親は,うそ・貪欲・盗み・同性愛・淫行といった,神が非とされている事柄を憎みます。(コリント第一 6:9,10。詩 97:10)そのように神への愛を表わす親は,子供たちにとって良い手本となります。それは大切なことです。そのことに加えて,親は,子供にも神への愛とりっぱな事柄への愛を抱かせると同時に悪い事柄に対しても自分と同様の憎しみを培わせるようにしなければなりません。

      27 子供たちの世界はもっぱら家庭ですから,親は家庭を安定した所とするよう努力しなければなりません。父親が子供のためにできる最善の事柄の一つは,妻を愛することだと言われています。家庭生活が愛とクリスチャンの知恵に基づいているなら,子供たちはよりどころとなるしっかりとした土台を持っていることになります。また,そうした子供たちは健全な規準を持ち,幼い時から創造者のことを考えるよう助けられます。―伝道 12:1,13,14。

      [脚注]

      a ものみの塔聖書冊子協会発行の「あなたの若い時代,それから最善のものを得る」と題する本では,音楽・デート・服装・スポーツ・学校その他,若い人々が関心を持つ事柄が聖書的観点から取り上げられています。

      [研究用の質問]

      幸福になるということはなぜ若者が取り組まなければならない事柄でしょうか。(1-4)

      神を考慮に入れなければならないのはなぜですか。(5-8)

      神のご意志に関心を払うのはなぜ当然のことですか。(詩 128:1,2)(9,10)

      神のことを考慮に入れて生活するなら人と異なってきますが,それは悪いことですか。(11-14)

      家庭で聖書に従わなければならないのはなぜですか。(15-20)

      親は,子供が賢明な道を進むよう,どのように援助できますか。(21)

      親はどんな懲らしめを与えるべきですか。(22-24)

      家族が愛し合っていることは,子供の問題にどんな影響を与えますか。(25-27)

      [89ページの囲み記事]

      人生に目的を見いだす

      日本の総理府は,人生の目的や将来に関する,各国の若者の意識調査を行ないました。その結果を調べた白樫三四郎教授は,「世界の若者は」将来に対して「悲観的な見方をしており」,そのことは若者の行動や生活全般に対する見方に影響を与えていると結論しました。しかし,そうした態度は変わり得るものです。

      アメリカの,リンダという名前のある学生は,次のように語っています。「大学で勉強して,自分が育てられた生活様式が消えていくのが分かりました。世界中の状態は悪化していました。しかし,わたしは答えが得られず,答えを得るためにどこに行けばよいかも分かりませんでした」。

      リンダが休暇でカリフォルニアの家にいた時,二人のエホバの証人が戸口に来ました。リンダはこう語っています。「その二人は,聖書に答えが見いだせると言いました。わたしたちは,神が新秩序の下で楽園の地を設立されること,および悪を一掃する約束をしておられることについて話し合いました。そのようなすばらしい真理が聖書の中にあるということは,一度も教えられたことがありませんでした」。

      リンダはアリゾナにもどってから,最寄りのエホバの証人の会衆と連絡をとり,無料で毎週行なわれる聖書研究に応じました。その研究を通してリンダは生活を安定させる規準を学ぶことができました。また人生の目的を知ることもできました。ですから現在リンダの生活は一層幸福で報いのあるものとなっています。

      [92ページの図版]

      病気になった時,あなたの世話をしたのはだれか

      [93ページの図版]

      神の言葉を学ぶなら,子供たちは幸福を見いだせる

  • 健康の増進と長生き ― その方法
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 10章

      健康の増進と長生き ― その方法

      健康は人の幸福を大いに左右します。しかし,人はだれでも時折り病気になります。また重い病気にかかれば死ぬこともあります。聖書はこうした問題も取り上げており,幸福で長生きするために役立つ導きを与えています。

      2 聖書は,エホバ神が命の源であることを気付かせてくれます。エホバのおかげで,「わたしたちは……命を持ち,動き,存在している」のです。(詩 36:9。使徒 17:25,28)しかも神は,自分で自分の面倒を見る方法について多くのことを教えてくださっています。治療費がかさみ,人を不具にする病気の中にも,神の言葉の助言に注意を払えば避けられる病気があります。その助言を守ってきた人々は,聖書筆者の次の言葉に共鳴する理由があるのです。「[神の]み口の律法はわたしにとって良いものです。幾千の金や銀に勝って」― 詩 119:72,新; 73:28。箴 4:20-22。

      健康に役立つ助言

      3 聖書は本来健康法を教えている本ではありませんが,健康に役立つ助言を含んでいます。神がイスラエル国民にお与えになった規則を調べるとそのことがよく分かります。その例を幾つか挙げてみますと,現代医学で行なわれるようになった時よりもはるか以前に,イスラエルに与えられた神の律法は,伝染病にかかっている人やその疑いのある人を隔離するよう規定していました。(レビ 13:1-5)排せつ物は居住地から離れた所に捨てることになっていました。それは病気が広がったり,水が汚染するのを防ぐためでした。(申命 23:12-14)衣類や容器類が,殺されないのに(おそらく病気で)死んだ動物に触れた場合,それらをまた使うのであればその前によく洗うか,さもなければ処分してしまうかしなければなりませんでした。(レビ 11:27,28,32,33)イスラエルの祭司たちは,祭壇で奉仕する前に身を洗うことになっていました。そのようにして清潔さの手本を示していました。―出エジプト 30:18-21。

      4 医療関係者は以来そのような処置の実際的な価値を学んできました。それは今日でも効果的な方法です。例えば,自分にしろ,他の人々にしろ伝染しそうな病気にかかっているようであれば,できるだけ人との接触を少なくします。飲み水や食べ物が人間の排せつ物やごみで汚れないように気を付けます。調理器具や食器類を清潔に保ちます。きちんと入浴をしたり,トイレを使った後は手を洗ったりして身体の衛生に気を付けます。

      5 性病は,普通,神が禁じておられる不道徳な行ないによって伝染します。(ヘブライ 13:4。エフェソス 5:5)しかし,結婚前に純潔を守り,結婚後は性関係を自分の配偶者に限るクリスチャンはそうした忌まわしい病気から守られます。

      6 また,生活の仕方全般に関する聖書の助言を守ることも健康にプラスになります。例えば,聖書は勤勉に働くことを勧めており,一日一生懸命に働いた人はよく眠れると述べています。また,食をむさぼることは避けなければなりませんが,働きの実として得た食べ物や飲み物に喜びを見いだすことを高く評価しています。熱心に働き,睡眠を十分にとり,食事を楽しみ,そして『習慣に節度を守る』なら,一層健康で幸福になるとあなたも思われませんか。―伝道 2:24; 5:12; 9:7-9。エフェソス 4:28。テモテ第一 3:2,11。

      たばこ,アルコールそして麻薬

      7 ジョエル・ポスナー博士の報告によると,例えばアメリカ人は,医療費として使うお金の60%を,たばことアルコールに関係した病気のために用いているということです。この点で聖書はどのように役立つでしょうか。

      8 使徒パウロは,清潔さや清さに関する神の助言にたがわず,クリスチャンに「みなさん,肉体も霊も汚すあらゆるものから身を清めようではありませんか」と書き送りました。(コリント第二 7:1,20世紀の新約聖書)多くの人は喫煙がこの助言に反することに気付きました。煙を肺に吸い込むのは不自然なことです。たばこの煙は体を汚し,人の寿命を縮めます。心臓病,肺ガン,高血圧,致命的な肺炎などは喫煙者に多いことが研究によって明らかにされています。

      9 また,喫煙者の家族や仲間など,周囲の人への影響も考える必要があります。イスラエルに与えられた神の律法の2番目の戒めは,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」である,とイエス・キリストは言われました。(マルコ 12:31)それこそ,あなたが望んでおられることではありませんか。しかし,喫煙はどんな影響を及ぼすでしょうか。それは喫煙者にとって有害であるばかりか,その煙を吸うほかの人の健康をも害します。

      10 アルコール飲料を飲むことについてはどうでしょうか。お酒はおいしくて気分がくつろぐと感じている人は大勢います。聖書は,アルコールを含む飲料を禁じてはいません。体はアルコールを燃料もしくは食物として“燃やす”ことができます。(詩 104:15。伝道 9:7)しかし,聖書は次のように警告しています。「ぶどう酒はあざけるもの,酔わせる酒は騒がしい,それによって迷い出る者は皆,知恵がない」。(箴 20:1,新)また,泥酔をはっきり非としています。(コリント第一 6:9,10。ペテロ第一 4:3)聖書が述べている通り,量の面でも回数の面でも飲み過ぎると,人はみな,確かに「知恵がない」者になります。そして,やがて,肝臓を悪くして深刻な結果を招き,悪くすると死ぬことさえあります。胃も悪くなるかもしれません。アルコールを飲み過ぎる人は心臓発作や卒中を起こしやすいとも言われています。記憶力が鈍り,筋肉運動の共同作用がうまくいかなくなるかもしれません。

      11 酔酒に関する聖書の助言は,ヘロイン,コカイン,ベテルナッツ,マリファナ,LSDといった麻薬の使用にもあてはまります。それらは,「食物」とか薬としてではなく,専ら,酔ったような“陽気な”気分になるように,あるいは幻覚を得たり,現実から逃避する目的で広く用いられています。それらの麻薬は聖書時代には用いられていなかったかもしれません。しかし聖書は,酒に酔うこととそれに伴う「放とう」を厳しく戒めています。ですから,酒以外のものでも酔った気分にならせたり,不謹慎で下品な振舞いをさせたりするものについてはすべてこの同じ助言があてはまるのではないでしょうか。(エフェソス 5:18)麻薬の影響下にある人は,自分で自分の身を傷つけたり,他の人から害を受けたりすることがよくあります。(箴 23:29,35と比較してください。)麻薬はまた,健康を脅かすほかのものとも関係があります。肺の病気,脳や性器の損傷,栄養不良や肝炎などもそれに含まれます。ですから聖書に記されている助言を守ることが健康にプラスになることは間違いありません。

      神の助言に従う理由と方法

      12 正常な人であればだれでも,もっと健康になり,もっと長生きできるという見込みに強い関心を示します。それは,これまで考慮してきた聖書の助言を受け入れて守る良い理由の一つです。(詩 16:11)しかし,その理由だけで十分と言えるでしょうか。快楽やスリルを味わいたいために危険を冒す人たちがいるものですが,神への信仰を持ち,神が聖書を通してご自身を啓示しておられることを認める人は,そのようであってはなりません。わたしたちは神から命をいただいているので,神が聖書の中に示しておられる導きに従って命を用いるように心掛けるべきです。神から命をいただいていながら命の用い方に関する神の賢明で愛ある助言を故意に無視するならば,恩知らずな者と言えるでしょう。

      13 それに,神は命の授与者ですから,わたしたちがどのように生きるべきかを指示する権利をお持ちではないでしょうか。神は宇宙の究極の権威者です。聖書筆者のヤコブは,神を「立法者また裁き主」と呼びました。(ヤコブ 4:12。イザヤ 45:9と比較してください。)ですから,個人的な習慣についても,神が言われる事柄に,神の命令だから従うべきだという気持ちにならなければなりません。

      14 この見方は,有害な常用癖を断とうとしながら,長い間それがどうしてもできないでいた多くの人に,強力な動機を与えました。健康のためというだけでなく,神のご意志にそうことであるゆえに自分が変化する必要のあることに気付いたとき,自分のしていることが考えていたよりも悪いことだと思うようになったのです。イエスはご自分の追随者に,最大の戒めとは「心をこめ,魂をこめ,思いをこめて」エホバを愛することであるとおっしゃいました。(マタイ 22:37)そのためには,思考力をまひさせたり,損なったり,あるいは体を汚したりするものを断たなければなりません。

      15 もう一つ助けになるのは,神の助言に一致して生活しようと努力している人々と交わることです。使徒ペテロは,クリスチャンの中に,かつては「不品行,欲情,過度の飲酒,浮かれ騒ぎ,飲みくらべ,無法な偶像礼拝に傾いて」いた人がいると書いています。(ペテロ第一 4:3)その人たちは変化しようと努めているときに,仲間のクリスチャンと会うことによって強められました。そして神の言葉を学んでそれに従うよう励まされました。また,必要な変化をしているときに,弱さや,特別に緊張を感じた場合には,助けを求めることができました。どんな方法で求めたでしょうか。同情心と理解があり,人を築き上げる円熟したクリスチャンのところへ行って話すようにしました。―伝道 4:9,10。ヨブ 16:5。

      16 そのような援助を望む方はエホバの証人の集会に出席なさるようお勧めいたします。経験のあるクリスチャンは,あなたが聖書の助言を学びそれに従うのを喜んで助けてくれます。その点で進歩するなら,エホバに喜ばれるように努力しているという自覚から満足が得られます。また幸福な健康と長寿への道を歩んでいることになります。

      [研究用の質問]

      神があなたの健康に関心を持っておられるということは,なぜ分かりますか。(1-6)

      聖書には,たばこの使用と関係のある,どんな助言がありますか。(7-9)

      聖書に従うなら,アルコールに対してどんな見方ができるようになりますか。麻薬についてはどうですか。(10,11)

      生活に神の助言を適用するのはどんな理由からですか。どんな助けが得られますか。(12-16)

      [99ページの囲み記事]

      「たばこの煙が喫煙者だけでなく周囲の人々にも害になることを示す証拠は増えている。……たばこを吸うなら,自分自身だけでなく子供にも及ぶ身体的および心理的影響を考えなければならない。親の喫煙は子供の健康を害する危険がある」― 医学関係の特別欄執筆者サウル・カペル博士。

      [101ページの囲み記事]

      「研究によれば,マリファナは健康上多くの重大な問題を引き起こす可能性があるということである。肺の損傷,ガンになる恐れ,精神神経障害,病気に対する抵抗力の欠乏,性交不能,染色体の損傷や障害児出産の恐れなどがそれである」― ニューズウィーク誌。

      [97ページの図版]

      清潔にすることは健康法の一つ

  • なぜ病気と死があるか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 11章

      なぜ病気と死があるか

      どんなに健康に気を付けても,人は老化し,病気になり,ついには死にます。だれもそれを避けることはできません。神に献身した人たちでもそれは不可能でした。(列王上 1:1; 2:1,10。テモテ第一 5:23)どうしてそうなのでしょうか。

      2 人間の体細胞には現在よりもはるかに長く代謝を続ける潜在能力があるようです。そして人間の脳は現在の寿命よりもずっと長い期間の使用に耐え得る力を持っています。そのような能力をわたしたちが用いないことになっているとすれば,それはなぜでしょうか。実際,科学者たちは,人がなぜ老化し,なぜ病気になり,なぜ死ぬのか,説明できません。しかし聖書は説明しています。

      病気と死の原因

      3 使徒パウロは真の原因を指摘し,「アダムにあってすべての人が死んでゆく」と述べています。(コリント第一 15:21,22)パウロはここで,イエス・キリストがその正確さを確証された,アダムとエバに関する聖書の記録に言及しています。(マルコ 10:6-8)創造者は,その最初の男女を住みかである庭園に置かれ,ご自分の意志に調和していつまでも幸福に生きていける見込みをお与えになりました。二人は,様々な樹木や他の植物から滋養に富んだ食物を十分に得ることができました。その上アダムとエバは完全な人間で,精神的にも肉体的にも欠陥がありませんでした。ですから,二人の機能が,今の人間の場合のように低下していく理由は何もありませんでした。―申命 32:4。創世 1:31。

      4 ただ一つの制限が,最初の人間夫婦に課せられました。神はこう言われました。「善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日に,あなたは必ず死ぬからである」。(創世 2:17,新)その制限を守るなら,人間のために何が善で何が悪かを決める神の権威を認めていることを示すことになります。やがて,二人は善悪に関して自分自身の規準を設けました。(創世 3:6,7)神がはっきり述べられた命令に従わないことにより,二人は聖書の言う「罪」を犯しました。ヘブライ語でもギリシャ語でも,「罪を犯す」とは「[的を]はずす」という意味です。アダムとエバは的をはずす,つまり全き従順の域に達しませんでした。二人はもはやエホバの完全さを反映しなくなったので,神から公正な刑罰を受けました。―ルカ 16:10。

      5 アダムとエバの罪は彼ら自身だけでなく,わたしたちにも影響を及ぼしました。どうしてわたしたちにまで及んだのでしょうか。エホバは二人を直ちに処刑されず,関係者すべてを思いやって,最初の夫婦が子供をもうけることを許されました。しかしアダムもエバももはや完全ではありません。罪を犯した時から肉体的にも精神的にも機能が低下しはじめました。したがって,完全な子供をもうけることができませんでした。(ヨブ 14:4)それは,今日遺伝的欠陥を持った夫婦がその欠陥を子供に伝えることにたとえられるでしょう。全人類は不完全な最初の夫婦の子孫ですから,罪という欠陥を受け継いでいます。パウロはこう説明しています。「ひとりの人[アダム]を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」― ローマ 5:12。詩 51:5。

      6 それは絶望的な状態だったのでしょうか。歴史も聖書も,その解決が人間にまかされていたなら絶望的であったことを証明しています。人間は自分で自分の罪の汚れを清めることも,神の有罪宣告からの解放を得ることもできません。釈放されることがあるとすれば,神が釈放するのです。破られたのは神の律法でしたから,どうすれば完全に公正に則して釈放できるかを決める立場にあったのは神でした。エホバ神は,わたしたちを含む,アダムとエバの子孫を釈放する備えを設けることにより,過分のご親切を示されました。それが,どんな備えか,またそれからどんな益が得られるかを聖書は明らかにしています。

      7 次の幾つかの聖句は,この点を理解するための基礎となる聖句です。

      「神は[人類の]世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされた」― ヨハネ 3:16。

      『人の子[イエス]は,仕えられるためではなく,むしろ仕えるため,そして多くの人と引き換える贖いとして自分の魂を与えるために来たのです』― マルコ 10:45。

      「すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しないからであり,彼らがキリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し,神の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。神は彼を,その血に対する信仰による[身代わり]のささげ物として立てられました」― ローマ 3:23-25。

      「贖い」とは何か

      8 これらの聖句のうちの二つに「贖い」という言葉が出て来ます。それは本来,捕虜を自由にするために支払う代価のことです。(イザヤ 43:3)この言葉は,誘かいされた人の身の代金を指してしばしば用いられます。この場合,捕虜に当たるのは人類です。アダムはわたしたちを売り渡して罪の奴隷にしました。その結果人類は病気や死を経験するようになりました。(ローマ 7:14)人類を贖い,罪の影響のなくなった生活が送れる見込みをわたしたちのために開くことができた貴重なものとはいったい何でしたか。

      9 聖書が,イエスは『贖いとして自分の命を与えた』と述べていることを思い出しましょう。(マルコ 10:45)この言葉から人間の命が必要だったことが分かります。アダムは罪を犯して完全な人間の命を失ってしまいました。人類が完全な命を再び得るようにするには,アダムが失ったものに見合うもの,つまりそれを買い戻すための別の完全な人間の命が必要でした。このことから,詩篇 49篇7,8節が次のように述べている通り,アダムの不完全な子孫がだれひとり贖いを備えることのできない理由がはっきり分かります。「人間は自分自身を請け出す,つまり神に自分の贖い代を払うことができない。命を請け出すことはあまりにも高くつき,人間の力の及ぶところではない」― エルサレム聖書。

      10 神は,贖い代を備えるために,ご自分の完全な霊の子を天から遣わし,人間として生まれさせました。み使いは,イエスが完全な者として誕生することを神がどのように確実にされるかを,貞潔な処女マリアに次のように説明しました。「至高者の力があなたをおおうのです。そのゆえにも,生まれる者は聖なる者,神の子と呼ばれます」。(ルカ 1:35。ガラテア 4:4)イエスは,不完全な人間を父としていなかったので,罪を受け継いでいませんでした。―ペテロ第一 2:22。ヘブライ 7:26。

      11 キリストは,人間として神のご意志に全く調和して生活された後,完全な人間の命をなげうたれました。その命は,アダムが創造された時に持っていたのと同様の命でしたから,イエスは「すべての人のための対応する贖い」となられました。(テモテ第一 2:5,6。コリント第一 15:45)人類全体を買い戻す値を払ったという意味で,確かに,「すべての人のための」と言うことができました。ですから,聖書は,わたしたちは『代価をもって買われた』と述べています。(コリント第一 6:20)神は,人類に罪と病気と死をもたらしたアダムの行為を相殺する基礎を,イエスの死によって据えられました。この真理を理解することは,幸福な人生を送るのに大変肝要です。

      罪はどのようにして許されるか

      12 イエスが贖い代を払ってくださったということを聖書から学ぶのはすばらしいことです。しかし,神の是認と幸福を得るのに障害となる事柄がまだあります。それはわたしたち一人一人が罪人であるということです。人はだれでも何度も『的をはずします』。パウロは,「すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しない」と書きました。(ローマ 3:23)それをどうすることができるでしょうか。どうすれば,義の神エホバに受け入れていただけるものになれるでしょうか。

      13 神のご意志に反する道を,それと知りつつ歩み続けるなら,わたしたちは神がわたしたちを良いと見てくださるとは確かに期待しないでしょう。わたしたちは自分の悪い欲望や言葉や振舞いを心から悔い改め,それから,聖書に示されている規準に従うよう努力しなければなりません。(使徒 17:30)それでもなお,過去および現在の罪を覆ってもらう必要があります。キリストの贖いの犠牲がわたしたちの助けとなるのはここのところです。パウロは,神は『イエスを,その血に対する信仰による身代わりのささげ物として立てられました』と書いて,そのことを示しています。―ローマ 3:24,25。

      14 パウロはここで,はるか昔に神によって取り決められ,キリストを予表する,もしくは指し示すことになっていたある事柄に言及しています。古代イスラエルでは,罪のための動物の犠牲が,イスラエルの人々のために定期的に捧げられました。また,個々の人も,特定の悪行に対する罪科の捧げ物を捧げることがありました。(レビ 16:1-34; 5:1-6,17-19)神はそれら血の犠牲を,人間の罪を贖うもの,もしくは相殺するものとして受け入れられました。しかし,永続する効力を持ってはいませんでした。聖書には,「雄牛ややぎの血が罪を取り去ることは不可能だからです」と述べられています。(ヘブライ 10:3,4)けれども,祭司・神殿・祭壇および捧げ物を含む,崇拝のこうした特色は,イエスの犠牲に関連した「きたるべき良い事がらの影」もしくは「例え」でした。―ヘブライ 9:6-9,11,12; 10:1。

      15 聖書は,わたしたちが許しを得るのにそのことが極めて重要である点を示してこう述べています。『わたしたちはこのかたにより,彼[イエス]の血を通してなされた贖いによる釈放,そうです,わたしたちの罪過のゆるしを得ているのです』。(エフェソス 1:7。ペテロ第一 2:24)イエスの死は贖いとなる上に,人間の罪を覆うことができます。それで人間は罪を許されるのです。しかし人間に求められていることがあります。わたしたちは買い取られた,キリストの贖いにより「代価をもって買われた」のですから,進んでイエスを自分の主もしくは所有者とし,イエスに従わなければなりません。(コリント第一 6:11,20。ヘブライ 5:9)したがって自分の罪を悔い改め,さらに,わたしたちの主であるイエスの犠牲に信仰を置くまでになる必要があります。

      16 そうするなら,神が病気と死をなくして,人類を罪のあらゆる影響から解放してくださる時まで許しを待つ必要はありません。聖書によると,この許しは今得ることができ,その結果わたしたちは神のみ前に明らかな良心を持つことができます。―ヨハネ第一 2:12。

      17 ですからイエスの犠牲は,わたしたちにとって,日々極めて個人的な意味を持ってくるはずです。その犠牲によって神は,わたしたちが犯す間違いを許してくださいます。使徒ヨハネは次のように説明しています。「わたしがこれらのことを書いているのは,あなたがたが罪を犯すことのないためです。それでも,もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なるかたイエス・キリストがおられます」。(ヨハネ第一 2:1。ルカ 11:2-4)これは聖書の最も重要な教えであり,わたしたちの永続する幸福に欠かせない教えでもあります。―コリント第一 15:3。

      あなたはどうしますか

      18 病気と死の原因,イエス・キリストによる贖いと許しの備えなど,聖書が述べていることに,あなたはどんな態度で応じるでしょうか。こうした詳しい知識を頭には取り入れるけれども,それによって心を動かされることもなく,生活を変えることもしない,という人がいるかもしれません。しかしわたしたちにはそれ以上のことが求められています。

      19 わたしたちは,贖いを備えてくださった神の愛を感謝しているでしょうか。使徒ヨハネは,『神は世を深く愛してご自分の独り子をお与えになった』と書きました。(ヨハネ 3:16)その愛の対象となった人間は,神から離反した罪人たちだったということを忘れないようにしましょう。(ローマ 5:10。コロサイ 1:21)ほとんどの人があなたに関心がないのに,その人たちのために,あなたは自分の最愛の者を手離すことができるでしょうか。ところがエホバは,人類に救いを備えるために,清くて忠実な息子,愛する初子を地上に来させ,侮べつや辱めや死を経験させたのです。そのことに感動したパウロは,「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられる」と書きました。―ローマ 5:8。

      20 み子も愛を示されました。時期が到来して,人間となるために進んで自らを低くされました。また,教えを授けたり,いやしを行なったりして,不完全な人間のために身を粉にして働かれました。さらに,罪がなかったにもかかわらず,ちょう笑や責め苦に甘んじ,真理の敵の手にかかって屈辱的な最後を遂げることも辞されませんでした。イエスが裏切られ,裁判にかけられ,ののしられ,殺されたことについての記録を時間をかけてお読みになれば,そのことを理解する上で役立つでしょう。それはルカ 22章47節から23章47節に記録されています。

      21 こうした事柄すべてにあなたはどう応じますか。贖いという愛の備えを受け入れているから,悪いことをしてもよいと考えるべきでないのは言うまでもありません。それは贖いの趣旨に反することであり,許されない罪を犯す結果になりかねません。(ヘブライ 10:26,29。民数 15:30)ですから,むしろ,創造者に誉れとなる生活をするよう努力すべきです。み子を通してなされたこのすばらしい備えに信仰があるなら,そのことを他の人々に話して,どうすればその益にあずかれるかを他の人が認識するよう助けたいという気持ちになるはずです。―使徒 4:12。ローマ 10:9,10。ヤコブ 2:26。コリント第二 5:14,15。

      22 地上におられたとき,イエス・キリストは,神がお与えになる罪の許しを差し伸べることができると言われました。敵の中にはそのことでイエスを非難する者もありました。そこでイエスはそれができる証拠として,体の麻ひしていた男の人をいやされました。(ルカ 5:17-26)ですから,罪が人類に肉体的な影響を及ぼしたのと同様,罪の許しは有益な結果をもたらします。それを知るのは大切なことです。イエスが地上で行なわれたことは,神には病気と死をなくする力があることを示しています。これは,イエス・キリストご自身が語られたこと,すなわちエホバ神はみ子をお与えになり,信仰を働かせる者が「永遠の命」を持つようにされたということと一致します。(ヨハネ 3:16)しかし,それはどのようにして,またいつ得られるのでしょうか。また,すでに亡くなっている愛する人々はどうなるのでしょうか。

      [研究用の質問]

      病気になったり死んだりすることは,なぜ納得のゆかないことですか。(1,2)

      病気と死が人類に影響を及ぼすようになったいきさつを述べなさい。(3-5)

      病気と死をなくすことは神にしかできないことですが,それはなぜですか。(6,7)

      贖いはどのようにして備えられましたか。(8-11)

      罪の許しが得られるのはどんな基盤があるからですか。(12-17)

      神とイエスがしてくださったことにあなたはどんな態度で応じるでしょうか。(ヨハネ第一 4:9-11)(18-21)

      罪が許されると,どんな見込みがありますか。(22)

      [103ページの囲み記事]

      科学関係の著述家アイザック・アシモフの説明によると,人間の脳は,リボ核酸(RNA)分子の働きで,「人間が普通に学習し,記憶する事柄をどれだけでも,さらには,その10億倍の情報をも完全に整理収録する仕組みになっている」― ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌。

      [108ページの図版]

      イスラエルで捧げられた犠牲はイエスの贖いの犠牲を指し示していた

  • 死は打ち負かしがたい敵ではない
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 12章

      死は打ち負かしがたい敵ではない

      死は命の敵です。葬式のあるたびに,死はすべてのものを征服する王であるかのように思えます。(ローマ 5:14)樹木の中には1,000年余りも生きる木があり,魚の中にも150年生きるものがあります。それなのに人間は,わずか70年か80年で死に飲み込まれてしまいます。―詩 90:10。

      2 聖書は死を敵としていますが,それには十分の理由があります。人間は,いつまでも生きて物事を学びたいという欲望を本来持っているようですが,どんな学識や技術があっても,友人や親族からどれほど重んじられていても,死を免れることはできません。(伝道 3:11; 7:2)大抵の人は,死は敵であるとやはり感じて,できるだけ死に負けまいと必死に努力します。また,死に敗北する前に人生からできるだけ多くの楽しみを得ようとやっきになっている人もいます。

      3 もっとも,死後にも命があると信じる人はいつの時代にも大勢います。ギリシャの哲学者プラトンは,人間には肉体が朽ちても生き続ける不滅の魂があると教えました。本当にそうでしょうか。死んだと思われていた人が生き返って,後日,『死のとびらの向こうで』見た事柄を詳しく語るという話が最近幾つかあり,不滅の魂に対する関心をそそりました。死者はどこかで生きているのでしょうか。死を征服することはできるのでしょうか。

      死の最初の勝利

      4 聖書は,人間が死ぬべき者としてではなく生きる者として創造されたことを示しています。神はアダムとエバを,楽しく暮らせるとても気持ちの良い園に置かれました。そして,多くある樹木の中の1本を「命の木」と呼ばれました。アダムとエバが神への感謝と忠節を証明していたなら,神は,永遠の命を与えたことの象徴として,その木の実を二人に食べさせたことでしょう。(創世 1:30; 2:7-9,新)しかし,アダムとエバは神に背くことを選びました。その罪によって二人は死の宣告下に置かれたのです。―創世 3:17-19。

      5 死が本当に打ち負かしがたい敵であるかどうかを理解するには,死がアダムとエバに対して勝利を収めた結果を調べる必要があります。二人は完全に「死んだ」のでしょうか。それともその「死」は別の生命への単なる移行にすぎなかったのでしょうか。

      6 アダムが愚かにも罪を犯した後,エホバは公正と義にかなったご自分の言葉を実行されました。エホバはアダムにこう言われました。

      「あなたは顔に汗してパンを食べ,ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」― 創世 3:19,新。

      このことはアダムと今日のわたしたちにとって何を意味したのでしょうか。

      7 これより前に出てくる,アダムの創造に関する記録は次の通りです。「神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると,人は生きた魂になった」。(創世 2:7,新)これが何を意味するかを考えてみてください。神が塵からアダムを創造される以前にアダムは存在していませんでした。ですから死んで塵に戻った後アダムは存在しません。―創世 5:3-5。

      死者に意識があるか

      8 アダムはいったん死んでしまうともはや存在しなくなった,という考えに驚く人は少なくないことでしょう。しかし,宣告された罪に対する刑罰,すなわちアダムは死んで塵に戻るということには,命が継続することを暗示するものは何も含まれていません。人間の場合も獣の場合も,死は生きることの反対です。どちらも同じ「霊」すなわち生命力を持っています。それで聖書は次のように述べています。

      「人の子らに関して終局があり,獣に関しても終局がある……。そしてこれらは同じ終局に遭う。一方が死ぬように,他方も死ぬ。そして彼らは皆ただ一つの霊を持っているにすぎず,それゆえ人が獣に勝るところは何もない。……それらはみな塵からのものであって,みな塵に帰って行く」― 伝道 3:19,20,新。

      9 これは,死者は考えることも感じることもないという意味でしょうか。伝道之書 9章4,5節(新)は次のように答えています。『生きている犬は死んだししよりましである。生きている者は自分が死ぬことを意識しているのである。しかし死者は,何事に関しても全く意識がない』。人が死ぬと,『その考えは滅びうせ』,感じることも働くこともできません。―詩 146:3,4,新; 31:17。

      10 聖書は,死者に意識や感覚がないことを断言しているのですから,死ねば痛みや苦しみがなくなるということになります。神の忠実な僕であったヨブはそのことを知っていました。それで,苦しい病気を患っていた時,こう言いました。

      「なぜわたしは胎から出て死ななかったのか。……どうして,ひざがわたしと向かい合ったのか。また,どうしてわたしの吸う乳房があったのか。今ごろは,わたしは横たわって,乱されないでいたであろうに。そうすれば,わたしは眠っており,わたしは休んでいたであろうに」― ヨブ 3:11-13,新。

      11 しかし,この言葉は魂のことを考慮に入れているのでしょうか。

      12 簡単に言うと,魂とは人間そのものであると聖書は教えています。すでに読んだ創世記 2章7節はそのことを示しています。神は人間の体を塵から造られたということを思い出してください。それから神は体を生かすのに必要な命と息をお与えになりました。その結果どうなりましたか。神ご自身の言葉によれば,人は『生きた魂[ヘブライ語でネフェシュ]になりました』。(創世 2:7,新)アダムは魂を与えられたのでも,魂を持つ者となったのでもありません。アダムは魂だったのです。聖書は終始一貫,このように教えています。何世紀も後に,使徒パウロは創世記 2章7節を引用し,「最初の人アダムは生きた魂[ギリシャ語でプシュケー]になった」と書きました。―コリント第一 15:45。

      13 この二つの聖句に見られるヘブライ語のネフェシュとギリシャ語のプシュケーはいろいろに訳されています。多くの翻訳聖書ではエゼキエル書 18章4節とマタイ 10章28節でこれらの言葉が「魂」と訳されています。原語のその同じ言葉は,別の箇所では,「生き物」もしくは「命あるもの」,あるいは「人」と訳されています。これらはその原語の妥当な訳です。これらの語を比較すると,魂とは,人間の中にある何か見えないものではなく,生き物,つまり人そのものであるということが分かります。聖書では原語のその同じ言葉が動物にも使われており,動物が魂であること,あるいは魂として命を持つものであることが示されています。―創世 2:19。レビ 11:46。啓示 8:9。

      14 魂であったアダムは物を食べることができ,空腹を感じ,疲れをおぼえました。それは人間全般について言えることです。原語であるヘブライ語の聖書には,魂がこうした事柄すべてを行ない,また感じることが述べられています。(申命 23:24。箴 19:15; 25:25)ある特定の日に働くことを禁じる,イスラエル人に適用するおきてを述べるにあたって,神は,魂に関するもう一つの重要な点を明らかにし,こう言われました。「この日に何か仕事を行なう魂がいれば,わたしはその魂を民の中から滅ぼさねばならない」。(レビ 23:30,新)ですから,この聖句でもまた他の多くの聖句の中でも,聖書は魂が死に得るものであることを示しています。―エゼキエル 18:4,20。詩 33:19。

      15 このような聖書の真理を知っていると,死んだと思われた(心臓の鼓動や脳の活動が見られない)人が息を吹き返し,後で,肉体を離れて空中を漂った経験を語ったという,最近よくある話をどう解釈するかに役立ちます。一つの可能性として,薬物の影響で,または脳に酸素が欠乏したために幻覚が起きたということが考えられます。これが十分の説明になってもならなくても,目に見えない霊が肉体から出ていくというようなことは決してないことを,わたしたちは知っています。

      16 また,死者が全く無意識であり,肉体を離れて漂う「魂」というものもないとすれば,邪悪な者の魂を待ち受けている火の燃える地獄などあり得ないということにならないでしょうか。それなのに,邪悪な者は死ぬと責め苦に遭うと教えている教会が少なくありません。死者に関する真理を知ってから,当惑し,『わたしたちの宗教は死者についての真理をどうして教えてくれなかったのだろう』と言った人がいましたが,それももっともなことです。あなただったらどう反応しますか。―エレミヤ 7:31と比較してください。

      死者にはどんな将来があるか

      17 現在生きている人の将来が意識のない死以外にないとすれば,死はやはり打ち負かしがたい敵でしょう。しかし聖書はそうでないことを示しています。

      18 人の死を待ち構えているのは墓です。聖書が書かれた原語には,死者のための場所,人類共通の墓を意味する言葉がありました。それはヘブライ語ではシェオル,ギリシャ語ではハデスと呼ばれました。幾つかの聖書ではこれらの言葉は,「墓」,「穴」,「地獄」などの語に訳されています。どのように訳されていようと,その原語の意味は,熱くて苦しい場所ではなく,無意識の死者の墓です。こう書かれています。

      「あなたの手のなし得るすべてのことは力のかぎりこれを行ないなさい。あなたの行こうとしている場所であるシェオル[ドウェー訳では地獄,欽定訳では墓]には,業も企ても知識も知恵もないからである」― 伝道 9:10,新。

      使徒ペテロは,イエスでさえ,死んだ時には墓,シェオル,ハデスもしくは地獄へ行かれたとはっきり述べています。―使徒 2:31。詩篇 16篇10節と比較してください。

      19 言うまでもなく,死んだ人には,自分の状態を変える力がありません。(ヨブ 14:12)では,将来にあるものと言えば,死んで無意識の状態になることだけでしょうか。ある人の場合にはそう言えます。聖書は,神から全く退けられた人は永久に死んだままであると教えているからです。―テサロニケ第二 1:6-9。

      20 古代のユダヤ人は,極悪非道な人間には死後全く将来がないと信じていました。ですからそのような者たちの死体は葬らず,エルサレムの外の谷に投げ込みました。その谷は焼却場でしたから絶えず火が燃やされていました。これがヒンノムの谷,すなわちゲヘナでした。このことに基づいて,イエスは,将来に何の見込みもない完全な滅びの象徴としてゲヘナという言葉をお用いになりました。(マタイ 5:29,30)例えばイエスは,次のように語られました。

      「体を殺しても魂[すなわち,魂として生きる見込み]を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体もともにゲヘナで滅ぼすことのできるかた[神]を恐れなさい」― マタイ 10:28。

      しかしイエスの言葉は,死んだ大勢の人が将来生き返り,そうすることによって死に打ち勝つという希望を持つ理由を与えてくれます。

      復活による勝利

      21 神は,死んで何日もたっていたイエス・キリストをよみがえらせました。それは歴史上最も重要な業の一つでした。イエスは地上に来られる以前に霊者でしたが,ふたたびそのような霊者になられました。(コリント第一 15:42-45。ペテロ第一 3:18)イエスは復活後姿を現わされ,幾百人もの人がそれを見ました。(使徒 2:22-24。コリント第一 15:3-8)その目撃証人たちは命の危険をも顧みずに,イエスの復活に対する信仰を保ちました。イエスの復活は死が打ち負かしがたい敵でないことの証明です。死に勝つことは可能です。―コリント第一 15:54-57。

      22 死に対してさらに勝利を得ることも可能です。人々は地上の人間として復活することができます。偽ることのできない神は,み言葉の中で,「義者[神のご意志を知っていて,それを行なった人]と不義者[義を実践しなかった人]との復活がある」ことを約束しておられます。―使徒 24:15。

      23 わたしたちは,神が人々を人間として生き返らせる能力をお持ちであることを確信できます。人間は人の像や声や癖を映画のフィルムやビデオテープに撮ることができます。神にはそれ以上のことがおできになるのではないでしょうか。神は,どんなフィルムやテープよりも性能の良い記憶力をお持ちですから,復活させたいと思う人々を完全に再創造することがおできになります。(詩 147:4)神はそのことをすでに実証なさいました。聖書には,神がみ子を用いて人々を復活させた記録が数多く収められています。それら胸の躍るような記録のうちの二つは,ヨハネ 11章5-44節とルカ 7章11-17節にあります。昔の,神の崇拝者たちは十分の理由があって,神が自分たちを思い出して復活させてくださる時を待ち望んだのです。復活は,無意識になって眠っていたのを起こされるようなものでしょう。―ヨブ 14:13-15。

      24 昔,復活が起きた時,親族や友人は大きな喜びにつつまれたに違いありません。しかし,その復活は,一時的に死を打ち負かしたにすぎません。なぜなら,復活した人々はやがて再び死んだからです。しかしそれらの復活は胸を躍らせるような予告編となっています。なぜなら聖書は,将来「さらに勝った復活」があることを示しているからです。(ヘブライ 11:35)その復活は,地上によみがえる人々が再び死ぬ必要がないので,はるかに勝った復活です。それはまた,死に対するはるかにすばらしい勝利でもあります。―ヨハネ 11:25,26。

      25 聖書は,神がどのように死を打ち負かすことができ,また実際に,それを行なわれるかについて述べていますが,そのことは神が人類に愛のある関心を持っておられることを確かに示しています。それによって,人は神がどんな方かを理解できるので,神に一層引き寄せられるに違いありません。またこれらの真理を知っていれば,平衡を保つのに役立ちます。なぜなら,多くの人をとりこにしている,死に対する病的な恐れを持たないように守られるからです。むしろ,復活が行なわれて死が打ち破られるとき,亡くなった親族や愛する者たちに再び会えるという喜ばしい希望を持つことができます。―テサロニケ第一 4:13。ルカ 23:43。

      [研究用の質問]

      「敵である」死について調べてみなければならないのはなぜですか。(ヨブ 14:1,2)(1-3)

      人類はどうして死ぬようになりましたか。(4,5)

      アダムにとって「死」は何を意味していましたか。(6,7)

      死者に意識があるかないかについて聖書から説明するとすれば,どのように行なえるでしょうか。(8-11)

      聖書によれば,「魂」とは何ですか。(12,13)

      魂は死ぬことができますか。そのことから何が分かりますか。(14-16)

      人は死ぬとどうなりますか。(17-20)

      死に対する勝利はどのようにして得られますか。(21,22)

      胸の躍るような将来を期待できるのはなぜですか。(23-25)

      [117ページの囲み記事]

      『新約聖書の中に,原始の教えとして地獄の火が含まれていないのは注目に値する。神が差し伸べている救いを拒む者の最終的な運命は,永遠に続く刑罰というよりも絶滅であることを示しているように思えるところが新約聖書には何箇所かある』― アラン・リチャードソン編集の「キリスト教神学辞典」。

      [114ページの図版]

      塵

      アダム

      塵

      [119ページの図版]

      ラザロの復活は,死に対して勝利を得ることができることを示している

  • 霊の領域との伝達
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 13章

      霊の領域との伝達

      「人の心の奥底には,意思を伝えようとする衝動がある」。これは「機械」という題の本の,無線に関する章の冒頭の言葉です。現在は無線によって世界中の人々と意思を伝達し合うことができ,大気圏外の宇宙飛行士の声さえ聞くことができます。

      2 無線による伝達が今や生活の一部になっていることは一般に認められています。しかし,もっと重要な形態の相互伝達,すなわち霊の領域と意思を伝達し合うことを無視したり,誤解したりしている人は少なくありません。

      創造者に語りかける

      3 無線機が発明されるよりも幾世紀も昔に,ダビデ王は次のように書きました。

      「エホバよ,わたしの言うことに耳を傾けてください。……助けを叫び求めるわたしの声に注意を払ってください。わたしの王,わたしの神よ。わたしはあなたに祈るからです」― 詩 5:1,2,新。

      宇宙最高の英知は,望むなら人間の祈りに『耳を傾ける』ことができるということは,道理にかなっていると思えないでしょうか。また,人間が最も良い導きを与えることのできる神に助けを求めるのは,分別をわきまえた行為ではないでしょうか。―詩 65:2。

      4 無線による相互伝達の場合は,送信機と受信機が必要です。しかし祈りによってエホバに近付くには,何が必要でしょうか。第一に必要なのは信仰です。「神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分をせつに求める者に報いてくださることを信じなければならないからです」。(ヘブライ 11:6)また,神の道徳規準や道に順応しなければなりません。そうでなければ,廉潔な人が,道徳的に不快に感じるラジオ番組を聞かないのと同様,神もそのような人の祈りを聞かれません。―ヨハネ第一 3:22。イザヤ 1:15。

      5 エホバは,受け入れられる祈りの形式を厳しく定めてはおられません。わたしたちが声を出して祈っても,あるいは無言のうちに祈っても,神はそれを“聞く”ことができます。立ったままでも,また座った姿勢やひざまずいた姿勢でも,あるいはベッドに寝たままででも祈ることができます。(サムエル前 1:12,13。列王上 8:54)特別の言葉や宗教用語を用いる必要はありません。それよりも大切なのは誠実さと謙そんな気持ちです。イエスがルカ 18章10-14節でその点を例えでどのように示しておられたかに注目してください。

      6 わたしたちは一人一人いつでも祈りによってエホバに近付くことができます。しかし,エホバはまた,クリスチャンの会衆で捧げられるような,人々が一緒に捧げる祈りも喜ばれます。ある人々は,祈りというものを一度もしたことがありませんでしたが,会衆の集会で捧げられる祈りに耳を傾けることによって,祈りという大切な意思の伝達をどのように行なうべきかを学びました。家族も一緒に祈ることができ,またそうすべきです。その一つの機会として食事の時があります。それは,食物を与える際に神に感謝したイエスの模範に従うことです。―マルコ 8:6。

      7 祈ったけれども答えてもらえない,と言う人をあなたはご存じかもしれません。なぜ答えてもらえないのでしょうか。キリストはご自分の追随者に,「あなたがたが父に何か求めるなら,父はそれをわたしの名において与えてくださるのです」と言われました。神に近付く道はイエス・キリストであって,他のだれでもありません。答えてもらえないのは,そのことを認識していないためかもしれません。(ヨハネ 16:23; 14:6)さらに,イエスはどういう意味で「何か求めるなら」と言われたのでしょうか。使徒ヨハネは,それが『エホバのご意志にしたがった』「何か」であることを示しています。義の神が,悪い,あるいは不道徳な,または貪欲な目的のための祈りを受け入れられるということは考えられないことです。(ヨハネ第一 5:14)しかし,たちどころに富が得られるように,あるいは人の上に立てるようにと祈る人は少なくありません。ですから,神がそのような祈りを聞かれないのも不思議ではありません。自分にとって本当に必要なものを求める妥当なお願いであっても,神のご意志が地上になされるようにといった事柄を祈った後に祈るべきです。―マタイ 6:9-11。

      8 祈りは,神に向かって優しい父親に対するように語りかけ,自分の喜びや問題や必要を言い表わす機会となります。もしあなたが,そのように祈ることをこれまで定期的に行なってこられなかったなら,さっそく行なってください。神と信頼関係を持ち,いつでも神に意思を伝達することができるなら,大きな心の平安と幸福感が得られます。神が自分に関心を持っていてくださることを確信しているので,心の中を打ち明け,重荷をおろすことができます。―詩 86:1-6。フィリピ 4:6,7。

      霊の領域から与えられる答え

      9 祈りの主な内容の一つは,わたしたちが神の知恵と導きを必要としていることを示すものでなければなりません。(詩 27:11; 119:34-36。ヤコブ 1:5)神はどんな方法でお答えになるのでしょうか。古代においては,み使いや人間の預言者を通して語られ,お告げをお与えになることが時々ありました。しかし,使徒パウロは,今神は「み子によってわたしたちに語られました」と述べており,そのみ子の教えと生活の仕方は聖書に記録されています。(ヘブライ 1:1,2; 2:1-3。ヨハネ 20:31)ですから,神が直接話しかけてくださることを期待するのではなく,神がお選びになった手段すなわち聖書を通して助けを求めるべきです。そのことを念頭において,導きを祈り求めた後は,神の言葉を勤勉に学ぶべきです。(箴 2:1-5)聖書を学び話し合うために定期的に集まる献身したクリスチャンを通しても援助が得られます。―テモテ第二 2:1,2。

      10 神は,祈りに答えて,ご自分の聖霊により個人的に援助を差し伸べてくださることもあります。聖霊によって,クリスチャンがみ言葉を理解しそれを適用するのを助けてくださるのです。(ヨハネ 16:7-13)ダビデはこう祈りました。「あなたのご意志を行なうことをわたしに教えてください……あなたの霊は良いものです。それがわたしを廉潔の地に導き入れてくれますように」― 詩 143:10,新。

      霊の領域に邪悪な者が存在するか

      11 聖書は,エホバとみ子とみ使いたちが霊の領域に存在していることを明言しているだけでなく,人間が祈りによって神に意思を伝達することもできることをはっきりと述べています。また,今は非常に邪悪な者である理知のある霊者たち,具体的に言えばサタンとその使いたちが存在することをも示していますが,それも同様に信頼のできることです。

      12 「悪魔」など古い迷信や神話の名残にすぎないと考える人もいれば,聖書が「サタン」と言うときは,悪の原動力を指しているにすぎないと考える人もいます。

      13 しかし,マタイ 4章1-11節を見ると,サタンは非常に明確な形でイエスを3度誘惑しています。ここで言われているサタンが,イエスの内部の悪の原動力でなかったことは明らかです。なぜなら,神のみ子は悪や罪の全くない方だからです。(ヘブライ 7:26; 1:8,9)サタンは実在する者です。サタンがエホバの前に出たことを示しているヨブ記 1章6-12節の記述も,そのことを証明しています。

      14 ところで,サタンはどのようにして存在するようになったのでしょうか。わたしたちはエホバが万物の創造者であられ,『そのみ業は完全である』ことを知っています。(申命 32:4。啓示 4:11)ですから,論理的に言って,サタンはかつて他の霊者と共にエホバによって創造された正しい霊者だったに違いないと考えられないでしょうか。では,そのみ使いがどうして堕落したのでしょうか。ヤコブの手紙 1章14,15節は次のような手掛かりを与えています。

      「おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。ついで欲望は,はらんだときに,罪を産みます」。

      15 人間の世界でも,信頼される立場の人でさえ,より大きな権力を得るためにある状況をどのようにうまく利用できるか考えることがあります。神のみ使いの一人にもそのようなことが起きたようです。自由な道徳行為者だったその霊の被造物は,人間を従わせて神のようになれると考えたのか,悪い道を選びました。そのことは,エゼキエル書 28章1-19節に記述されているティルスの王の経験と類似点があるようです。その王は古代イスラエルに比べれば恵まれた立場にいました。しかし誇りで思い上がり,そのために失墜しました。同様に,自らサタン,神に反抗する者となった者が身の破滅を招いたのも,もとはと言えば誇りでした。

      16 サタンの存在を知ると,人類を不完全で,罪深い,病気と死を免れられない者にした,エデンの園での出来事がよく分かってきます。超人間的な知力を持つサタンは,蛇を用いて,偽りに基づく致命的な事柄をエバに提案しました。(創世 3:1-5)それで,啓示 12章9節は,サタンを「初めからのへび」と呼んでいます。またイエスは,この者は『真理にかたく立たず』,「偽りの父」,「人殺し」となったと言われました。―ヨハネ 8:44。

      17 反逆した霊の被造物はサタンだけではありません。創世記 6章1-3節に記されている史実によると,ノアの時代に,おそらくサタンの反逆に刺激されたものと考えられますが,女性と関係を持って性的快楽を味わうために人間の体をつけて現われたみ使いたちがいました。それは不自然な,堕落した行為でした。(ユダ 6,7)神が世界的な洪水によって地上の悪を一掃されたとき,それら不従順なみ使いたちは霊の領域にもどりました。ただしそのときは悪霊となってサタンの側につきました。(ペテロ第二 2:4,5)有名なギリシャ神話やローマ神話には,天と地を行き来する神々の話がありますが,それは,聖書に記されている,不従順なみ使いたちに関する事実をゆがめたものとも考えられます。

      霊の領域から来る悪い影響

      18 邪悪な霊者たちは,人類の福祉に関心を持っているのではなく,人類を欺き誤導して神から離反させることだけを考えています。使徒パウロはサタンを,「不信者の思いをくらまし」,キリストについての「良いたより」を学ばせようとしない「この事物の体制の神」と呼んでいます。(コリント第二 4:4)サタンはその点で大いに成功しています。

      19 サタンが用いてきた一つの手は,悪魔とかサタンとかいう者などいないという考えを広めることです。サタンは,犯罪組織など存在しないという考えを広めて人々をだまし,偽りの安心感を持たせる犯罪者のようです。もう一つの手口は,狂信的な人々が行なってきた恐るべき事柄,すなわち十字軍,異端審問,戦争を祝福することなどに表われています。そうした行為のために,敏感な人々の中には,教会はエホバ神を代表するものと誤解して,エホバ神から顔をそむけた人が少なくありませんでした。

      20 使徒パウロが,サタンは「この事物の体制の神」であると述べたことを思い出してください。サタンが諸国家を操っているという考えを嘲笑する人たちがいます。しかし,サタンがキリストに諸国家を支配する権威を与えようと申し出たとき,イエスは,悪魔が諸王国に対して権力を持っていることを否定なさいませんでした。(ルカ 4:5-8)今日の世界の出来事の背後には何か悪い力が働いているように見えないでしょうか。そのことを念頭におきながら,サタンが行なおうとしている事柄について述べている啓示 12章9,12節をお読みください。

      邪悪な霊者との接触を避ける

      21 科学者たちは,ESP(超能力もしくは超感知)として知られているものを研究しました。ESPというのは,人の考えを読むとか,見たり学んだりしたことのないはずの出来事や事柄について詳しく述べるとか,“念ずる”ことによってサイコロの目の出方を左右するといった現象のことです。超常現象の研究家たちは,トリックが使われる可能性を除くようにしましたが,それでもそれら超人間的な業がどうして行なわれるのか説明できないでいます。聖書が述べていることはその説明となるでしょうか。

      22 サタンと悪霊たちは,人間や人間の事柄に直接影響を与えることができます。例えば,ギリシャの古代フィリピの町の一人の女は,占いをすることができました。どうしてできたかについて,歴史的記録は,「霊,つまり占いの悪霊」が女に働きかけて語らせたと述べています。使徒パウロはその女を助けて,悪霊から逃れさせました。―使徒 16:16-18。

      23 悪霊は実在しており,強い影響力を持っているので,神の言葉は悪霊と関係しないようにと繰り返し警告しています。そして,(黒魔術もしくはブードゥー教のまじないにおけるような)呪いをかけることや,巫女,つまり死者との交信を試みている人に相談することを禁じています。(申命 18:10-12。レビ 20:6,27。ガラテア 5:19-21)それらの警告は今日でも時宜にかなっています。あなたは超常現象やオカルトに対する関心が広まっていることにお気付きでしょう。『霊者』や悪魔払い,あるいは悪魔を追い出そうとする努力などを呼び物にした映画や小説が少なくありません。霊応盤や占星術を使って導きを求めることも普通に行なわれています。

      24 邪悪な霊者と意思を伝達し合うことは危険です。悪霊はいったん人を自分の影響下に置くと,身体的,精神的,感情的に非常に痛めつけることができるようです。(マタイ 8:28-33と比較してください。)悪霊は,夜,物音をたてたり,物品を動き回らせたり,性器にいたずらをしたり,また病気にならせたりして人を苦しめてきました。悪霊からの「声」のために,気が狂ったり,人を殺したり,自殺をしたりした人さえいます。

      25 むろん,体の化学作用の乱れなど,身体的な問題が精神や感覚に影響を及ぼすこともあって,そのために「奇妙な」ことが起こる場合があります。しかし,サタンや悪霊などいないと簡単に片付けるのは愚かでしょう。それらに関して聖書が真剣に警告していることを過小評価することは禁物です。

      26 悪霊に悩まされている人には,それから逃れる道があるでしょうか。かつて神は,病人をいやし,悪霊を追い出し,死者をよみがえらせるのに使徒たちをお用いになりましたが,現在は人間にそのようなことをさせておられません。しかし,「サタンの権威」から自由になるのを助けてくださいます。(使徒 26:18。エフェソス 6:12)祈りによって神に頼り,神のみ名を呼んで助けを真剣に求める必要があります。(箴 18:10)また,イエスがなさったように,悪霊の勧めの言葉に抵抗し,悪霊崇拝に関係した慣行や悪霊崇拝を行なっている人々との不必要な交わりをやめなければなりません。―マタイ 4:1-11。コリント第二 6:14-17。

      27 それに,悪霊は物品を通して人間との接触を保つことが多いということなので,かつて悪霊崇拝に用いられていた物(お守り,水晶球その他)を処分することも大切です。古代エフェソスで魔術を行なっていた人の中にそれを実行した人たちがいることを聖書は述べています。―使徒 19:18-20。

      28 と言っても,邪悪な霊者にたえずおびえている必要はありません。むしろ,聖書は次のように霊的なよろいを着けるように勧めています。

      「それゆえ,真理を帯として腰に巻き,義の胸当てを着け,平和の良いたよりの装備を足にはき,こうしてしっかりと立ちなさい。何よりも,信仰の大盾を取りなさい。あなたがたはそれをもって,邪悪な者の火矢をみな消すことができます。また,救いのかぶと,それに霊の剣,すなわち神のことばを受け取りなさい。それとともに,……すべての機会に……祈りなさい」― エフェソス 6:14-18。

      この神の言葉から分かる通り,邪悪な霊者と不要な相互伝達を行なわないための非常によい防御は,祈りによって定期的にエホバに意思を伝達することです。聖書は適切にもこう述べています。「したがって,神に服しなさい。しかし,悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば,彼はあなたから逃げ去ります」― ヤコブ 4:7。

      [研究用の質問]

      創造者との意思の相互伝達に関心を持つべきであるのはなぜですか。(1-3)

      祈りが受け入れられるものであるためには何が必要ですか。(ペテロ第一 3:12)(4,5)

      わたしたちの祈りの性質について聖書から何を学べますか。(6-8)

      わたしたちは神からの伝達をどのように受けますか。(9,10)

      サタンが存在していることはどうして分かりますか。サタンはどうして存在するようになりましたか。(11-15)

      サタンと悪霊について知ることはどのように役立ちますか。(16,17)

      邪悪な霊者はどのようにして人間に影響を与えてきましたか。(コリント第二 11:13-15)(18-20)

      どんなことを行なうと邪悪な霊者とかかわりを持つようになりますか。(21-23)

      霊の領域との有害な相互伝達からどのように身を守ることができますか。(24-28)

      [123ページの図版]

      日ごとに祈りを通して神に意思を伝達することができる

  • 悪 ― 神が許しておられるのはなぜか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 14章

      悪 ― 神が許しておられるのはなぜか

      友達がどろぼうに物を取られたり,暴行を加えられたり,あるいは殺されたりしてもその犯人が何の処罰も受けないなら,いら立ちや心の痛みや怒りを感じるのではないでしょうか。そうした犯罪や不正は,人類に生じて来た事柄のほんの一部にすぎません。

      2 歴史は昔から,残酷な戦争,極度の貧困,犯罪そして抑圧でつづられてきました。その結果,神の存在そのものを疑うようになった人もいます。わたしたちは創造者が存在するはっきりとした証拠があることを知っています。(ヘブライ 3:4。ローマ 1:20)しかし悪も存在しています。そのために,神を信じている人の中にさえ,『神は人間のことを本当に気遣っておられるのだろうか』という疑問を持つ人が少なくありません。そして,『もし本当に気遣っておられるのなら,なぜこれほどまで長い間悪を許して来られたのか』と言います。

      3 哲学者や僧職者はしばしばこの問題を扱いましたが,満足のゆく答えを与えてはいません。神ご自身は何と言っておられるでしょうか。

      神の答え: 『わたしは確かに気遣っている』

      4 わたしたちは自分の経験から,ヘブライ人の預言者ハバククが暴力と不正に対して示した反応をよく理解することができます。ハバククは,ユダヤ人が多くの悪い習慣に陥っていた時代に住んでいました。ハバククはそうした状態を見てひどく悩み,神に次のように問わずにはいられませんでした。

      「あなたはなぜわたしに不正を見せられるのですか。なぜ悪を許しておられるのですか。わたしの前には滅びと暴力があります。反目があり,戦いが少なくありません。ゆえに律法は役に立たず,正義は決して行き渡りません。邪悪な人たちは正しい人々を囲み,正義が曲げられています」― ハバクク 1:3,4,新国際訳。

      ハバククは,エホバの義を確信してはいましたが,人々の間に見られる暴力や不正に苦しんでいたのです。また,当時は,バビロニア人があばれ回って他国の人々を恐れさせたり,略奪を働いたりしていた時でもありました。悪がいたる所にはびこっているように見えました。預言者ハバククは,そうした状態を見ることのできる神がなぜ何も行なわれないように見えるのか,不思議でなりませんでした。―ハバクク 1:13。

      5 エホバは幻の中で,邪悪な者たちの一見繁栄と見えるものは一時的なものにすぎないとハバククに言われました。神は起きている事柄を見ていただけでなく,そのことを気遣ってもおられたのです。そして,神の正義を行なう「定めの時」を決めておられました。その時がなかなか来ないと人間には思えたとしても,ハバククは「それは必ず起きる……遅くなることはない」と言われました。―ハバクク 2:3,新。

      6 神の気遣いはさらに次のことにも表われています。つまり,神は,それが起きるまでの間,人間にとって挑戦となる事柄があることにハバククの注意を喚起されたということです。「しかし,義なる者,その者は自らの忠実さによって生き続ける」と,エホバは言われました。(ハバクク 2:4,新)ハバククは,周囲の人々がどんなことを行なおうとも,正しいこと,道徳にかなったことを行ない,その挑戦に応じるでしょうか。ハバククは,神がその「定めの時」に問題を適切に処理されるという信仰を表明する必要がありました。

      7 歴史は何が起きたかを教えています。その時が到来すると,神はユダヤ人が行なった暴力と不正を終わらせるために行動されました。国は征服され,国民の多くが捕囚となって連れ去られました。後に,神はバビロンに対して報復されました。預言者を通してエホバが予告しておられた通り,クロスの率いるメディア・ペルシャ軍は無敵であるかに見えたバビロニア帝国を打ち破りました。―エレミヤ 51:11,12。イザヤ 45:1。ダニエル 5:22-31。

      8 この小規模な例から,創造者は悪に目をつぶっておられないことが分かります。神はそれに気付き,気遣っておられます。(創世 18:20,21; 19:13と比較してください。)ではなぜ,神は今まで悪の存続を許して来られたのでしょうか。これに関する聖書の論理的な説明を理解するためには,人類の問題が始まった時にまでさかのぼらねばなりません。

      宇宙論争が起きる

      9 創世記 3章に詳しく述べられているように,悪魔は,特別に指定された木の実を食べてはならないという神の命令に従うのかとエバに質問しました。エバは,従わなければ死の宣告を受けると答えました。ところがサタンはこう言いました。

      「あなた方は決して死ぬようなことはありません。それから食べる日には,あなた方の目がまさに開け,あなた方がきっと神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」― 創世 3:1-5,新。

      ここでサタンは,神の全被造物すなわち人間とみ使いに関係する問題を持ち出し,挑戦しました。

      10 まず第一に,サタンは,神の正直さに疑問を投げかけました。このことが示唆していることを考えてみましょう。仮に神がこの問題に関して正直でないとすれば,他の事柄で信頼できるでしょうか。天や地の被造物は神の言葉をいちいち疑わねばならないのでしょうか。うそを方便として政治を行なう政治家が人々からどれほど信頼されないかを,今日のわたしたちはよく知っています。―詩篇 5:9と比較してください。

      11 神は欺瞞家で,被造物にとって良いものを与えないでいるというサタンの主張は,神が支配するのは正当かという問題をも引き起こしました。全宇宙が,神の支配の仕方は正しいかどうかという問題に巻き込まれたのです。

      12 さらに,サタンは,人間は神がいなくてもうまくやってゆける,自治を行なえる,またそうすべきであると主張したのです。それで,人間は神から独立して自分たちの事柄をうまく治めることができるかという疑問が,人間とみ使いの前に置かれました。

      13 それらは,完全に結着をつけねばならない重大な倫理的問題です。そのために神が選ばれた方法は,神の知恵をはっきりと示しており,また神が現在のみならず将来にわたってわたしたち人類の福祉に関心を持っておられることを示しています。神は時の経過を許されました。それで,理知のあるすべての被造物はその間に証拠を見ることができました。この点を理解するために,次のことを考えてみましょう。だれかが,あなたのことを,家庭では良くない人間で,うそをつき,恐れさせて権威を振り回していると人前で言ったなら,あなたはどうするでしょうか。自信のない人は,大きな声で抗議したり,そのように非難する人とけんかをしたりするかもしれません。しかし,それが根拠のない非難であることをよく知っている人は,すべての人が自分のやり方を,またそれが家族にとって良い結果になることを観察できる時間を与えて,疑いを晴らすことができるでしょう。―マタイ 12:33。

      14 エデンで生じた論争に関して,時はどんなことを明らかにしたでしょうか。神があらかじめ告げておられた通り,不従順になった人間は病気をし,年を取りそして最後に死ぬという結果になりました。ですから,神の警告はごまかしの警告ではありませんでした。この点において,神の支配権の正当性を問題にする根拠は何もありませんでした。また,人間は自分自身の規準を設けて,神の力を借りずに自治する能力はないという証拠もあります。どんな形態にしろ,人間の政府で,戦争・腐敗・圧制・犯罪および不正を阻止し得た政府は一つもありません。このことは,聖書の次の言葉が正しいことを立証しています。『人の道はその人によるのではない。自分の歩みを導くことさえ,歩んでいるその人に属さない』。(エレミヤ 10:23,新)さらに時は,人間が苦しみをなくすことができないこと,むしろ苦しみの種を作ることが少なくないことを証明しています。

      15 進んで神の支配権を認めその規準を受け入れる気持ちのある誠実な人々も,その苦しみを感じています。そのような人たちのことを考えて,神は邪悪なことを行なっている者に敵対して行動しようとしておられます。ハバクク書には,神がかつて小規模ながらその事を行なわれたことが述べられています。エホバは,悪と苦しみをもたらしている者たちを,天からも地からも一掃されます。神がハバククに告げられたように,それには「定めの時」があります。そして,『それは必ず起きる。遅くなることはない』ということを確信できます。―ハバクク 2:3,新。

      時が許されていることから益を得る

      16 神が悪の存在を許しておられることに関し,多くの人は人間が苦しんでいることだけを考えます。そのような人たちは,大切な問題が解決されつつあることを認識していません。また,神が問題解決のために時を許しておられるので自分たちが益を得られることを見過ごしているかもしれません。―ペテロ第二 3:9。

      17 これらの問題を解決するために神が許された時は,わたしたちが生まれてくることのできるほど長いものでした。わたしたちがどんな楽しみを味わおうとも,それは神が時を許してくださったおかげです。さらに,神への愛や忠誠を証明する機会をも与えられています。サタンは神に挑戦し,神への忠実を証明する人間などいない,「彼のように非の打ちどころがなくて廉潔で,神を恐れ,悪から離れている人は,地上にはひとりもいない」と神が言い得る人間はひとりもいない,というふうに論じました。そのことは,聖書のヨブ記 1章と2章に出ています。廉潔な人ヨブについて,悪魔は,「ヨブはただいたずらに神を恐れてきたのでしょうか」と言いました。ヨブは利己的な理由で,つまり神がヨブを富ませたから,神を恐れているのであって,富を失えば神をのろうであろうと主張したのです。(ヨブ 1:7-12,新)サタンはすべての人間を神から引き離すことができるでしょうか。

      18 神はサタンがヨブの身に多くの災いをもたらすのを許されました。ヨブは富を失いました。子供たちは殺されました。またヨブは忌まわしい病気にかかりました。自分がサタンの特別な攻撃の的になっていることは知りませんでしたが,ヨブはあくまでも神に忠実でした。(ヨブ 27:5)ヨブは,エホバが自分を覚えていてくださること,またたとえ死んでも創造者は復活させてくださることを確信していました。(ヨブ 14:13-15)エホバはご自分に忠節な者を決して見捨てられません。やがて介入して,ヨブがサタンから被った損害を元通りにされました。ヨブは健康を取り戻し,10人の美しい子供を得,大いに繁栄し,長生きをしました。ヨブ記 42章10-17節をお読みになればさらに詳しいことが分かり,励みが得られるでしょう。

      19 この記録はまた,神が悪の存在を許しておられる理由を悟る助けになります。人生に様々の問題を抱えながらも神を愛し,いかなる試練の下でも神に忠実である人間のいることがこの方法で証明されたのです。わたしたちも『自分は,苦しみに遭ってもそのような態度を取るだろうか。自分はそうしたい,そしてサタンが投げかけた挑戦にこたえることに寄与したいと考えているだろうか』と自問するとよいでしょう。(箴 27:11)ヨブ記はさらに,悪の存在が許されている間に人類が直面するいかなる苦しみも,神はぬぐい去ることがおできになるという確信を持つ理由を与えてくれます。―コリント第二 4:16,17と比較してください。

      20 神は,ヨブとハバククを観察して是認されたように,現在,悪条件の下でも神に忠誠を尽くす人々に注目しておられ,それらの人々に必ず報いをお与えになります。―マラキ 3:16-18。

      悪が除かれてなくなる時に生きていたいと思いますか

      21 聖書は,神が地を楽園の状態に,つまりアダムとエバが不忠節になる以前に楽しんでいたような状態に戻す目的をお持ちであることを確証しています。(ルカ 23:43。啓示 21:4,5)そのとき,聖書の次の約束はことごとく成就します。

      「邪悪な者はいなくなる。彼らを探しても見つからない。しかし,謙遜な者[もしくは,柔和な者]は国を所有して繁栄と平和を楽しむ」― 詩 37:10,11,福音聖書。箴 24:1,20。

      22 多くの人は災いや苦しみがあることをこぼし,それを神のせいにする人さえいます。しかし,その人たちは悪が除かれることを本当に願っているでしょうか。それとも悪の報いだけが除かれることを願っているでしょうか。人間の苦しみの中には自業自得のものが少なくありません。まいたものは刈り取ることになります。(ガラテア 6:7。箴 19:3)不道徳は性病や堕胎や離婚を生み,喫煙は肺ガンを招きます。泥酔や麻薬の乱用は肝臓や脳を冒し,交通違反は致命的な事故を起こします。『神はなぜ悪を許しておられるのか。いつ悪を終わらせるのか』と言う人々は,神がそうされることを本当に望んでいるのでしょうか。神が,前述の事柄をさせないようにして今すぐ悪を終わらせるとしたら,神はわたしたちに制限を課したと不平を言う人が多いことでしょう。

      23 ですから,神が悪を許しておられることによって,わたしたちがどんな立場を取るか,あるいはわたしたちの心の中に何があるかが明らかになるのです。神はハバククに「義なる者,その者は自らの忠実さによって生き続ける」と言われました。それには,神が悪いこと,または有害なこととしておられる事柄に対する憎しみを培うことが要求されます。(ハバクク 2:4,新。詩 97:10)近所の人や同僚の中には,そのような生き方をするあなたを嫌う人たちがいるかもしれません。(ペテロ第一 4:3-5)ヨブとハバククは,神に忠節を尽くし,神の是認を得るためには,自分が人と異なることを気にしませんでした。今日の大勢のエホバの証人もそのような生き方が可能であることを身をもって示し,より充実した満足のいく生活をしています。

      24 この道に従っている人々は,サタンが大うそつきであるという証拠を増し加えているのです。人間は,神の支配の仕方が正当かつ公正であることを確信して,神に忠実を尽くすことができるということを証明しているのです。一方神は,そのような人たちが,地に復興される楽園の世話をまかせることのできる人たちであることをご存じです。その時の生活は非常に楽しいので,過去の悲しみや不幸を思い出すことはないでしょう。ずっと以前,まだ子供だった時に,ひざこぞうをすりむいて痛かったことや悲しかったことを今は忘れてしまっているように,それらを忘れていることでしょう。―イザヤ 65:17。ヨハネ 16:21。

      25 これは本当に喜ばしい見込みであり,この見込みのことを考えると,神が悪を許しておられるのは,その永遠の目的を成就する過程の中の短い期間にすぎないということが分かります。その中断期間を生じさせた法的・倫理的問題は永遠に解決されます。

      26 しかし,神が悪を許してこられた理由を理解しても,それがいつ終わるのか,神が全世界の悪を終わらせる「定めの時」はいつかを知りたく思うのは当然です。では,それを調べましょう。

      [研究用の質問]

      悪に関して聖書がなんと述べているかを調べるのはなぜ道理にかなっていますか。(1-3)

      この点に関しハバククから何が学べますか。(4-8)

      エデンで宇宙的な大論争がどのように生じましたか。それはどんな論争でしたか。(9-12)

      その論争はどのように解決されるべきでしたか。(13-15)

      解決されねばならないもう一つの問題に人間はどのように関係していますか。(16-20)

      聖書はどんな見込みを差し伸べていますか。それはわたしたちにとって何を意味しますか。(21-23)

      神が悪の存在を許されたことから人類はどのような永続する益を得ることができますか。(24-26)

      [131ページの囲み記事]

      ロンドンのセント・ポール大聖堂の主任司祭だったW・R・インゲ博士は,数年前に次のように語りました。

      「わたしは生涯を通じて,生きる目的を見いだそうと懸命に努めてきた。わたしは,次の三つの問題の答えを得ようとした。それらは常に基本的なものに思えた。すなわち,永遠という問題,人格という問題,そして悪という問題である。わたしは成功しなかった。そのいずれも解決できなかった」。

      [137ページの図版]

      ヨブは,苦しみに遭っても神に背かず,耐え忍び,祝福された

  • 「世の終わり」は近いか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 15章

      「世の終わり」は近いか

      「あなたは世の終わりに備えていますか」。トロント・スター紙のこの問いかけに,次のような新聞記事を思い出した人たちもいることでしょう。

      「オーストラリア,シドニー発 ― オーストラリアの奥地では,『世の終わり』は迫っていると信じ,家も現代生活のぜいたく品も捨てた都市生活者100名から成るあるグループが,『世の終わり』を迎える準備をしている」。

      2 核戦争,汚染その他の危険が実際に存在するために,「終わり」が来る可能性は十分にあり得ると見て心配している人は今日少なくありません。例えば,

      「科学著述家アイザック・アシモフは,太陽の消滅から飢きんに至るまで,地球上の生物が絶滅する原因となり得るものを20ほど挙げている」― トロント・スター紙。

      3 しかし,わたしたちには,憂慮すべきさらに重大な理由,信頼できる神の言葉に基づいた理由があります。「世の終わり」について聖書で読んだことのある人は大勢います。(マタイ 13:39,40; 24:3,欽定訳,新アメリカ聖書)神の約束は何でも必ず成就することを知っているわたしたちは,「世の終わり」に関して聖書が述べている事柄,そしてそれが現在と将来のわたしたちの生活にどのような影響を及ぼすかを知りたいと思うはずです。

      何の終わり? それはいつ来るか

      4 聖書は,神が悪や苦しみを増大させる者たちを根絶なさることを約束しています。(詩 37:28; 145:20)イエス・キリストも使徒ペテロも,近付いているこの刑の執行を,神がノアの時代に人類にもたらした選択的な滅びにたとえています。全地球的な洪水で滅ぼされたのは地球そのものではなく,邪悪な者たちでした。神はノアとその家族を生き残らせました。ノアの家族は清められた地球上で義にかなった地的社会を形成しました。このことに言及した後,ペテロは神の霊感を受けて,「不敬虔な人々の裁きと滅びとの日」が来ることを予告しました。その後,『義の宿る新しい天と新しい地』が到来します。―ペテロ第二 3:5-7,13。伝道 1:4。イザヤ 45:18。

      5 現在の事物の体制がそのように滅ぼされて終わるのがいつかを知りたいと願うのは当然です。イエスによれば,「その日と時刻」を知っているのはみ父だけです。(マタイ 24:36)では,わたしたちには全く何も分からないのでしょうか。そうではありません。神は,ご親切にも,ご自分の崇拝者がその時の近付いているのを知ることができるよう,そのための情報をみ言葉の中に含めておられます。―アモス 3:7と比較してください。

      6 聖書は,将来の出来事を予告する神の能力を信頼する理由を与えてくれます。例えば,ダニエル書 9章24-27節に,ダニエルは,メシアもしくはキリストの出現に関する預言を記録しています。第1世紀の医師ルカは,ダニエルの預言を知っていたユダヤ人が,西暦29年にメシアを待っていたことを述べています。(ルカ 3:1,2,15)ユダヤ人の学者アバ・ヒレル・シルバーの意見もこれと一致しており,「メシアは,西暦1世紀の第2,四半世紀ごろに出現を期待されていた」と書いています。イエスは,ダニエルの預言によって示されていた正にその年,すなわち西暦29年にバプテスマを受けてキリストになられました。

      7 ダニエル書のその預言は,メシアの死後『その都市と聖なる所とが破滅に至らせられる』ことを予告していました。神は,エルサレムとその神殿が滅ぼされ,当時存在していたユダヤ教の事物の体制が終わることをあらかじめ告げておられたのです。―ダニエル 9:26,新。

      8 イエスは,西暦33年に亡くなりましたが,その少し前に,この点をさらに詳しく話され,神はエルサレムと神殿を見捨てられたと言われました。また,わたしは去るが,後ほどまたもどって来るとも言われました。(マタイ 23:37–24:2)しかし,イエスの弟子たちは次のように尋ねました。

      「わたしたちにお話しください。そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結[あるいは,『世の終わり』]のしるしには何がありますか」― マタイ 24:3。

      9 イエスの答えは,1世紀のクリスチャンにとって生死を決するほどの重要性を帯びたものでした。それは,わたしたちにとっても同様に大切です。なぜなら,後で分かりますが,イエスの答えには,使徒たちが質問した事柄や理解し得た事柄以上に深い意味が含まれていたからです。―ヨハネ 16:4,12,13。

      10 イエスはダニエルの預言に言及されました。(マタイ 24:15)その預言は,エルサレムの荒廃の年を正確に指し示したものではありませんでした。イエスも,その年を預言されたのではありません。イエスは,ユダヤ人の体制が終わりの時代にあることの「しるし」を成す出来事を述べられたのです。イエスのその言葉は,マタイ 24章4-21節とルカ 21章10-24節に記されています。イエスは偽のメシア(キリスト)が現われること,戦争,食糧不足,地震,疫病,クリスチャンの迫害などがあること,また伝道活動が広範に行なわれることを予告されました。歴史は,それらの事柄が,ローマ人による西暦70年のエルサレムの破滅まで生存していた人々の世代のうちに起きたことを証明しています。

      偽キリスト: 1世紀の歴史家ヨセフスはメシアととなえる者が3人いたことを述べている。

      戦争: アジアの南西部ではパルチア戦争が,ゴールとスペインでは反乱が,ローマ帝国の領内ではユダヤ人の暴動が,またユダヤ人に対するシリア人とサマリア人の暴動があった。

      飢きん: ローマ,ギリシャ,ユダヤに飢きんが起きた。使徒11章28節で述べられているのはその一つである。

      地震: クレタ島,スミルナ,ヒエラポリス,コロサイ,キオス,ミレトス,サモス,ローマおよびユダヤに地震が起きた。

      クリスチャンは迫害されたが広範に伝道した: このことは,使徒 8:1,14; 9:1,2; 24:5; 28:22に記録されている。

      11 クリスチャンたちはイエスの預言を確信していたので,命を守るための措置を取ることができました。キリストは『エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,逃げなさい』と警告しておられました。(ルカ 21:20-24)予告通り,ガルス将軍指揮下のローマ軍は西暦66年の10月にエルサレムを包囲しました。クリスチャンはどうして逃げることができたでしょうか。ローマ軍が不意に撤退したからです。クリスチャンたちはイエスの警告に従ってエルサレムの町を逃れました。しかし,西暦70年には,ローマ軍はティツス将軍に率いられて再び来襲しました。そしてエルサレムを荒らし,100万人を上回るユダヤ人を殺しました。ローマに行くと,それを記念した浮き彫りをティツスの凱旋門に見ることができます。

      12 ユダヤ教の体制の終わりの日の間に起きた事柄は,イエスがお与えになった「しるし」が全く信頼できることを証明しています。これはわたしたちにとって大切な事です。なぜなら,「事物の体制の終結」に関するイエスの預言は今日はるかに大きな意味を持っているからです。

      イエスの預言のもう一つの成就

      13 偽キリスト,戦争,飢きん,地震,クリスチャンに臨む迫害などに関してイエスが予告されたことは西暦70年以前に成就しました。しかし,イエスは,明らかに後の時代に起ころうとしていた事柄も追加して預言されました。そして,「地のすべての部族」が天の栄光に輝くイエスの臨在を認めざるを得なくなると言われました。(マタイ 24:30)また,人々が「羊をやぎから分けるように」分けられ,羊のような人々は永遠の命に入ることも予告されました。(マタイ 25:32,46)これらの事柄は西暦70年にもそれ以前にも起きませんでした。

      14 エルサレムの陥落から25年余り後,神は使徒ヨハネを通して啓示の中に将来の出来事を書き記させました。その第6章で,ヨハネは,地に災難をもたらす「騎士」を前もって見ました。啓示 6章3-8節を読むとヨハネが(1)戦争,(2)「食糧不足」(3)「死の災厄」を予告していることが分かります。これらは,正にイエスが「しるし」として預言された事柄の一部です。このように,イエスが予告された事柄には,2番目の,あるいはより大規模な成就があるということの付加的な証拠があります。A・T・ロバートソン教授はその点についてこう述べています。

      「イエスが,その世代中の西暦70年に確かに生じた神殿とエルサレムの滅びを,自分自身の再臨,および世の終わりもしくは時代の終結の象徴としても用いたと考えるのは,我々の目的に十分かなうことである」―「新約聖書の中の言葉による描写」第1巻188ページ。

      15 『しかし,戦争や飢きんや疫病はいつの時代にもあった。とすると,「しるし」の2番目の成就はどのようにして見分けるのか』と言う人がいます。

      16 しるしとなるからには,局地的な戦争やある地方だけに生じた疫病,あるいは1回だけ起きた地震とは異なる,際立ったものでなければならないことは言うまでもありません。啓示 6章4節には戦争が,「[一国とか一地方からではなく]地から平和を取り去る」と述べられていることに注意してください。それに,イエスはしるしが複合のものであることを示されました。ですから,二,三の例を挙げるなら,広範囲にわたる戦争のほかにひどい飢きんや地震や疫病なども生じます。それらがみな一つの世代に臨むのです。(マタイ 24:32-34)このことを理解したうえで人類史を見,「事物の体制の終結のしるし」が今現われていることを,多くの人ははっきりと悟るのです。

      現代に見られる「しるし」

      17 啓示 6章4節は世界戦争があることを示していました。それは実際にあったでしょうか。1914年から1918年にかけて行なわれた戦争を皮切りに,確かに起きています。特別欄執筆者のシドニー・J・ハリスは,『第一次世界大戦は,世界人口の90%以上を擁する国々を巻き込んだ』と書いています。アメリカ百科事典によれば,第一次世界大戦で,800万人以上の兵士が殺され,1,200万人を超える民間人が大量殺りくや飢餓,あるいは遺棄によって死にました。

      18 それ以前には世界戦争を行なうだけの輸送手段や技術がなかったにすぎない,と言ってこのことを片付けようとする人がいます。しかし,そのことこそ第一次世界大戦の特殊性を強調するものです。

      「1914年8月以来,時が経過するにつれ,第一次世界大戦のぼっ発は一時代の終わりを意味していたということが次第に明らかになっていった」―「ノートンの近代ヨーロッパ史」。

      「第一次世界大戦は ― 生存者たちにとっては単にThe Great War(大戦)にすぎないが ― 現代史の重大な分岐点として人々の心に残っている。……現代は第一次世界大戦に始まったと,大部分の人が無意識のうちに考えているが,それにはある程度の真理がある。我々はこの第一次世界大戦で,そぼくさを失ってしまったのである」― モントリオールのガゼット紙。

      「1918年は千年期を招来せず,半世紀にわたる戦い ― それ以前には見られなかった,あるいは想像もしなかった大規模の動乱,戦争,革命,荒廃,破壊をもたらした」― H・S・コマジャー教授。

      19 聖書が示していた通り,確かに,『想像もしなかった大規模の戦争が生じました』。その後間もなく第二次世界大戦が起こり,「3,500万から6,000万」の人命が奪われました。

      「第二次世界大戦は,全世界と言ってよいほどの範囲に死と荒廃をもたらした。その規模はかつて経験したことのないものであった。……破壊された資産や生計手段を金銭に換算しようとする試みはむだである。その額は天文学的数字に上るからだ」― アメリカ百科事典。

      また,1945年以後行なわれた多くの戦争のほかに,現在では核戦争の脅威があります。

      20 「しるし」の大規模な成就が第一次世界大戦と共に始まったことを示すもう一つの証拠は,前例のない病気です。(ルカ 21:11)「サイエンス・ダイジェスト」誌は,それ以前にも,何十年かの期間に大勢の人が疫病で死んだことを認め,その後,1918年のスペインかぜがそれよりずっとひどかったことを示しています。

      「この戦争では,4年にわたる執ような戦闘で2,100万人を上回る人が死んだ。しかし,スペインかぜの流行は4か月ほどの間にほぼ同じくらいの人命を奪った。これほど手の施しようがなく,人が次々と死んでいったことは歴史上ないことであった。……一人の医師はそれを,医学上の空前の大災害と呼んだ」。

      「世間では普通,死者2,100万人とされているが,それは『実際よりかなり低く見積っているのだろう』。インド亜大陸だけでも,それくらいの人が死んだことは十分に考えられる。1918年10月におけるインド亜大陸の死亡率は『疾病史上他に例のない』ものであった」― 科学アメリカ誌。

      科学者たちも病気による死を阻止できないでいます。一つの病気が「征服された」と思うと,手に負えない別の病気が現われます。人間は月にロケットを飛ばしますが,マラリア,ガン,心臓病などはいまだに克服していません。

      21 イエスは,『そこからここへと地震がある』ことも「しるし」の一部であると言われました。(マタイ 24:7。ルカ 21:11)歴史を通じていつの時代にも地震はありました。しかし,第一次世界大戦以後の時代はどのように違うのでしょうか。ゲオ・マラゴリはイル・ピッコロ紙の中でこう述べています。

      「統計から分かるように,我々の世代は地震活動の盛んな,危険な時代に住んでいる。事実,信頼できる筋の記録によれば,1,059年間(856年から1914年まで)に起きた大地震は24にすぎず,死者は197万3,000人であったが,最近では,わずか63年間に160万人が死んでいる。これは1915年から1978年までに起きた43の地震で死亡した人の数である。この劇的な増加は,広く認められている一つの事実,すなわち我々の世代は多くの点で不幸な世代であるということを一層強調するものである」。

      22 第一次世界大戦以来地震による死亡者数が増えたのは,世界人口の増加や,都市が大きくなっていることに原因があると言う人がいるかもしれません。たとえそうだとしても,起きた事実に変わりはありません。飢きんについても同様のことが言えます。緑の革命など,食糧生産の面で進歩が見られたにもかかわらず,次のようなニュースが報道されています。

      「この世に生きている人間のうち,少なくとも8人に一人は今なお何らかの形の栄養失調にかかっている」。

      「国連世界食糧会議はこの秋オタワで会合し,毎年5,000万人が餓死していることを確認した」。

      「世界の食糧機関は,今年十分の食糧を得られない人は10億人を上回ると見ている」。

      23 「不法が増すこと」や愛が冷えることも「事物の体制の終結」をしるし付ける証拠です。(マタイ 24:3,12)今日この言葉が成就していることを確信するのに,犯罪やテロ行為の統計などいらないでしょう。しかし,この点に関しては,「終わりの日」のことが預言的に詳しく述べられているテモテ第二 3章1-5節を読んで,それが現在起きている事柄にいかに正確に当てはまるかをご覧ください。

      それはあなたにとって何を意味するか

      24 イエスは,「しるし」の成就によって悩む人が大勢いることを予告されました。「人びとは,人の住む地に臨もうとする事がらへの恐れと予想から気を失います」。しかし,イエスの追随者の場合は違うでしょう。イエスは弟子たちに「これらの事が起こり始めたなら,あなたがたは身をまっすぐに起こし,頭を上げなさい。あなたがたの救出が近づいているからです」と言われました。(ルカ 21:26,28)実際に起きている事柄を無視してはなりません。偶然の一致として片付けるのも分別を欠いた行為です。エルサレムに住んでいた人々で,イエスの預言の当時における成就を無視した人々は命を失いました。イエスはわたしたちに,『のがれることができるよういつも目ざめていなさい』と命じておられます。―ルカ 21:34-36。

      25 現在の邪悪な事物の体制の終わりを生き残ることは確かに可能です。終わりの来る正確な「日と時刻」はだれにも分かりませんが,わたしたちの時代に地上で起きた事柄はそれがごく近いことを証明しています。しかし,わたしたちに求められているのは,『いつも目ざめている』ことだけではなく,それを考えや行動に表わすことです。(マタイ 24:36-42)ペテロはこう書いています。「神の日を待っているのですから,清い,献身した生活を送るべきです。……純粋で欠点のない者となるように最善を尽くしなさい」― ペテロ第二 3:11-14,福音聖書。

      26 「しるし」の一部として,イエスは,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」と言われました。(マタイ 24:14)その活動に正しく参加するには,その「王国」とは何か,また終わりが近い今それがなぜそれほど大切かを知る必要があります。では次にその点を調べましょう。

      [研究用の質問]

      「世の終わり」に関心を持たねばならないのはなぜですか。(1-3)

      聖書によれば,終わるのは何ですか。(4)

      「終わり」が来ることをわたしたちはなぜ確信できますか。(5,6)

      イエスはユダヤ教の事物の体制についてどんなことを預言されましたか。そして何が起きましたか。(7-10)

      「しるし」を理解するのはどれほど重要なことでしたか。(11,12)

      「しるし」がもう一度成就することをどうして期待すべきですか。それは最初の成就とどのように異なっているでしょうか。(13-16)

      予告されていた戦争はわたしたちの時代にどのように起きましたか。(17-19)

      疫病についてはどのように成就しましたか。(20)

      「しるし」が成就している証拠として他に何を挙げることができますか。(21-23)

      現在「しるし」が成就していることは,あなたの生活とどのような関係がありますか。(24-26)

      [140ページの囲み記事]

      「世界の終わりに関する予言は昔からなされてきた。……しかし今日では,なくなりそうもない不吉なきざしが見えている。最も明敏な政治家でさえ解決できそうにない『人民の問題』,核を保有する世界の過激派分子,また人類が取り替えのきかない自分たちの環境を白アリのようにむしばんでいることなどがそれである」― カナダ,オンタリオ州の「スペクテイター」紙。

      [147ページの囲み記事]

      「戦争について説明することが容易であったためしはないが,中でも第一次世界大戦は一番説明のつかない戦争であったと言えよう。歴史家が戦争の原因として挙げる対立や同盟は通り一遍のもので,はるかに重大な強い感情が底流としてある。それは今世界を悩ましている焦燥感である。……第一次世界大戦が終わるか終わらないうちに,世界は次の戦争の準備を始めていた」― AP通信社のバリー・レンフルー。

      「1914年8月4日に始まった出来事は……道徳的政治秩序を破壊し,国際的な力の均衡を破り,世界の出来事を動かすヨーロッパの役割を終わらせ,その間に数千万の人を殺した。……世界は1914年に調和を失い,以来それを取りもどせないでいる」― ロンドンの「エコノミスト」誌。

      [149ページの囲み記事]

      地震による死亡者

      (1,122年間に基づく概算)

      1914年まで ― 年間1,800人

      1914年以来 ― 年間2万5,300人

      [144ページの図版]

      クリスチャンたちは,イエスの警告に従い,ローマ軍がエルサレムを滅ぼす前にエルサレムから逃げた

  • 世界を平和にする政府
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 16章

      世界を平和にする政府

      永続する平和,安全,そして犯罪からの自由を地上にもたらし得る政府,すべての人に良い食物を豊かに供給し得る政府,そして環境を浄化し,病気をなくすことのできる政府,そのような政府があるでしょうか。

      2 政治の分野で人間が行なってきたことを考えてみるとよいでしょう。君主政治,民主政治,社会主義支配や共産主義支配など,そのいずれも,また,それらをすべて合わせても,先に挙げたようなすばらしい事柄を行なえる政府は一つもありませんでした。世界的規模ではむろんのこと,小規模に行なうことさえできません。しかし,人間は希望が持てないわけではありません。

      神の目的は一つの政府,すなわち王国をつくること

      3 エホバ神は,人間が必要としているものを供給することを約束しておられます。どうしてそのことが確信できるでしょうか。神はもともと次のような意図を持っておられたということを思い出してください。それは,人間が平和と幸福を楽しめるように全地を楽園にするということです。(創世 1:28; 2:8,9)ところがエデンの園で反逆が起こりました。しかし,神が,感謝の念のない被造物にご自分の目的を台なしにされるままになっておられるでしょうか。もちろんそのようなことは決してありません。事実,アダムとエバが反逆した後すぐ,エホバは救出者,すなわち天と地の平和を乱す者を打ち砕く「胤」の到来を予告なさいました。(創世 3:15,新)『しかし,「政府」はこれにどう関係してくるのだろう』と不思議に思う人もあるでしょう。その「胤」はメシア,平和の君となることになっていました。その方について,預言者イザヤは霊感の下にこう書きました。『満ち渡るその君としての支配と平和に終わりはない』― イザヤ 9:6,7,新; 11:1-5。

      4 エホバが約束しておられるのは,正義を行ない平和をもたらす支配権です。聖書はその支配を神の王国と呼んでいます。これまで大勢の人が「父よ……あなたの王国が来ますように」と祈ってきました。(マタイ 6:9,10)もしあなたがこの祈りを捧げてきたのであれば,あなたは地上に平和をもたらす実際の政府,つまり天の王国を祈り求めてきたわけです。(詩 72:1-8)しかし,神はいつその政府に働きを開始させるのでしょうか。どのように支配者たちを選び,その権能をお与えになるのでしょう。

      5 神はその目的を幾世紀にもわたって少しずつ明らかにしてこられました。例えば,神はメシアがアブラハムの子孫であり,ヤコブの子孫であること,そしてユダ族から現われることを明らかにされました。(創世 22:18; 49:10)ついでイスラエルに王国を建てられましたが,その王国は来たるべき事柄の預言的な型でした。イスラエルの国は(神が支配する)神政国でした。歴代の王たちは「エホバの王座」に座していると言われました。(歴代上 29:23,新)エホバは最高権威であり,国民を導くものはエホバの律法と規準でした。やがて,神はダビデ王に,ダビデの家系から永遠の王となるべき者が現われることをお告げになりました。―詩 89:20,21,29。

      6 イスラエルの歴史に関するこうした詳しいことや,聖書から得られる他の情報は大切です。なぜなら,それらは,神が来たるべき王国のためのゆるぎない法的基礎をすえておられたことを証明しているからです。このことと一致して,神は後にみ使いをダビデの家系の一人の処女に遣わし,こう語らせました。

      「あなたは……男の子を産むでしょう。あなたはその名をイエスと呼ぶのです。これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。そしてエホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」― ルカ 1:28-33。

      7 これが予告されていたメシアです。人類に対する永続する支配権を与えると神が約束しておられた方です。わたしたちは支配者としてのイエスに何を期待できるでしょうか。イエスが行なわれたことを少し調べてみましょう。

      8 イエスは常に神への忠誠を曲げず,神のご意志を行なうことに専心しておられました。(ヘブライ 10:9。イザヤ 11:3)神への忠節を示す一つの方法として,イエスは富や名声という形のわいろを拒否されました。それは,人間の多くの支配者たちと非常に対照的です。(ルカ 4:5-8)イエスは真理を擁護する上で恐れを持たれなかったので,宗教上の偽善をひるまずに暴露されました。―ヨハネ 2:13-17。マルコ 7:1-13。

      9 イエスはまた,人類に対して並々ならぬ愛を抱いておられます。人間のためにご自分の命をお与えになったことからもそれは明らかです。(ヨハネ 13:34; 15:12,13)イエスは,深い同情心から,病人をいやし,死者をよみがえらせ,貧しい人たちに食物をお与えになりました。(ルカ 7:11-15,22; 9:11-17)また,自然を制する力を持っておられ,人々を益するためにそれをお用いになりました。(マタイ 8:23-27)それでも,イエスは近付きやすい方です。この柔和な人のそばでは子供でさえ堅苦しい気持ちになりませんでした。―マタイ 11:28-30; 19:13-15。

      10 そのような特質や能力を持たれるイエスを支配者と仰ぐことからくる恩恵を想像してください。これがエホバの崇拝者たちのすばらしい前途なのです。

      天から行使される支配権

      11 ローマの総督から王権について尋ねられた時,イエスは,「わたしの王国はこの世のものではありません」とお答えになりました。(ヨハネ 18:36)イエスは諸国家の政治に関しては厳正中立の立場を取られ,追随者たちに手本を残されました。(ヨハネ 6:15。コリント第二 5:20)さらに,み子が地球上のある場所から支配することは神の目的ではありませんでした。イエスは,天から支配することになっていました。超人的で宇宙的な権威を行使することができました。

      12 前途にそういう目的があったので,み父は,神に忠実を保って死なれたイエスを,その後不滅の霊者として復活させたのです。(使徒 10:39-43。コリント第一 15:45)キリストは追随者たちの前に姿を現わし,ご自分が確かに生きていて活動していることをお示しになり,それから昇天されました。このことについて,使徒ペテロはこう書いています。「彼は神の右におられます。天へ行かれたからです。そしてもろもろの使いと権威と力は彼に服させられました」― ペテロ第一 3:22。マタイ 28:18。

      13 西暦33年のその時から,キリストはクリスチャン会衆に対して支配を開始されました。キリストの追随者たちはイエスが主であることを,また天におけるイエスの立場を喜んで認めました。(コロサイ 1:13,14)しかし,その時イエスが人間の世界と宇宙に対して支配を開始することは神の目的ではありませんでした。

      14 神は,人間が人間の支配の結果を自らの目で見ることができるように時間の猶予をお与えになりました。ですからキリストは,王国が全世界を支配する定めの時まで待たねばなりませんでした。使徒パウロは次のように書いています。「このかたは,罪のために一つの犠牲を永久にささげて神の右に座し,それ以来,自分の敵たちが自分の足の台として置かれるまで待っておられます」― ヘブライ 10:12,13。

      15 しかし,イエスが目に見えない様で天におられるとすれば,イエスが支配を始める時が来るとき,それはどのように分かるでしょうか。前の章で調べたように,イエスは,その時の到来が地上の追随者たちに分かるように,目に見える「しるし」をお与えになりました。(マタイ 24:3-31)第一次世界大戦(1914年-1918年)以来人類が見てきた戦争,飢きん,地震,クリスチャンに臨む迫害,王国の良いたよりの世界的な伝道などは,わたしたちが確かに事物の体制の終結の時に生きていることを示しています。これらの出来事はまた,キリストが現在天で支配しておられることの証拠でもあります。なぜなら,聖書は天におけるサタンとの戦いを描写した後で次のように述べているからです。

      「今や,救いと力とわたしたちの神の王国とそのキリストの権威とが実現した!……このゆえに,天と天に住む者よ,喜べ! 地と海には災いが来る。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだいてあなたがたのところに下ったからである」― 啓示 12:7-12。

      16 ですから,イエス・キリストは現在統治しておられます。これは,イエスが,悪魔および人間のあらゆる政府を含め,王国の反対者をすべて除去すべく権威を行使するまでに,本当に『短い時』しか残されていないということです。(ダニエル 2:44)これが行なわれるとき,わたしたちは永続する平和をもたらす神政の王国に歓喜することができるでしょう。

      王国の共同支配者たち

      17 聖書には,王国のもう一つの興味深い面が明らかにされています。ダニエル書 7章13,14節(新)には,神のみ子が「支配権と尊厳と王国と」を与えられたことが述べられています。そして幻はさらに次のように続いています。

      「王国と,支配権と,全天下のもろもろの王国の偉観とは,至上者に属する聖なる者たちの民に与えられた。その王国はいつまでも定めなく続く王国であり,すべての支配はまさに彼らに仕えかつ従う」― ダニエル 7:27,新。

      ですから,神の目的は,イエスが共同の支配者を持つことです。これは,人間の中に天へ行く人がいることを意味します。イエスは,地上におられた時,共同支配者となる男女を選びはじめられました。そして,それらの人々の場所を備えるために天へ行くと言われました。―ヨハネ 14:1-3。

      18 このことは,多くの人が生涯教会に通っても理解できないでいる点を,はっきりさせるのに役立ちます。つまり,聖書は一方では,人間が地上で生きることが神の意図であると示し,他方では,人間が天に行くことについて述べています。これは結局どういうことになるのでしょうか。神は,一部の人を天に行かせて,王国政府でみ子と共にならせると約束しておられますが,地は,幸福で平和を愛する人々の満ちる楽園になるということです。―詩 37:29; イザヤ 65:17,20-25をご覧ください。

      19 王国政府の要員として何人の人が天へ行くのでしょうか。イエスはその点を示唆して,「恐れてはなりません,小さな群れよ。あなたがたの父は,あなたがたに王国を与えることをよしとされたからです」とおっしゃいました。(ルカ 12:32)ですから,その数は限定されています。啓示の示すところによれば,「子羊」(イエス・キリスト)と共に統治するために「人類の中から買い取られた」人々の数は14万4,000人です。(啓示 14:1-5)これは理解しにくい事柄ではありません。人間の政府の中にさえ,政府構成員として首都に来る選ばれた一団の男女から成る政府があります。

      20 しかし神は,天へ行く人の選択を人間に任せてはおられません。ご自分で選ばれます。(ペテロ第一 2:4,5,9。ローマ 8:28-30; 9:16)神は使徒パウロをお選びになったとき,ご自分の霊をパウロにそそがれ,「天の王国」の一員になるという確信をパウロにお与えになりました。(テモテ第二 4:18)パウロはこう書いています。「霊そのものが,わたしたちの霊とともに,わたしたちが神の子どもであることを証ししています。さて,子どもであるならば,相続人でもあります。実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人です」― ローマ 8:16,17。コリント第二 1:22; 5:5。

      21 神の目的は,人間が地上で幸せに暮らすことでしたから,神の崇拝者で天の命を持つよう選ばれてきた人は比較的少数です。最初に天に上げられたのはイエス・キリストでした。(ヘブライ 6:19,20。マタイ 11:11)その後,神は14万4,000人の他の人たちを選びつづけられました。その数が満ちたとき,どんなことが起きるでしょうか。

      22 使徒ヨハネは,天でキリストと共になる限られた数の人々(14万4,000人)の幻を与えられた後,「だれも数えつくすことのできない大群衆」を見せられました。(啓示 7:4,9,10)その人々は,現在の事物の体制が破壊されて終わるとき,神に保護されます。彼らには,地上で永遠に生きるというすばらしい見込みがあります。神が14万4,000人のために天の命への道を開かれる以前に死んだノアやアブラハムやダビデのような忠実な人々も,同様の見込みを持っています。―使徒 2:34。

      支配者たちを信頼する理由

      23 今日ほとんどの人は,支配者を信頼していません。しかし,神の王国で支配する人々は,この世の支配者とは大変異なっています。神は,信仰を証明した人々を長い年月をかけて選んでこられました。その人たちは,あらゆる試練や試みの下で,正しく公正な事柄を固守し,神の信頼を得ます。であれば,わたしたちも彼らを信頼できるのではないでしょうか。

      24 また,その人たちは人間だったので,わたしたちを理解しわたしたちに同情することができます。(ヘブライ 4:15,16と比較してください。)その人たちは疲労,心配,失意とはどういうものかを知っており,一層忍耐強く親切であわれみ深くあるために必要な苦労を知っています。支配者となる人々の中には女性だった人も含まれています。そのような人たちは地上の女性の感情や女性が特に必要とするものを理解することができます。―ガラテア 3:28。

      25 今日,大勢のエホバの証人はキリストとその共同支配者に信頼を寄せていることを証明しており,王国が自分たちにとっていかに現実のものであるかを示しています。神の王国の忠節な臣民となることによってそれを示します。(箴 14:28)そして,キリスト教が最善の生き方であることを心から信じて,聖書に記されているおきてを受け入れ,それを守ることを勧めます。さらに,この政府の教育計画にも参加しています。その主要な教科書は聖書ですが,キリスト教の参考書や研究の手引きも用います。会衆の集会では王国のことや,クリスチャンとしての生活の仕方についてさらに多くのことを学びます。そして公に,あるいは家庭で教えることにより,その教育計画にあずかる機会を他の人々にも差し伸べています。―使徒 20:20。

      26 イエスの言葉によると,「終わりの日」のしるしの一つはこれです。『王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられ,それから終わりが来る』。(マタイ 24:14)イエスは昇天される前に,弟子たちがこの福音宣明の業に活発に参加することの必要を強調されました。―マタイ 28:19,20。使徒 1:8。

      27 今日のクリスチャンたちは,その伝道と教える業に参加することが,神と隣人への愛を実証できる大切な方法であることを知っています。(マルコ 12:28-31)それは,人命が関係しているので,責任の非常に重い業です。(使徒 20:26,27。コリント第一 9:16)またそれは,非常な幸福感や満足感を与えてくれる業でもあります。(使徒 20:35)エホバの証人は,あなたが神の支配する王国について他の人を教えるのを喜んでご援助いたします。

      [研究用の質問]

      これまで,人間の政府は,どんな望ましい事柄を成し遂げることができませんでしたか。(1,2)

      神の目的が,平和をもたらす政府をつくることであることはどうして分かりますか。(3,4)

      神は王国を生み出すためにどんな措置を取られましたか。(5,6)

      イエスが傑出した支配者となられることをわたしたちはなぜ確信できますか。(7-10)

      イエスが地上で支配するのでないことはどうして分かりますか。(11,12)

      キリストが人類に対する支配を開始された時を示すどんな証拠がありますか。(13-16)

      どのような人が王国でイエスと共に支配しますか。(17,18)

      何人の人が天へ行きますか。すべての人が天へ行くわけでないのはなぜですか。(19-22)

      それら共同支配者が信頼できるのはなぜですか。(23,24)

      王国を支持していることをどのように示せますか。(25-27)

      [151ページの囲み記事]

      「国際平和のための真の土台を築くことができない……直接の原因は,諸国家,特に大国が,国際場裏でなすべきことを教え得る権威を認めようとしないことにある。

      「したがって,今日の基本的な課題は,世界の人々の信頼を後ろだてに平和を保ち得る世界的な権威をどうしたら生み出せるかということである」―「サタデー・レビュー」誌編集長ノーマン・カズンス。

      [159ページの囲み記事]

      政府に関して現実的な見方をする

      「普通のこん棒や鉛をしんにしたこん棒,鎖,銃などが私たちの武器でした」と,1970年代に南部ヨーロッパで政治活動を行なっていたステルビオという人は語りました。この人は,暴徒を組織して市街戦を行なう方法を,秘密に設けられた軍隊の野営地のような所で学んだことがありました。

      しかし,何年かたって,その人に変化が起きました。エホバの証人の一人がステルビオの家を訪れ,聖書を教えたのです。その結果はどうだったでしょう。「私は聖書を学ぶことによって目が開け,国家主義や政党が人々を分裂させているということに気付きました。神が一人の人間からあらゆる国民を造り,地に住まわせたということを,私は聖書から学びました。(使徒 17:26)この認識は人々を一致させる力となります。おかげで,私は政治思想が違うというだけの理由で他の人を憎むことなどしないようになりました」。

      このかつての過激分子はさらにこう語っています。「政治そのものが人類の分裂の原因となっているのに,どうして政治によって諸問題を解決できるだろうかと,いつも考えるのです。人間が和合するには,分裂の原因がなくならなければなりません。エホバの証人の間では,黒人と白人が同じ水でバプテスマを受け,アイルランドのかつてのプロテスタントとカトリック教徒が互いに憎み合うことをやめ,六日戦争の間にもアラブ人とユダヤ人が集まり合っていたのを見ました。私は自分が憎んでいた相手を愛することを学んだのです。

      「エホバの証人があこがれている神の王国は,夢の理想郷にすぎないとはだれも言えません。その王国の下に結集した国際的な社会がすでに存在しているからです。この社会では聖書の原則が適用されるので,その結果として,他のいかなる宗教的・政治的・社会的グループも成し得なかったような事柄が成し遂げられています。

      「かつての私のように,公正と平和と社会秩序をもたらそうと奮闘しておられる方々に,私は次のように申し上げます。『現実的になって,人間がそれらをもたらし得なかったことを認めてください。しかし,エホバの証人を見てください。エホバの証人は戦争,政治的分裂,人種差別,平和,一致などの問題を解決してはいないでしょうか。人間は人間に信頼を置いて色々な問題を抱えています。エホバの証人は神の王国に服し,生活上の主要な問題を解決しています』」。

  • あなたはだれの法を第一にしますか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 17章

      あなたはだれの法を第一にしますか

      自然の法則,もしくは創造物に見られる法則,道徳と行動に関する神から与えられたおきて,世俗の法律など,法はわたしたちの生活と切り離せないものです。その多くは受け入れやすいものであり,わたしたちの益となります。しかし,人を不当に束縛するように見える法律の場合はどうでしょうか。あるいは自分に関係する二つの法律が相いれない場合はどうでしょうか。

      2 自然の法則は個人的な事柄と関係がないように見えるので,それを受け入れにくく感じる人はいません。高い絶壁の縁まで来ても,引力の法則を無視して足を踏み出す人がいるでしょうか。引力の法則はわたしたちの益となります。この法則があるからこそ足はいつも地面に着いていますし,食物も皿から逃げ出しません。このほかにも自然の法則として遺伝の法則があります。それはどんな子供が生まれるかに影響します。遺伝の法則を意識し,近親結婚を避けるなら,ある種の欠陥を子供に伝える危険を免れられます。(レビ 18:6-17と比較してください。)しかし,行動や道徳に関する法律についてはどうでしょうか。

      3 制定されている法律を腹立たしく思うようになる人は少なくありません。それは,一つには,不必要な法律を作ったり,法律によって人々を抑圧したりする傾向が人間にあるからです。(マタイ 15:2; 23:4)しかし,法律は一切悪であるとしたり,法律を無視することを習慣にしたりすることには危険があります。

      4 人類が死ぬようになった原因は,法に対する反抗でした。神はアダムとエバに,善悪の知識の木の実を食べることを禁じられました。しかしサタンは,神のおきては人を不当に束縛するものだと言わんばかりのことをエバに語りました。(創世 3:1-6)サタンがエバに訴えた点は,『規則などいらない。自分で自分の規準をつくればよい』ということでした。法律に反抗するその精神は歴史を通じて,今日に至るまで,人々の間に広く見られます。

      5 エホバは,不必要に物事を禁じたり,煩わしいおきてを課したりして人々を抑圧することはされません。『エホバの霊のある所には自由がある』からです。(コリント第二 3:17。ヤコブ 1:25)とはいえエホバは,サタンが人々に信じさせようとしていることとは反対に,宇宙の最高支配者です。エホバは命の与え主また養い手である上に,宇宙の創造者でもあられます。(使徒 4:24; 14:15-17)ですからエホバはわたしたちを指導し,わたしたちの行動に関するおきてを設ける権利をお持ちです。

      6 最高権威としての神に,人間がしてよいことと,して悪いこととを定める権利があることを多くの人は認めます。つまり,神が禁じておられるある事柄をどうしてもしたいと思うようになるまでは,そう考えます。言うまでもなく,それは危険なことです。神のご命令がわたしたちの益のためにあることを示す証拠は十分あります。例えば,泥酔や激怒,強欲などを避けることは,健康の増進に,また一層深い満足を得るのに役立ちます。(詩 119:1-9,105)また,神のおきては,神の是認と救いを得る助けとなります。(箴 21:30,31)ですから,たとえエホバのご命令の背後にある理由が理解できない場合が時にあっても,高ぶった気ままな考えからか,それに従おうとしないのは愚かなことです。

      7 クリスチャンに対する神のご命令の一つの例として,初期クリスチャン会衆の統治体を形成していた使徒たちとエルサレムの長老たちの会議の結果出された次のような布告があります。

      「聖霊とわたしたちとは,次の必要な事がらのほかは,あなたがたにそのうえなんの重荷も加えないことがよいと認めたからです。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行から身を避けていることです」― 使徒 15:22-29。

      8 「淫行」に関する神のおきてに従うことには健全な理由があります。このおきてに従えば,病気から守られ,私生児を産むこともなく,結婚生活に破綻をきたすこともありません。そのおきてによると,同性愛その他のみだらな性的不道徳を行なってはなりません。なぜならそれらは使徒 15章29節で使われているギリシャ語のポルネイア(淫行)の中に入るからです。(ローマ 1:24-27,32)しかし,「淫行」に伴う危険が避けられるとしたらどうでしょうか。それでもわたしたちは,神が自分たちの最高の支配者であられるゆえに神のご命令に従うでしょうか。もし従うなら,サタンが偽り者であること,そして人間はエホバを愛するがゆえにエホバに従うのだということを証明する点で協力することになります。―ヨブ 2:3-5; 27:5。詩 26:1,11。

      9 使徒 15章22-29節に述べられているその布告は,わたしたちが従順を示せる別の分野を示しています。『血を避けなさい』,絞め殺されて血の抜かれていない動物の肉を避けなさいと命じておられるのは神です。神はわたしたちの先祖であるノアに,人間は動物の肉を食べてもよいが,動物の血で命を支えてはならないと言われました。(創世 9:3-6)神は,イスラエルにも同様の律法を与えて,「肉の魂[すなわち命]は血にある」とおっしゃいました。イスラエル人に許された血の唯一の用途は,罪を贖うために祭壇に注ぐことでした。そうでなければ,動物の血は注ぎ出されて象徴的に神に返されるべきでした。その律法を守るかどうかは生死にかかわる事柄でした。―レビ 17:10-14,新。

      10 それらの犠牲はイエスが人類のために血をそそぎ出すことを表わしていました。(エフェソス 1:7。啓示 1:5。ヘブライ 9:12,23-28)キリストが天にもどられた後でさえ,神はクリスチャンたちに『血を避ける』ことをお命じになりました。しかし,クリスチャンと称する人で,この点に関し,律法制定者であり生命授与者である神に従っている人がどれ程いるでしょうか。土地によっては,血の抜かれていない肉や血の入ったソーセージ,あるいはわざわざ血を混ぜた食品などを食べるのが普通になっています。

      11 同様に,命を長らえさせるために輸血をする人が大勢います。健康を害する危険が輸血にあることや,ほとんどどんな外科手術も輸血に代わる方法を用いるなら輸血なしでできる,ということはあまり知られていません。a しかし,命が危うく見えるなら,神に従うことは間違いでしょうか。非常の場合でも神の律法は無視すべきではありません。―サムエル前 14:31-35。

      12 言論や崇拝の自由に関する自らの信念や政治理念を命懸けで守った人は少なくありません。そういう人々は,どんな危険をも顧みずに支配者または司令官に従いました。宇宙の主権者に従うことにはそれ以上の強力な理由があるのではないでしょうか。多くの信仰の人が残した忠誠の記録は,『確かにそうです』と答えます。(ダニエル 3:8-18。ヘブライ 11:35-38)その人々は,エホバが命の与え主であられ,必要ならばしかるべき時に復活という手段によって生き返らせ,ご自分に従う者に報いをお与えになるということを知っていました。そのことは,わたしたちも知っておくべき事柄です。(ヘブライ 5:9; 6:10。ヨハネ 11:25)どんな状況の下でも,エホバに従うことは確かに正しいことであり,いつまでも変わることのない最善の道です。―マルコ 8:35。

      国の法律に従う?

      13 わたしたちの日常生活に関係の深い法の中には,この世の政府の設けた法律もたくさんあります。クリスチャンはそのような法律をどうみなし,どう反応すべきでしょうか。使徒パウロは次のように書いています。「政府と官吏に忠実に服し,法律を守るべきことを人々に思い出させなさい」― テトス 3:1,新アメリカ聖書。

      14 西暦1世紀当時,ローマ政府は必ずしも公正ではなく,中には,不道徳で不正直な支配者もいました。それでも,パウロは,「すべての魂は上にある権威に服しなさい。神によらない権威は存在しないからです」と言いました。「上にある権威」とは現存するこの世の政府のことです。―ローマ 13:1。

      15 エホバは,ご自分の支配が地上に完全に復興するまで,国の政府が有用な目的を果たすことを認めておられます。国の政府は社会秩序の維持にある程度寄与し,結婚や誕生の登録を含め数々の仕事をします。(ルカ 2:1-5と比較してください。)したがってクリスチャンは普通,「敬神の専念を全うし,まじめさを保ちつつ,平穏で静かな生活をしてゆく」ことができます。―テモテ第一 2:2。

      16 クリスチャンは,神の王国が戦争,不正,圧制の問題を解決する時を待つ間,国の政府の『権威に敵対』すべきではありません。税金を正直に納め,法律を守り,支配者に敬意を示すべきです。真のクリスチャンはそのようにして,しばしば,役人からほめられたり,援助を受けたりします。法律違反者のように「剣」で罰せられることはまずありません。―ローマ 13:2-7。

      相対的に服する

      17 法と法とが相反する場合があります。神が禁じておられる事柄を行なうよう国の政府が要求することや神がクリスチャンに行なうよう命じておられる事柄を国の法律が禁じることがあります。そういう場合どうしたらよいでしょうか。

      18 復活したイエス・キリストについての使徒たちの伝道を支配者が禁じたとき,そのような衝突が起きました。使徒 4章1-23節と5章12-42節の,信仰を鼓舞する記録をお読みください。使徒たちは,投獄されむち打たれましたが,伝道をやめようとはしませんでした。ペテロは,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」と言いました。―使徒 5:29。

      19 それで,政府の権威へのクリスチャンの服従は相対的です。クリスチャンの第一の義務は最高権威への服従です。そのために罰せられても,自分の行なっている事柄は神に是認されているという自覚があるので,慰められます。―ペテロ第一 2:20-23。

      20 初期のクリスチャンは,さらに別の面でも決定に直面しました。これには神のご命令と,ローマ政府が期待していたこととが関係していました。それは,ローマの軍隊を支持するかどうか,もしくは軍隊に入るかどうかの問題でした。神はご自分の民にこう語っておられました。「彼らは自分の剣を鋤の刃に,槍を刈り込みばさみに打ち変えることになる。国民は国民に向かって剣を揚げることなく,戦争を学ぶことももはやない」。(イザヤ 2:4,新。マタイ 26:52)したがって,ローマ政府が当時クリスチャンに軍隊に入ることや戦争努力を支持することを要求していたなら,カエサルの法と神の法とは衝突したことでしょう。

      21 初期クリスチャンたちは,神格化されていたローマのカエサルに香をたくよう要求されたときも,神の法を第一にしました。香をたくことは一般に愛国的な行為と考えられていたかもしれませんが,クリスチャンはそれを一種の偶像崇拝とみなしたことを歴史は示しています。自分がエホバに献身していることを自覚していたので,だれに対しても,どんな物に対しても偶像崇拝的な行為をしませんでした。(マタイ 22:21。ヨハネ第一 5:21)政治に関しては,支配者に対し偶像崇拝的な賛美の言葉を叫ばず,イエスから励まされていた通り,『世のものとならない』よう,中立の立場を守りました。―ヨハネ 15:19。使徒 12:21-23。

      22 あなたは,法の問題に関して神のお考えや導きを受け入れるでしょうか。そうであれば,行ないや道徳に関する神のおきてを無視した人が味わう多くの悲しみを避けられますし,現在権威を持つその筋から不必要に罰せられることもありません。しかし,この問題に関して神は特に,ご自分が最高支配者であることが認められることを望んでおられます。どんな状況下でも神を最高支配者と認めるなら,あなたは神の王国の法が間もなく全地に行き渡るとき,その状態に溶け込めるでしょう。―ダニエル 7:27。

      [脚注]

      a この問題の宗教的・倫理的・医学的な面については,ものみの塔聖書冊子協会発行の「エホバの証人と血の問題」という小冊子に説明されています。

      [研究用の質問]

      法をどのように見ているか考えなければならないのはなぜですか。(1-4)

      神のおきてがどういうものかを認めるためには何が必要ですか。(5,6)

      「淫行」を禁じる神のおきてに従わなければならないどんな理由がありますか。(7,8)

      血に関する神のおきてにどのように従うことができますか。(9-11)

      命が危険になっても神に従うべきであるのはなぜですか。(12)

      クリスチャンはこの世の政府をどのようにみなすべきですか。それはなぜですか。(マタイ 22:19-21)(13-16)

      神のおきてとこの世の法律とが相反する場合,どうするのが正しいことですか。例を挙げて説明してください。(17-21)

      現在わたしたちは何を試されていますか。(22)

      [167ページの囲み記事]

      「現存する資料を丹念に調べてみると,マルクス・アウレリウス[西暦161年から180年にかけて在位した皇帝]の時代までは,クリスチャンで兵士になった者,またクリスチャンになった後も軍隊にとどまった者は一人もいなかったことが分かる」―「キリスト教の台頭」。

      [165ページの図版]

      税金で賄われているのは……

      危険からの警察の保護

      衛生事業

      教育制度

      郵便制度

      水道施設

      消防制度

  • どの宗教にも良いところがありますか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 18章

      どの宗教にも良いところがありますか

      宗教のことが話題になると,多くの人は,『どの宗教にも良いところがある』とか,『道が違っているだけで,すべての宗教は神に通ずる』と言います。

      2 人々が,宗教には大抵それぞれ良いところがあると考える理由はすぐに分かります。宗教は普通愛を説き,殺人や盗み,うそを言うことを戒めているからです。そして,中には,宣教師を派遣して,病院を経営したり,貧しい人を助けている宗教団体もあります。また,特にここ2世紀の間,それらの宗教団体は聖書の翻訳と普及に携わり,それによって一層多くの人が神の言葉から益を得られるようになりました。(テモテ第二 3:16)それでもわたしたちは,エホバとイエス・キリストは様々な宗教をどのように見ておられるだろうか,と自問してみなければなりません。

      正しい道は狭い道

      3 どの宗教にも良いところがあると考える人の中には,どんな宗教を持っていてもほとんどの人が神に受け入れられるというのではない,と信じるのは狭量であると考える人がいます。しかし,み父のお考えを知っていてそれを反映しておられたイエスは,それとは違った見方をしておられました。(ヨハネ 1:18; 8:28,29)神のみ子をまさか狭量だと非難する人はいないでしょう。山上の垂訓の中でみ子が語られた次の言葉を考えてみましょう。

      「狭い門を通ってはいりなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通ってはいって行く者は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道はせばめられており,それを見いだす者は少ないのです」― マタイ 7:13,14。

      4 その狭い道を歩んで神の是認を得るには何が必要でしょうか。ある人々は,現代の自由主義的な精神や世界教会運動の精神に従って,『善を行なって,他の人を傷付けないようにすればそれでよい』とか『必要なのは,イエスを主と認めることだけである』と答えるでしょう。しかし,イエスはそれだけでは不十分であることを次のように示されました。

      「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちは……あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。でもその時,わたしは彼らにはっきり言います,わたしはいまだあなたがたを知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と」― マタイ 7:21-23。

      5 なるほど,イエスは,他の人のささいな過ちを裁かないようにと助言されました。(マタイ 7:3-5。ローマ 14:1-4)しかし,宗教上の重要な問題については,聖書に従い,神のご意志を行なう必要性を身をもってお示しになりました。神の言葉と相いれない慣行や教えを非難なさいました。それは,悪魔が人々を陥れる手段として宗教を用いていることを知っておられたからです。(コリント第二 4:4)サタンの常套手段はうそをつくことです。しかも人の心に訴えるようにうそを言います。(創世 3:4,5。テモテ第一 4:1-3)クリスチャンと称する人々の間にさえ,悪魔の望み通りのことを行なっている宗教指導者たちがいます。(コリント第二 11:13-15)彼らの教えは,エホバの愛に満ちた寛大な物事の仕方を誤り伝えるものです。ですから,聖書に反する事柄を教えた宗教指導者たちの正体をイエスが暴露されたことには,何の不思議もありません。―マタイ 15:1-20; 23:1-38。

      6 宗教をいわば受け継いでいる人は少なくありません。また,周りの大勢の人にただ付いて行っているだけの人もいます。しかし,たとえ誠実な気持ちでそうしている場合でも,その人は『滅びに至る広い道』を歩むことになりかねません。(ヨハネ 16:2。箴 16:25)使徒パウロ(またの名をサウロと言った)は,自分の宗教に熱心なあまりクリスチャンを迫害するほどでした。しかし,神に受け入れていただくには,新しい崇拝の仕方に転向しなければなりませんでした。(テモテ第一 1:12-16。使徒 8:1-3; 9:1,2)後日,パウロは霊感の下に,一部の非常に宗教心の厚い人々が,『神に対する熱心さをいだいていても,それは正確な知識によるものではない』と書きました。(ローマ 10:2)あなたは聖書に示されている神のご意志に関する正確な知識をお持ちですか。そして,それに従って行動しておられますか。

      7 このことを軽く見て,たとえ自分が正しい道を歩んでおらず,その道を変えないとしても,神は理解してくださる,と考えてはなりません。神のご意志は人々が『真理の正確な知識に至り』,それに一致して生活することであると,聖書には述べられています。(テモテ第一 2:3,4。ヤコブ 4:17)神は,「終わりの日」に多くの人が,「敬神の専念という形を取りながらその力において実質のない者となる」と予告されました。そして「こうした人びとからは離れなさい」と命じておられます。―テモテ第二 3:1-5。

      どのようにして知ることができるか

      8 神に喜ばれる崇拝は「正確な知識」と一致していなければならないにもかかわらず,よく調べてみると,ほとんどの教会は聖書と相いれない教理を教えています。(ローマ 10:2)例えば,人間には不滅の魂があるという非聖書的な教理を固く守っています。(エゼキエル 18:4,20。115ページをご覧ください。)『その教えはそんなにいけないものだろうか』と思う人もあるかもしれません。サタンが最初に語った偽りは,罪を犯しても死なない,ということだったのを忘れないでください。(創世 3:1-4)現在,死は避けられないものですが,人間に不滅の魂があるという教えはサタンのうそを助長する傾向があります。そのために,大勢の人が死者の霊を装った悪霊と交渉を持つようになり,恐ろしい経験をしています。また,その教理は,将来死者が復活するという聖書の真理を無意味なものにしています。―使徒 24:15。

      9 行ないも無関係ではありません。魂は不滅という信仰に基づく祭日や習慣を受け入れたり,それらを奨励する宗教が少なくないからです。諸聖人の祝日の前夜祭<ハロウィーン>,万霊祭などはその種の祭日で,キリスト教でない宗教の慣行と混合したものです。

      10 さらに,キリスト教でない宗教とキリスト教と考えられている宗教とを混合してつくったクリスマスのような祝日があります。神はクリスチャンにイエスの誕生ではなく,死を記念するように指示されました。(コリント第一 11:24-26)それに聖書は,イエスが,イスラエルの雨季に当たる寒い12月に生まれたのでないことを示しています。(ルカ 2:8-11)12月25日が選ばれたのは,その日がすでにローマの祭日になっていたためであったことは,ほとんどどの百科事典にも出ています。ジェイムズ・フレーザー卿は次のように語っています。

      「全体的に見て,[クリスマスおよびイースターと]異教の祭りとは偶然にしてはあまりにもよく似ており,一致点が多過ぎる。……[聖職者たちは]キリスト教が世界を征服するというのであれば,それはキリスト教創始者の厳し過ぎる原則を緩め,救いに至る狭い門を少し広げることによってのみ可能だろうと考えた」―「黄金の枝」。

      11 エホバを心から愛する人で,事実を知った後もなお異教の崇拝との妥協に基づく信条や慣行を守りつづける人がいるでしょうか。ある人にとって,それらの教えや慣行はささいなことに思えるかもしれません。しかし,聖書ははっきりと「少しのパン種が固まり全体を発酵させます」と述べています。―ガラテア 5:9。

      戦争と道徳

      12 イエス・キリストは,神に受け入れられる宗教を見分けるのに役立つ別の事柄について述べ,弟子たちにこう語られました。「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」。(ヨハネ 13:34,35)大抵の教会は愛を説きますが,イエスが示されたような愛を示すことを本当に勧めているでしょうか。

      13 西暦初期のクリスチャンたちが,イザヤ書 2章4節(新)の預言通りに生活し,『自分の剣を鋤の刃に打ち変え,互いに向かって剣を揚げることなく,戦争を学ぶことももはやなかった』ことはすでに学びました。(166,167ページをご覧ください。)教会と教会僧職者たちはどんな立場を取ってきたでしょうか。教会が戦争を認め,それを祝福し,カトリック教徒がカトリック教徒を,プロテスタントがプロテスタントを殺したことを,多くの人は体験を通して知っています。それは確かに,イエスの模範に従う行ないではありませんでした。興味深いことに,国民の利益が脅かされると主張してイエスを殺すことを認めたのは,ユダヤ教の指導者たちでした。―ヨハネ 11:47-50; 15:17-19; 18:36。

      14 ある宗教グループが神の是認を得ているかどうかを判断するさらに別の方法としては,そのグループが悪行を簡単に見過ごすようなことをせずに,神の道徳規準を擁護しているかどうかを考えてみるとよいでしょう。イエスは大酒飲みや売春婦など,多くの罪を背負った人々を助けようとされました。イエスの弟子たちも同様のことを行なうべきでした。(マタイ 9:10-13; 21:31,32。ルカ 7:36-48; 15:1-32)また,すでにクリスチャンとなっている人が罪を犯した場合,他のクリスチャンたちは,その人が再び神の恵みを得,霊的な強さを取りもどせるように,その人を援助することができました。(ガラテア 6:1。ヤコブ 5:13-16)しかし,ある人が悔い改めないで罪をならわしにする場合はどうでしょうか。

      15 コリントには実際にそのような人がいました。パウロは次のように書いています。

      「兄弟と呼ばれる者で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしないように……『その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい』」― コリント第一 5:11-13。

      エホバの証人はこのことについて神の指示に従います。ゆゆしい罪を犯した者が援助を受けようとせず,不道徳な道を捨てようとしないなら,その人は会衆から追放もしくは排斥されなければなりません。そうすれば,その人はショックで目が覚めるかもしれません。そうなってもならなくても,その処置は,不完全ながらも神の規準を守ろうと賢明に努力している会衆の成員を保護するものとなります。―コリント第一 5:1-8。ヨハネ第二 9-11。

      16 いつも公然と罪を犯しているのに,その富や名声ゆえに教会で特別重んじられているような教会員をあなたはご存じかもしれません。悔い改めない罪人を排斥するようにという神の命令に従おうとしない教会は,ほかの人々に,自分も罪を犯してかまわないのだという考えを持たせることになります。(伝道 8:11。コリント第一 15:33)神はそのような実を生み出す者たちを是認することはできません。―マタイ 7:15-20。啓示 18:4-8。

      命に至る道から離れない

      17 いったん『命に至る道』を見いだしたなら,その道からそれないために聖書を学びつづける必要があります。毎日聖書を読むように努力し,読みたくてしかたがないほどにならなければなりません。(ペテロ第一 2:2,3。マタイ 4:4)そうすれば,「あらゆる良い業」に対して整えられた者となることができます。―テモテ第二 3:16,17。

      18 その良い業には,他の人々,特に信仰の仲間に親切にし,助けを差し伸べることだけでなく,神の道徳規準にそって生活することも含まれます。(ヤコブ 1:27。ガラテア 6:9,10)イエスが行なわれたのはそれでした。イエスは,道徳的に優れた手本を示された上に,病人をいやし,飢えた人に食物を,悲しむ人に慰めをお与えになりました。そして特に弟子たちを教え強められました。わたしたちはイエスのように奇跡を行なうことはできませんが,可能なときに他の人に実際的な援助を差し伸べることができます。それによって心を動かされ,神をたたえる人が出てくるかもしれません。―ペテロ第一 2:12。

      19 しかし,イエスの行なわれた良い業はそれだけではありません。人のために行なう最善の業とは,どんな崇拝が神に受け入れられるかを知るよう助け,神の王国の目的を教えることであることをイエスはご存じでした。それは,永遠にわたって幸せに生きるという目標の達成を助け得る業でした。―ルカ 4:18-21。

      20 今日のクリスチャンたちも同様に,エホバの証人であるよう懸命に努力すべきです。ほかの人々を援助したり,自分自身を「世から汚点のない状態に保つ」などの,りっぱな行状によって証言することができます。(イザヤ 43:10-12。ヤコブ 1:27。テトス 2:14)また,「良いたより」を人々の家庭に携えて行き,神がもう業は終わったと言われるまで,その業を辛抱強く続けることができます。(ルカ 10:1-9)あなたは,ご自分の家族を含め周囲の人々がエホバに受け入れられる崇拝について学ぶのを援助したいと思われませんか。そう思われるなら,信仰を公に表明することに加わらねばなりません。そうすれば,他の人々が命に至る道を見いだすのを援助できます。―ローマ 10:10-15。

      [研究用の質問]

      あらゆる宗教に良いところがあるかどうかを考えてみなければならないのはなぜですか。(1,2)

      イエスは宗教をどう見ておられましたか。なぜですか。(3-5)

      正確な知識を持つことはなぜ重要ですか。(6,7)

      一般の教理や慣習の中には聖書とどのように矛盾するものがありますか。(8-11)

      戦争の問題に関して教会と真のキリスト教はどのように違いますか。(12,13)

      真のキリスト教は,神の道徳規準を忠実に守るという点でどんな立場を取っていますか。(14-16)

      どうすれば命への道にとどまることができますか。(17,18)

      さらにどんな業を行なうことはクリスチャンにとって大切ですか。(19,20)

      [173ページの囲み記事]

      「アウシュビッツの価値基準と暴力」

      ポーランドの社会学者アンナ・パベルチンスカは,上記の題の本の中で,「エホバの証人は,あらゆる戦争や暴力を非とするその信条を守るために,受動的な抵抗を展開した」と語っています。その結果について,彼女はさらにこう説明しています。

      「受刑者たちの中のこの小さなグループは強固な思想集団であり,ナチズムに対する闘いに勝利を収めた。恐怖政治をしく国家のまっただ中に浮かぶ孤島のように,ドイツにおけるこの宗派は衰えることのない抵抗を示した。アウシュビッツの収容所でも,これらの人々は同様のおくすることのない精神を抱いて行動していた。これらの人々は,仲間の受刑者や……囚人の中から選ばれた監督,そして親衛隊員の間でさえ尊敬を勝ち得ていた。いかなるエホバの証人も自分の信仰や信念に反する命令には従わないということは周知の事実だった」。

      [175ページの図版]

      あなたは広い道を歩いていますか……

      ……それとも狭い道を歩いていますか

  • あなたは神の是認される仕方で神を崇拝しますか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 19章

      あなたは神の是認される仕方で神を崇拝しますか

      聖書は,「終わりの日」に人々が「自分を愛する者,……うぬぼれる者,ごう慢な者,……敬神の専念という形を取りながらその力において実質のない者となる」と予告しています。(テモテ第二 3:1-5)これは,今日わたしたちの周りに見られる事柄をよく言い表わしてはいないでしょうか。

      2 人々は生活のあらゆる面で,「自分が第一」と言わんばかりに振る舞います。買い物をするときや自動車を運転する際の態度,服装や化粧の仕方,ダンスの種類などにそれが見られます。しかし,これらはいずれも真の幸福をもたらしていません。

      3 多くの人は,自分が望むもの,もしくは自分が必要を感じる事柄を主にして宗教を考えますが,それは大きな間違いです。わたしたち人間は,神がどのように崇拝されるべきかについて口を出す立場にありません。創造者であり,命の授与者であるエホバこそ,人々がどのようにご自分を崇拝しなければならないかを言う立場にある方です。(ローマ 9:20,21)しかも,神が人間にお求めになることは人間自身の益となる事柄です。それは現在満足をもたらしますし,またそれによってわたしたちは,神が将来人間のために意図しておられるすばらしい事柄を思いと心にとどめておくことができます。―イザヤ 48:17。

      4 エホバは,不必要な儀式を行なうことを命じてクリスチャンを煩わせたり,無意味な制限を課したりはなさいません。しかし,神は,終わりのない命はご自分との良い関係にかかっていること,また人生に真の喜びを見いだすにはご自身の規準に従って生活し,他の人々に関心を示す必要のあることを知っておられます。神が望まれる方法で神を崇拝するとき,人生は一層豊かで有意義なものになります。

      神の方法で物事を行なう

      5 ノアは神の方法に従って行動したきわめて模範的な人です。聖書には次のように記されています。「ノアは義にかなった人であり,同時代の人々の中にあってとがのない者となった。ノアは真の神と共に歩んだ」。命を守るための大きな箱船を造るようにとの指示を神から受けたとき,『ノアはすべて神から命じられたとおりにしていきました。正にそのとおりに行ないました』。(創世 6:9,22,新)神の方法で物事を行なうことによって,ノアの命,そしてまた地上の預言者としてノアに忠実に従ったノアの家族の命も救われました。―ペテロ第二 2:5。

      6 アブラハムも神の方法に従った一人です。神はアブラハムに故郷を離れて別の場所に行くことをお命じになりました。あなただったらその命令に従ったでしょうか。アブラハムは,「自分がどこへ行くのかを知らないのに」,「エホバが語られたとおりに出かけて行き」ました。(ヘブライ 11:8。創世 12:4,新)神の方法に従って忠実に物事を行なったので,アブラハムは「エホバの友」とみなされました。―ヤコブ 2:23。ローマ 4:11。

      神の民の一人となる

      7 やがて神は一つの大きな集団,つまりイスラエル国民と交渉を持つことにされました。イスラエル国民は,『地の表にいるあらゆる民の中から神の民,特別の所有物』となりました。(申命 14:2,新)個々のイスラエル人が神に祈って,神と個人的な親しい関係を持つ必要があったことは言うまでもありません。しかし同時に,神が会衆を導いておられることを認めることも必要でした。そして,一つの国民としての自分たちに与えられた神の律法の中に示されている崇拝の様式に従わねばなりませんでした。そうするなら,神が会衆に差し伸べておられる保護や祝福を受けることができました。(申命 28:9-14)全能者から「わたしの民イスラエル」と呼ばれる人々の一人となることがどれほどすばらしい特権だったかを考えてみてください。―サムエル後 7:8,新。

      8 イスラエル人ではないものの,真の神を崇拝したいと願っていた人々の場合はどうだったでしょうか。彼らは,モーセがイスラエル国民をエジプトから導き出した時にイスラエルと一緒に行くことを選んで,「入り混じった大集団」を形成しました。(出エジプト 12:38,新)あなたがエジプトにいたとしたら,自分一人残り,自分なりの方法で神を崇拝できると考えたでしょうか。

      9 イスラエルが約束の地に定住したときでも,エホバを認めエホバを崇拝したいと願う外国人はそうすることができました。しかし,それらの外国人は神が一つの集合体としての民と交渉を持っておられることを,また神の崇拝がエルサレムの神殿を中心として行なわれねばならないことを認識する必要がありました。(列王上 8:41-43。民数 9:14)誇りや独立心から独自の崇拝方式を編み出すなら,神に受け入れていただけませんでした。

      会衆の変化

      10 イエスが地上で宣教を行なっておられたときも,神はイスラエルをご自分に献身した民として扱っておられました。ですから,メシアを受け入れた人がみな,イエスと定期的に会合したり,使徒たちが行なったようにイエスと一緒に旅行したりする必要はありませんでした。(マルコ 5:18-20; 9:38-40)しかし国民全体としては,エホバのメシアを受け入れませんでした。それでイエスは,死ぬ少し前に,「神の王国はあなたがたから取られ,その実を生み出す国民に与えられる」とおっしゃいました。―マタイ 21:43,エルサレム聖書。

      11 イスラエルに与えられた神の律法に規定されている崇拝の仕方がもはや求められないとなると,どんな人々がその新しい国民となるのでしょうか。(コロサイ 2:13,14。ガラテア 3:24,25)西暦33年のペンテコステの日にクリスチャン会衆が形成されましたが,神はそれをご自分がおつくりになったことを,誠実な観察者すべてに明らかにされました。(使徒 2:1-4,43-47。ヘブライ 2:2-4)まず初めに,ユダヤ人とユダヤ教を信じていた外国人とが,そして後に異邦人つまり諸国の人々が「み名のための民」となりました。神は今やそれらの人々を「選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民」とみなされました。―使徒 15:14-18。ペテロ第一 2:9,10。

      12 あなたがそのころいて神との関係を望んだとしたら,クリスチャン会衆に導かれたでしょう。イタリア人のコルネリオとその家族の場合はそうでした。(使徒 10:1-48)世界中の信者はクリスチャン会衆を形成しました。(ペテロ第一 5:9)家庭や公共の建物で集まっていた各地の会衆はみな,その時神が用いておられたその一つの会衆の一部でした。―使徒 15:41。ローマ 16:5。

      13 エホバは秩序の神ですから,各会衆にある程度の組織を設けられました。崇拝者一人一人に必要な注意を払うため,牧者もしくは監督として奉仕する男子を任命されました。その人々は経験を積んだ資格のある男子で,神の言葉を教えることができ,また,会衆の成員が他の人々と聖書の真理を分かち合い,「良いたより」を伝道する重要な業において役立つ者となれるよう訓練することができました。―テモテ第二 2:1,2。エフェソス 4:11-15。マタイ 24:14。使徒 20:28。

      14 ほかにも多くの点で,会衆は監督たちから益を得ました。監督たちは律法尊重主義的にあるいは圧制的に振る舞うべきではありませんでした。その任務はむしろ,仲間のクリスチャンが神との関係を強めるよう優しく援助することでした。(使徒 14:21-23。ペテロ第一 5:2,3)問題を抱えた人は,霊的に古い人々のところに行くなら,親切な,聖書に基づいた援助を得ることができました。(ヤコブ 5:13-16。イザヤ 32:1,2)クリスチャンは依然不完全でしたから,会衆内にも時折り問題が生じたことでしょう。監督たちは仲間のクリスチャンを助けることに油断なく気を配り,会衆の霊性を脅かすおそれのある者を警戒していなければなりませんでした。―フィリピ 4:2,3。テモテ第二 4:2-5。

      15 各会衆は,使徒たちとエルサレム会衆の長老たちとから成るクリスチャンの統治体から必要な指導を受けました。統治体は会衆から知らされた問題を調べ,それに決定を下しました。また,諸会衆を訪問する代表者を派遣しました。―使徒 15:1-3。

      16 エホバ神は,ご自分の民を依然一つの集合体として扱っておられます。全地にはエホバの証人の会衆がたくさんあります。神の方法に従う崇拝を望む人は,仲間のクリスチャンと集合するようにという神の次の勧めに応じなければなりません。

      「互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合い……集まり合うことをやめたりせず,むしろ互いに励まし合い,その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか」― ヘブライ 10:24,25。

      魂をこめて神を崇拝する

      17 エホバ神が自分にしてくださったことすべてをよく考えてみるのはよいことです。人はエホバから命を与えられ,日々命を支える物をいただいています。その上に神は,犠牲として死ぬようみ子を地上にお遣わしになりました。それは神の深い愛,揺るぐことも変わることもない愛の表われでした。(ローマ 5:8; 8:32,38,39)そのような方法で,神は,人が罪の許しを得,永遠にわたって幸福に暮らす見込みを持つことを可能にしてくださったのです。―ヨハネ 3:17; 17:3。

      18 わたしたちは,神の愛にどのようにこたえるでしょうか。神と神の愛に背を向けるべきでないことは言うまでもありません。使徒ペテロは次のように勧めています。

      「ですから,あなたがたの罪を消していただくために,悔い改めて身を転じなさい。さわやかにする時期が到来……(するように)」― 使徒 3:19。

      19 わたしたちはみな,振舞いや言葉や考えにおいて神の規準に達しておらず,罪を犯しているので,『悔い改める』必要があります。(ローマ 2:4; 7:14-21。ヤコブ 3:2)わたしたちが悔い改めるとは,自分が罪人であることを認め,エホバのご意志に完全に調和した生活をしてこなかったことを残念に思うことです。あなたはそのように感じておられますか。次に『身を転じ』,生き方を変え,それからはエホバの特質を反映するよう,また神の方法で物事を行なうよう努力しなければなりません。そうするなら,神がわたしたちを許してくださり受け入れてくださることを確信できます。―詩 103:8-14。ペテロ第二 3:9。

      20 イエスは,わたしたちがイエスの足跡に従って神に仕えられるよう,模範を示されました。わたしたちはそのことを認めて,イエスの手本に見倣うよう努力すべきです。(ペテロ第一 2:21)ヘブライ 10章7節から分かる通り,イエスは,「ご覧ください,わたしは参りました……神よ,あなたのご意志を行なうために」という態度を取られました。同じように,わたしたちも,神への愛と感謝から神に献身し,魂をこめて神のご意志を行なうべきです。むろん,食べることや眠ること,家族を愛し世話すること,レクリエーションを楽しむことその他,生活上の様々な正常な活動は引き続き行ないます。しかし神に献身するとは,神のご意志と神を崇拝することを最も大切なこととし,どこにいても,また何をしていても,神の助言を守り,イエスが残された手本に従うよう誠実に努力することを意味します。―コロサイ 3:23,24。

      21 神に献身する人はバプテスマを受けてそのことを公に示さなければならないことを,聖書ははっきりと述べています。イエスは追随者にこうお命じになりました。

      「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい」― マタイ 28:19,20。

      バプテスマを受ける人たちが,神の言葉を勉強し,イエスの弟子になった人でなければならなかったのであれば,その人たちがただの乳飲み子でなかったことは明らかです。また,神に献身したことを表わすそのバプテスマは,イエスがヨルダン川でお受けになったバプテスマと同様,水中に完全に没せられるものでした。―マルコ 1:9-11。使徒 8:36-39。

      22 キリストのバプテスマを受けた弟子になるなら,真のキリスト教の充実した幸福な生活を送れるようになります。それは際限のない規則に縛られた生活ではなく,むしろ人格的に成長する満足のいく生活です。霊的な見方を絶えず向上させ,神のみ言葉に対する認識を絶えず深めて,イエスが残された手本に一層近付くことができます。―フィリピ 1:9-11。エフェソス 1:15-19。

      23 これは,日々考えることや行なうことに影響を及ぼします。キリスト教の道を歩んで行くにつれ,神が間もなくあらゆる悪を滅ぼして,『義の宿る新しい天と新しい地』に道を開いてくださるという確信は深まります。すると,クリスチャン人格を培い,来たるべき新秩序に自分の場を得ることを可能にする生き方を追い求めたいという気持ちが一層強くなります。(エフェソス 4:17,22-24)使徒ペテロは霊感を受けて次のように書きました。

      「自分がどんな人間であるべきかを,敬虔で献身的な生活をどのように送るべきかを考えなさい。これ[新秩序]を待ち望んでいるのであるから,あなたがたは,神と平和な関係にある者,神の目から見て汚点や非難すべきところのない者として見いだされるよう,力を尽くして励みなさい」― ペテロ第二 3:11,14,新英訳聖書。

      24 エホバ神を崇拝していることが生活全体に反映するなら,それは本当に喜ばしいことです。多くの人が自分の楽しみだけを考え,快楽を追求する自己中心的な生き方をしている今日ですが,あなたは真の神の道に従って生き,真の神を崇拝することができます。それこそ最善の生き方です。

      [研究用の質問]

      ほとんどの人はだれを第一にしていますか。それはなぜ賢明ではありませんか。(1-4)

      ノアとアブラハムは今日の大多数の人とどのように異なっていましたか。(5,6)

      古代イスラエルの時代に,神は人々をどのように扱われましたか。(7-9)

      神は人々を扱う点でどんな変化を加えられましたか。(10-12)

      神はクリスチャンをどのように組織し指導されましたか。(13-15)

      神がクリスチャンを扱われる方法は,あなたにとってどんな意味を持ちますか。(16)

      神への愛は何を行なうようわたしたちを動かすはずですか。(17-19)

      バプテスマはなぜ重要な段階ですか。それは何を象徴していますか。(20,21)

      あなたは神に献身しましたか。バプテスマを受けたいと思いますか。それはあなたにとって何を意味するでしょうか。(22-24)

  • どんな生き方を望みますか
    幸福 ― それを見いだす方法
    • 20章

      どんな生き方を望みますか

      『今の時代にどうすれば幸福を見いだせますか』と尋ねられたら,あなたはどう答えるでしょうか。『充実した,幸福で永続的な生活を送るには,神の方法で物事を行なうことです』と確信を込めて答えるかもしれません。

      2 これまでの章でわたしたちは,創造者が確かに存在しておられること,創造者は聖書を通してわたしたちすべてが必要としている情報や導きを与えてくださること,そのみ言葉は今日でも実地に役立つことなどを考えました。真のクリスチャンとして生活するなら,ストレスや孤独の問題に対処できます。聖書を導きにすれば,泥酔や不道徳,不正その他のよくない行ないから生じる不快な問題を抱えずにすみます。(箴 4:11-13)金銭に関しても聖書の教えに従った見方をするなら,一層満ち足りた気持ちになり,「真の命をしっかりとらえる」ことができます。―テモテ第一 6:19。

      3 創造者が言われる事柄に注意を払うなら,わたしたちの生活は意味のあるもの,方向の定まったものとなります。神が悪と苦しみを許しておられる理由をわたしたちは理解します。また,今の時代の出来事の中に,聖書預言の成就を見るので,自分たちが現在の邪悪な事物の体制の「終わりの日」にいることを知ります。(テモテ第二 3:1-5)このことは,神が間もなく,政治的腐敗の歴史と,血税によって維持される軍隊とを持つ人間の王国をすべて取り除かれることを意味します。(ダニエル 2:44。啓示 16:14,16)こうして神は,人間が地球を支配しようとする努力を続行できないようにし,生き残った人類をご自分の天の王国によって導かれます。―啓示 11:17,18; 21:1-4。

      それはあなたが望んでいることですか

      4 『楽園の中で,愛の深い,神を恐れる人々に囲まれて暮らすのは,さぞすばらしいことだろう』と大抵の人は言うでしょう。(イザヤ 11:9)しかしそのためには,義に対する愛や,神の規準に従いたいという願いが,現在の生活全体のパターンをつくるほどに強いものでなければなりません。(マタイ 12:34; 15:19)それはあなたが本当に望んでいることでしょうか。この点に関して,キリストの弟子のヤコブは,霊感の下に次のようにクリスチャンたちに書き送りました。

      「あなたがたは世との交友が神との敵対であることを知らないのですか。したがって,だれでも世の友になろうとする者は,自分を神の敵としているのです」― ヤコブ 4:4。

      5 ヤコブはまた『神から見て清く,汚れのない崇拝の方式』には「自分を世から汚点のない状態に保つこと」が含まれていることを強調しました。(ヤコブ 1:27)わたしたちはそうするよう懸命に努力しなければなりません。クリスチャンは,この世の暴力や腐敗,社会的倫理に反する企てや政治や国家主義の行なわれる中で生活していますから,全く影響を受けないでいることはむろん容易なことではありません。非常に敬虔なクリスチャンでさえ,世のならわしに染まらないように努力しながらも,道を踏み外したり,間違いをしたりすることがあります。ですから,クリスチャンは進歩向上する努力を続ける必要があります。(コロサイ 3:5-10)しかし,問題は,わたしたちが何を望んでいるかということです。

      6 これを例えで考えてみましょう。二人の人が食事をしているとします。一人の方はうっかりしてネクタイに肉汁のしみをつけました。もう一人はネクタイを外してそれをわざわざ肉汁に浸します。その人はそうすることを望んだのです。わたしたちはどちらの人のようでしょうか。何かの影響を受けるままになっていたり,何かをすることに決めたりして,世の友となりたい気持ちを示しているでしょうか。それとも神の友となりたい気持ちを示しているでしょうか。

      7 世との交友は多くの形で表われます。ある人は家族や近所の人たちに非常な愛着を感じているために,神が非としておられるのを知りながら,非聖書的な祭りや大酒を飲むこと,ひわいな冗談や人種的偏見などについてその人たちとうまを合わせます。それどころか,そうした事柄を一緒に行なうことさえあります。(ペテロ第一 4:3,4。エフェソス 5:3-5。使徒 10:34,35)神に喜ばれることを望むなら,神の是認を得ることの方が親族によく思われることよりも大切でしょう。―ルカ 14:26,27; 11:23。

      8 同様に,娯楽の選択によっても,世の友となることを望んでいるかどうかが分かります。初期クリスチャンたちは剣闘士の残虐な戦いを見に行ったり,不道徳な事柄を呼び物にする劇を見たりはしませんでした。今日のわたしたちはどうでしょうか。スポーツやテレビ番組,映画や読み物などについて,自分の好みを考えてみなければなりません。神が注意しておられる事柄を好むような状態にあることが分かったなら,自分の好みを変える努力が必要です。クリスチャンの家庭で育った若者や,長い間聖書を研究しているクリスチャンでさえ,この世の魅力に影響されないとは言えません。

      9 神の友となるか世の友となるかは生死にかかわる問題です。(ヨハネ第一 2:15-17)両方の友でいることができないのは,道路の分岐点に来た人が,二つの分かれ道を同時に歩いて行くことができないのと同じです。

      10 エリヤの時代に,一部のヘブライ人は周囲の国々のバアル崇拝の影響を受けました。それらの人は,真の神エホバとある程度関係を持ってはいましたが,エホバに完全につき従っていませんでした。彼らは「二つの異なった意見の間でのろのろしている」と,エリヤは言いました。彼らはエホバとエホバの道につき従うかどうかを決めなければなりませんでした。それは生死にかかわる選択でした。―列王上 18:21-40,新。申命 30:19,20。

      11 自分が本当に望んでいるのは何か,それをいつまでも決めないでいることはできません。西暦1世紀に,使徒ペテロはクリスチャンたちに,地上の悪が滅ぼされる『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留める』ことを強く勧めました。彼らが抱いている緊迫感は,キリスト教の音信の熱心な宣明を含む「聖なる行状と敬神の専念」に表われていなければなりませんでした。(ペテロ第二 3:11,12)模範的な結婚生活を送ったクリスチャンもいれば,「気を散らすことなく絶えず主に仕えられる」よう独身を選んだクリスチャンもいました。―コリント第一 7:29-35。

      12 クリスチャンの望む生き方が1世紀において重要なものになっていたなら,まして現在は,はるかに重要な問題と言わねばなりません。神の王国はすでに天で支配しており,神がキリストによって諸国家を打ち砕きサタン悪魔を縛るまでの『時は短い』ことが分かります。(啓示 12:12; 19:11-20:2)ですから,どんな生き方を望むか,それを決めるべき時は今です。

      神が与えてくださる生活

      13 わたしたちが今どんな生き方を選ぶかによって,来たるべき新秩序で神が与えてくださる生活を楽しめるかどうかが決まります。

      14 まずすぐに考えられるのは,復興される楽園で享受する物質面の祝福の数々です。アダムとエバは,最初の楽園にいたとき,栄養豊かな食物を十分に与えられていました。(創世 2:9,16)ですから,新秩序においても,健康的な良い食物に事欠くことはないでしょう。―詩 72:16; 67:6。

      15 アダムとエバは健康に恵まれていました。それは神が彼らを完全な者に創造されたからです。このことは,病気による痛みや悲しみの涙が新秩序では過去のものとなるという聖書の言葉を裏書きするものです。(啓示 21:1-4)人類は向上して身体的に次第に完全になるのです。

      16 色々な問題に妨げられることも,70年ほどで死んでしまうということももはやないので,知識や経験の様々の分野を探求することができる感激を味わえます。また,自分の才能を最大限に生かすことができますし,自分にあるとは思ってもみなかったような才能を伸ばすことさえできるでしょう。料理,家を建てること,家具作り,室内装飾,庭造り,楽器の演奏,洋服の仕立て,知識の広大な分野を研究することなど,将来行なえる,意欲をそそる有益な事柄を挙げれば際限がありません。エホバはかつて,「わたしの選ぶ者たちは自分の手の業を最大限に用いるであろう」と言われました。―イザヤ 65:22,新。

      17 聖書によると,エデンの園の動物の食べ物は植物でした。(創世 1:30)ですから,動物がもはやどう猛でも危険でもなくなるように神が取り計らってくださることを期待できます。したがって動物はお互いに,また人間とも仲良くなることでしょう。子供もおとなも心ゆくまで動物と遊び戯れることでしょう。―イザヤ 11:6-8; 65:25。ホセア 2:18と比較してください。

      18 しかし,聖書は新秩序における物質面の祝福を言い尽くしているわけではありません。創造者であられるエホバは人間の必要を知っておられます。聖書は神についてはっきりとこう述べています。「あなたはみ手を開いて,生きているものすべての願いを満たしておられます」― 詩 145:16,新。

      19 聖書は適切にも,復興された楽園における幸福に寄与するものが,物質面の繁栄や祝福ではなく,霊的かつ精神的な事柄であることを強調しています。例えば,わたしたちは次のような状態になるときを楽しみにして待つことができます。

      「真の義の働きは必ず平和となり,真の義の奉仕は,定めのない時に至る平穏と安全である。そしてわたしの民は,平和な居どころに,全き確信の持てる住居に,かき乱されることのない憩いの場に必ず住む」― イザヤ 32:17,18,新。

      20 たとえ健康に恵まれ,立派な家に住み,食物がふんだんにあっても,争い・緊張・ねたみ・憤りなどに囲まれているなら,真の満足は得られません。(箴 15:17; 21:9)しかし,来たるべき楽園に住むことを神から許される人々は,そうした人間的な弱点を克服しようと良心的に努力してきた人たちです。そういう人々が,愛,平和,親切,自制などを含む神の霊の実を培う世界的なクリスチャン家族を作り上げるのです。(ガラテア 5:19-23)そして,神の特質に一致した人格を身に着けるよう誠実に努力するのです。―エフェソス 4:22-24。

      エホバを喜ばせ,エホバを賛美するために生きる

      21 予告されている物質面や霊的な面の祝福は,新秩序を待ち望む理由を与えてくれます。しかし,それらを第一の理由として神を崇拝し,クリスチャンの生活を送るとすれば,自分が望むことや自分が得ることのできるものをまっ先に考える,現代の自分第一主義の世代とある程度似ていることになります。

      22 むしろわたしたちは,神がそうすることを望んでおられるので,現在もまた将来も,クリスチャンとして生きたいという強い願いを培うべきです。自分よりも神を第一にすべきです。イエスは,「わたしは参りました,……神よ,あなたのご意志を行なうために」,「わたしの食物とは,わたしを遣わしたかたのご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです」と言って,わたしたちが持つべき見方をお示しになりました。(ヘブライ 10:7。ヨハネ 4:34)わたしたちは,神がしてくださったことに対する感謝の念に動かされて,神を第一にするはずです。―ローマ 5:8。

      23 適切なことに,聖書はわたしたちが受ける報いや祝福を最重要事として強調していません。むしろ,神のみ名を立証すること,神の属性や神が行なわれた事柄のゆえに神を賛美することの正しさを強調しています。ダビデは次のように書きました。

      「王なるわたしの神よ,わたしはあなたをあがめます。あなたのみ名を定めのない時に至るまで,永久にほめたたえます。エホバは偉大であり,大いに賛美されるべき方。その偉大さは探りがたい。あなたの尊厳の栄光に満ちた光輝と,あなたのくすしいみ業に関する事柄を,わたしは深く自分の思いに留めます」― 詩 145:1,3,5,新。

      24 生活の中で神を第一にし,神を積極的に賛美することは,イエスにとってもダビデにとってもふさわしいことでした。それはわたしたちにとっても極めてふさわしいことです。そして,これに加えてクリスチャンとしての実際的な生き方をするなら,わたしたちは,現在だけでなく将来も永遠にわたって幸福を見いだしてゆくことができます。

      [研究用の質問]

      神の方法で物事を行なうことはなぜ幸福を見いだすための最善の方法ですか。(1-3)

      世の友となることを望んでいるか,それとも神の友となることを望んでいるかを,なぜ決める必要がありますか。(4-6)

      人が世との交友を望んでいることはどんな点に表われることがありますか。(7,8)

      自分が本当に何を望んでいるかを決めるのはどれほど重要ですか。(9-12)

      神は新秩序でどのような生活を与えてくださいますか。(13-18)

      復興される楽園について約束されている最も重要な祝福は何ですか。(19,20)

      真の幸福はどうすれば見いだせますか。(21-24)

      [189ページの図版]

      自分の才能を伸ばし,それを十分に生かす時間がある

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    幸福 ― それを見いだす方法
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