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これが幸福への道ですか目ざめよ! 1979 | 11月22日
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これが幸福への道ですか
幸福を追い求めて極端に走る人は少なくありません。例えば,カテリーナ・フィエスキの場合を考えてみましょう。この女性はイタリアの裕福な家の出で,聡明な,非常に信仰心の厚い人でした。結婚に失敗して抑うつ状態に陥った結果,この若い婦人は,社会的に高い身分にあるために経験できたお祭り騒ぎや楽しみで気持ちを紛らすようになりました。
しかし,カテリーナが26歳になったとき,事態が変化しました。その時,この若い女性は,“回心”と呼ばれるものを経験したのです。その後,この人は「多大の難行苦行を積み,自分の感覚すべてを克服した。……自分の本性が何かを欲していることに気づくやいなや,彼女はすぐにそれを捨てた。……粗い毛織の[外衣]をまとい,肉も,他の一切の自分の好物も口にしなかった。生であれ,乾燥したものであれ,果物も口にしなかった。……そして,あらゆる人に大いに屈従する生活を送り,自らの意志に反する事柄であれば,何であれそれを常に行なった」。
この話は,“ジェノヴァの聖カタリナ”として知られる人の伝記から取ったものです。自らを責め苦に遭わせる理由を問われて,この人は,「私にはわかりません。でも,内なるものに引き寄せられてそれをしているように思えます。……それは,きっと神様のご意志なのだと思います」と答えました。この女性は,自らを責め苦に遭わせることが,神の恵みと真の幸福を得るための清めの方法であると考えたのです。
“十字架の聖ヨハネ”として知られるスペイン人も,同じような見解を抱いていました。この人は,とりわけ,『一番味のよいものではなく,一番味の悪いものを,最も心地よいものではなく,むかつかせるものを,最も高く,最も貴いものではなく,最も低く,最もいやしいものを,あらゆるものの中で最善ではなく,最悪を』求めるように人々に勧めています。そして,次のように忠告しました。「自らをさげすみ,他の人々からもさげすまれることを望みなさい。自分に不利になるように話し,他の人々からも同じようにされることを望みなさい。自分を低く評価し,他の人々からそうされるときにはそれをよしとしなさい」。同様の見解を支持する人々は今日でも見られます。
しかし,そのようにして極端に自らを辱めることが,真の永続する幸福を見いだす道なのでしょうか。聖書によるとそうではありません。使徒パウロは次のように書き記しています。
「あなたがたはキリストと共に死に,この世に属する基礎的な考えの範囲を超越したのではありませんか。ではどうして,いまだにこの世の生活を送っているかのように振る舞うのですか。あなたがたはどうして,『これを手にしてはならない,あれを味わってはならない,ほかのあれに触れてはいけない』などというさしずを人々から受けるままになっているのですか。このすべては,使われてしまえば,すぐに滅びなければならないものです。それは人間の禁止命令や教えにすぎません。確かにそれは,その押し付けられた信心深さ,そして苦行,体に対する厳格さのゆえに,知恵の様を取ってはいますが,肉欲と闘う点では全く役に立ちません」― コロサイ 2:20-23,新英訳聖書,欄外。
極端な「苦行」は見せかけのもので,「知恵の様を取って」いるにすぎません。それは,神を喜ばすことにも,幸福を得るのに役立つことにもなりません。
では,主に快楽を求めて生活するという,もう一方の極端はどうでしょうか。それが,生きる純粋の喜びを得る道ではないでしょうか。多くの人はそのように考えています。そうした人々の,快楽を追求する並外れな行為の幾つかは,次の記事の中で取り上げられています。
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遊ぶことに全力を傾ける人々目ざめよ! 1979 | 11月22日
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遊ぶことに全力を傾ける人々
その結婚式は,幾百人もの見物客を集めました。結婚の行列が進んで行く間,見物人たちは結婚行進曲を歌いました。市長は言葉を選びながら,その式典は普通のものとは幾分趣を異にすると述べましたが,その理由は出席者すべての目に明らかでした。それは人間の結婚式ではなく,二匹のヤドカリの結婚式だったのです。
この催しはすべて,余暇を楽しく過ごす方法として,米国ニュージャージー州オーシャンシティーの住民たちが考え出したものです。これは,今日,その度合いを強める,余暇に取りつかれた状態を浮き彫りにしています。遊ぶことに全力を傾けようとする人は少なくありません。
米国では,レジャー産業が産業中第一位を占めている,と言う人もいます。生活費の高騰をしり目に,レジャーにつぎ込まれたお金は,1965年の583億㌦(約11兆6,600億円)から1977年の1,600億㌦(約32兆円)へと増加しました。米国商務省の娯楽問題担当官は,「アメリカはレジャー精神を発達させている。現在のこのブームは衰えるきざしを見せていない」と述べています。1985年には,アメリカ人は全体として,年間3,000億㌦(約60兆円)をレジャーにつぎ込むものと考えられています。
新手の遊びを見いだす
近年になって,人々が仕事から離れている時間を費やす方法は,驚くほど増加しました。例えば一つのグループは,“古代キャンプ”なるものを造りました。そこでは,1820年以前に作り出された道具しか使うことが許されません。キャンパーたちは,フレンチ・アンド・インディアン戦争当時の特色を反映した衣装で身を包み,二週間を過ごします。
さらにまた,「独創的アナクロニズム協会」というのがあります。余暇の時間に,その会員たちは中世にいるかのような服装や様式で生活します。会員たちは四つの“王国”に分かれ,その王国はさらに男爵領や州などの小さな地域に分けられます。その活動の中には,武器はなまくらであるとはいえ,完全武装して行なわれる戦闘も含まれています。実際の武器で打たれたら,傷だけですんだか,あるいは殺されていたかを判定する審判も選ばれます。
別の新手の遊びは,“浴槽<バスタブ>レース”です。ニューヨーク州のサラナク湖では,人々が本物の浴槽に船外機を取り付け,うなりを上げて湖面を走り回ります。同じような活動をしているのは,米国ミズスマシ・レース協会です。しかしこの団体は,波間をかき分けて進むのに浴槽ではなく,古くなって捨てられたフォルクスワーゲンの“カブト虫”を使います。屋根を取り外し,車に防水処置を施してから,駆動軸にスクリューを取り付けます。
余暇に対してこれほど関心が寄せられるのはなぜか
今日,余暇の活動にこれほど多くの関心が寄せられているのはなぜでしょうか。中には,予想もしないような答えを出す人もいます。メリーランド大学の余暇研究学部のジョン・W・チャーチル博士はこう述べています。「労働の意義が変化してきた。我々には,生産的でありたい,物事を成し遂げたり,生み出したりしたいという強い衝動があると思う。これはごく基本的な必要であろう。この必要を自分の仕事で満たせない人々が非常に多いので,いきおい余暇だけが成功を収めることのできる場になる」。チャーチル博士は,余暇に重きを置く現在の風潮を,「生産性へ向けての転換」と見ており,生産性を下げる傾向とは見ていません。
今日,余暇に対する関心が高まっている別の理由は,多くの人が収入や地域社会での地位を成功の尺度とはみなさなくなったことにあります。そのかわりに,とっぴな余暇の活動を通して作り上げられる自己の姿をもって成功とみなすのです。そうした人々の願いは,ただ単に遊ぶことではなく,めざましい遊び方をして認められることです。
余暇に対してこのように大きな関心が寄せられているより根深い理由は,最近見られる,“自己”に対する関心の爆発にあります。しかし,自己に関心を向けてはいけないのでしょうか。楽しみを持つことによって自己に対する関心を表わすのは間違っていますか。必ずしもそうではありません。自分に対するある程度の関心や健全なレクリエーションは有益です。しかし,次の記事の示すとおり,娯楽はしばしば手に負えないものになることがあります。
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遊びが割りに合わなくなるとき目ざめよ! 1979 | 11月22日
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遊びが割りに合わなくなるとき
ある人々の考えとは反対に,聖書は楽しく時を過ごすことを非としていません。イエスは,最初の奇跡として,底を突いたぶどう酒を補充し,結婚の宴の歓びを増し加えました。(ヨハネ 2:1-11)イエスがしばしば宴席に連らなっておられたことは,その反対者たちが大酒や大食という偽りの口実をもってイエスを非難した事実からも明らかです。―マタイ 11:19。
聖書は生活を精一杯楽しむように歓めています。賢明な一聖書筆者はこう述べます。「わたしは歓びをほめた。人間にとって,食べて,飲んで,歓ぶことに勝るものは日の下に何もないからである。またそれは,真の神が日の下で彼らにお与えになった,命の日の間にその労苦によって当人に伴うべきものである」― 伝道 8:15,新。
しかし,余暇や楽しみのための活動を追求し,それが過度に及ぶ場合はどうでしょうか。快楽を追い求めることが,人の生活の主要な関心事になる場合はどうですか。そのような場合,遊びに,休息や気分転換,楽しみなどの望ましいおまけが付くことはありません。むしろ,当人や他の人々に害が及びかねません。
当人に及ぶ害
多くの人は,過度の飲酒にふけって余暇を過ごします。聖書の箴言には,そうした行為の及ぼす害が生々しく描写されています。
「飲み過ぎる者,極上の酒を試さずにはいられない者を示せ。そうすれば,惨めで,しょげ返り,いつもいざこざを起こし,いつも不平を言っている者をご覧にいれよう。その者の目は血走り,受けずに済んだかもしれない打撲傷を負っている。ぶどう酒に誘惑されてはならない。たとえ,それが濃い赤色で,杯の中で泡立ち,なめらかに下ってゆくとも。翌朝,あなたは毒へびにかまれたような思いをする。あなたの目の前には怪しい光景が浮かび,はっきりと物を考えることも,話すこともできなくなる。あなたはあたかも,海に出て,船に酔い,波にもまれる船のはるか上の張り綱で揺られているような気分になる。あなたは言う,『わたしは打たれたに違いない。わたしは打ちのめされたに違いない。でも,それを覚えてはいない。どうして起きられないのだろう。迎え酒が必要だ』」― 箴 23:29-35,今日の英語聖書。
とはいえ,アルコールの乱用の有害な結果は,快楽に重きを置く余り生じる害のうち,当人に累を及ぼすものの一分野に過ぎません。ジョン・ノルトハイマーは,ニューヨーク・タイムズ紙の中で次のように伝えています。「余暇の時間と中流階級に広く分配された富のおかげで,英気を養うこと,運動すること,あるいは単にスリルを味わうためレクリエーションの名の下にある程度の危険に身をさらすことを求めるアメリカ人の数は急激に増加している」。
同記者は,「メトロポリタン生命保険会社の統計家の計算によると,毎年約1万人のアメリカ人が,楽しみや冒険のため面白半分に何らかの危険を冒し,その結果として死亡する。そしてその数字は増加の一途をたどっている」。
「休暇中に神経衰弱になる」人々
余暇の時間は精神面の問題を引き起こすこともあります。パレード誌(1978年6月11日号)の一記事は,その冒頭で次のように述べています。「どうして休暇中に神経衰弱になる人々が多いのだろうか。休暇の時期のどんな点が,精神的な変調をきたすきっかけになるのだろうか。(オーストリア)インスブルック診療所のハインツ・ブロコプ博士は,その乱れの原因を,多くの行楽客の孤独感,そして新しい環境に順応する点での問題,退屈感,休暇の準備の後の幻滅などに帰している。同博士はこう述べている。『毎年,世界各地からオーストリアを訪れる行楽客は250万を超え,そうした人々は一応休息を取り,くつろぐために来ることになっている。ところが,休息とくつろぎだけは得られなかったというような人が大勢押しかけるので,私は大忙しになる』」。
単に自由な時間があるというだけで,幸福になれるわけでないのは明らかです。その上,人々が余暇の時間を過ごす方法の多くは,心身両面の乱れを引き起こします。残念なことに,余暇の活動から生じる悪い結果が当人を傷付けるだけでは終わらないことも珍しくありません。
他の人に及ぶ結果
人が余暇の時間に行なう事柄は,他の人々に影響を及ぼします。一例として,多くの土地で観光のもたらしている結果について考えてみるとよいでしょう。観光客が来れば,ホテルやプール,キャンプ場,そうした場所に行くための道路などが必要になりますから,多くの場合に,特定の地域の環境や経済が打撃を被ります。著述家ガイ・マウントフォートは次のように説明しています。
「生物学的に貴重な沼沢地は干上がり,川の流れは変えられ,土地の起伏はきれいにならされ,自然の植物は破壊されるか,もっと見ばえのする移植された種類に取って代わられる。ほどなくして,そこは他の人工的な行楽地と全く変わらなくなる。つまり,現代的で,機能的で,人為的な楽しさはあるが,魅力も風情もない所となる。土地の人に幾らか勤め口が提供されるが,大抵,短期滞在の専門労働者が移入され,利益の大半は外国の投資家や国内の他の地域へと流れて行ってしまう」。
自然の景観をそこなうことを何とも思わない行楽客は少なくありません。マウントフォートによると,ガラパゴス諸島では,「高さ30㌢になる文字をも含む無数の落書きが,多くの岩壁やがけの外観を完全にそこなってしまった」とのことです。それに加えて,不注意から来る空気や水の汚染,酒気帯び運転,その他快楽を追求する人々の過失などのもたらす悪影響があり,その結果は実に嘆かわしいものです。
どうすれば,快楽の追求にはめをはずして,有害な結果を招かないようにできるでしょうか。次の記事は,幾つかの有益な指針を与えてくれます。
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あなたは生活から真の喜びを得られます目ざめよ! 1979 | 11月22日
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あなたは生活から真の喜びを得られます
生活から楽しみを得たいと思わない人はいません。人々は大抵,余暇の時間に行なう様々な形のレクリエーションによって,その欲求を満たそうとします。レクリエーションが心身両面に益があるということを認めないわけにはゆきません。
しかし,近年,賃金が上がり,余暇の時間が増えた結果,多くの人は興味深い結論に達しました。そうした人々は,“良い生活をする”ことが問題を解決することも,長続きする幸福をもたらすこともないのを,経験から学んだのです。
では,どうすれば生活から真の喜びを得られるのでしょうか。ここで,ソロモン王の試みた実験を考慮してみるのは有益です。ソロモンは,ほとんどの人が真の幸福を得られずにいる理由を注意深く調べました。神の霊感の下に,ソロモンは自分の経験とそこから導き出した結論を伝道の書の中に書きました。快楽を追い求めて幸福を見いだそうとすることについて,ソロモンはこう書き記しています。
「わたしはぶどう酒で自分の肉体を元気付けて,心で探った。一方,わたしは知恵で心を導いていた。人間の子らにとって,彼らがその命の日数のあいだ天の下ですることにはどんな良いことがあるのかを見得るまでは,実に愚かしさを捉えるために。わたしはより大きな事業に従事した。自分のために家々を建て,自分のためにぶどう園を設けた。自分のために園と庭園を造り,その中にあらゆる果樹を植えた。自分のために水の溜め池を作って,樹木の生い茂った森林にそれでかんがいをさせた。わたしは下男や下女たちを取得し,家の者の子らを持つようになった。また,わたしよりも先にエルサレムにいただれよりも,家畜,牛や羊をおびただしく持つようになった。わたしはまた,銀や金を自分のために,そして王たちや管轄地区の特殊な資産を蓄積した。わたしは自分のために男の歌うたいや女の歌うたいと,人間の子らの無上の喜び,つまり婦人,いや婦人たちを作った。そしてわたしは,わたしより先にエルサレムにいただれよりも偉大で,増し加わった者となった。その上,外ならぬわたしの知恵はわたしのものとしてとどまった。そして,わたしの目の求めるものは何でも,わたしは自分の目から遠ざけなかった。わたしはどんな歓びも自分の心に得させないようにしたりはしなかった。わたしの心はわたしのすべての骨折りゆえに喜びに満たされたからであって,これはわたしのすべての骨折りからのわたしの分となった」― 伝道 2:3-10,新。
この聖書記述者は,アルコール飲料を飲むことからもたらされる幸福感を注意深く調べました。今日では,麻薬の乱用によっても,そうした感覚が追い求められています。また,巨万の富を蓄積し,自分の周りをパラダイスのように美しくしました。えり抜きの音楽による娯楽や「婦人,いや婦人たち」から得られる喜びを含むあらゆる種類の余暇の楽しみをさぐりました。
自分の調査が徹底したものであることを指摘して,ソロモンは次のように書いています。「そしてわたしは,まさしくわたしは身を翻して,知恵と狂気と愚かしさを見た。というのは,王の後に入って来る地の人に何ができるだろうか。人々がすでにしたことだけである」。(伝道 2:12,新)要点はこうです。ソロモンの調査は徹底したものでした。王であったので,十分の時間と資力を持ち合わせていました。王と比べれば微々たる資産しか持ち合わせないのであれば,『王の後に入って来る地の人に何ができるでしょうか』。普通の人はその同じ分野の事柄を幾らか扱えるだけで,人々がすでにしたことをしているにすぎません。快楽の追求によって真の幸福を得られると信じて疑わない人々に対して,この王は,『わたしはすでに行き着くところまで行ってみました。それはうまくゆきません』と答えます。
ここでソロモンが快楽の追求はすべて時間のむだであるとは言っていないことに注目するのは重要です。むしろ,ソロモンは,自分のした事柄からある程度の喜びを得たことを認めています。(「わたしの心はわたしのすべての骨折りゆえに喜びに満たされた(の)であって,これはわたしのすべての骨折りからのわたしの分となった」。)しかし,ぶどう酒や富,娯楽,その他同様の事柄から得られる快楽に,永続する幸福を見いだせるかどうかに関しては,ソロモンはどのように判断していますか。ソロモンは率直にこう答えています。「けれどもわたしは,まさしくわたしは,自分の手の行なった自分のすべての事業と,成し遂げようとして骨折ってなした骨折りとを顧みると,見よ,すべては空で,風を追うようなものであり,日の下には益となるものは何もなかった」― 伝道 2:11,新。
この意見を,消極的で,厭世的なものとみなしてはなりません。むしろこの意見は現実的なものです。そして幸福に至ることのない方法で幸福を追い求め,人生の幾多の歳月をむだにしないよう助けるものです。その一方で,同じ聖書記述者は,人生から真の喜びを得る方法について,積極的で,優れた勧めを与えています。提案されている事柄の中には,仕事と余暇の釣合いを正しく取ることがあります。
骨折って働き,『良いことを見る』
快楽を強調しすぎることが「空で,風を追うようなものであ(る)」と述べた後,賢明な聖書記述者はさらにこう述べています。「人には,食べて,まさしく飲み,その骨折りゆえに魂に良いことを見させるより良いことは何もない。これもまた,わたしは,まさしくわたしは,これが真の神のみ手によるのを見た。というのは,だれがわたしよりもよく食べたり,飲んだりするであろうか」。(伝道 2:11,24,25,新)確かに聖書は骨折って働くことを推賞しています。「愚鈍な者は両手を組み合わせて[働くことを拒み],自分の肉を食べている」。(伝道 4:5,新)しかし,勤労と『良いことを見る』,つまり自分の労働の実を楽しむこととの釣合いを保つ必要があります。霊感を受けた筆者はこう述べています。「一握りの休息は二握りの骨折りまた風を追い求めることに勝る」― 伝道 4:6,新。
毎週,長い時間残業し,場合によっては二つの職を持っているような人を,ご存じかもしれません。特別な必要が生じた場合や緊急な支出をまかなわなければならない場合などは仕方がないかもしれませんが,起きている時間のほとんどすべてを仕事に費やす人の多くはその必要がありません。聖書は,できる場合に必ず,「一握りの休息」を日課に加えるよう勧めています。食べたり,飲んだり,愛する者と楽しい会話を交わしたりすることを楽しむために欠かすことなく時間を取るのです。この点は,次の言葉の中に,美しく言い表わされています。
「行って,歓びをもってあなたの食物を食べ,楽しい心をもってあなたのぶどう酒を飲め。既に真の神はあなたの業に楽しみを見いだされたからである。どんな場合にも,あなたの服が白くあり,あなたの頭に油の欠けることがないように。日の下で彼があなたに与えられた,むなしい命の日の限りあなたのむなしいすべての日々にわたり,あなたの愛する妻と共に,命を見よ。それが命と,あなたが日の下で骨折って携わっているその骨折りの点でのあなたの分だからである」― 伝道 9:7-9,新。
伝道の書から得られる別の重要な教訓は,この点と密接な関係を持っています。
現在を見失ってはならない
過去を回想し,将来について考える能力は,人類に対する神からの賜物です。将来をいっそう魅力的なものにしているのは,『義の宿る新しい天と新しい地』の新秩序に関する聖書の保証です。(ペテロ第二 3:13。啓示 21:1-5)そのような祝福を待ち望むのは少しも悪いことではありません。
しかし,人間には過去や将来のことを気にかけるあまり,現在を無視する傾向があることにお気付きかもしれません。『古き良き時代』をしのんでばかりいても,現在の物事のあり方に対する不満を際立たせるにすぎません。聖書は次のように述べてそうした傾向に対して警告を発しています。「『先の日々がこのごろよりも良かったのはどうしてか』と言ってはならない。あなたがこれを尋ねたのは知恵によるのではないからである」。(伝道 7:10,新)幸福を得るための自分の希望すべてを将来に託すのは,それと同じほど無分別な行為です。
生活から真の喜びを得るためには,現状を現実的に評価しなければなりません。ソロモンはこの点を次のように言い表わしています。「目で見ることは魂の歩き回ることに勝る。これもまた空で,風を追うようなものである」。(伝道 6:9,新)物質的には自分の望むものすべてを手にしている裕福な人々でさえ,自分の内に,富では満たすことのできない,やみがたい魂の欲求があるのを認めます。満たされない欲求は,言わば『歩き回り』,絶えず異なった環境を求めるよう人を駆り立てます。人のお決まりの日課を時折り変化させるのは有益ですが,中には自分の住居や勤め先をひっきりなしに変え,絶えずあちらこちらへ飛び回り,幸福を求めて空しい探索を続けるという極端に走る人もいます。聖書によると,「目で見ること」のほうがはるかに優れています。真に賢明な道は,自分が今見ることのできるもの,つまり現在持っているもので満足し,それを楽しむことです。この点に関して,生活から喜びを得る方法を熟考した二人の人の意見を検討するのは有益でしょう。
『今わたしたちの手中にあるのはこの瞬間なのです』
マコールズ誌(1978年5月号)には,子供たちが成人して自活するようになった後,郊外での生活を捨てて,辺ぴな漁村へ移り住んだ婦人の経験談が掲載されました。この婦人は次のように記しています。
「わたしたちの社会には,今を生きる方法を教えてくれるものが全くありません。この社会のあらゆるものはこの問題を避けて通っています。学校に入った時からして,親や先生方は,さあ次は? 用意をして,と言い続けます。大学へ入ると,さあ次は? という圧力は大きくなります。わたしたちは幼いころから,先のことを考えるよう慣らされ,その考え方をどこへ行っても当てはめるのです。これは考え方の型になりました。わたしたちはどこかへ到達することを待ち望みます。どこでもいいのです。どこであろうとそれは大した問題ではありません。わたしたちは,一緒にいると生活がずっと豊かになるような,不思議な魅力を持つ“人”を見いだすすばらしい日を待ち望みます。それが終わると,翌年の休暇や子供が大きくなってから自分たちのする事柄や退職のことを望み見ます。わたしたちはいつも宙ぶらりんの状態にあって,自分たちを魔法によるかのようにいやし,変化させてくれるはずの未来が到来してみると,今日と少しも変わらないことが明らかになるのです。
「もっと大きな喜びや意識をもって,また高められた自覚をもって生き,それによって一刻一刻を掘り下げ,それを満足感で満たすという異なった種類の生活を育むことができるはずです。いや,できなければなりません。わたしたちは一刻一刻を軽く見て,明日に目を向けますが,今わたしたちの手中にあり,可能性を秘めて震えているのは,この瞬間であって,まだ訪れていない将来ではありません。一刻を味わい,注意を払ってその瞬間を生きてはじめて,わたしたちは本当に生きていると言えるのです」。
「成功は行程」
ウェイン・W・ダイアー博士は,45分間の黙想を通して同様の結論に達しました。自著,「自分で自分の糸を引く」の中で,ダイアーは次のように書いています。
「もうずいぶん前のことになるが,わたしの人生で最大の転換期となったのは,代用教員として,自習をしている生徒を監督して45分間を過ごしたときのことである。その部屋の後ろの掲示板に,『成功は行程であり,目的地ではない』と書いてあった。
「わたしは45分の間ずっと言葉を熟考し,その言葉を自分の心の奥底まで染み透らせた。実のところその日まで,わたしは人生を,目的と結果の連続と見ていた。卒業,卒業証書,学位,結婚,子供の誕生,昇進,その他類似の出来事はいずれも目的地であり,わたしは停留所から停留所へと進んでいた。
「わたしはその場で,その部屋で,これからは目的地に達したことを基準にして幸福を測るのをやめ,自分の人生全体はやむことのない行程で,その一刻一刻は自分が楽しむためにあるのだ,とみなすことを心に誓った。自習時間を監督するその貴重な割当のおかげで,わたしは人生で最も大切な教訓の一つを学んだ。すなわち,事の大小を問わず,途中で成し遂げた事柄で自分の人生を評価してはいけないということである。そうした事柄で人生を評価するなら,絶えず別の目的を追い求め,実際に満足することを決して自分に許さず,欲求不満に陥ることは必至である。何を成し遂げても,次に成し遂げる事をすぐに計画して,自分がどれほど成功し,どれほど幸福であるかを測定する基準を手にしていられるようにしなければならない。
「むしろ,目を覚まし,自分の進む道筋で出会うすべてのものに感謝することだ。あなたの楽しみのためにそこにある花をめで,日の出やかわいらしい子供,笑い声,雨,小鳥などに目をとめるとよい。いつまでたっても将来にある,気をゆるめてもよい時まで待つのではなく,すべてを味わい尽くすのである。確かに,成功は ― そして人生そのものも ― 一度に一つずつ,物事を楽しむための一刻一刻の積み重ね以外の何物でもないのである。この原則を理解すると,成し遂げた事柄を基準にして自分の幸福を評価しなくなり,人生の全行程が幸福を与えるものであるとみなすようになる。つまり,かいつまんで言えば,幸福へ至る道はない,なぜなら幸福こそ道であるからだ」。
「敬神の専念」の重要性
現在受けている祝福を見失わないことに心を定めるなら,あなたの生活は必ずやこれまで以上に幸福になります。しかし,人生から最善のものを得るには,さらに別の事柄が求められます。どうしてそう言えますか。
使徒パウロはそれを言い表わして,こう述べています。「確かに,自ら足りて敬神の専念を守ること,これは大きな利得の手段です」。(テモテ第一 6:6)求められている特質は「敬神の専念」です。それは,創造者に対する畏敬の念を表わす生き方です。それは仲間の人間に対して神を敬うような仕方で行動することに表われます。敬神の専念をもって生活したいと願う人は,聖書を注意深く研究するために時間を取らなければなりません。そうすれば,神の是認される種類の生活の仕方を学ぶことができます。
神のご意志を学び,自分の生活をそれに調和させることは,本当に大きな利得の手段となります。そのような道は,新秩序での将来の命へと至ります。そこでは,「もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」と記されているような状態が行き渡ります。―啓示 21:4。
現在について言えば,聖書の原則に従って生きるなら,神の恵みと,最善の人間関係とを得ることになります。クリスチャンの「新しい人格」をしるし付ける,同情心や親切,謙遜,忍耐,寛大さなどを示すなら,人々はそれに答え応じ,関係者すべての生活が幸福になります。―ルカ 6:38。コロサイ 3:10-14。
真の幸福は単なる快楽の追求によっては達成されません。聖書は,毎日,骨折って働くだけでなく,「一握りの休息」を取り,自らの労働の実を楽しむよう勧めています。それに加えて,聖書は,神について正確に学び,聖書の原則に従って生活することの重要性を強調しています。
ソロモンは結論としてこう述べています。「すべてが聞かれたからには,事の結論はこうである。真の神を恐れ,そのおきてを守れ。これが人の務めのすべてだからである」。(伝道 12:13,新)あなたは,自分の生活を聖書の指針に従って形造り,この務めを果たしますか。そうすれば,満足感の伴う心の平安を得られるでしょう。これこそ,生活から真の,永続的な喜びを得る唯一の方法です。
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今や「目的のない人生」は過去のものとなる目ざめよ! 1979 | 11月22日
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今や「目的のない人生」は過去のものとなる
聖書には,人生から満足と幸福を得るよう人々を本当に助ける力がありますか。米国西部から寄せられた次の経験は興味深いものです。
「真理を知る前,私は,知的,あるいは霊的な事柄よりも,物質的な事柄に心を奪われて生活していました。人生の目的はできる限り多くの物を得ることにあると考えていました。神や聖書にはこれといって目を向けませんでしたが,それでいながらそのような生活が非常に満足のゆかない,失意をもたらすものであることに気付いていました。大学に二年間通い,マイホーム,新型のライトバン,高価なスポーツカーなどを購入しましたが,それでも自分の生活に満足や幸福を感ずることはありませんでした。自分がこの先40年間同じことを繰り返し,最後に墓に行きつくことは目に見えていました。
「それに加えて,私は結婚生活の面で問題を抱えていました。私たち夫婦は,結婚問題相談所をはじめ精神分析医にまで助けを求めましたが,私たちの結婚生活は少しも改善されませんでした。
「そんなとき私の職場で,極超真空システムを扱える熟練溶接工のパートタイムの勤め口ができました。その同じ週,必要とされる経験を持ち,パートタイムの仕事を捜している人から会社に電話がありました。会社の管理者も驚いて,その人にどうしてその勤め口があることを知ったのかと尋ねました。その人は,勤め口があると分かっていたわけではなく,職業別電話番号簿でたまたま会社の名前を見付けたにすぎないと言いました。ほかのところではパートタイムの仕事が見付からなかったので,この仕事が見付かったことを喜んでいました。
「その人はエホバの証人であることが分かりました。私はこの人がどうしてパートタイムの仕事しかしないのか好奇心を抱きました。私は二つの職を持っていながら,なおかつ有利な立場に立てないでいたからです。少ししてから,この人は“聖書研究”の際に聞いたユーモラスな話をしてくれました。それがきっかけとなって打ち解けた気持ちになり,私はありとあらゆる質問をしました。その日,彼は私を仕事に戻らせるのにひと苦労しました。
「私は,初めて新しい地について聞きました。(ペテロ第二 3:13。啓示 21:1)私はようやく,『あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においても成されますように』と言われたとき,イエスが何を言わんとしておられたかを理解するようになりました。(マタイ 6:10)その最初の日に,私は自分が目的のない人生を送っていたことに気付きました。二週間もしないうちに,私は自宅で毎週聖書研究を始めました。しかし,ほどなくして,週に一度の聖書研究では物足りないと思うようになり,週にもう一度してくれるよう頼み,それからまた少しして,週に三回してくれるよう頼みました。それで,五週間たつかたたないうちに,私は週に三回聖書研究をするようになり,エホバの証人の王国会館で開かれている集会すべてに出席し始めました。そして一年後に私はバプテスマを受けました。
「真理が最初に私に与えてくれたのは,解放感でした。世の物質主義的な物の見方にとらわれていたことから,そして結婚生活の問題からの解放です。聖書の原則を当てはめれば当てはめるほど,結婚生活は改善されてゆきました」。
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青年の期待によって形造られる目ざめよ! 1979 | 11月22日
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青年の期待によって形造られる
賞を獲得した小説家,ジェリー・コシンスキーは,アメリカの道徳情勢が変化しており,それは「あらゆる選択の自由が得られるとはいえ,基本的には人を独りぼっちにしてしまう社会で成長した後,何をすべきかつかめない多くの人々の姿を反映している」と述べています。同氏は結論としてこう述べています。「我々が選択すべきでないものもあるだろう。我々は,どれを選択したらよいのか,どれが悪いのかを知るために,霊的な指針を必要としている」。
この小説家は,アメリカの一般大衆の文化を次のように評しています。「すべてに行き渡っているその文化的な風土は,基本的に言って,青年の期待によって形造られている。一般大衆の文化は,努力を払い続けることをほとんど求めない。一般大衆の文化とは消化しやすいように加工され,包装済みになっている文化であって,最低限の注意しか要求しない文化である。一般大衆の文化を特色づけているのは,ポップミュージックつまり青年たちのディスコ音楽を大いに利用する娯楽,テレビ,映画,ラジオなどの絶大なる人気である。ポピュラーミュージックを聞くのに知性を働かせる必要はないので,そのような娯楽が周囲に増えれば,それだけ人間が考えることも少なくなると言える」。
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