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  • 憎しみがこれほどはびこっているのはなぜか
    目ざめよ! 1984 | 9月22日
    • 憎しみがこれほどはびこっているのはなぜか

      世界は憎しみの波に洗われています。無力な婦女子が大量虐殺されたというような事件を耳にすることもあるでしょう。公共の場所で爆弾がさく裂し,見るも無惨な修羅場と化すこともあります。あるいは,次のような記事を読むこともあるかもしれません。

      「だれもが憎しみを抱いていて,相手かまわず人を殺す態勢にある。レバノンで起きている事柄は,人類全体に臨む事柄の兆しのように思えて恐ろしくなることがある」。ノーベル賞受賞者のアイザック・バシェビス・シンガーはこのように慨嘆し,さらに,「我々が陥っているどん底状態に戦りつを覚える」と述べています。―US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌,1983年12月19日号。

      「石油で潤った,インドのアッサム州では,4年の間不満がくすぶり,1か月ほどの間暴力行為が増していったが,共同社会間の憎しみと宗教間の憎しみがついに爆発した」― タイム誌,1983年3月7日号。

      「ベルファスト西部は戦闘地域である。建物が破壊されて不気味な廃虚と化した所を二分して,鋼鉄とコンクリートのグロテスクな“平和ライン”が走っている。……それらのビルに身を潜める,[様々な政治的主義主張を持つ]テロリストたちは,アイルランド史という同じ毒された井戸でいわばのどをうるおし,自分たちの憎しみを新たなものにしている」― ナショナル・ジオグラフィック誌,1981年4月号。

      憎しみは人間社会のガンのようなものです。わたしたちは過去の野蛮な状態からは遠く離れた,啓蒙された世界に住んでいることになっています。しかし,聖書筆者がかつて述べた,「憎しみは争いをかき立てる」という悲しむべき真実を裏付ける証拠が社会のあらゆる階層に見られます。―箴言 10:12,改訂標準訳,カトリック版。

      誤った情報を氾濫させる宣伝家たちは闘争や争いを引き起こします。惑わされた人々は盲目的な憎しみに駆り立てられて,非道な暴力行為に訴えるかもしれません。もっともに思えるような不満が火に油をそそぐ結果になることも少なくありません。しかし,憎しみが引き起こす偏見や暴力の犠牲になる数知れない人々の失意,絶望感,苦もんなどを見ると,心痛を覚え,『なぜだろうか。憎しみがこれほどはびこっているのはなぜだろうか。憎しみをなくすことはできないものだろうか。この世界から憎しみが完全になくなることがあるのだろうか』という疑問がわくかもしれません。

  • 憎しみの犠牲者に差し伸べられている希望!
    目ざめよ! 1984 | 9月22日
    • 憎しみの犠牲者に差し伸べられている希望!

      憎しみが全世界からぬぐい去られる時は必ず到来します。しかし,それがどのようにして可能になるのかを調べる前に,(1)憎しみを引き起こすものは何か,また(2)憎しみを除き去るためにはどうしたらよいかを知らなければなりません。

      もちろん,“憎む”とか“嫌う”とかいう言葉はしばしば無造作に使われます。幼い子供は顔をしかめて,「肝油なんて大嫌いだ!」と言って騒ぎます。それも,仕方のないことだと思えるかもしれません。しかし,ここで今考慮しているのは,その種の憎しみではありません。

      憎しみを引き起こす今日の争いや心痛は,非常に激しい,しかもしばしば悪意に満ちた敵対行為や敵意です。それはある民族に対する積年の恨みであることもあります。この種の憎しみは焼き尽くす火のようなものになります。制御されなければそれが破壊的なものになり得ることは,だれもが知り過ぎるほど知っています。

      憎しみを引き起こすのは何か

      一つの点として,年若い人々に歴史を教える方法によっては,ある国民や民族に対する人々の見方全体がゆがめられることがあります。家庭での影響も一役買っていることが認められています。別の人種や民族についての偏見に満ちた言葉を無視することは子供たちにはとてもできません。あるアイルランド人が英国人に対して抱いている見方,およびある英国人がアイルランド人に対して抱いている見方を見ればよく分かるはずです。

      宣伝家もやはり一役買っています。老若を問わずどんな人の考え方も自分の聞く事柄の影響を受けるものです。例えば,政治宣伝に耳を傾けていると,ある民族を憎むようになるかもしれません。それは,人の思考を操る巧妙な人々のせいでその民族を誤った型にはめて見るようになるからです。これは戦時中によく見られることです。この点に関して,J・A・C・ブラウンは「説得の技術」という本の中で,「戦争宣伝の場合のように,別のグループに対する……強い憎しみの感情をかき立てようとしているにすぎないことがかなりある」と書いています。そのような宣伝にはどの程度の効果があるでしょうか。ブラウンは,それが「敵に対する誇張された憎しみに結びつくだけでなく,自分たちも残虐な振る舞いをした場合に自らの罪悪感を和らげる」と述べています。

      ほかにも憎しみの原因を幾つか思い出せるでしょう。しかし,読者も他の心ある人々と同様,これほど多くの苦しみを引き起こしている元凶をなくすためにはどうすればよいかということのほうにはるかに大きな関心を抱いておられるでしょう。では,そのことについて考えてみましょう。

      どうすればよいのか

      当然のことながら,一人の人間が世界を変えることはできません。しかし,宗教は様々な種類の憎しみをなくす面で優れた影響力となるように思えるかもしれません。では,その点について少し考えてみてください。宗教的な偏狭はしばしば憎しみを助長してきたのではありませんか。少なくとも,世界の諸宗教は人類社会の上に垂れ込めているこの暗い影をぬぐい去ることに大して成功してはいません。レバノンや北アイルランドで異なった宗旨の党派が戦い合っていることを考えてみるとよいでしょう。興味深いことに,18世紀の著述家ジョナサン・スウィフトは,「我々には憎しみを宿すのに丁度よい程度の宗教があるが,愛し合うようになるには不十分である」と言いました。

      とは言っても,宗教は憎しみを一切非とするよう教えるべきだというわけではありません。聖書は,「何事にも定められた時がある。……愛するのに時があり,憎むのに時がある」と述べています。(伝道の書 3:1,8)しかし,これは敬虔な憎しみです。正しく制御されたこの感情は保護ともなり得ます。神が邪悪な事柄を憎んでおられることは明らかです。そうした事柄を憎むのは,神の僕たちにとっても正しいことです。詩編作者は,「エホバを愛する者たちよ,悪を憎め」と述べています。―詩編 97:10。

      しかし,悪意に満ちた憎しみとなると話は別です。どうしたらそうした憎しみを避ける,あるいは除き去ることができるでしょうか。では幾つかの点を吟味してみることにしましょう。

      その源を考慮する。基本的に言って,盲目的な憎しみは人間の不完全さの所産です。クリスチャン使徒パウロは次のように書きました。「さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,みだらな行ない,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意[憎しみ,欽定訳],闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが,なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません」。(ガラテア 5:19-21)敵意,つまり憎しみは,闘争や口論と共に,「肉の業」とされ,その種の業は人を神の王国から締め出すものとなります。

      ですから,天からの祝福を切望する人は自分の心の中から間違った憎しみを払いのけなければなりません。では,どうしたらそれができるようになりますか。

      自分の思いを守る。この破壊的な感情から自分を守り,生活からその種の感情をなくしてしまうには,自分の思いをどんなもので養うかに用心しなければなりません。当然のことながら,正当と思われる不満の種がある場合や,何らかのひどい不公正が行なわれている場合,あるいは自分の権利が踏みにじられている場合,自分の思いを守るのは容易なことではありません。しかし,そのような事柄を気に病み,ガンにも似た憎しみが自分の内面をむしばむにまかせるなら,自分で事態を悪化させているにすぎないということを覚えておかなければなりません。言うまでもなく,自分の思いを養う事柄に用心すると口で言うのは簡単でも,それを実際に行なうのは難しいものです。しかし,幾つかの積極的な措置を取ることができます。まず,憎しみをあおる人々の片寄った話に耳を傾けないようにすることができます。しかし,そのほかにどんなことができるでしょうか。

      積極的な考え方をする。これには,苦々しい感情に換えて,築き上げる,建設的な感情を抱くことが関係しています。使徒パウロはそのことを次のように言い表わしています。「終わりに,兄弟たち,何であれ真実なこと,何であれまじめなこと,何であれ義にかなっていること,何であれ貞潔なこと,何であれ愛すべきこと,何であれよく言われること,また何であれ徳とされることや称賛すべきことがあれば,そうしたことを考え続けなさい」。(フィリピ 4:8)優れた助言です! しかし,積極的な考え方のほかにまだ必要なものがあります。これは,何らかの善を実際に行なう筋に信頼を置くことも関係しているのです。

      神の善良さに信頼を置く。そうです,事態を正す神の能力と意欲を持っておられることに確信を抱くのです。そうすれば,感情に駆られて誤った行動に走ることはありません。むしろ,明快で,理性的で,道理にかなった考え方を保つことができます。そのためには祈りが非常に有益である,と真のクリスチャンたちは感じています。使徒パウロはこう述べています。「何事も思い煩ってはなりません。ただ,事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい。そうすれば,一切の考えに勝る神の平和が,あなた方の心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです」― フィリピ 4:6,7。

      すでに消えつつある憎しみ

      当然のことながら,そのような考え方や神への信頼は一夜にして培えるものではありません。しかし,培うことは可能です。幾十万もの人々がイエス・キリストの次の賢明な助言に従うことができるようになっています。「『あなたは隣人を愛し,敵を憎まなければならない』と言われたのをあなた方は聞きました。しかし,わたしはあなた方に言いますが,あなた方の敵を愛しつづけ,あなた方を迫害している者たちのために祈りつづけなさい」― マタイ 5:43,44。

      1世紀には,当時知られていた世界の至る所の人々がイエス・キリストの追随者になりました。そして,それらの人々はそのような卓越した愛によって知られるようになりました。憎しみにあふれた人々が,イエスの弟子のステファノを石打ちにして殺した時,ステファノの最期の言葉は,「エホバよ,この罪を彼らに負わせないでください」というものでした。ステファノはその人たちを喜んで許すつもりでした。自分を憎んだ人々にとって最善のことを望んだのです。―使徒 7:54-60。

      エホバの現代の僕たちも,互いのこと,つまりクリスチャンの兄弟姉妹のことだけでなく,自分たちを憎む者をも愛するようにという助言にこたえ応じてきました。そして自分たちの生活の中から悪意に満ちた憎しみを除き去ろうと一生懸命に努力しています。自分の内部に憎しみを生みかねない強力な力があるのを認めて積極的な行動を取り,憎しみに換えて愛を抱いています。確かに,「憎しみは口論をかき立て,愛はすべての違犯を覆う」のです。―箴言 10:12。

      使徒ヨハネは,「すべて自分の兄弟を憎む者は人殺しです。そして,人殺しはだれも自分のうちに永遠の命をとどめていないことをあなた方は知っています」と述べています。(ヨハネ第一 3:15)エホバの証人はそれを信じています。その結果,あらゆる民族的および文化的背景,さらにはかつての宗教的また政治的背景から出て来た人々が,今や憎しみの全くない一致した人々の交わり,真の世界的な兄弟関係へとまとめ上げられています。

      憎しみは間もなくなくなる!

      『しかし,それは関係者にとっては非常に良いことかもしれないが,だからといって地上から憎しみが一掃されるわけではない』と言われるかもしれません。なるほど,自分の心の中に憎しみを宿してはいなくても,いまだにその犠牲者になることがあります。ですから,この問題の真の解決策は神に仰がなければなりません。

      しかし,気を取り直してください。誤導された,不敬虔な憎しみは間もなく地上から除かれるのです。これは,神に祈り求めるようイエスがわたしたちに教えてくださった天の政府の支配のもとで間もなく起きようとしています。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」と祈るようイエスは言われました。(マタイ 6:9,10)その祈りが余すところなく聞き届けられる時,憎しみを助長する状況は存在しなくなります。憎しみを利用して生み出されてきた様々な状況も除き去られるでしょう。無知や偽りや偏見に替わって,啓発や真理や義が行き渡ります。そのとき正に,神は『彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやなくなっている』のです。―啓示 21:1-4。

      さて,何よりのたよりがあります。憎しみがほとばしり出て壊滅的な世界大戦に至るのを見,自分たちが「終わりの日」に住んでいることを示す他の証拠を目撃してきた世代は,不敬虔な憎しみがこの地球からぬぐい去られるのを見ることになるのです。(テモテ第二 3:1-5。マタイ 24:3-14,34)神の約束された新秩序には真の兄弟関係の霊が存在するようになります。人類は完全な状態を回復しているからです。さらに,この地球の住みかが楽園になり,その住民がすべて神の優れた道徳的特質を本当に反映するようになる時,あなたもそこにいることができるのです。(ルカ 23:43。ペテロ第二 3:13)そうです,愛が全地に行き渡り,不敬虔な憎しみが過去のものとなるその時に,生活することができるのです。

      しかし,真の兄弟関係を享受するのに,その時まで待つ必要はありません。事実,続く経験談が示すとおり,かつては憎しみに満たされていた心にクリスチャン愛がすでに宿るようになっているのです。

      [5ページの拡大文]

      人はある民族を憎むようになるかもしれない。それは,人の思考を操る巧妙な人々のせいでその民族を誤った型にはめて見るようになるからである

      [5ページの拡大文]

      「我々には憎しみを宿すのに丁度よい程度の宗教があるが,愛し合うようになるには不十分である」― ジョナサン・スウィフト

      [6ページの拡大文]

      「すべて自分の兄弟を憎む者は人殺しです」

      [7ページの図版]

      間もなく愛と一致が地に満ちる

  • 私の心は憎しみに満ちていた
    目ざめよ! 1984 | 9月22日
    • 私の心は憎しみに満ちていた

      私の脳裏に今も鮮やかに焼きついている思い出があります。一人の若い兵士は,自分の所属する巡視隊がその地区から移動した時に置いてけぼりに遭いました。そして,女性たちの暴徒に取り囲まれ,あざけられたり,脅されたりしていました。そのうちに暴徒の群れは二つに分かれ,銃を持った一人の男に道を開けました。男は発砲するとすぐにその場を立ち去りました。そうです,若い兵士は殺されたのです。

      私は英国のものとなると何でもひどく憎んでいたので,その若者が片腕を担架からだらりとたれて運ばれて行くのを見ても,気の毒とも,かわいそうとも思いませんでした。それは敵だったのです。その軍服は,私の民族の抑圧者と私がみなしていた人々の象徴だったのです。その若者は兵士でした。そして,私たちは戦争をしていたのです。

      この事件は幾年か前に,争いで引き裂かれた北アイルランドのベルファスト市で起きました。では,私がどのようにして憎しみに満たされるようになり,さらに重要なこととして,どのようにその憎しみを自分の心から完全に除き去ることを学んだかについてお話しすることにしましょう。

      憎しみの環境

      私がまだ幼女だったころ,私の家族はプロテスタントとカトリックの家族が共に平和に暮らし,働くことのできた,ベルファスト市の一地区に住んでいました。ところが,公民権を求める抗議運動が暴力や殺人を伴うようになるにつれ,党派間の紛争が一層激しくなってゆきました。プロテスタントの若者の集団が私の兄弟たちを追い掛け,金属の飾りびょうを打ったベルトでひどく殴打したことが幾度もありました。これらの集団はベルファスト市の私たちの住んでいた地区で暴れ回り,住民を脅し,財産を破壊しました。幾度も脅かされ,しまいには窓の敷居に爆弾を仕掛けられるまでになったので,私たちはその地区を出て,共和国側カトリック系住民の貧民街となった所に移り住むことを余儀なくされました。

      党派間の抗争による残酷な殺人,やられたらやり返す殺人行為の時期に入りました。例えば,私の幼い学友の実の兄弟は道端に立っていた時に殺されました。そのような恐ろしい暴力行為を見,また住宅や雇用の面でカトリック教徒は差別されていると感じていたので,この事態を変えるために自分に出来る限りのことをしたいという気持ちが次第に強くなってゆきました。

      準軍事活動へ

      友達が軍服を着ているのを見て,自分もその友達のようになりたいと思いました。それで,女生徒であった私は,カトリックの準軍事組織の青少年部に加入しました。ありとあらゆる宣伝を聞かされて,若い私の心はわが民族の敵とみなしていた人々への憎しみで満たされました。同じ理想を抱く人々の集会に出席すると,“大義”,すなわちアイルランド人のための自由への熱情を吹き込まれました。私の仕事は,軍の巡視隊に目を光らせ,宣伝ビラを配布し,公安部隊に友好的な態度を示す人々をマークすることでした。

      後日,その組織の婦人部への加入が認められました。そこに入ってからは,英国と関係のあるものに対する私の憎しみは,一層表立ったものになってゆきました。私はほかの人たちと一緒になって,公安部隊の隊員に罵声を浴びせたりつばをかけたりし,共和国の大義を支持するデモに参加して,軍や警察の巡視隊を悩ませました。時には,自分のグループの男性メンバーが狙撃や強盗を行なう時に,彼らのために武器を運んだこともありました。軍の巡視隊に呼び止められても,若い女性のほうが身体検査を免れやすかったのです。

      私は物事を本気で考え抜いたことがなく,アイルランドから英国人を追い出すという目標以上のことは考えたことが一度もありませんでした。私に関する限り,自分のほうが正しく,相手が間違っていたのです。テロの暴力行為の犠牲者に対する同情心はすべて抑えつけるようにしていました。私たちは自民族の敵と戦う自由の闘士をもって自ら任じていました。そして,戦争はいかなる暴力行為をも正当化するというのが基本的な哲学でした。憎しみによる何らかの暴力行為で,関係のない人たちの中から犠牲者が出るとしても,それはただお気の毒という以外はありませんでした。

      やがて私は逮捕され,“膝蓋骨撃ち抜き”という処罰に使うための武器を携行していた罪で告発されました。実際の処罰は,私たちのグループの二人のメンバーが実行し,被害者の膝に弾を撃ち込んで膝をつぶすことになっていました。私は若かったので,判決が記録されただけでやがて釈放されました。裁判の前にアーマー拘置所で送った短い期間は,抑圧者とみなしていた警察隊や刑務所体制や司法機関に対する私の憎しみを募らせたにすぎませんでした。

      宗教的なしつけ

      私の受けた宗教的なしつけは,心の中で募る憎しみを抑える点では何の役にも立ちませんでした。確かに,私の宗教は国家主義と解きほぐせないほどからみ合っていました。私はプロテスタント信者を,自分や自分の家族にとって脅威また危険なものとみなして育ちました。私の憎しみは,相手側の狂信的な人々がカトリック系の地区に住む人々に対して示す憎しみに匹敵しました。

      カトリック教徒としてミサに出席して神に祈ることと,やはりカトリック教徒かもしれない英軍兵士に対して激しい憎しみを抱くこととに少しでも矛盾があるなど,考えたこともありませんでした。自分の国家主義と自分の宗教との間に衝突があったとすれば,国家主義が勝ちを制したことでしょう。ですから,仲間のカトリック教徒が英軍の軍服を着たらその者を撃つ,という仲間の一人の考えを受け入れることができました。

      もちろん,誠実な司祭の中には暴力を非とする話をする人もいました。しかし,ほとんど効果がありませんでした。それは言葉だけで,テロに関係した人々に対する何らかの措置が取られることはまずなかったからです。テロリストの葬儀が教会で盛大に行なわれ,それから埋葬されるのを見るとき,感じやすい若い女性がほかに何を考えられるというのでしょうか。そのような葬儀の一つで,死んだ仲間のために葬列に加わったことがありました。三色の国旗で覆われたその棺の所で弔砲が撃たれました。私は軍服を着て礼拝堂まで行進し,ミサに出席しました。私たちの目にはこれは軍隊葬と映り,司祭が関与していたことは,私たちの大義に対する神の是認があることを示すもののように思えました。

      私は自分のしていることに対して何ら罪悪感を感じていませんでした。事実,準軍事的活動をやめるよう私に直接忠告した司祭は一人もいませんでした。

      真理を学ぶ

      そのころには私はこの大義にどっぷりとつかり,それが正しいと固く信じていました。相手側の不公正な行為は見えました。相手側の残虐行為や邪悪な行為に関する報道はどれもこれもうのみにし,戦闘の際の自分たちの側の残酷な行き過ぎには目をつぶっていました。それでも,良識や親切心が働き始め,何かがひどく間違っていると感じるようになりました。

      国家主義的な争いと,暴力に訴えて誤りを正す試みとから生じるジレンマに幾らかでも理屈を付けようと模索していた時に,私はエホバの証人に出会いました。証人たちは,私が闘い取ろうと考えていたもの,つまり平和・公正・自由などについて話していたのです。この人たちのグループもプロテスタントの一派にすぎないのでしょうか。いいえ,初めのうちは疑念があったものの,彼らは非常に異なっていることが分かりました。証人たちは本当に政治から離れており,聖書にのみ注意を向けました。

      例えば,証人と話すようになったばかりのころ,私の家族を訪問していた証人に,反カトリックおよび反共和国行動の黒幕と思えたプロテスタントの宗教指導者についてどう思うか尋ねてみました。するとそのエホバの証人の女性は,どちらの側にも立たず,「そのような状況のもとでイエスだったらどうされたでしょうか。どちらの側に付いたと思いますか」と質問しました。

      「イエスだったらどうされたでしょうか」というその質問は,私が聖書研究の際にぶつかった数多くの質問に正しい答えを得るのに役立ちました。例えば,不公正と思える事柄に対し,暴力を伴う抗議に加わるかどうかを考えるに当たって,イエスだったらどうされただろうかを考えてみなければなりませんでした。初めのうち私は,ローマ人をユダヤから追い出したいと思っていた,イエスの時代のユダヤ人の国家主義者たちと幾分似たところがありました。しかし,イエスは中立の立場を取られたに違いないことを認識するようになりました。イエスはご自分の追随者たちに中立を保つよう教えておられたからです。イエスの王国はこの世のものではありませんでした。―ヨハネ 15:19; 17:16; 18:36。

      時がたつうちに,イエス・キリストによる神の王国にははるかに壮大な目的のあることがはっきりと分かってきました。その王国は,ありとあらゆる形態の圧政的な政府とあらゆる種類の不公正とを除き去ります。(ダニエル 2:44)それに,考えてみてください。それは関係のない人々の中から犠牲者を一人も出すことなく成し遂げられ,私にも生きてそれを見る機会が十分あるのです!

      二度と教義を吹き込まれたくはなかったので,私は聞いたことを自分のカトリック聖書で必ず確かめるようにしました。神のみ名がエホバであることを学び,さらに全地を楽園にして,柔和な人々がそこで豊かな平和に喜びを見いだすことが神の目的であるのを知り,胸を躍らせました。(詩編 37:10,11。ルカ 23:43)でも,エホバの証人を本当に信頼できるでしょうか。王国会館での集会に出席するようになり,証人たちとの交わりを通して私の確信は強められてゆきました。本当に中立を守り,自分たちの宣べ伝えることを実践する人々がそこにいたのです。

      エホバの証人との交わりで,かつてはプロテスタントの準軍事的な組織に入っていた人々に会いました。その人たちは公正さの伴う平和を得る手段として暴力を使うことを否定していました。その人たちも初めは,自分たちの大義の正しさについて,私が自分の側の大義について抱いていたのと同じほどの確信を抱いていました。そしてかつては,カトリックや共和国と関係のあるものに対しては何であろうと激しい憎しみを抱いていました。ところが,その人たちは国家主義的な思想やその所産である憎しみを打破したのです。そのことは私にとって,「[あなた方は]真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」というイエスの言葉を認識するのに役立ちました。―ヨハネ 8:32。

      憎しみからの自由

      自分の心の中では,イエス・キリストが政治的な闘争やテロとかかわりを持たれないことは分かっていました。しかし,私はわなにはまっていて身動きが取れないように思えました。ですからそこから飛び出すのは容易なことではありませんでした。やがて家族のほかの者たちはエホバの証人と交わるのをやめてしまいました。それで,聖書研究を続けるために私と妹はベルファスト市のカトリック系住民とプロテスタント系住民の地区を分ける“平和ライン”を越えなければなりませんでした。最初は,そのラインを越える度に身の安全を心配しましたが,聖書の理解が進むにつれ,この恐れはエホバが保護してくださるという真の確信へと徐々に変わってゆきました。

      聖書の真理を学び始めたばかりのころ,共和国派のクラブでほかの人たちと一緒に腰を下ろし,北アイルランドで英軍兵士を待ち伏せして特に大勢の兵士を殺したという知らせを聞いたことがありました。でも私はもうそのような報告を聞いても一緒になって歓声を上げることができなくなっていました。もちろんイエスは歓声を上げたりはされなかったことでしょう。イエスは,「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」と諭されたからです。(マタイ 7:12)人々が吹き飛ばされたことを喜ぶのが正しくないのは分かっていました。

      その出来事によって私は,盲目的な憎しみがどんな影響を人々に及ぼし得るかを思い知らされ,もはやそうしたこととは何の関係も持ちたくないと思うようになりました。今振り返ってみて,この地球と人類に対してすばらしい愛ある目的を持たれる,愛に満ちた神について自分が学んだことを本当にうれしく思います。今日では,聖書に基づくこの同じ希望を自分のものにするよう他の人々を助けるために全時間を費やせることを心から喜んでいます。そして,自分の心がもはや憎しみで満たされてはいないことを本当に感謝しています。―寄稿。

      「わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」― ヨハネ 13:34,35。

      「あなた方の敵を愛し,あなた方を憎む者に善を行ない,あなた方をのろう者を祝福し,あなた方を侮辱する者のために祈り続けなさい」― ルカ 6:27,28。

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