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    ものみの塔 1963 | 12月15日
    • と共に住み,そうしながらテモテに教えを授けたと結論するほうが妥当です。テモテはこうした母親の助けを得て立派なクリスチャンになりました。(テモテ後 1:5)聖書はテモテの父親がクリスチャンになったことを述べていませんが,テモテの両親は明らかに別居しませんでした。

      別居する根拠

      コリント前書 7章10-16節にあるパウロの言葉は,聖書から見て別居が可能なことを示しています。もっともその場合にも,クリスチャンがすすんで別居することはありません。しかし不信者の配偶者の行いのために,クリスチャンにとって事態がきわめて深刻なものになるかも知れません。残酷な仕打ちとか極端に悪化した環境のため,最後の手段として信者が別居を最善の策と考えることもあり得ます。

      別居を正当なものとする一つの理由は,夫の扶養不履行です。婚姻するとき,夫であり頭である者は妻,二人の間に生れる子供に対して責任を負います。たとえキリスト教の信仰を持たなくても,夫は神の前にこの責任を持っています。もしクリスチャンである夫が家族を扶養する義務を故意に怠るなら,不信者よりも悪い者とされるでしょう。テモテ前書 5章8節はそのことを述べています。「もしある人が,その親族を,ことに自分の家族をかえりみない場合には,その信仰を捨てたことになるのであって,不信者以上にわるい」。この事に照らして,クリスチャンは,事態が極端に悪くなり,夫が配偶者の扶養を故意に怠る場合に別居できます。しかしこの場合にも再婚の自由はありません。

      身体面における虐待も,別居を正当なものにします。よくあるように,度を過した飲酒が腕力をふるう原因になっているのかも知れません。(箴言 23:29-35)聖書の原則を知らない配偶者が怒りにまかせて信者の身体に危害を加え,度重なるこのような行為のために健康と生命が実際に危うくされるのは,あり得ることです。慎重に,また祈りによって事態を考慮したのち,クリスチャンは虐待する配偶者と別居する以外に道のないことを悟る場合もあるでしょう。他方,配偶者の怒りをやわらげ,事態を耐え得るものにする方法なり策が見つかるかも知れません。

      霊的な健康が全く危くされた場合も,別居は正当なものとなります。クリスチャンがエホバ神と持つ関係は大切にし,また守らなければならないものです。極端な手段,実際の身体的な拘束あるいは同様な仕打ちのために,キリスト教の信者が神のことばに従い,聖書によって訓練された良心に従って真の崇拝をし,エホバに奉仕することが全く不可能となるならば,別居を考慮できます。人が愛を示すべきいちばん近い隣人は結婚配偶者ですが,それでもイエスの示された通り,神に対する愛が第一でなければなりません。(マタイ 22:37-39)神の崇拝を妨げる権利はだれにもありません。「人間に従うよりは,神に従うべきである」― 使行 5:29,新口。

      状態が悪くなって試錬にあうとき,クリスチャンは早まって性急に行動し,別居によって結婚生活を終らせてはなりません。むしろ祈りつつ,事態を周到に分析してみることが必要です。(ペテロ前 4:7)結婚生活に終止符を打つような行動をおこす前に,次のような質問をしてみることは有益です。扶養の義務を十分にはたしていないと言っても,それはクリスチャンが過大の要求をしているからではないか。それは故意の怠慢か,それとも病気,商売上の手違いなど,しんしゃくすべき事情がなかったかどうか。虐待はどんな種類のものか,言葉だけのもの,あるいは腕力に訴えたものかどうか。身体に実際の危害を受けたというよりも,誇りを傷つけられたのではないか。また自分の霊的な状態はどうだろうか。それは本当に危険な状態にあるだろうか。それとも霊的な強さを保つための手段や機会がまだ残されているのに,クリスチャンのほうでそれを利用していないのではないか。せんじつめて言えば,事態はそれほど悪く,別居を余儀なくするほど極端なものか,という事です。それとも聖書の原則をいっそう十分に行えば,問題は解決されるのではありませんか。

      また結果も考えねばなりません。生活は当然に変ります。別居のもたらす圧迫を考えてごらんなさい。そのため不品行に陥るならば,なんと悲さんな結果になることでしょう! 子供がある場合,片親だけの世話と愛情は十分ですか。経済的また他の見地から見て,ひとりで事態に対処してゆけますか。

      明らかに事態が極端なものであれば,別居の手段をとることもできます。しかしそれは事態を改善するためのあらゆる努力をつくしてのち,また祈りの気持で十分に考えたのちの,最後の手段でなければなりません。

      問題を解決する

      不信者の配偶者との間に何かの問題が起きたとき,思いやりを持って親切に話し合うならば,しばしば良い結果となります。たとえばクリスチャンの妻は,自分が夫に完全な宗教的自由を与えていることを巧みに指摘できるでしょう。敬虔の道を歩もうとするクリスチャンの妻に同様な配慮が与えられるのも,当然と言えるでしょう。妻は配偶者の宗教に干渉しません。従って同様な取扱いを期待できるわけです。(マタイ 7:12)よいクリスチャンである妻は夫に服従しますが(コロサイ 3:18。エペソ 5:22-24),それでも神を第一にすべきことを悟っています。なぜならば「すべての男のかしらはキリストであり,女のかしらは男であり,キリストのかしらは神」だからです。(コリント前 11:3,新口)それで妻の服従は比較的なものであり,神のみ心にそわない行いをするように要求されても,妻はその要求をいれずに神に従います。

      不信者の夫を持つクリスチャンの妻は,クリスチャンのなすべき宣教の務をどのように見ますか。エホバの証者の集会は毎週3回開かれます。これは多過ぎるとは言えません。多くの婦人は教会や社交的な集まりのために,しばしば家をあけます。しかしクリスチャンの妻が他の晩にも家をあけるならば,集会に行こうと思っても反対されるかも知れません。外に出て宣教の奉仕をすることについて言えば,主人が家にいて妻と一緒に過したいと思っている時間に,宣教奉仕をする必要はありません。妻が日曜日の2,3時間,会衆の集会に行くことに反対しない夫も,まず奉仕そして集会のために一日中家をあけるなら,反対するようになるでしょう。献身した婦人の多くは,夫が勤めに出,子供も学校に行っている時,そとに出て定期的に伝道しています。それで宗教的に分裂した家に住むクリスチャンの妻は,それほど思うように活動できなくても,集会と奉仕を全くやめる事はしません。(マタイ 18:20。ヘブル 10:24,25)同じ信仰に結ばれた家庭でなくても,周到な計画を立てて実行し,また「善を行うことに,うみ疲れ……ない」ならば霊的な健康を保てます。―ガラテヤ 6:9,新口。

      又は自分の宗教を選ぶ権利を持ち,また聖書や聖書の手引など,個人の持ち物を所有する権利を持っています。しかしそうは言っても,不信者の夫が反対するような場所に,これらの物をわざわざ出して夫の目につくようにすることではありません。これらのものは個人の持ち物をおくところにしまっておくべきです。聖書とその手引は,自分の時間に一人で勉強できます。このようにして言い争いや衝突を避けられるでしょう。もちろん原則の問題ならば妥協はできませんが,不必要なごたごたをおこすべきではありません。―マタイ 10:16。

      同じ信仰に結ばれていない家庭では,子供に宗教教育を授けることをめぐって時に問題が起きます。母親が信者ならば,子供を集会や奉仕に連れて行くことを巧みにとりきめます。しかし夫が反対し,母親について行ってはいけないと子供に命ずるならば,家のかしらである夫の意向をいれねばなりません。その場合,神の前に責任を持つのは夫ですから,信者の妻が自分の意向を無理に通そうとするのは賢明ではありません。妻は聖書の原則を家で子供たちに忍耐強く教えることができます。こうして子供は成長し,やがて家から離れるときに真の崇拝を実践することでしょう。

      夫が信者で妻が不信者のとき,子供の教育はどうなりますか。信者の夫は家のかしらとして,子供を真のクリスチャンに育てる権利と神に対する責務を持っています。夫はすすんで子供たちをクリスチャンの集会に連れて行き,野外で宣教を教え,家で聖書を教えます。

      物質の事柄においても知恵を働かせるならば,結婚の絆を強めることができます。家の中の家具調度について妻には妻の好みがあっても,夫は自分の考えに従い,家のかしらとして異なった決定を下すかも知れません。その場合に妻は自分の好みに合わないというので,不満の気持を抱くべきですか。そのために何かごたごたが起きるならば,クリスチャンの妻はそれを正義のために受ける苦しみと考えてはなりません。実を言えば,彼女は服従というクリスチャンの義務をはたしていないのです。あるいは不信者の夫が居住地を変えようと望んだ場合,クリスチャンの妻はそれが得策と思えなくても,夫の意向に従います。家族の住む場所を決めるのは夫の権に属することだからです。住居に対する不満からおきた争いが,別居によって問題を解決しようと思うほど深刻にならないとも限りません。この場合に別居しても,それは宗教上の相違によるものではなく,このような問題は聖書の原則を実行することによって避けるべきはずのものです。

      他の人の悪いところは目につきやすいものですが,クリスチャンの妻はまず,二人の一致とむつまじさを増進するために,自分がどうすべきかを考えます。夫が帰宅せずに毎晩飲みに行くとすれば,夫は家に何かいやなことがあってそのため帰らないのではないか。私は口やかましくないだろうか。何時も小言を言っているのではないか。子供は手に負えない状態ではないか。このように正直に反省してみると,いろいろ気づくところがあり,非常に有益です。妻のつとめは,夫が毎晩帰宅することを望むような家庭を作ることです。

      また信者は不信者の配偶者が関心を持つ事柄を無視してはなりません。結婚を目ざして二人が交際していた時,互に相手の好きな事に関心を持とうと努めたではありませんか。結婚後も,信者の配偶者は同じことをすべきです。信者の妻は夫のする事にたとえ関心がなくても,幸福な結婚生活のために関心をつちかうようにします。夫と妻が一緒に物事をしないならば,愛はなかなか成長しないものです。原則を妥協させたり,聖書の教えに背くのでなければ,信者の配偶者は自分の欲望をおさえても不信者の配偶者のする事を一緒にして,クリスチャンらしい物わかりの良さを示すことができます。これは愛のある行いであり,その思いやりを感じた不信者が信者の信仰をたずねるようになるかも知れません。

      クリスチャンの夫は,妻につらい思いをさせたり,威圧したりしません。それは必らず不幸を生み,別居の原因ともなるでしょう。結婚した時の二人の喜びを考えてごらんなさい。その時の気持を何時までも忘れないようにしようではありませんか。神を恐れる心を持つ夫は,世の人々のように妻をしいたげたり,愛のない行いをしたり,愛のない言葉を口に出したりしません。罪のために,女は神の言われた次の言葉の成就を身をもって味わいました。「あなたは苦しんで子を産む。それでもなお,あなたは夫を慕い,彼はあなたを治めるでしょう」。(創世 3:16,新口)それでも円熟した夫は尊大にならないでしょう。(コロサイ 3:19)このような夫は妻の感情を思いやります。そして最終的な決定を下す責任は夫のものであっても,妻に相談するでしょう。それは妻の指図を受けるためではなく,妻の持つ問題を知るためであり,それを考慮したうえで決定を下すためです。夫は愛をもって正しくかしらの権を行使します。そしてパウロの次のさとしに賢明に従います,「夫も自分の妻を,自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は,自分自身を愛するのである。自分自身を憎んだ者は,いまだかつて,ひとりもいない。かえって,キリストが教会になさったようにして,おのれを育て養うのが常である」。(エペソ 5:28,29,新口)生涯の伴侶となることを求め,自分が得た妻に愛を示しなさい。たとえ妻が真のキリスト教をいま受け入れなくても,一緒に時を過し,思いやり,ほめなさい。妻に対する関心を示しなさい。妻のためにも時間を使い,愛を示して妻を安心させるべきです。ほかの関心事にかまけて,そのことをするのを忘れてはなりません。このようにして正しく振舞うならば,幸福な生活を送ることができ,配偶者がキリスト教を受け入れる結果になるかも知れないのです。反対にこれらの事を怠るならば,みじめな結果となります。

      クリスチャンである夫と妻はたしかに恵まれています。二人は神の聖霊を持っています。聖霊を持つとき,節制,愛,柔和,親切など御霊の実を結ぶことが可能となります。(ガラテヤ 5:22,23)御霊の実を結ぶことは,結婚生活になんとすばらしい祝福となることでしょう。不信者と結ばれたクリスチャンは,不信者が神のご要求を知らず,聖書の原則を行なわなくても,そのことを理解しなければなりません。そのため難しい事態が時に起きても,クリスチャンは神の御霊の実を結ぶことを怠りません。そうしながらエホバ神に希望と信仰をおいて歩むとき,ペテロがクリスチャンの妻に述べた喜ばしい結果を刈りとることになるでしょう。「同じように,妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば,たとい御言に従わない夫であっても,あなたがたのうやうやしく清い行いを見て,その妻の無言の行いによって,救に入れられるようになるであろう」― ペテロ前 3:1,2,新口。

      もめごとの絶えないこの世で別居と離婚はよくあることで,それに伴なう問題や悲しみもつきません。クリスチャンは,悲痛な別居,悲しみ,つらい経験がもはや人間を苦しめることのない,正義の新しい世を待ち望んでいます。しかしこの古い世のたそがれの時であるいま,その悩みの最中にあって,あなたは結婚配偶者との別居を考えるほどの深刻な事態に直面するかも知れません。最終的な決定を下すのはあなたですが,まず別居を正当なものとする聖書的な理由を考慮して下さい。どんな結果になるかをも考えて下さい。自分自身を吟味してごらんなさい。円熟したクリスチャンの監督に相談して,健全な助言を仰いで下さい。たとえつらくても,不信者の配偶者と一緒に暮すことから生まれるかも知れない良い結果を十分に考えて下さい。何時か夫があるいは妻が共にエホバを崇拝する者となるかも知れないのです。その時の喜びを考えてごらんなさい。それは別居しなかった事の結果です。いずれにしても神の前に責むべきところのない者となり,神の祝福と報いを得るよう努めなさい。

  • 神につかえるよろこび
    ものみの塔 1963 | 12月15日
    • 神につかえるよろこび

      P. イドレオスの経験

      私の両親はギリシャ人です。私自身は今世紀の初め,小アジアのスミルナで生まれました。第一次世界大戦が始まって間もなく,スミルナの町はギリシャ人とトルコ人とがたがいに戦うところとなりました。幾千もの住民がトルコ軍に連れて行かれ,私もその中の一人でした。―まだ十代を過ぎぬ少年がトルコの捕りょとなったのです。

      劇的とも言える日々が過ぎました。その生活を通して,私の心には様々な疑問が浮かんで来ました。捕われの身となって日を送る,それが自分に定められた運命なのだろうか ― 人生がまさに始まろうとするこの時期に。こんな苦しみをいつまで耐えねばならぬのか。こうした考えが,日夜,私の脳裏をおそいました。そうした自分にとってたゞ一つの慰めとなったのは,手元にあった小さな「新約聖書」で,ひまを見つけてそれを読みました。しかし,理解出来ぬところがたくさんありました。

      捕りょ生活が続くうち,いつのまにか祈りをしていました。どうか自由の身にしてくれる

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