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クリスチャン婦人の特権ものみの塔 1964 | 7月1日
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出席者全員に益を与えます。「ものみの塔」の研究などにおいて,聴衆の中の男子が間違った答をした場合,あとから指名された姉妹もそれにならって間違った考えを述べる必要はありません。しかし姉妹は述べる言葉や口調に注意し,批判めいた注解をしないようにします。それで「ものみの塔」のことばを巧みに引用し,おそらく次のように注解を始めることができるでしょう。「この点について何節には……のように書かれています」。もちろん兄弟が正しくない答をしたことに注目した司会者は正しい答を出してすべての人の益をはかるため,出席している円熟した兄弟を指名して,だれにも気まずい思いをさせないように配慮するのが良いのです。
13 忠実な婦人の奉仕者は何を願いますか。しかしどんな疑問が生じますか。
13 新世社会内の忠実な婦人の奉仕者は,エホバの定められた神権的なかしらの原則に従って振舞うことを望んでいます。この世の多くの婦人と異なり,この点で神の定めに忠実に従うことは新世社会にとって祝福となり,そこに見られるすばらしい一致と調和に大きく貢献しています。しかしかしらの地位の問題に関して時おり次のような疑問が生じます。姉妹はどんな場合にかぶりものが必要ですか。婦人が他の人の前で祈ってもよいのは何時ですか。その場合いつもかぶりものが必要ですか。
かぶりものに関する聖書の原則
14 どんな原則に関連してパウロは婦人のかしらのおおいの問題を考慮していますか。またこれに関してコリント前書 11章4-7節に何と述べていますか。
14 服従のしるしとして,特定の場合に婦人がかぶりものをすべき事は聖書から見て明らかです。コリント前書 11章3節においてかしらの地位に関する原則を述べたのち,使徒は会衆内における振舞いの問題にこの原則を適用しています。この助言の与えられたとき,み霊の奇跡的な賜物を制御することも同時に考慮されていました。そのことに留意して下さい。しかし基本的に言って,かぶりものについて述べられている事は今日の会衆にも適用されます。ではコリント前書 11章4節から7節に述べられている事に注目して下さい。「祈をしたり預言をしたりする時,かしらに物をかぶる男は,そのかしらをはずかしめる者である。祈をしたり預言をしたりする時,かしらにおおいをかけない女は,そのかしらをはずかしめる者である。それは髪をそったのとまったく同じだからである。もし女がおおいをかけないなら,髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが,女にとって恥ずべきことであるなら,おおいをかけるべきである。男は,神のかたちであり栄光であるから,かしらに物をかぶるべきではない。女は,また男の光栄である」。
15 (イ)会衆において祈るとき,あるいは司会するとき,男子が頭をおおうことはなぜ正しくありませんか。(ロ)同じ事情のもとで,婦人が頭におおいをつけるべきなのはなぜですか。(ハ)頭におおいを着けずに会衆内で祈る婦人が,剃髪の女にたとえられているのはなぜですか。
15 神のかたちであり栄光である男は妻と家族に対して神の代表者となるべきであり,このとりきめに従って委ねられたかしらの責任を受け入れることになっていました。そのうえ会衆内において男は,会衆のかしらであるキリストの代表として行動しました。従って会衆の集会において祈り,あるいは司会するとき,出席している人々に対して敬意を表するかの如く,男が頭に服従のしるしを着けることはふさわしくありません。そうすることは男のかしらの地位をあたかもおおいかくし,これが男の通常の務ではないかの如く振舞うことになります。それで会衆に対し,キリストの代表として,正しく振舞っていないことになり,男のかしらであるキリストをはずかしめることになります。他方,女は会衆において祈ったり,預言したりするとき,通常はこれが男のつとめであることを定めた神権的な原則を尊重して,かしらにおおいを着けるべきでした。それは女が男になろうとし,男の地位を奪おうとしているかの如く見えないためです。これは会衆の男子の成員のみならず,夫をもはずかしめることになるでしょう。彼女は夫に従う必要を認めないかの如くに振舞っているからです。そこでパウロは,もし女がそのように振舞うとすれば,それを押しすすめて男あるいは奴隷の女のように髪を短かく刈るのがよかろうと論じています。しかしそうすることは女の恥ではありませんか。パウロの時代にはたしかにそうでした。女が頭をそったり,髪を短かく刈ることは奴隷のしるしであり,もっと悪いことには不品行あるいは姦淫をしてとらえられ,見せしめとして頭をそられた女のしるしであったからです。
16 頭におおいを着けるという事柄において,問題となっているのは何の原則ですか。これに関連して,自然は何を示していますか。
16 初期クリスチャンの時代に,婦人はどこへ行くにも頭におおいを着けました。人中で頭におおいを着けない女はふしだらな女であり,父親また夫のかしらの地位を認めない女と見られました。しかし論議の中心となっていたのはこの事ではありません。問題は神の定めたかしらの地位の原則を認めることであり,パウロは13節から15節において,このことは自然を見てもわかると論じています。「あなたがた自身で判断してみるがよい。女がおおいをかけずに神に祈るのは,ふさわしいことだろうか。自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり,女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである」。会衆内で祈ったり預言したりするとき,女の長い髪がおおいのかわりになるというのではありません。さもなければ6節の言葉が無意味になってしまいます。むしろ女の長い髪は,このような場合に服従のしるしとして頭におおいを着けるべきことを思いおこさせるものとなるのです。
17 謙遜な婦人は自分がどんな立場を持つことを認めますか。
17 たしかに頭をそった婦人は美しいとは言えません。同じく初期会衆において頭におおいを着けずに預言する女は神権的な秩序を尊重しない女であって,エホバの目に,また会衆の他の成員の目に最も美しくない女と映ったことでしょう。その女はけんそんでないからです。忠実な婦人はエホバの定められた女の地位を認めます。パウロは8節から10節にそのように述べています。「なぜなら,男が女から出たのではなく,女が男から出たのである。また,男は女のために造られたのではなく,女が男のために造られたのである。それだから,女は,かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある」。
18 「女は,かしらに権成のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある」と述べたパウロは,明らかに何を考えていましたか。
18 なぜ「それは天使たちのため」ですか。天使に対する服従を示すためではあり得ません。コリント前書 11章3節において,パウロは,地上の女に対して天使がかしらの権を持つとは述べていません。クリスチャン会衆を統率したり,御国の福音伝道するつとめは天使に与えられていないのです。それで婦人が天使のかわりをつとめることはなく,天使に対する尊敬のために頭におおいを着けるという事はあり得ません。しかし献身した人は男女を問わず「全世界に,天使にも人々にも見世物にされ」ています。(コリント前 4:9)たとえば忠実な婦人は,天使のために良い手本を示すことができます。エホバの神権的な服従の型に従って夫に服従し,また会衆の男子の成員に尊敬を示す婦人は,天に住む天使によい手本を示し得るのです。天使はエホバを支配する王イエス・キリストに服従しつつ,忠実な奉仕をつづけます。
19 コリント前書 11章11,12節において,パウロは男女の正しい立場につき何を述べていますか。何を考えるとき,男女ともに神の定めに従って謙遜に行なうことができますか。
19 しかしいちばん大切なのは男であって女はとるに足りない者であるかのような間違った印象を男が受けないため,パウロはコリント前書 11章11,12節に次のことを述べました。「ただ,主にあっては,男なしには女はないし,女なしには男はない。それは,女が男から出たように,男もまた女から生れたからである。そして,すべてのものは神から出たのである」。そうです,心に留めなければならないのはこの事です ― かしらの地位にしても,男と女の立場にしても,会衆内における振舞いと秩序にしても,物事の定めは神から出たのであり,人間から出たのではありません。この見方を持つならば,男であっても女であっても,私たちは釣合いを失うことなく,謙遜を保ち,エホバの祝福に感謝できます。
20 いま頭のおおいについて論ずるのは何のためですか。
20 明らかにコリントでは,会衆内における婦人の地位について若干の論争がありました。そこで使徒パウロはすべての人が理解できるように原則を述べ,最後にこう結んでいます,「しかし,だれかがそれに反対の意見を持っていても,そんな風習はわたしたちにはなく,神の諸教会にもない」。(コリント前 11:16)今日エホバの証者のあいだでこの論争がおきることはないにしても,この問題が今日のクリスチャン会衆に実際にどう適用されるかをややくわしく考察するのは良い事と思われます。そこで次号の「ものみの塔」には,かしらのおおいが問題となる事情をとりあげてそれを考慮します。それによって新世社会内の忠実な婦人は,聖書およびクリスチャンの良心に一致してどのように正しく振舞うべきかを知るでしょう。
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子供も一緒に聖書を学ぶものみの塔 1964 | 7月1日
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子供も一緒に聖書を学ぶ
◆ アメリカ,インディアナ州のあるエホバの証者は,姉と妹の二人と聖書の研究をしていますが,その研究がどのように始まったかを次のように話しています。「約15年前,一人のエホバの証者は,二人の若い娘を持つ婦人と聖書の研究を始めました。娘たちも加わり,研究は1年半ほど続きましたが,その後中断しました。ご主人が亡くなり,婦人がかわって家族を養わねばならなくなったからです。忙しい生活が始まり,神の言葉に対する婦人の関心は次第にうすれてゆきました。研究はその後再開されませんでした。しかし,いったんまかれた真理の種は家族の心の奥にはいり,母親は決して娘たちを偽りの宗教に入れませんでした。時に娘たちは,友だちにさそわれて教会に行くこともありましたが,説教に嫌悪をさえ感じて帰ることがすくなくありませんでした。その後,娘たちはそれぞれ結婚しましたが,結婚後は二人とも一度も教会に行きませんでした。この二人は会うごとに,よく聖書の真理について話し,ついにエホバの証者をさがして聖書を勉強することに決めました。15年もたっていたのに,二人は母親が一緒に勉強していたエホバの証者の名前を忘れず,その証者に電話をかけました。その後,私がたずねることになり,研究が始まりました。今二人は,機会が許すごとに偶然の証言をし,母親には,再び勉強を始めて,自分たちの得た喜びと満足を知るようにすすめています」。
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