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  • 聖書理解の助け ― 血(その二)
  • 目ざめよ! 1980
  • 副見出し
  • 一時的なものではない
  • 初期クリスチャンの見解
  • 流血の罪
  • 考慮すべき健康の問題
  • 忠誠が関係している
目ざめよ! 1980
目80 8/22 30–31ページ

聖書理解の助け ― 血(その二)

「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。

血(その二)。

一時的なものではない

以前,律法に親しんだことのない異邦人のクリスチャンが,もし血または血を使った料理を食べたなら,クリスチャンの会衆内の,それまで律法の下にあったユダヤ人は腹を立てたり,あるいは感情を害したりする恐れがあったとして,血に関する問題の禁止命令は一時的なものにすぎなかったと主張する人もいます。そうだとしたら,では,どうして統治体は,当時それよりもさらに激しい論議の的となり,対立を引き起こす問題だった割礼を異邦人のクリスチャンに勧めなかったのかと即座に問う方もいるでしょう。この割礼の問題は統治体がエルサレムで会議を行なう原因となり,またその手紙を記す動因となった事柄でした。割礼に関する統治体の布告は,ユダヤ人,それもユダヤ主義者,つまり偽ってクリスチャンと称し,律法の下にあると主張したユダヤ人の強固な反対に遭いました。使徒たちはどうして一つの点でそれらの人をなだめ,別の点で一層大きな反対を引き起こすようなことをしたのでしょうか。―使徒 15:1,2,4-6。ガラテア 5:3-6,11,12; 6:12-15; ローマ 2:25-29; 4:9-12; フィリピ 3:2-4と比べなさい。

さらに,もし血の問題が単にユダヤ人を感情の点でなだめるだけの問題だったのなら,なぜ使徒たちは血を食べることを偶像礼拝や淫行などの,神にとって甚しく不快な事柄と同類に扱ったのでしょうか。その上,統治体が全く独自に決定をしたのではなく,「聖霊とわたしたち」がそうしたのです。ここで聖霊は,律法契約が存在するようになる何世紀も前に全能の神の述べられたこと,すなわちノアに対する律法と調和して働きました。(創世 9:4)。この律法は普遍的で,それが与えられた時以来,あらゆる時代,またあらゆる場所の人間に当てはまるものとなってきました。モーセの律法は廃止されましたが(コロサイ 2:14),それに先行した律法を廃止するものとはなりませんでした。モーセの律法はそれよりも何世紀も前に与えられた普遍的な律法を単に組み入れ,その要点を詳述したものに過ぎなかったからです。

こうした点について,マクリントクとストロングの「百科事典」はその第1巻834ページ第2欄でこう述べています。「新約においては,我々がその義務を免除されていることを多少でも暗示する手がかりがあるどころか,異邦人が割礼のくびきから解放されていることを聖霊が使徒たちを通して明らかにしたその時に(使徒 15章),血を慎むことが明らかに義務として課され,こうして禁じられた行為が偶像礼拝や淫行と同類に扱われていることは,特に注目に値する」。また,ベンソンの「注解」第1巻はこう述べています。「ノアとそのすべての子孫に与えられ,またモーセの律法の時代に極めて厳粛な仕方でイスラエル民族に繰り返された,血を食べることを戒めるこの禁令は決して無効にされなかった。それどころか,新約では使徒 15章で逆にそれが確認され,こうして永遠の義務とされたのは,注目すべきことである」。また,このことと一致して,著名な聖書注解者,フランズ・デリッチは,これはユダヤ教の律法と共に廃止されるべきその律法の要求ではなく,あらゆる人種の人間を拘束するもので,決して無効にされたことがないゆえに,流れる血のうちにあるこの命の原理は神聖なものとして尊ばれなければならない,と言いました。

初期クリスチャンの見解

ローマの裁判官がこの聖書的な禁止命令を破らせようと試みた時でさえ,初期のクリスチャンはその禁令を尊重しました。2世紀のキリスト教の著述家,テルツリアヌスは,クリスチャンに妥協させようとするこうした試みに反対して,次のように率直に意見を述べています。「我々は自分たちの自然のままの食物に動物の血をさえ含めていない。それゆえに,締め殺されたもの,あるいは独りでに死んだものを食べないよう慎んでいる。それは,例え肉の中に入ったままのものであれ,血によって汚されることが決してないためである。最後に,あなた方はクリスチャンを試みる場合,血の一杯入ったソーセージを差し出すが,もちろん,あなた方は,それが彼らの中で禁じられていることを百も承知している。だが,あなた方は彼らに違犯をさせたがっているのである」。時代がさらに下って,西暦692年当時でさえ,コンスタンティノープルの宗教会議(ツロウロスの教会会議)は,血でできている食物を食べることを一切禁じ,違犯すれば平信徒は破門に,司祭は聖職はく奪に処されることを定めました。

古代において広く行なわれていた,人間の血を飲む習慣は,クリスチャンにとっては特に忌まわしいことでした。マクリントクとストロングの「百科事典」は第1巻834ページ,第2欄でこう述べています。「人間の血を飲むことなどとんでもないことであった。彼らにとっては理性のない動物の血を飲むことさえ不法なことであった。その後の時代にも同様の趣旨で行なわれた数多くの証言が発見されている」。

流血の罪

クリスチャン・ギリシャ語聖書は,クリスチャンが神の前で流血の罪を負う恐れのある三つの明確な行為を次のように要約しています。(1)流血行為,つまり殺人によって。このことには,(大いなるバビロン[啓示 17:6; 18:2,4]や,同様に無実の人の血を沢山流してきた他の組織[啓示 16:5,6。イザヤ 26:20,21]のような)流血の罪のある組織の活動を積極的に,あるいは暗黙のうちに支持する人々も含まれます。(2)何らかの仕方で血を食べたり飲んだりして(使徒 15:20)。(3)王国の良いたよりを宣べ伝えないため,それに含まれている命を救う情報を他の人々に分かち与え損なうことによって。―使徒 18:6; 20:26,27。エゼキエル 33:6-8と比べなさい。

考慮すべき健康の問題

犠牲以外の目的で血を使用することをエホバ神は禁じられましたが(現代では,クリスチャンのために,この犠牲は既にイエス・キリストによってささげられたが)それは主に,命が神にとって神聖なものであるという理由に基づいていました。しかし,この律法に従うことには健康および衛生上の益もあります。医師は,マラリア,肝硬変,梅毒などにり患することを含め,患者の直面する致命的な危険性,中でも,輸血された血液が無理に肺臓内に押し入れられて,患者がいわゆる“溺死する”過剰循環という最大の危険性についてうんぬんしています。これらの危険性はわずかの例にすぎません。輸血が一層広く行なわれるにつれ,病気は広まり,1952年9月19日号「フロリダ医師会ジャーナル」誌が述べるように,「交叉試験の困難な問題の原因ともなり,それ以上血液が与えられるならば,患者の命さえ危険にさらす恐れのある,各種の奇妙な抗体」が生ずるので,危険性は増大するのです。

エルサレムの統治体がクリスチャンに書き送った手紙の結びの言葉が,「健やかにお過ごしください」と記されているのは注目すべき興味深いことです。それらの人々は主にクリスチャンの霊的な健康に関心を抱いていましたが,体の健康という要素が関係していることも明らかです。血を食べることについて,ジェイコブ・B・グレン博士は自著,「聖書と現代医学」の18ページでこう述べています。「著名な血液学者は,人間でも動物でも同様に,病原体,バクテリア,ウィルスおよびある種の原虫類は,そのすべてとは言えないまでも,体内の循環する血液の中により多く存在することに気づいてきた。もちろん,循環する血液やリンパ系の中の白血球は,それら有害なものを撃退して体を防御する働きをしているが,有毒物質が大量に集まっている血を人間が摂取することには,常に潜在的危険性がある」。

月経期間中の婦人に関するモーセの律法の禁止命令の衛生的な面について,グレン博士は上記の書物の56,57ページでこう述べています。「しばらくの期間,ユダヤ人の女性 ― 月経期間の事柄を律するおきて(ニッダー)を守り,月経に関連してミクベーの儀式を守る普通のユダヤ婦人 ― よりも異邦人の女性の方が子宮頸部のガンのり病率は七倍も高いことが知られていた。この状態は1925年ごろまで存在していた」。さらに,同博士はこう述べています。「女子の生殖器は,殊に抵抗力の低下する(月経)期間に,特に刺激や興奮で傷を受けやすい。ゆえに,ユダヤ人の間の厳格な律法はその期間中の夫婦生活を禁じたのである。ティビラーの儀式もまた,女性の内臓が何らかの損傷を受けたり,病気が伝染して広がったりするのを阻止する衛生上の役割を果たすものである。したがって,こうした律法を固守することが緩和されると共に,ユダヤ人の女性の生殖器のガンり病率もそれに対応して(また容易ならぬ程に)上昇してきており,ユダヤ人以外の女性の場合とほとんど同じ状態に達している」。

忠誠が関係している

クリスチャンは,イエス・キリストの血を介して発効した新しい契約の下にあることを認めています。また,エホバの取り決めと,「やぎや若い雄牛の血ではなく,ご自身の血を携え,ただ一度かぎり聖なる所に入り,わたしたちのために永遠の救出を得てくださった」,偉大な大祭司としてのイエスとによって備えられたこの血の,命を与え得る価値を認めています。キリストの血に対する信仰によって,クリスチャンはその良心を死んだ業から清められ,生ける神に聖なる奉仕を行なえるようにされました。クリスチャンは体の健康のことを気遣いますが,霊的な健康や創造者のみ前での自分の立場のことを主に,またはるかに真剣に気遣います。そして,イエスの犠牲を否定したり,無価値なものとみなしたり,それを踏みにじったりせずに,生ける神に対して忠誠を保つことを望んでいます。それは,一時的な命ではなく,永遠の命を求めているからです。―ヘブライ 9:12,14,15; 10:28,29。

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