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自分が自分の敵になることがありますかものみの塔 1980 | 5月15日
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自分が自分の敵になることがありますか
「穏やかな心は人体の命,ねたみは骨の腐れ」― 箴 14:30,新。
ある女性はひどい聴力障害に悩まされるようになりました。その女性の主治医は原因となるような器官疾患を何も見つけることができませんでした。では,どうして耳が聞こえなくなっていったのでしょうか。娘と大声で言い合うことがよくあったため,耳に入ってくる音を聞かないようにしていたのがそもそもの原因だったのです。このようにして,不快な事態から自分の身を守ろうとしていたのでしょう。ひとたび問題に気づくと,その女性の聴力は正常に戻りました。
29歳になるある男性は心臓のあたりに痛みを感じるようになりました。不快感は10年にわたってしつように続き,激しさを増していきました。しかもそれは,かなりの医療を受け,十分の期間静養した上でのことでした。健康の問題は仕事にも影響を及ぼし,その男性の幸福をむしばみました。
その人には実際に,心臓疾患があったのでしょうか。そうではありませんでした。21歳のときにその人は重い病気にかかりましたが,全快していました。ところが,自分で読んだり他の人から聞いたりしたことから勝手に判断して,その病気のために心臓に異常が生じたと信じ込むようになったのです。その結果,体の器官はどこも悪くないのに前述のような症状に苦しむことになりました。後に専門家の助けを得て自分の感情の問題と取り組むようになると,痛みは消え,その人は実りの多い生活を送れるようになりました。
家族の中に背中の痛みを訴える人が多いある若い女性は,自分も背中の痛みを感じるようになりました。このことでひどく悩みましたが,最悪の事態を恐れて医師のもとに行くのをためらっていました。心配すればするほど,痛みはひどくなってゆきました。とうとう医師に診てもらいましたが,別段悪いところはない,と告げられました。何が原因だったのでしょうか。この女性が最初に背中の痛みを感じるようになったのは,仕事に関連してそれまでより重い責任を与えられた時のことでした。失敗するのではないかという不安に駆られるようになったのです。次いで,痛みに対する心配が加わり,背中の痛みが悪化しました。問題の原因に気づいたこの女性は思い煩うことをやめました。すると,痛みは消えました。
これは,感情的な要素が個人の体の健康に大きな影響を及ぼし得ることを物語る数多くの実例の幾つかにすぎません。それとは気づかないうちに,自分が自分の敵となることがあるのです。アメリカ百科事典(1977年版,第22巻,732ページ)によると,「内科の患者全体のおよそ五割は精神身体症と類別される病気に多少なりともかかって」います。つまり,「感情的な要素によって病状が悪化しているか良くならずにいる」のです。心臓は特に,感情的な緊張の影響を受けやすいようです。
医師たちは,20世紀になって初めて,感情面の問題が数多くの疾患の根底にあるという見解を受け入れるようになりました。しかし,人間の造り主であられるエホバ神はご自分のみ言葉聖書の中でこのことを明らかにしておられました。例えば,そこにはこう記されています。「穏やかな心は人体の命,ねたみは骨の腐れ」。(箴 14:30,新)穏やかな精神は心[心臓]に健全な影響を及ぼすのに対して,他の人にねたみを抱くことは人の体を損ないかねません。
感情的な要素の中には害を引き起こすものがありますから,それらをいつも抑制しておく必要があります。聖書に調和して行動することはわたしたちの助けになります。では,そうするときどのような助けが得られるでしょうか。
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神の言葉から得られる確かな助けものみの塔 1980 | 5月15日
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神の言葉から得られる確かな助け
害をもたらす感情に屈しないよう抵抗するには強い動機が必要です。聖書はそのような動機を与えてくれます。そしてそれによって,罪の意識やねたみの感情,生計を立てる上での思い煩いなど,健康に有害な様々な感情的要素を正しく処理する助けが得られます。
罪の意識に対処する
罪の意識がある種の病気を引き起こしたり悪化させたりすることが往々にしてあります。良心のかしゃくを感じるような行為に関係することがあったのかもしれません。3,000年ほど昔のイスラエルの王ダビデと同じような経験をしている場合もあるでしょう。ダビデは,自分のうちにある罪の意識の影響を描写して,こう書きました。「一日中わたしがうめくために,わたしの骨は疲れ果てました。……わたしの命の水気は夏の乾いた熱気におけるがごとくに変えられてしまいました」。(詩 32:3,4,新)この言葉は,罪を感じて絶えず責める良心の声を抑えようとしてダビデが疲れ果ててしまったことを連想させます。干ばつの際や非常に暑く乾燥した夏の間に必要な水分を奪い取られた木のように,ダビデはその力つまり活力を奪われてしまいました。ダビデはどのように安らぎを得たのでしょうか。
自分の罪をすべて神に告白して,信仰のうちに神のゆるしを受けたのです。ダビデが次のように書くことができたのはそのためです。「幸いです,その反抗が赦され,その罪を覆われる者は。幸いです,その勘定にエホバが誤りを付け……ない人は」― 詩 32:1,2,新。
聖書の明らかにするところによると,誠実に悔い改め,イエス・キリストの罪を贖う犠牲に基づいて神に転じる人はだれであってもその罪のゆるしを受けます。クリスチャンの使徒ヨハネはこう書きました。「わたしたちが自分の罪を告白するなら,神は忠実で義なるかたであり,わたしたちの罪をゆるし,わたしたちをすべての不義から清めてくださいます。……[イエス・キリスト]はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります」― ヨハネ第一 1:9; 2:2。
もっとも,神が自分の罪をゆるしてくださったということを信じていないなら,相変わらず良心にさいなまれ,有害な影響を被るでしょう。ですから,罪をゆるしてくださろうとする神の意向に対する自分の信仰を強めることが肝要です。神によるゆるし,および違犯をゆるされた人々について聖書の述べている事柄を検討するとき,その信仰を強めることができます。
例えば,イスラエル人はこう告げられました。「たとえあなたがたの罪が緋のようであっても,それはまさしく雪のように白くされる。たとえ深紅の布のように赤くても,実に羊毛のようになる」。(イザヤ 1:18,新)至高者は不忠実なイスラエル人の汚れた行為を進んでゆるしてくださったのですから,今日の誠実に悔い改める人々に同様のゆるしを差し伸べてくださると確信していられます。聖書はわたしたちに,「わたしはエホバである。わたしは変わっていない」と告げています。―マラキ 3:6,新。
別の例を考えてみましょう。次のような記述があります。マナセは「エホバの目に悪いことを大規模に行なって,これを怒らせた。そしてまた,マナセが……非常に多く,エルサレムを端から端まで満たすほどに流した潔白な血があった」。(列王下 21:6,16,新)後に,マナセは捕らわれの身となり,バビロンへ引いて行かれました。このつらい経験をすることによって,マナセは神のみ前に自分の身を低くしました。至高者は悔い改めた王にゆるしを差し伸べ,「彼をエルサレムに,その王位に復帰させ」ました。(歴代下 33:11-13,新)マナセほどのひどい罪の記録を持つ人はほとんどいません。それでも,悔い改めたゆえに,マナセはゆるされました。罪の意識に苦しむ人にとってこれはなんと大きな励ましを与えるものでしょう。
これに関する別の適切な例は,クリスチャンの使徒パウロとなった人物の経験です。改宗する前,彼は,「冒とく者であり,迫害者であり,不遜な者」でした。(テモテ第一 1:13)パウロはこう書きました。「それなのにわたしがあわれみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さのかぎりを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている者への見本とするためだったのです」。(テモテ第一 1:16)神がキリストを通してパウロに関して行なわれた事柄を熟考するとき,信仰が大いに強められます。キリストの追随者たちを残忍に迫害し,彼らに対して尊大な仕方で行動し,それとは知らずに神を冒とくしていたにもかかわらず,パウロは悔い改めたときにゆるされました。その後パウロは,他の人々がクリスチャンになるのを助ける面で,また仲間の信者を強める面で,大いに用いられました。その上,霊感を受けたクリスチャン・ギリシャ語聖書を他のだれよりも多く書き記すという計り知れないほど貴重な特権を得ました。
時には,自分の罪はひどすぎてとてもゆるしてもらえないと考え,心の中で自分を罪に定める人もいます。しかしそのような場合でも,罪をゆるしてくださるかたとしての神に信仰を働かせることのできる確かな根拠を聖書の述べる事柄から得られます。この点が使徒ヨハネの次の言葉に力強く言い表わされています。「何か心に責められるようなことがあっても,それについて神のみまえで自分の心を安んじることができるでしょう。神はわたしたちの心より大きく,すべてのことを知っておられるからです」。(ヨハネ第一 3:19,20)霊感の下に記されたこれらの言葉に信頼を置くなら,罪の意識からのすばらしい救済を得ることになります。
ねたみの気持ちと闘う
罪の意識のほかにも,他の人に対して苦々しいねたみを抱くことによって身体面で病気になったりそれが悪化したりすることがあります。ねたみのために眠れなくなったり,ある種の筋肉が緊張して痛みを感じるようになったり,消化不良などの健康上の問題を起こしたりすることもあります。聖書は,破壊的な罪の意識から人を自由にする面で助けとなるように,ねたみや根深い憤りを克服する面でも助けとなります。しかし,まず最初に,人は憤りの感情を抱く点で自分に問題のあることを認めねばなりません。
聖書によると,ねたみを克服して勝利を収めるには,愛という特質が必要です。聖書は,「愛はねたまず」とわたしたちに告げています。(コリント第一 13:4)憤りを克服するには,聖書のこの真理を受け入れ,それに調和した行動を取ることが必要です。自分が憤りを抱いている相手をよりよく知るよう努め,その人の優れた特質を見るのは助けになることに気づかれるでしょう。当然のことながら,すべての事柄を行なえる人はどこにもいませんし,だれにも欠点はあるものです。ですから,自分の能力を買いかぶることがないよう思慮深い態度で注意を払い,価値ある業を行なう際,ひとりの人ではなく,資格を持つ多くの人が能力と知識を出し合うときに多くの事柄が成し遂げられることを認めるようにしたいものです。
聖書は,わたしたちが互いに依存し合っていることを明らかにしています。使徒パウロは,クリスチャン会衆のあるべき姿を示すために人体を例に取り,次のように書きました。「実際,体は一つの肢体ではなく,多くの肢体です。たとえ足が,『わたしは手ではないから,体の一部ではない』と言ったとしても,そのゆえにそれが体の一部でないというわけではありません。また,たとえ耳が,『わたしは目ではないから,体の一部ではない』と言ったとしても,そのゆえにそれが体の一部でないというわけではありません。もし体全体が目であったなら,聴覚はどこなのですか。それが聴くことばかりであったなら,においをかぐことはどこなのですか。しかし今,神は体に肢体を,そのおのおのを,ご自分の望むままに置かれたのです」。(コリント第一 12:14-18)わたしたちは,他の人の能力や立場や業績をそねみの目で見る代わりに,これらの言葉と調和して,他の人を築き上げるために自分に何ができるかをよく考えてみることができます。
わたしたち個人には誇るべきものは何もありません。ある種の才能や能力を培う力をわたしたちは自分で得たのではありません。聖書は物事の正しい見方を示してこう述べています。「というのは,だれが人を他と異ならせるのですか。実際,自分にあるもので,もらったのではないものがあるのですか。では,たしかにもらったのであれば,どうしてもらったのではないかのように誇るのですか」。(コリント第一 4:7)また,ほんとうに大切なのは,わたしたちの能力ではなく,わたしたちがどんな種類の人間かということです。非凡な才能を持ち合わせていても,その人が無作法で利己的で嫌悪感を催させるような人物であったなら,その才能にどんな価値があるでしょうか。ですから,ねたみの気持ちに屈する代わりに,仲間の人々の必要を熱意を込めて積極的に満たす人であることを実証し,聖書の勧める愛の道を追い求めるようにしていきたいものです。(コリント第一 14:1)ねたみを抱き,そのために体をこわし,他の人を鼓舞し励ますような人になれないのであれば,それは確かに知恵の欠けたことと言えます。
不正に感情を乱されないようにする
不正の犠牲になって耐えるのは容易なことではありません。また,腐敗した人々に搾取されたり抑圧されたりする人を見ながら,自分では何もできないというのもつらいものです。それによって感情が乱され,有害な結果の生じることがあります。ここでも聖書の述べる事柄は,健康を損ねるおそれのある内的な動揺を避けるのに役立ちます。
わたしたちにできる事柄は往々にして極めて限られていることを聖書は率直に述べています。世の中には不備な事柄があまりにも多いため,人間がすべてを正すことなど不可能です。聖書は非常に現実的に,「曲げられたものをまっすぐにすることはできない。また,欠けているものは到底数え合わせることはできない」と告げています。(伝道 1:15,新)他の人の犯す不正を思い悩んだところで,状況を変えることも,他の人のために問題を軽減することもできません。もちろん,公正という理念を積極的に推し進めるために自分にできることがあるなら,それを行なうのはふさわしいことでしょう。人が無用の苦しみを味わっているのに,無感覚になって目をつぶっていたいとは思いません。
しかし,その状況をただ受け入れ,耐えなければならないような場合には,エホバ神がすべての物事を正してくださるという聖書の約束に慰めを見いだすことができます。聖書は,将来の清算の日に関連して,『神がキリスト・イエスを通して人類の隠れた事がらを裁かれる』と述べています。(ローマ 2:16)裁きの日が定められていますから,わたしたちが現在の世界で経験するかもしれないどんな不正も,一時的な害しかもたらすことはありません。創造者がすべての物事を正してくださるという信仰を持つ時,わたしたちの感情をひどく乱す様々な事柄に悩まされないですむようになります。
生計を立てることに関する心配
生計を立てる上での心配を非常に重い荷と感じている人は少なくありません。この荷が重くなりすぎて,深刻な健康上の問題を引き起こすことがあります。この点に関して,聖書はどんな有益な助言を与えているでしょうか。イエス・キリストはこう言われました。「思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません。これらはみな,諸国民がしきりに追い求めているものです。あなたがたの天の父は,あなたがたがこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。それでは,王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのものはみなあなたがたに加えられるのです。それで,次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には次の日の思い煩いがあるのです。一日ごとの悪はその日にとってじゅうぶんです」― マタイ 6:31-34。
確かに,どれほど思い煩ったり心配したりしたところで生計を立てることが容易になるわけではありません。聖書が述べるとおり,一日には『その日ごとの悪』,つまりその日ごとの問題があります。次の日に生じるかもしれない難事について心配しないでも,その日の問題は十分あります。エホバ神はご自分を愛する人々が意味もなく不必要に苦しむままにはされません。助けを求めるわたしたちに答えてくださいます。正直に働いて生活の必要物を得るよう自分の分を尽くす一方,供給者としての神に引き続き信仰を働かせるなら,必要なものは与えられます。わたしたちは,次のように書いたダビデと同じような経験をすることになるでしょう。「わたしはかつて若者であった。そしていま老いた者となった。が,義なる者が全く捨て去られるのも,その子孫がパンを捜し求めるのも見たことはない」― 詩 37:25,新。
聖書を調べる
どんな圧力や緊張に直面しようとも,聖書には助けとなる情報が収められています。ですから聖書を調べ,その優れた指針を自分の知識の中に蓄え,実際に役立たせるようにしてください。そして,聖書の原則を毎日の生活に当てはめることにより,引き続き正しい良心を抱き,健康を害するおそれのある感情に屈しないよう抵抗できます。さらに重要な点として,それによって永遠の将来に通じる道を歩むことになるのです。「神のご意志を行なう者は永久にとどまります」― ヨハネ第一 2:17。
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