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  • 誉れある用途のための器となりなさい
    ものみの塔 1973 | 7月1日
    • に合わせた」いきかたをやめて,『自分の思いをつくり直して』いるのです。(ロマ 12:2)麻薬の影響を受けて非現実的な生活をしていたある音楽家は,エホバの証人と聖書の勉強を始めました。彼の仲間はその音楽家をひやかし「きみは洗脳されているんだ」と嘲笑しました。すると彼はうまく答えました。「われわれの脳の状態を考えると,徹底的に洗脳される必要がある」。

      28 聖書の道に従う人びとには,麻薬を通して逃避を試みる人びとよりもはるかにすぐれた希望があります。なぜですか。

      28 そうです,エホバの証人は自分の考え方を清めました。彼らは,『敬けんは今の生命と後の生命との約束を保ちてすべてのことに益あり』という神のことばの真理を信じています。また,使徒が言ったように,自分たちの「労が主にあってむだでないこと」も知っています。―テモテ前 4:8。コリント前 15:58,新。

      29 (イ)ロマ書 14章17節は,麻薬のようなものが,神の祝福を得る助けにならないことをどのように示していますか。(ロ)神は,今神の霊の実を結ぶことに努めている者たちをどのように見,また用いられますか。

      29 そういうわけで,神に近づく道を開くのは,食べることでも飲むことでも,“ポット”(マリファナ)を吸うことでも,あるいは麻薬を使うことでもありません。それは聖書の知識であり,神のご意志を行なうことです。麻薬使用者たちが持ち出すような議論をしかけられた時はいつも,ロマ書 14章17節に書かれていることを思い出すのはよいことです。なぜなら,わたしたちを神のしもべとする,あるいはわたしたちに神の恵みをもたらすものは,食べるもの,飲むもの,吸うもの,つまりわたしたちが体内に入れるものではないということをわたしたちは知っているからです。使徒パウロは書いています。「神の王国は,食べることや飲むこと[麻薬を使うこともつけ加えられるでしょう]ではなく,義と平和と聖霊による喜びとを意味しているからです」。(ロマ 14:17,新)神の霊の実を追い求めるなら,エホバはわたしたちを誉れある用途のために用いてくださるでしょう。そして,新秩序の中にわたしたちの場所を設けてくださるでしょう。―テモテ後 2:21。

  • 愛の神は魂を責めさいなむでしょうか
    ものみの塔 1973 | 7月1日
    • 愛の神は魂を責めさいなむでしょうか

      人間の創造者の顕著な特質は愛です。創造者はほかならぬ愛を具現したかたです。聖書が,「神は愛なり」と述べているのはそのためです。(ヨハネ第一 4:16)この愛のある神について詩篇作者ダビデはこう述べました。『その怒りはただしばしにてその恵みはいのちとともにながし』― 詩 30:5。

      人類に対する神の愛がどれほど深いかは,その律法を犯す人を神がどう見ておられるかを考えるとよくわかります。そのような人の行為は神を「悲しませ」,『怒らせる』ものではあっても,神は直ちに彼らに対して憤りを爆発させることはなさいません。(詩 78:38-41,口語)神はあわれみ深いことに,そのような人びとに自分たちの態度を改める機会を差し伸べておられるのです。神はそうした人びとに対して不利な裁きを執行することに喜びを見いだすことはなさらないからです。神はご自分の預言者エゼキエルを通して,不従順なイスラエルに次のように語りました。『われ悪人の死ぬるを喜ばず 悪人のその道を離れて生くるを喜ぶなり 汝ら翻りてその悪しき道を離れよ イスラエルの家よ汝らなんぞ死ぬべけんや』。(エゼキエル 33:11)エホバ神は命を貴重なものとみなしておられるので,ご自分の義の律法を破る者に対して警告を伝えるよう取り計らわれます。

      その好例は,古代のアッシリアの首都ニネベです。聖書が伝えているように,その都の住民はあまりにもよこしまになったため,エホバは彼らを滅ぼすことを意図されました。それでもエホバは,悪行をやめる機会を彼らに与えました。そして,限りない愛とあわれみのゆえに,預言者ヨナを彼らのもとに派遣しました。エホバの預言者は,『四十日を経ばニネベは滅亡さるべし』という驚くべき発表を行ないました。―ヨナ 3:4。

      ニネベの人びとは,自分たちの経歴が悪いものであることを知っていました。彼らは神から与えられた良心のゆえに自らを非としていたのです。彼らはエホバ神の崇拝者ではありませんでしたが,やはり神々を恐れる傾向を持っていました。それで,ニネベの人びとは,自分たちに対して個人的関心を持っているとは少しも考えられない一外国人が自分たちのきたるべき滅びを大胆に宣明するのを聞いて衝撃を受け,われに帰りました。そして,王を含め,その都の住民はこぞって荒布をまとい,灰をかぶって悔い改めました。

      愛の神はあわれみ深いことに,ご自分の預言者が宣告した災厄を悔い改めたニネベ人に免れさせました。しかしヨナはどうしてもそのことが理解できませんでした。事実,彼は立腹しました。ヨナはニネベを去って,その東のほうに行って自分自身のために仮小屋を建て,そこに留まって都がどうなるかを見守ることにしました。―ヨナ 4:1-5。

      エホバは,悔い改めたニネベ人を許したことの正当さをヨナに理解させるため,現実の経験によってヨナを教えることにしました。そこで,ひょうたんの苗木を奇跡的に生えさせ,その仮小屋にいるヨナのために喜ばしい日陰を作らせました。その後,エホバは,虫に命じてその植物を食い荒らさせ,枯れさせてしまいました。その植物が作ってくれた日陰を奪われたヨナは,乾ききった東風にさらされ,暑い陽光を頭からまともに浴びました。その植物はヨナにとって大いに祝福となっていただけに,彼はそれがどうして枯死しなければならなかったのか不審に思いだしたに違いありません。自ら植えたわけでも,世話をしたわけでもありませんでしたが,ヨナはその植物のことを惜しく思いました。それがそんなに早く枯死しなければならなかったのは残念なことに思えたのです。―ヨナ 4:6-10。

      それにしても,エホバ神にはニネベを惜しむさらに多くの理由がありました。その住民や家畜の価値は,1本のひょうたんの木のそれよりもはるかに大きなものでした。エホバは現実の経験を適用してヨナにこう尋ねました。『まして十二万余りの右左をわきまえざる者とあまたの家畜とあるこの大いなるニネベをわれ惜しまざらんや』― ヨナ 4:11。

      人間に対してそのような優しい感情をいだいておられる神が,死後の人間のある者たちを火の燃える地獄で永遠に責めさいなむと結論するのは理にかなっているでしょうか。エホバ神は邪悪な者の死を喜ばないのであれば,いったいどうして人びとが非常な苦しみに永遠にさいなまれるのを見て喜ぶことができるでしょうか。

      イスラエル人が子どもを犠牲としてささげる忌まわしいならわしに携わっていた時分,エホバはご自分の預言者エレミヤにこう言われました。『[彼ら]ベンヒンノムの谷においてトペテの高きところを築きてその息子娘を火に焼かんとせり 我これを命ぜずまたかかることを思わざりし』。(エレミヤ 7:31)子どもを犠牲としてささげる憎むべきならわしは,愛の神の決して考えうることではないとすれば,その律法を破る人間を永遠に責めさいなむなどといったいどうして考えられるでしょうか。

      神は処罰を差し控えられるわけではない

      とはいえ,エホバ神は悪行者を処置せずに放置する,つまりご自分のおきてのゆゆしい違反を見て見ぬふりをするわけではありません。そのみことば聖書はこう述べています。『エホバは妬み〔専心の献身を求め; 新〕かつ仇を報ゆる神 エホバは仇を報ゆる者また怒りの主 エホバは己に逆らう者に仇を報い己に敵する者にむかいて憤りを含む者なり エホバは怒ることのおそく能力の大いなる者また罰すべき者を必ず赦すことをせざる者(なり)』。(ナホム 1:2,3)『神は心賢く力強くましますなり たれか神に逆らいてその身安からんや』。(ヨブ 9:4)神の民と称する人たちでさえ,違反の罪を犯すなら,安らかに,そうです苦しめられずに過ごせるわけではありません。

      人は自分の罪を隠そうとするなら,神はその人に良心のとがめによる責め苦を免れさせることはしません。そのような苦しみを経験した人にダビデがいます。彼はこう書きました。『我いいあらわさざりしときは終日かなしみさけびたるがゆえにわが骨ふるびおとろえたり なんじの手はよるも昼もわがうえにありて重し わが身のうるおいはかわりて夏のひでりのごとくなれり』― 詩 32:3,4。

      やましい良心を静めようと努めたダビデは疲れて衰えました。夏の厳しい日照りのさいに樹木がその命を支えるうるおいを失うように,自分の犯したことのために苦悶したダビデは活力を失いました。しかしながら,ダビデが経験した責め苦は良い結果をもたらしました。そうした責め苦を受けた彼は自分の罪を告白するよう動かされ,神との正しい関係を取り戻すことになったからです。

      エホバ神は一民族にこのうえない厳しい懲らしめを受けさせる場合がありますが,そうした懲らしめにさえ目的があるのです。それはその民族を向上させるものとなります。エホバ神はご自身の楽しみのためにだれかを苦しめるということは決してなさいません。不従順な子どもを扱う場合の愛ある父親同様,エホバは処置を施すことを喜びとはなさいません。エホバはそうした懲らしめの目的を例証して,預言者イザヤを通して次のように言明されました。

      「種をまくために耕す者は絶えず耕すだろうか。彼は絶えずその地をひらき,まぐわをもって土をならすだろうか。地のおもてを平らにしたならば,いのんどをまき,クミンをまき,小麦をうねに植え,大麦を定めた所に植え,スペルト麦をその境に植えないだろうか。これは彼の神が正しく,彼を導き教えられるからである。いのんどは麦こきでこかない,クミンはその上に車輪をころがさない。いのんどを打つには棒を用い,クミンを打つにはさおを用いる。人はパン用の麦を打つとき砕くだろうか,否,それが砕けるまでいつまでも打つことをしない。馬をもってその上に車輪を引かせるとき,それを砕くことをしない。これもまた万軍の〔エホバ〕から出ることである。その計りごとは驚くべく,その知恵はすぐれている」― イザヤ 28:24-29〔新〕。

      耕したり収穫したりするのは限りのある仕事です。土壌の堅さによって耕す度合いやその強さは異なります。穀物の種類によって,脱穀用の道具にどれほどの力や重みを加えるかが決まります。同様に,エホバ神は,ご自分の律法を犯す人を永遠に懲らしめたり,あるいは罰したりはされません。エホバはおもにそのような者の気持ちを和らげ,ご自分の助言や指導をもっと快く受け入れられるようにするために懲らしめるのです。このことは,人びとを清め,現実の心要に最もよく適合する処置を講じて,望ましくない特徴を除去する神の知恵を例証しています。

      時として,エホバ神が個々の人の身に生ずるのを許される事がらは,当人をほんとうに責めさいなむものとなる場合があります。それは人の誤ちを痛烈に暴露するものとなるかもしれません。(黙示録 11章10節と比べてください。)

      エホバ神がそのしもべたちの口を通して述べておられる公の告発のことばに注意を払わない人たちは,その音信によって責めさいなまれます。そのような人びとは,もし悔い改めて自分たちの態度を変えさえしたならあずかれる祝福を得そこないます。しかしながら,そのような場合でさえ,その種の責め苦は目的を達成します。つまり,そのような人びとは神の裁きの執行を免れるに値しない者であることを明らかに示すのです。

      しかし,永遠の責め苦は意味のある事がらといえるでしょうか。もしエホバ神が人間を永遠の責め苦に遭わせるようなことがあるとしたら,責めさいなまれる者たちは果たして益を受けられるのでしょうか。そうでないことは明らかです。たとえそれらの人が益を得たいと願ったところで,より良い人間になって自分たちの境遇を改善できるものではありません。それに,彼らを永遠に責めさいなんだところで,創造者は何も得るところがありません。たとえそうしたところで,ご自分が望んでもいないこと,すなわち人間が絶え間なく苦しむさまを,それも苦痛を和らげられる見込みもなく苦しむ人のことを考えれば,何らもっともな目的もないまま人びとが絶えず苦しむさまを見るよう強制されるにすぎないのです。預言者ハバククは神についてこう書きました。『汝は目清くしてあえて悪を見たまわざる者 あえて不義を見たまわざる者な(り)』。(ハバクク 1:13)であれば,神はご自分の律法を犯した者たちの苦悶するさまをどうして永遠に見つづけることができるでしょうか。

      愛の神がご自分の本性や意向また物事の取り扱い方に完全に反することを行なうなどとは確かに考えられません。

      しかしながら,次のように問えるかもしれません。永遠の責め苦に関する教えを非とする証拠はただそれだけなのでしょうか。肉体の死後にも何かが生き残っていることを示す証拠があるのでありませんか。人間は死後も意識ある存在を続けているのではありませんか。したがって,肉体の死後も生き続けている何ものかが責めさいなまれるのではありませんか。次の記事をお読みになって,こうした疑問に対する答えを得てください。

      [408ページの図版]

      イスラエル人が子どもを犠牲としてささげるならわしに携わっていた当時,神は反感の念を表わし,そうするようかつて命じたことも,またそのようなことを考えたこともなかったと指摘された

  • あなたの魂とは何ですか
    ものみの塔 1973 | 7月1日
    • あなたの魂とは何ですか

      人間には肉体とは明らかに異なった別個の魂があると信じている人は少なくありません。人間が死ぬと,魂は肉体を去ると考えられています。生前に正しい生活を送ったかどうかによって異なりますが,魂は地獄に行って責め苦を受けるか,あるいは天に行って神とともに永遠の幸福を享受するかそのどちらかになると言われています。

      このようなわけで,火の燃える地獄に関する信仰は,人間には肉体の死後も生存する魂があるという教えに基づいていることがわかります。しかし,そのような教えは聖書と調和していますか。

      聖書巻頭の書,創世記は人間の魂の性格を明らかにしています。最初の人間の創造について述べた創世記 2章7節にはこうしるされています。「〔エホバ〕なる神は土のちりで人を造り,命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた〔魂: ヘブル語ネフェシュ〕となった」(口語,〔新〕)。聖書は,『人は魂を受けた』とは述べずに,『人は生きた魂となった』と述べている点に注目してください。

      コリント人にあてて霊感を受けて著わした手紙の中で使徒パウロは,魂に関するキリスト教の教えが創世記に述べられている事がらと異なってはいないことを示しています。彼は創世記 2章7節を引用して次のように述べました。『しるして始めの人アダムは,生ける〔魂〕となれりとあるがごとし』。(コリント前 15:45〔新〕)パウロは魂を意味するギリシア語プシュケーを用いているので,これは,ヘブル語ネフェシュと同様プシュケーは人そのものを意味しうることを証明しています。

      20世紀のカトリック,新教そしてユダヤ教の多数の聖書学者も人間そのものが魂であることを公に認めているのは注目に値します。次のように述べられています。

      「創世記の有名な句[2:7]は,しばしば考えられているように,人間は肉体と魂で構成されているとは述べてはいない。その句は,ヤハウェが地の土で人を形作り,次いでその鼻に息を吹き入れて,不活性の人体を生かしたので,人は生きた存在となったことを述べているが,これがこの句のネフェシュ[魂]の意味する事がらのすべてである」― 旧約聖書学雑誌,第41巻。

      「人間のことを魂を持つ者として考えてはならない。人間は魂なのである」―「新聖書註解」。

      「旧約[聖書]に出てくる魂という語は,人間の一部分ではなくて,人間全体 ― 生きた存在としての人間そのものを意味している。同様に,新約[聖書]ではそれは人間の命,つまり意識のある主体である個人の命を表わしている」― 新カトリック百科事典。

      「新約聖書の中では,『自分の魂を救う』(マルコ 8:35)というのは,(プラトン哲学でいう)『肉体』とは対照的な,人間のある『霊的な』部分を救うという意味ではなくて,人は具体的・物質的存在であることに加えて,生きていて,欲求をいだき,愛したり,志したりなどする者であることを強調した人そのものを救うことを意味している」― 新アメリカ聖書,「聖書神学用語注解」。

      「聖書は,われわれ人間が魂を持っているとは述べてはいない。『ネフェシュ』とは人そのもの,食物に対するその要求,血管を流れる血そのもの,その人の存在そのもののことである」― 1962年10月12日付,ニューヨーク・タイムス紙に引用された,ヘブライ・ユニオン大学のH・M・オルリンスキー博士のことば。

      「魂」と訳されている原語(ネフェシュおよびプシュケー)が人間そのものをさすことができる以上,人間の普通の身体的機能もしくは特徴が魂のものとみなされている表現があってしかるべきでしょう。実情はそうでしょうか。あなたの魂とは,ほんとうにあなたのことでしょうか。次の点を考えてください。

      それらヘブル語とギリシア語の聖書中の用法を調べてみると,人間の魂は生まれるものであることがわかります。(創世 46:18)魂は食べたり,断食したりすることができます。(レビ 7:20。詩 35:13)喜んだり,悲しんだりすることもできます。(詩 35:9。マタイ 26:38)恋愛することも,人を祝福することもできます。(創世 34:3; 27:4)また,話を聞くこともできます。(使行 3:23)魂は罪を犯したり,誓ったり,ものをほしがったり,恐れに屈したりすることもできます。(レビ 4:2; 5:4。申命 12:20。使行 2:43)魂を誘かいすることもできれば,足かせにつけることもできます。(申命 24:7。詩 105:18)こうした事がらはすべて,あなたも行なえる,あるいはあなたに対しても行なえることではありませんか。そうです,あなたの魂とはあなたのことなのです。

      ですから,あなたの魂が死ぬとき,あなたは死ぬ,つまり意識を持った存在ではなくなるのです。聖書は,魂が死ぬことについて再三述べています。預言者エゼキエルを通してエホバはこう宣言されました。『それすべての魂は我に属す父の魂も子の魂も我に属するなり罪を犯せる魂は死ぬべし』。(エゼキエル 18:4,20)メシヤもしくはキリストに関してイザヤの預言はこう予告しました。『彼はおのが魂をかたぶけて死にいたらしめ(たり)』。(イザヤ 53:12)また,イエス・キリストは言われました。『己が〔魂〕を愛する者は,これを失う(べし)』― ヨハネ 12:25〔新〕。

      しかし,人間が不滅の魂を持っているかもしれないということを示唆しているように思える聖句が少なくとも幾つかあるのではないでしょうか。いいえ,ありません。興味深いことに,エホバの証人ではない聖書学者でさえ,その研究に基づいて同様の結論に達しています。ピッツバーグ神学校の教会および聖職の準教授ディビッド・G・ブットリックはプレスビタリアン・ライフ誌(1970年5月号)の中で,「魂は『不滅の存在性』を持っているという考えを裏づけることばは聖書には一つもない」と述べています。「魂」という語の意味に関して,その学者はこう評しています。聖書は魂というその語を確かに用いてはいるが,それはたいてい『命』あるいは『生きていること』を意味しているのであって,われわれのある別個の部分を意味しているのではない。ゆえに,次のことをよく考えねばならない。聖書がわれわれ人間は必滅の存在であると述べる場合,聖書はわれわれが死ぬ ― ほんとうに死ぬ者であることを述べているのである」。この学者はその論議をさらに進めて,こう指摘しました。「もしわれわれが不滅の魂を持っていたなら,われわれは神を必要とはしなかったであろう。つまり,不滅であれば,われわれは目的を達することになろう。しかし,聖書はそのような希望を否定している。われわれは必滅の存在であり,それゆえにわれわれはただ神の愛にすがらねばならないのである。クリスチャンは生存の継続ではなくて,復活を信じている」。

      死の状態にある人は決して意識を持って存在しているのではないことを聖書は明らかにしています。伝道の書 9章10節(バルバロ訳)はこう述べています。「してもよいと思うことを,生きている間,するがよい。あなたがいつか行く冥土には,働きも,計算も,知識も知恵もないのだから」。肉体の死後に生き残る不滅の魂はないのですから,死後,火の燃える地獄で責めさいなまれるようなものは何もありません。復活に関する神の約束は,地獄にいる死者がよみがえって来ることを保証しています。

  • あなたは神の愛に答え応じていますか
    ものみの塔 1973 | 7月1日
    • あなたは神の愛に答え応じていますか

      死者を命によみがえらせるという神の目的は,神の愛の表われです。神は,死に定められた罪深い人類に対していかなる責務も負ってはいません。神には死んだ人間を復活させる義務はありません。しかし,神は人類社会に対して非常に大きな愛をいだいておられます。それゆえにこそ,人類と交渉を持ち,死んだ人間を命によみがえらせる基盤を備えるために,神はご自分の最愛のみ子をさえ惜しまなかったのです。(ロマ 8:32)イエス・キリストが述べたとおりです。『神はその独り子を賜うほどに世を愛したまえり,すべて彼を信ずる者の滅びずしてとこしえの命を得んためなり』― ヨハネ 3:16。

      エホバ神がご自分のみ子を与えて行なわれた事がらは,神に関する真の知識を持たずに死んだ幾百万もの人びとを命によみがえらされ,神を知って愛するようになることを可能にしました。神との関係を持つに至った人びとは,復活の希望のおかげで,死に至るまで忠実に忍耐し,また愛する人を失っても慰めを見いだすことができるようになりました。―テサロニケ前 4:13,14。黙示 2:10。

      あなたは神の愛にどのように答え応じていますか。その愛に動かされて,神をより良く知り,また神の方法や神と人類との交渉について,できるかぎり学んでおられますか。

      エホバ神は,約40人の異なった人びとをおよそ16世紀間ご自分の聖霊によって導き,ご自分の目的や方法や人類との交渉に関する信頼の置ける記録を書きしるさせました。その記録は66冊の書から成る聖書の中に収められており,それはエホバ神が幾世紀にもわたって個々の人間や民族また国民

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